桜の花が見せた魔法【短編小説】
開花
職場の近所の公園で、数本の桜の木々が、ぽつぽつと開花し始めている。おそらく、1週間ほどすれば、満開になるだろう。 私はベンチに腰掛け、弁当を広げた。1時間の昼休みは、この公園にて、昼食を食べるのが日課になっている。同僚の女性陣達は、仲良しグループでつるんで、ランチをしているようだが、私は群れて行動するのは、得意ではない。そんな自分を変わり者扱いする人間も多いが、休憩時間に、1人でのんびりと過ごすのは気楽である。また、天気の良い日に、のどかな場所でとる昼食はご馳走なのだ。経理関係の仕事をしている自分にとって、数字とにらめっこしている日常のなかの、このひとときは良い息抜きになる。
「ナーォ……」
ベンチの後ろから、がさごそと音がし、鳴き声が聞こえる。振り向くと、焦げ茶色の、がっしりとした身体つきをした猫がいたのだ。その猫は、ベンチの下をくぐると、隣に飛び乗って来る。すると、膝にのせた弁当箱に鼻を近づけてきた。
「こらっ !駄目っ ! これは私のお昼ご飯なんだから……猫が食べられるものじゃないのよ」
咄嗟に猫をはね除けようとするも、弁当から顔を離そうとしない。
「あなた、お腹が空いてるの? 仕方ないわね。何か食べれるものはと……」
私は、弁当箱の蓋の上に、卵焼きと唐揚げを一切れづつのせて、猫の前に置いた。すると、クンクンと匂いを嗅いだあと、美味しそうに食べはじめたのだ。 身体全体を見ると、顔半分のハチワレ模様の部分、尻尾の色は焦げ茶色だが、頭部から背中にかけては薄い茶色をしている。また、鼻には、ほくろのようなマークがあり、顔の下部と、四本の足先は、白い靴下を履いているように白い。色合いからして、シャム猫のミックスらしい。毛並みも良く、サファイアブルーの綺麗な瞳をしている。しかも青い首輪がついているので飼い猫なのだろう。
「あなた、おうちは? 飼い主さんと一緒に来たの?」
気になって話しかけたところ、猫は「ナーオ」と鳴き、私の膝に頭をすりすりしてきた。
「あら、飼い猫だけあって人懐っこいのね。可愛い」
猫を撫でると、きちんと手入れされているらしく、触り心地も良い。飼い主に大切にされているのだろう。食事を終えた後、猫は膝の上にのり、欠伸をする。
「あらあら、ご飯食べて眠くなっちゃったかな? じゃあ、もう少しだけ膝を貸してあげる」
膝の上で香箱座りをする猫を撫でていると、暖かい気持ちがわき上がり、心が癒されていく。
「ああ、幸せ。このまま、こうしていたい」
ちなみに、私は猫が好きだ。飼うことが出来ればいいのだが、一人暮らしのアパートは、ペット不可なのだ。こうして、猫を膝にのせているのは心地好い。しかし、時間が流れるのは、早いもの。時計を見ると、昼休みの終わりが近づいている。
「あっ ! いけない ! もうこんな時間だわ。猫ちゃんもそろそろ帰らないとね」
猫を膝から下ろすと、立ち上がった。
「ナーオ……」
「ごめんね。もう仕事に戻らなくちゃいけないの。有り難うね。楽しかった」
寂しそうに鳴く猫を後にして、私は職場へと急いだ。
三分咲き
翌日の昼休みに、私は、いつもの公園へと向かった。昨日出会った猫は、無事に飼い主のもとへ戻ったのだろうか? 公園の中を見渡すも、猫らしい姿は見えない。
「さすがに野良猫じゃないから、いないか。残念、せっかく、お弁当、多めに作ってきたのに……」
猫の姿を探して、公園内を見渡す。しかし、さすがに今日は姿がない。モフモフの感触の心地好さが忘れられず、もう一度会えるかも知れないという期待をしていたのだ。 弁当を広げ、おむすびを齧ろうとしたときだった。ベンチの上の桜の木から、風のような音がしたかと思えば、突然、大きな物体が目の前に飛び下りて来た。
「きゃっ ! 何なの !?」
軽やかに地面に着地した者の正体は、外国人の青年だったのだ。 彼はブルーの瞳をした、彫りの深い顔立ちをしており、鼻の先に茶色いほくろをつけている。年齢は、おそらく20代後半くらいで、28歳の自分と年齢が変わらないように見える。しばらく目を合わせた後、青年が笑顔を見せ言葉を発した。
「こんにちは。びっくりさせて、ごめんね」
「本当にびっくりして心臓に悪いわ。どうして木の上なんかに? 」
「木のうえ、あたたかい。きもちいい。ぼく、よくのぼるよ」
彼は外国人特有の、片言の訛りある日本語で答えた。いい大人が木登りなんて、子供みたいな人だ。
「ぼくの、なまえ、ショコラ。よろしくね」
ショコラと名乗った青年が、手を差し出した。
「あっ……わたしは奈緒。よろしく」
差し出された手に、思わず握手をしながら、私も自己紹介をする。彼の手を握ったとき、男性にしては、意外と柔らかい感触に驚いた。ショコラなんて、ペットに名付けるような、甘ったるい名前は、まさか本名ではないだろう? 愛称かと思われるが、健康的な外見のわりに可愛らしいネーミングだ。まあ、初対面だし、外国人だし、敢えて本名を知る必要もないだろう、と考えていた。
「わぁ ! おいしそう。ぼく、これたべたい」
ショコラがベンチの上に置かれている弁当を見て、目を輝かせた。外国人だからなのだろうか? 彼は素直に思ったことを口に出す。多くの日本人は、出会って間もない相手のお弁当を食べたいなんて、言わないだろう。良く言えばフレンドリー、悪く言ってしまえば、馴れ馴れしいのだが、そんな彼を不思議と可愛いと思えてしまう。
「良かったら、どうぞ。たくさん作ってきたから」
昨日の猫にしたように、タッパーの蓋の上に、3種類のふりかけのかかった俵形のおむすび、ウインナー、卵焼き等をのせて彼に差し出した。
「わあっ ! 美味しい ! 」
ショコラが、それらを一切れづつ手で摘まむと、あっという間に平らげた。手作りの弁当を、こんなにも美味しそうに食べてもらうのは、気持ちがいい。また、人と一緒にとる昼食が改めて楽しく感じたのだ。
「おいしかった。ありがとう」
ショコラがニコッと笑って礼を言う。
「喜んでくれて嬉しい。ところで、あなた日本語は話せるの? 」
「ぼく、ずっと、にほんいる。だから、はなすの、だいじょうぶだよ」
ずっと日本にいると言うことは在日なのだろうか?そのわりには、あまり、言葉が流暢ではないなと思う。
「ぼく、ちいさいころ、おじさん、おばさんに、ひろわれた。おじさん、おばさんは、やさしいいいひと。ぼくに、ことばをおしえてくれた」
「えっ !? 拾われたって、お父さんとお母さんは? 」
ショコラの言葉に疑問を感じ、思わず訊ねていた。
「おとうさんも、おかあさんも、ぼく、しらない。かぞくは、おじさん、おばさんだけ」
話によると、彼は孤児らしく、自分の国籍さえ知らないらしい。明るく見える彼にも、そんな複雑な過去があったのだ。訊ねてはいけない質問をしてしまったことに、謝罪の言葉を口にした。
「ごめんなさい。悪いこと訊いてしまって……さみしかったでしょうね」
「だいじょうぶ。ぼく、おじさん、おばさん、だいすきだから……それにナーオは、ぼくのともだち。さみしくないよ」
「ナーオって?……」
ショコラが笑って、私を指差した。
「……えっ !? それって私の事 !? あのね、私、ナーオじゃなくて奈緒なんだけど……」
「うん。ナーオ。ともだちだよ」
「人の話聞いてないし……まあいいか」
正直、引っ込み思案で友達の少ない私は、愛称はおろか、家族以外に名前で呼ばることさえ少ない。職場では、『片山さん』と、ほとんどの人に呼ばれている。『ナーオ』なんて猫の鳴き声みたいだが、彼の呼ぶトーンは愛嬌を感じたのだ。それにしても、初対面だというのに、自分がこんなに、彼のペースにのまれているとは……。 呆気にとられているうちに、スマホのアラームがなり始めた。昼休みの終了時刻の合図として設定したものだ。
「あっ ! ……いけない。私、仕事に戻らなきゃ。じゃあ、さよなら」
「ナーオ。有り難う。また明日ね」
急ぎ足の私に、ショコラが声をかける。数メートル歩いた所で、後ろを振り向くと、彼が大きく手を振っていた。私も手を振り返すと、足早に仕事場へと急いだのだった。
五分咲き
帰宅途中、不思議な青年と出会った公園を見渡した。昼休みの出来事が、今頃になって、冷静な気持ちを取り戻している。人見知りで警戒心の強い自分が、何故、あのような対応をしたのだろうか? 初対面にもかかわらず、弁当を分けあい、一緒に昼食をとり、親しく話をする。いつもの自分なら、突っぱねて逃げ出してしまうところだ。しかし、何故か、ショコラと名乗った青年のペースに、いつの間にかのせられていた。彼には、外国人特有のフレンドリーな解放感があったからなのだろうか? ショコラのことが頭から離れず、もう一度会いたいと考える自分を不思議に思えた。
昼の休憩時間に、いつもの公園のベンチに向かっていると、「ナーオ ! 」と叫びながら、手を振っている青年の姿が目に飛び込んだ。
「こんにちは。今日も来てたのね」
ショコラが快活な笑顔で駆け寄ってきたのだ。
「今日はサンドイッチをたくさん作ってきたの。食べる? 」
「たべる。たべる。ナーオのごはんだいすき」
彼に会えるという保証はないのに、サンドイッチを二人分作ってきた自分に、呆れながらも、喜びが込み上げる。
「おいしい。ぼく、しあわせ」
ショコラはツナサンドとカツサンドが特にお気に入りのようで、美味しそうに食べてくれる。しかし、レタスとトマトが入ったものは好まないようだ。
「野菜も食べなきゃだめよ。身体にいいんだから」
「うーん……。でも、それ、ぼくすきじゃない」
「しょうがないわね。子供みたいなんだから」
小1時間の、このひとときが楽しくて、このまま昼休みが終わらなければいいのに、とさえ思ってしまう。 しかし、そんな思いを無視して、時間は、あっけなく過ぎていくのだ。休憩の終了を告げるアラームが、憎たらしく感じる。
「私、もうお仕事だから行かなきゃいけないの。またね」
職場にもどる私に、ショコラは手を振り、私も手を振りかえして幸せな時間が終わる。
次の日も、また次の日も、期待を裏切らずショコラは現れた。公園までの道のりは足取りが軽く、彼の姿を見つけると、嬉しさがこみ上げる。そして、手作りの弁当で、ランチタイムを楽しく過ごす。サンドイッチやおむすびを、美味しそうに頬張るショコラを見るのが微笑ましくて、毎朝、弁当を作るのにも力が入っていた。
この年まで異性と交際したことがなく、地味な自分にとって、この時間は今までで一番輝いているように感じる。 メイクや髪型も必要最小限しか整えてなかったのだが、少しでも綺麗になれるように工夫するようにもなった。同僚からも
「最近綺麗になったね。彼氏でも出来たの? 」
などと称賛されるようなり、誇らしい気分になる。彼と出会ってから、新たな自分を発見し、世界が広がっていくことに喜びを感じていた。
満開
休日であったが、手作り弁当を持参して、電車で通勤ルートを辿っていた。目指すのは、満開に咲き乱れている桜に囲まれた公園だ。決して約束をしていたわけではないが、その場所で、ショコラに会えるような錯覚に囚われていた。もし、会うことが出来れば、彼とともに、平日の1時間以上の長い時間を、過ごすことが出来る。そして、美しい数本の桜に囲まれて、お花見をしたかったのだ。
通常の昼休みの時間より、早い時刻に公園に到着した。ショコラの姿を探してみたが、それらしき青年はいない。
「やっぱり、今日はお休みだから来てないのかな? 馬鹿みたいね。私」
がっかりして、ため息をつきながらベンチに座る。すると、頭上の桜の木から、がさがさと音が聞こえ、快活な声で名前を呼ばれた。
「ナーオ ! 」
「ショコラ !? 」
初めて出会った頃のように、ショコラが身軽に木から飛び降りて来たのだ。
「もうっ! びっくりするじゃない」
呆気にとられたと同時に、会うことが出来たという喜びに包まれた。
「ナーオ、これあげる。いつも、おいしいごはんくれるから、プレゼントだよ」
ショコラが目の前に、綺麗に咲いている桜の枝を差し出した。
「ええっ! 枝を折っちゃったの!? 駄目よ! 桜の木が可哀想でしょう」
「だめなの? おはな、きれいだから、ナーオがよろこぶとおもった……」
「この桜の木は、みんなのものなのよ。それにお花だって、いきなり折られたら痛いでしょう。もうこんなことしちゃ駄目よ」
「ごめんなさい。おはなさん」
しゅんとした顔をして、桜に謝罪するショコラが可哀想に思えた。彼は、悪気はなく、私を喜ばせようとしてくれたのだ。
「でも、ショコラの気持ちは嬉しいわ。有り難う。このお花、家で飾るわ」
「ほんとう! よかった。ナーオ、よろこんでくれた」
私の言葉に、ショコラが、ほっとしたように、瞳を輝かせた。 その後、桜色に染められた公園の中で、弁当を広げた。鮭とツナ、鰹節のおむすび等を頬張るショコラの姿は微笑ましい。
弁当を食べ終えた後、隣に座っていたショコラが、私の肩に、栗色の髪を擦り寄せた。
「えっ!? ちょっと、ショコラ! 何を!?……」
「ナーオ。きもちいい。だいすき……」
彼は、まるで猫のようにすりすりして甘えてくる。 私は、胸の鼓動が速くなるのを感じていた。息をするのも苦しいくらい、どうやって言葉を発していいのか分からなくなる。気が付くと、ショコラが私の膝を枕にして、寝息をたてていたのだ。
「えっ!? 寝ちゃったの? もう、人の気も知らないで……」
呆れながらも、気持ちよさそうに、うたた寝しているショコラの寝顔は、愛らしく見え苦笑する。
「やっぱり、あなたはハンサムね。こんなに可愛い寝顔見たら怒れなくなるじゃない」
呟きながら、彼の髪をそっと撫でた。さらさらの柔らかい感触が、指に伝わってくる。
「わたし、……ショコラが好き……」
思わず、心に溢れた思いを、口にしていた。
「うーん……むにゃむにゃ……」
ショコラが頭を僅かに動かし、声を洩らす。
「えっ !……もしかして……今の聞いてた?」
私の問いかけには答えず、彼はすやすやと眠ったままだ。
「もうっ! 紛らわしいんだから……」
ほっとしたような、がっかりしたような、恥ずかしさでくすぐったい気持ちになる。 私は今、改めて確信したのだ。ショコラに恋をしていることを……。
今までにも、それなりに好意を寄せた男性はいたが、こんなにも心が熱くなったことはない。 ああ、このまま、ずっとこうしていられたらいいのに……。時間が止まって欲しいと願ってしまう。しかし、幸せの時間は終わりが必ず訪れる。ショコラが眠りから覚めて、しばらく公園の中を2人で散策をしているうちに日が暮れかかっていたのだ。
「今日は楽しかった。有り難う」
「ナーオもありがとう。またね」
甘酸っぱい幸せな気持ちと、名残惜しさを感じながら、別れの挨拶を交わした。
帰宅後、ショコラからプレゼントされた桜の枝を花瓶に差して、食卓に置いた。淡いピンクの花びらを見て、自分の顔が綻んでいるのを感じる。今日という日の幸せが、痺れるくらいに身体中に伝わってくるようだ。 ショコラに会える時を待ち焦がれ、心の中でカウントダウンを始めていた。
散り始めた桜
昼休みまでの時間は、非常に長く感じる。休憩時間のチャイムとともに、弁当を持って、素早く公園へと向かった。ベンチの上に、花を咲かせた桜の木の枝が、傘のように茂っている。その下には先客が座っていた。しかし、それはショコラではなかった。
「あら、この間の猫ちゃんじゃない。また会えたわね」
「ナーォ! 」
なんと、以前、公園に現れたシャム柄ミックスの猫だったのだ。ベンチに腰を下ろすと、猫が膝にのってきた。
「相変わらず、素直で可愛いわね。後で私の友達を紹介するね」
頭を撫でると、猫は気持ちよさそうに、身体をすりすりと擦りつけてくる。
「ショコラ ! 良かった。見つかった」
「えっ !? 」
覚えのある名前を呼ぶ声が聞こえ、驚いて振り向いた。視線の先から、50歳くらいの、上品そうな女性が近付いてきたのだ。
「あらあら、ごめんなさいね。この子ったら、引っ越しの最中に脱走してしまって……」
物腰の柔らかい口調で、女性が話しかけてきた。どうやら、猫の飼い主のようだ。
「いえ、猫ちゃんは好きですから。あの、お名前、ショコラちゃんとおっしゃるんですね」
「ええ、まるで、チョコレートがかかってるような模様だから名付けたんですよ。可愛がって下さって有り難うごさいます。でも、そろそろ出発時間なので失礼させて頂きますね。さあ、ショコラ、行きましょう。お姉さんにさよならをしましょうね」
「私の方こそ、お邪魔してすみません。ショコラちゃん、寂しいけど、またね」
女性に抱きかかえられると、猫のショコラが私をせつなそうに見つめ、「ナーオ」と鳴いた。サファイアブルーの瞳と目が合ったとき、何故か、人間のショコラの顔が浮かんだ。声は違えど、猫の鳴き声のアクセントと瞳の色が、人間の彼にそっくりな気がしたのだ。おそらく、名前とブルーの瞳、性格までもが共通しているせいだろう。
女性が優しい笑みで会釈をすると、猫のショコラを抱いて去っていく。 彼女の肩の上から、猫のショコラが、顔を出して、再び私を見つめてきた。
「ナーオォォ !……、ナーオォ !……」
なんと、猫は大きな声で鳴き声をあげ続けたのだ。悲しそうに、何か訴えてるように感じたのは、気のせいだろうか? 驚いた女性が、猫のショコラを宥めながら歩みを進めている。2人の姿が見えなくなるまで、私は手を振り続けた。
「次は人間のショコラの番ね」
同じ名前を持つ猫がいるなんて話したら、彼はどんな顔をするだろうか?胸を踊らせながら、ショコラが現れるのを待った。もしかしたら、また木の上から飛び降りてくるかも知れないと考えて、桜の枝を見上げた。
しかし、その日、ショコラは姿を現さなかったのだ。彼の好物が詰まった弁当を、ひとつまみしただけで、昼休みは終わりを告げてしまった。
「どうしたんだろう? 事故でもあってなければいいんだけど……」
出会ってから、この時間に姿を見せなかったのは初めてだ。不安と空虚感に苛まれる。もしかしたら、今日は都合が悪くなって来られなくなったのかも知れない。明日になれば、きっとまた会える。そう自分に言い聞かせて、また明日を待つことにした。
しかし、次の日も、また次の日も、そのまた次の日も、ショコラが現れることはなかった。
「どうしてなの? ショコラ……会いたいよ……」
改めて考えてみると、自分はショコラのことを何も知らないのだ。
どこで生まれて、どこに住んでいて、どんな仕事をしているのか? どうして常に公園に来ていたのか?
ただ、ショコラと過ごすのが楽しくて、相手の素性など深く考えたことなどなかった。それに恋人だったわけではないのだから、会いたいときに、公園に訪れるとは限らない。純粋に恋心を抱いた私とは違い、彼にとっては、ただの気まぐれだったのかも知れない。あるいは、餌付けされた猫のように、珍しい弁当が食べられることが、目当てだったのかも知れない。 ショコラへの思いが膨らんでしまった今、動き出した思いは、理屈で割り切れなくなってしまっていた。
「なんだか、私らしくないな」
ひとつづつ確認しないと気がすまない慎重な自分が、しがらみなど考えず、ショコラと過ごしていた。せつない気持ちを煽るかのように、桜吹雪が舞い散っていく。桜の花びらのように、恋も儚く散ってしまったのかも知れない。
雪のような花びらを浴びながら、溢れ出す涙で桜の木を見上げた。
桜吹雪
ショコラが姿を消してから、数日がたっている。休憩時間に利用していた公園にも、足を運ぶ気にはなれなかった。行き場を失ったショコラへの思いを、すぐにでも心から追い出したかった。彼との楽しい思い出が詰まったあの場所を、思い出すのが辛いのだ。昼食時は、職場のデスクで過ごしている。上司も同僚達も、外食ランチに出掛けているため、室内には1人きりだ。 おむすびが2つだけの、簡単な昼食を終えたとき、「片山さん」と呼ぶ声が聞こえた。振り向くと、営業部に所属している同期の西村樹だった。出張の経費の関係で、書類の手続きをするため、経理部に訪れてくることが時々ある。
「あの、手続きだったら昼休みの後に……」
「あっ、仕事の話じゃないんだ。片山さんに渡したい物があって、これ見てほしいんだけど……」
私の言葉を遮って、彼は1枚の写真を差し出した。
「これは、何かしら? ……えっ !……これは !?……」
受け取った写真を見て息を飲んだ。なんと、咲き乱れた桜の中、公園のベンチに腰をかけている自分の姿が映っている。しかも、膝の上にはシャム柄ミックスの猫、ショコラが座っているのだ。
「これ……どういうこと !?……」
西村が決まり悪そうに話を続ける。
「ごめん……決して隠し撮りしたわけじゃないんだ。実は、先週の日曜日、花見がてら、この公園で桜の写真を撮影してたんだけど、その時、猫を抱いている君を見かけてさ……いい光景だったから、ついシャッターを押してしまったんだ。声をかけるべきだったけど、君はガードが固いから警戒されるかも知れないと思ってね」
「この写真、確かに日曜日に写したものなの? 」
知らない間に写真を撮られていたということより、不思議に思う気持ちの方が大きかった。日曜日には、猫なんて、一度も会うことなどなかったはず。……一緒にいたのは、人間のショコラだけだ。
「ああ、間違いないよ。写真の中の君は私服を着ているだろう」
彼の言葉通り、制服ではなく、私服なのだから、日曜日に撮影されたのは間違いない。
「あっ、あの、この時って、栗色の髪をした、外国人の男の人見なかった? 」
「外国人? ……いや、君のそばには、この猫しかいなかったよ」
質問に答える西村の言葉に頭が追い付かない。いったい、どういうことなのだろうか?
帰宅後、西村から貰った写真をじっと見つめる 。花見をした日曜日は、間違いなく人間のショコラと過ごしていた。猫を膝にのせるどころか、姿さえ見かけていない。信じがたいことだが、考えられることは1つしかない。
「まさか!? ……そんなことって……」
快活で人懐こい青年のショコラ、 甘えて懐いてきた、シャム柄の猫のショコラ、 彼らは同一人物だったということだ。 それが事実なら、突然、姿を消したことも、彼の不思議な行動も、納得出来る。ペットに名付けるようなショコラという名前、木の上から飛び降りた身軽さ、頭を擦り寄せて膝の上で眠ってしまうところなど、猫だったら何も不思議はない。おかしな話だが、私は猫に恋していたということになる。彼とは、人種どころか、種族さえも違っていたのだ。
「だから、あの時、あんなに鳴いてたのね」
猫のショコラに再会したとき、飼い主の女性は、引っ越しの最中だと言っていた。サファイアブルーの瞳が悲しそうに見えたのは、別れの寂しさだったのかも知れない。私の名前を呼ぶように、せつなげな声で、『ナーオ』と鳴き続けていたのは、さよならを伝えていたに違いない。
「ショコラ……。あなたが猫でもいいから、もう一度、会いたいよ。だって、私はまだ、あなたに、さよならを言ってないんだもの」
たった数日だったが、ショコラと過ごした楽しい思い出が、脳裏を駆け巡り、涙が溢れ出た。
桜吹雪の中から、人影が近づいてくる。その人物の姿が、はっきりと目に飛び込んだとき、心が張り裂けそうになった。
「ショコラ!? ……本当にショコラなのね……会いたかった」
彼は、人間の姿をしたショコラだったのだ。私は、恋しかった彼のもとに駆け寄った。
「ナーオ、いなくなってごめんね。さよなら言いたかったけど、もう、ぼくのことばは、ナーオにとどかなかった。だって、ぼく、ねこだから」
ショコラが、悲しげな瞳を向ける。
「いいの。私、今、あなたに会えたことが、とても嬉しいの。だから、あなたが猫でもいいから、もっと一緒にいたいの」
「ごめんね。もう、それはできないんだ。ぼく、おじさん、おばさんと、とおくに、いかなきゃいけなくなった。ナーオのこと、だいすきだけど、おじさん、おばさんも、たいせつな、かぞくだから、はなれたくない。だから、ごめんね。ナーオ」
ショコラが、ブルーの瞳で私の顔を見つめ、言葉を続けた。
「はじめて、あったとき、ナーオ、やさしくしてくれた。おいしいごはんくれた。だから、ぼく、さくらのきに、ナーオとおはなししたいって、おねがいしたんだ。そしたら、ぼく、にんげんになれた。ナーオとおはなしできて、たのしかった」
「そうだったの? 私もショコラが好きよ。一緒に過ごせて幸せだったよ」
「でも、もう、さよならしなくちゃ……。ナーオ、ありがとう。さようなら」
「もう、お別れしなくちゃいけないのね。ショコラも体に気をつけてね。ありがとう」
別れの挨拶を口にした後、ショコラの身体が光り、シャム柄の猫へと姿を変えた。
気付くと、テーブルクロスの上で顔をうずめていた。どうやら、いつの間にか眠ってしまったらしい。
「今のは、夢だったんだ」
寂しさが込み上げると同時に、もやもやした感情が軽くなったのを感じた。夢の中とはいえ、ショコラと、別れの挨拶を交わすことが出来たのだ。もしかしたら、桜の魔法が、最後の奇跡を起こしてくれたのかも知れない。
ショコラから貰った桜の枝は、もう花びらを残してはいない。私は、ショコラが折った桜の木の下に、枝を埋め、儚い恋にさよならを告げた。
桜色のメモリー
不思議な恋の体験から、1年の月日が流れた。生まれ代わりを繰り返すように、桜の花が咲き始めている。
「うん、美味い。奈緒はいいお嫁さんになれるよ」
西村樹が、私の作ったサンドイッチを頬張る。
「ありがとう。樹がおいしそうに食べてくれるから、作ったかいがあったわ」
そう、私は、彼と恋人同士になったのだ。満開の桜の中で、今、私達は花見デートをしている。しかし、場所は以前の公園ではない。樹おすすめの、川沿いにある桜並木の公園だ。
ショコラとの思い出の写真がきっかけで、樹から何度か食事に誘われるようになった。次第に意気投合し、交際することになったということだ。
愛嬌を感じる爽やかな顔立ち、人の懐に入りこんでくるような気さくさ、飾らない素直な人柄、彼には、どこかショコラに似ている部分がある。しかし、決してショコラと重ね合わせているわけではなく、樹という1人の青年を好きになったのだ。華美な桜の花を見つめながら、私は樹に尋ねた。
「ねえ、桜の花言葉って『優美な女性』って言うの知ってた。『純潔』とか『精神美』とも言うらしいけど……」
「うん、なんか聞いたことあるような気がするけど、でも、うちの姉貴が言うにはフランスでは違う言葉らしいぜ」
「そうなの? それで何て言葉なの」
「『私を忘れないで』だってさ。なんだか、イメージ違うんだよな。奈緒の言った優美な女性ってほうがしっくり来るよ。その言葉、そっくりそのまま奈緒に返すよ」
「まあ、お上手ね。ありがとう」
樹の言葉に微笑みながら、もう1つの花言葉を思い浮かべた。
『私を忘れないで』
桜の魔法が生み出した不思議な思い出には、この言葉のほうがぴったりだと思ったのだ。ショコラからプレゼントされた桜の枝は、そんな意味も込められていたのかも知れない。
桜の花が咲くたびに、私はショコラと過ごした時間を思い出すだろう。結果的に、彼との思い出が、今、目の前にいる樹との幸せを繋いでくれたのだ。
ショコラ、元気に過ごしていますか? あなたが導いてくれた幸せを、これからも大切に生きていきます。
あなたも、末永く幸せに過ごせますように
心の中で呟いたメッセージが、ショコラのもとに届くように、桜の花に願いを込めた。
完