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通俗的不条理の考察・吾唯知足。

こんにちは。

不条理、理不尽…………僕の好きなテーゼも在ります。
気儘に綴って行きたいと思います。

世の中、不条理の中に本質的条理が在ろうかとも自己自論では思惟致します。
条理が存在し怠惰で対局な不条理が在るのではく、広義な条理の中に怠惰な条理を抽出する事で、本質的な条理が露出するとの思慮の帰結でも御座います。

極端的な考察は、絶え間ない努力などは、一義的には美徳とされては居ますが、悪戯に時間の浪費をする贅沢、翻り怠惰な様子とも捉える事も出来ます。

不条理とは簡単い云いますが、不合理性な事柄にも、其の道理との成り立ちと云うものが存在します。
其の過程とオッカムの剃刀の如く脱略している感が、社会通念と相俟って表層に浮かぶ不条理と俗的に使用して居るのかとも思料します。

要は、一見不条理な事柄でも、或る視点では道理が通る事も多々御座います。
此の事以って表面に浮か俗的な不条理と為していましょう

不条理と条理とは、多義的な性質と明確な知見の葛藤との事で在り、多義的な要素を多義的と捉えても、其れこそが不条理にもなる自己言及でも在ろうし、条理、道理を得るにも明確明晰とは、絶対との探究になり、人類自体は未だに絶対の発見も出来てはいないのかとも思われる。

だが、自論的に云える事での中の不条理と云うなら、全世界共通、森羅万象の中で生命を残す使命と、其の弱々しい者、
即ち、子供に対し親が虐待をしても良いかの是非では当然、非です。

此の事は、人間で在るのならば絶対的な本質とは云え、其処に異を挟める人は、真性の社会病質者との踏み絵です。

此の事を以って、対人の親から不条理、理不尽な扱いを受けている子が、中心に湧くは感情は当然不条理、理不尽と云えましょう。

其の根源的性質の理解の咀嚼を以って、自己の何処に、過程に何処迄理解し援用し得るかとの問いでも在ります。

傍観致しますと、簡単に理不尽さを解きますが、社会通念、一般的な社会人の生活の中に不条理、理不尽は、存在もしていないのでは無いのかと思料していて、単に各人の心の器の大きさ深度で相違するのでしょうが、朝目覚め起きたら、大きな虫になっていた、カフカの小説の様な、此の様な経験は現実的では在りませんが、朝起きたら、エチオピアでコーヒー豆の強制労働者として売られていた、北朝鮮に拉致、共産思想教育を強制され、帰国出来ない、愛しい家族と引き離される等…………。

此の事は、当然理不尽な事象に該当でも在りましょう。

社会人の一歯車に甘んじ、矜持が踏みにじられた等は思い過ごしの、自意識過剰な事。
便所掃除でも何で有難いお仕事です。

人は思考思惟する生き物ですが、多数の者を傍観するに本質的に何も思惟を尽くしているとも言い難くも診え、多数の者が浅慮思索する事は、怠惰な欲望を満たす用法との事等が過半とも云え、其の事も人間を人間たらしめても居るとも云えますが、此の示唆を以って俗的には一周回りとのも謂う事象も存在も致しましょう。

此の様な事は、現代社会の社会通念とやらを知っていれば、水を飲むよりも容易い事とも云えますが、此の事に時間を割く事自体に道理を診て、其の逆を不条理理不尽と云う風潮は、不条理に対し不憫に感受も致します。

生得的との言辞を好み多用しますが、対義語に該当の習得は何かを綴る上では使用も極少々です。

何故か?

端的に通念的な一定の読み手と思考法が真逆だからとも俯瞰的には思慮致しますが、習得に熱を上げるよりは、自己の本来持ち得る得手、生得性を探る事の方に視点知力を向けるからかとも思料もします。

学べば、何でも習得出来得ると不動産投資も容易いと勘違いしている者は、習得に全力前進の様相ですが、医者だろうが弁護士だろうが、勉強が出来得ても不動産投資が上手に熟せない出来ない人も多いのが実情で在りましょう。

不動産投資に学問は一切必要在りません、極端な話し生得的に備わっていると仮定したらば、ウチ10代の娘でも僕が教えれば出来きて仕舞う事でも在ります。

生得的に、不動産投資以外でも、学ばなくとも直観で好成績があげられる何等かの事や手法用法は必定的に、各人の中に在るのかと思料します。

要諦として、不動産投資をして敢え無く失敗する者の多くは、生得性の声に反意し欲望に負け、欲望顔が邪魔だてして生得性の得手を自覚視認出来ない、したくないとの浅慮の策から不動産投資をして仕舞ったからとの考察でも在ります。

当然、自戒を込めて記してもいて、此の様な不動産事に現を抜かしていて、生得的に華道の先生になれていたのかも知れませんし、酒を嗜みませんがソムリエの才能が在ったのかも知れません。

欲に眼が眩み不動産の道に居ますが、食べるのには困らない程度です。

幸福度は普通と云えれば比較的上等な生活感な事でしょう。

足るを知るとの言葉の解釈も難しく、或る意味、向上心の葛藤とも云え、また、消費社会への反抗とも云え、広義な自論的、
吾唯知足とは、欲を排除し自己の生得的な分の大きさを知る探究の、其れ自体の学びの事かとは思慮しております。

其の中に、他人に眼を向けるとの教えが在りますが、同じ眼差しでも隣人愛的な無償が徳となり、社会還元の何たるかを知る事が出来るのかも知れません。
其の体現が出来て初めて、本質的な足るを知るのだと思います。

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