ひとつとして同じ輝きをもつことのない鉱石です。
「あなたの目は本当に特別ね」
と母は笑う。
物心ついてはじめて鏡をみたとき、私の目は濁っていた。白目である部分は乳白色で黒目である部分は栗川色だった。筆洗にぽとり、と絵の具を落とすとぼわん、と広がっていった時にできた模様が私の左目だ。
子供は時に残酷だ。バイ菌だ!病気だ!と避けられたことも数え切れないほどある。
そんな時の心の拠り所は図鑑だった。
父は読書家だ。ひとたび書斎に入ると埃っぽい匂いと紙の匂い。私と同じ色をした陽射しと暖かい木の机。入ってすぐ右側にあるのは私のために兄が作ってくれた小さな本棚。
「いいかい?この本棚は四冊しか置けない。大切な本。はじめて読んだ本。悲しくなる本。嫌いな本。その四冊だ。ここに置く時にはよく考えるんだ。最初に言った二冊は絶対に変えちゃいけない。後に言った二冊は悲しくなる度、嫌いになる度に入れ替えるんだ。」
あの時真剣に話している兄の目を見ながら、琥珀みたいだと思った。陽が射しても急いで下を向くことなくキャラメル色とコーヒー色が混ざった琥珀。
小さな本棚にはまだ一冊しか入ってない。それがこの『ゆるがない鉱石図鑑』だ。元は兄の為に母が購入したらしいが兄は、
「手が届く美しさよりも手に届かないみんなに平等な美しさ」
が生きるモットーらしく、鉱物よりも宇宙や天体に興味を示している。なにかある度に私を呼んで星や月を見せてくるし、午前二時に二階から一緒に抜け出して図鑑の付録で作った星座の早見盤とメモ帳とボールペンを私に持たせて、あの星にはこんな伝説がある。あの星とあの星は実は兄弟なんだ。と私を天体の世界に引きずりこもうとしてくる。
この『ゆるがない鉱石図鑑』ただの説明文だけじゃない。神話や伝説など一つの小説として楽しめる。難しい言葉や無機質な専門用語よりも、丁寧な写真と嘘の伝説の方が鉱石には良く似合う。
私が一番好きな鉱石は、この図鑑の48ページの右側。スカートが皺にならないように花のように広げて書斎の硬い床に座ってページをめくる。
私の左目とそっくりのオパール。色という色がない。全体的にぼやけているこの輪郭。包み込む優しさ。
写真の下に小さく書いてある化学式や原産国などを飛ばして目当ての文章に辿り着く。
ひとつとして同じ輝きをもつことのない鉱石です。
そしてオパールは非常に保管の難しい鉱石でもあります。
全てのオパールは非常に脆く、欠けやすい性質を持っています。紫外線を多く当てるとひび割れや変色を起こしてしまいます。
ハイドロフェーンオパールと呼ばれる種類は水分を吸収してしまうことから乾燥に弱い鉱石です。
私の左目のようだ。
一時間に1回は眼科から貰った目薬を刺さないといけないし、陽射しの強い日は外に出ては行けないし、西日は直接浴びてはいけない。体育や水泳は見学だし、暗い部屋から急に明るいところに出ては行けない。
私の目は非常に脆い。
ひとつとして同じ輝きをもつことのない鉱石です。
その一文を目の不自由さを覚える度、何度も何度も反芻する。おまじないのように何度も。
いつか治るのかしら。
私は母に何度も聞いた。何故か聞く時はいつ母にだった。父に聞いても「治らない」と言われるような気が幼いながらしていたのかもしれない。
母は「きっと治るわよ」といつも私の頭を優しく撫でる。
兄は「お前の目はほんとに石っころみたいだな。好きな物が一部なのはいい事だ」と羨んでいた。兄の頬にはそばかすが散っている。一度、北斗七星みたいだね。と理科で習いたての言葉を兄に言った時、私の手を引いて母のドレッサーの前までいき、何度も顔をみていた。
「ほんとか?ほんとに北斗七星か?」
「うん。理科でならった」
と言うと嬉しそうに私を抱きしめて、やっぱり俺らは兄弟だな。と額に優しくキスをしてくれた。
いつか治るのかしら。
そんな期待は裏切られ、大人になっても私の目はそのままだ。
オパールの輝きは光によって変わってしまう。万年筆を置いて、真鍮の手持ち鏡を持ち上げ、覗き込む。
レースのカーテン越しに私の左目が濁っていく。
治らなくてもいいのかもしれない。それを『個性』と受け止められる日がきた。
この左目のおかげで、幻想的で異国的な小説家として本を出せるようになった。
大ベストセラーや大賞は取れないものの、一部の根強い読者のおかげで細々ながら好きなことを書けている。
私はいつまでも読者に寄り添う作家でいたい。
深い青色に光る万年筆をみつめる。
私は見た時に、ラピスラズリだと言った。
兄は見た時に、青色巨星だと言った。
どこまでも感性が合わない兄が、はじめて本を出した記念にと買ってくれた。
万年筆のキャップをゆっくり嵌めて、小さな本棚から図鑑を取り出す。
次はなんの鉱石についての小説をかこうか。
いつも目を閉じてぱっと開いて鉱石を選ぶ。説明文をゆっくり読む。咀嚼して嚥下する。自分の一部にする。
目を閉じた時、左目の奥にうつるのはいつも北斗七星だ。
今回題材にするのはエメラルドにしよう。
目が西日に当たらないように伏し目になって説明文を読んでいく。
耳につく自分の息遣いがあの頃の硬い床に座り込んでいた頃の自分に引き戻してくれる。
過去に戻って書斎の匂いを感じる。そこにいるのはいつも母だ。
「あなたの目は本当に特別ね」
あの時の笑い皺、少し乾燥した手。頭を撫でた重み。
兄の優しいキスと、目の裏の北斗七星。
エメラルドを私の一部にして薄いラベンダー色の原稿用紙を取り出す。
治ると信じていたあの頃の私への謝罪と希望を込めて、私はゆっくりと万年筆を滑らせる。