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言い訳は話が通じる事が大前提
「言い訳」
この言葉にピンとも響かなかった。
まるで私の人生の辞書にこの言葉が無いように。
言い訳しない人生を送ってきたのかな?
そんなことあるわけないよね。
そして次に思ったのが、言い分と言い訳は何が違うのか、ということ。
「言い訳」とは、自分の言動を正当化する為の事情を説明することを言います。
もしも相手が怒っていれば「言い訳」そのものを「聞きたくない」と拒否されることもあるでしょう。
つまり「言い訳」はしたくてもできない可能性もあります。
一方の「言い分」とは言いたい事、主張、文句です。
誰にでも自分なりの「言い分」はあるわけです。
まとめますと「言い訳とは自分の言動を正当化する事情説明、弁解」「言い分とは、言いたい事、主張、文句」となります。
つまり自己弁護は言い訳。
第三者が聞いて、それを理解あるいは納得できれば言い分。
できなければ言い訳。
例えば電車が遅延して遅刻したとしよう。
前日から天候が悪くて交通機関の遅延が発生するかもしれないので注意しましょうとニュースで流していたのに遅刻したら言い訳。
人身事故等突発的なことで電車が遅延したとなれば言い分。
と受け取られる可能性が高い、ということになる。
ところで、言い訳や言い分を言い出すのはいつ頃で、誰に対してか。
始めは両親、おそらくは母親であろう。
買い物してきてね、
夕飯までには帰ってきてね、
宿題終わらせてからね、
etc・・・
そして大概、子供はこれを守らずに、理由をいい始める
忘れちゃった、
○○君がまだ遊ぼうっていうから、
宿題終わらせる前にアニメ始まっちゃったから、
etc・・・
そして親はこれらが言い訳なのか言い分なのかをジャッジする。
第三者に言い訳したり物申したりするのはこれらを通り抜けてからであろう。
自分が敏感なことを知ってもらうには、相手も敏感でなければならぬ。
私のバイブルともいうべき著書「人とつき合う方」の一節であるが、最近、円滑なコミュニケーションをとるにあたってこれが大事ということが解ってきた。
土壌が近くないと話が進まないのである。
言い訳なり言い分なり、相手がその話を聞いてから真偽する、という流れ。ではその相手が話を理解出来ないとどうなる?
そう、言い訳も言い分も話すことさえ無意味になってしまう。相手が話の内容を理解出来ないのだから。
の話の中に「ミノタウロスの皿」というのがある。
あらすじ
宇宙船の故障で遭難し、水と食糧が尽きて仲間が全員死亡した中、イノックス星に緊急着陸した主人公の男は、美しい少女・ミノアに救出される。
ミノアとともに丘や美しい水辺で時を過ごし、申し分ない日々を送る主人公。しかし、その星は地球でいうところの牛に酷似した種族(ズン類)が支配する世界だった。彼らは地球でいうところの人間に酷似した種族(ウス)を家畜として育てていた。ミノアは中でも特に血統のすぐれた肉用種で、大祭の祝宴の大皿にのる最高の栄誉「ミノタウロスの皿」に選ばれた存在だった。驚いた主人公はミノアに地球への逃走を提案するが食べられることを心から喜ぶ彼女はその意味すら解さない。主人公はズン類の有力者たちを説得して回るが、まるで話が通じない。
大祭の当日。盛大な祝宴の大音響の中、光線銃を構えながら主人公は泣き叫ぶ。
迎えのロケットの中、主人公は待望のステーキを頰張りながら泣く。
会話は出来るのに、話が全く通じないのである。かくて主人公の主張(言い分)は意味をなさなくなっていた。
糠に釘。暖簾に腕押し。
私のブログに時折登場する「実母」実は知的障害で、読み書き計算、おそらく出来ないと思われる。
専門家ではないし、果たして知というものの尺度をどう定義すのかわからないけれど、カタカナしか書いているのを見たことがないし、何度同じことを注意されても直るということがなかった。学習能力が低い、とでもいえばいいだろうか。
はっきりと知的障害と認識したのはだいぶ後だが、子供心にもなんとなく母親には話が通じない人というのは感じていた。
だから言い分も言い訳も聞き役は父親。
それで随分疲れさせたけれど、こちらが惨めな思いをしたのも幾度となくある。
母親の愛情がなかったとは思わない。でも話の通じない相手がいる、というのが頭の片隅に置かれた。
だから「言い訳」という言葉に鈍い反応だったのかもしれない。
塩何グラムと言えば量れるな。○ccと言われれば量れるな。○合と言われてもわかるな。ごま油1に対してオリーブオイル4と言われればわかるな。最初は覚えられなくてもレシピはまとめてファイルして置いてあるからそれ見返せばいいんだな。
そしてハッと気付きました。
私の母親は非識字者でした。おそらく計算も出来なかったと思われます。
この識字率99%の日本において!
カタカナしか書いてるのを見たことがありませんでした。今までこなしていた家事はすべて記憶だけが頼り。レトルトパックのようなどんな便利な省料理が売ってても、文字が読めないのだから使いようがないのです。洗剤も、高機能の家電も、使い方を教わって記憶して、それをするだけ。
私達兄弟姉妹が持って来た学校のチラシも連絡帳も、何が書いてあったのかさっぱりだったのです。
誰がそういもののフォローをしていたか。父親です。父親がプリントやら連絡帳やらを読んで母親にこうだからこうと説明して、それに従っていたのです。今までどんなにどんなに言っても改善されなかった理由がわかりました。同じ事繰り返す理由がわかりました。記憶だけが頼りだったのです。
ちなみに出された夕食は煮物(しょっぱい)、カレー、シチュー、焼肉、鍋、刺身、他スーパーの惣菜。このあたりがルーティンされて出てきました。たまに焼き魚や煮魚がありました。
すき焼きやるときは父親がいつもタレを調整してました。
味噌汁は出されていました。味噌はいつも二種類くらいを合わせていて、かめにたっぷり入っていました。
例えば子供が食べたいと思う人気のハンバーグやらオムライス、グラタン等のおかずは出たことがありません。出たとしたら出来合いのものです。母親が作った物は一度たりとも出たことはありませんでした。
なんとなく、そういうのを食べたいと、リクエストしても出ては来ないだろうとわかっていたから、リクエストした事はありませんでした。
今、私がここでやっている仕事なんて出来ないのです。
実家周辺は中小の工場が多かったから、ライン作業業務の募集が多くありましたが、そういう仕事のパートしか行ってなかったです。(断っておきますが、そういう仕事を卑下しているわけではありません。ただ字が読めない、計算も出来ない母親のパート先はこういう所しかできないって話です)
買い物はおそらく、2桁3桁の違いくらいはわかるだろうから、桁の多いお金出せば間に合う、くらいの感覚だったのではないでしょうか。一緒に買い物に行った事がほとんどないので、わからないのですが。
お金がない、の口癖も、計算出来ない上での不安からも発生していたのでしょう。もっとも安いから買うとか、安い食材で料理なんて高等な事ができるわけもないから、それでも財布はその「母親」に握らせていたので実際お金はなかったでしょうが(財布の紐をこの母親に握らせていたのは父親の意向です。聞いたことあるので)。とにかくこういう母親なので、理論整然とした会話は出来ないので、会話をした記憶もほとんどない、成人した子供がもう一人いたようなもの。それが私家族の「母親」でした。
言い訳は甘えである。ひょっとしたら自分の失敗が免責されるかもしれない、という。
甘えが許されない世界では言い訳は通用しない。
買う物忘れた、
目覚ましかけるの忘れた、
夕飯一緒に食べないと寂しいでしょ、だから太るの、
etc・・・
ひょっとしたら今私は人生で一番言い訳をしているかもしれない、夫に対して。