影踏み
大人になったら結婚しようね。
子供の時の微笑ましい約束。誰しも一度は経験があると思う。
かく言う僕も、その一人。いまでも覚えてる。
みさえちゃん。
幼稚園の名札にはそう書いてあった。漢字は分からない。僕が4歳の時にみさえちゃんは引っ越してしまったから。
引っ越す前日の朝に挨拶をしに来てくれたみさえちゃんの目は貯金箱のお金を入れる口くらい細くて泣き腫らしていた。
僕は「遠くに行く」ということイコール死ぬことだと思っていたから同じくらい泣いた。
2人で泣いて、親が困ってた。
多分2時間くらい泣いてた。そこから記憶は飛んで2人で遊びに行った。
シロツメクサの冠を作るのがうまかったみさえちゃんは大きな冠を作って僕の頭に乗せてくれた。
「大きくなったらゆうくんのお嫁さんになるね」
「いいよ。結婚しようね。」
「大人になったら結婚しようね。」
それが最後のみさえちゃんの記憶だった。
そこから年賀状のやりとりはあったけど、だんだん疎遠になって、当然LINEもなかったから、今でも何してるのかさっぱり分からない。
でも暇な時、いつも思い出すのは彼女のことだった。
僕の心の支えはどこにいるのか分からない。漢字もわからない、みさえちゃんだけだった。
気がつくと講義は終わってた。提出はないようなので今日はもう学校にいる用事はない。
パソコンを閉まって学校から出る。
真冬のお手本のような日だった。花壇の回りは薄らと雪が積もってて小さな雪だるまが溶けかかっていた。
AirPodsを耳に押し込む時にいつも想像以上に冷たくてビックリする。触れるファーストピアスはシャフトが短いのかまだ腫れていた。
刺す太陽は雪を反射してあたりは陰鬱に光っていた。
駅の改札で定期をかざす直前に僕の視線は何気なく見た横の時計台一点に吸い込まれた。
みさえちゃん。
みさえちゃんだった。
僕は固まってしまった。記憶からそのままこぼれ落ちてきたみさえちゃんだった。
後ろのサラリーマンが舌打ちをしながら僕にぶつかってくる。その衝撃でやっと僕は横に逸れた。
いた!みさえちゃんがいた!
あの頃から寸分も変わらないみさえちゃんだった。
結婚しようね。
と言ってくれたみさえちゃん。
シロツメクサの冠をくれたみさえちゃん。
僕は通行人に謝ることもせずにみさえちゃんに近づく為に時計台に着いた。
そして気が付いた。
記憶からそのままこぼれ落ちてきたみさえちゃん。
それはおかしい筈だった。
だってもし同い年なら僕も、みさえちゃんも22歳のはずだった。
でもいま僕の近くにいるのは4歳のみさえちゃん。
僕の近くで、足元で指を口に咥えてキョロキョロしているみさちゃんだった。
他人の空似だったのか。でも見れば見るほどみさえちゃんだった。
僕の膝は震えが止まらなかった。SF小説の読みすぎなのかもしれないと思った。時空の歪み?パラレルワールド?それとも過去にタイムスリップしてしまったのか?
有り得ない考えが僕の頭のキャパシティを奪って、理性的にものが考えられなくなっていく。
そして僕の考えは「有り得ない」と実証される。
みさえちゃんの横から買い物袋を持った、お母さんがその子の名前を呼ぶ。
「あやのちゃん。」
そう呼ばれるとその子はお母さんの方を向いて手を大きく広げた。お母さんはあやのちゃんを抱きしめる。
愛し、愛されるということが当然だという行為だった。
僕の膝の震えは収まって、何事もない一日に戻った。
その一瞬だけ。
「ゆうくん?」
はじめ抱きしめられているあやのちゃんが話したのかと思った。僕の脳は混乱した。友達が近くにいるのかと思った。でも僕の事を「ゆうくん」と呼ぶのはみさえちゃんだけだった。
「ゆうくんよね?」
とあやのちゃんのお母さんが僕を見つめる。
「みさえちゃん?」
「あ、やっぱりゆうくんだ。久しぶり。」
久しぶり。
と手を振る左手の薬指にはしっかりリングが嵌められていた。
シロツメクサの冠を作ってくれた彼女の手は主婦の手だった。
その時の僕といったら。
この日ほど世界が壊れろと祈った日はない。ただでさえ僕にはなにもない。顔も悪い頭も悪い、バイトも長く続けられないし、人に愛されるのが怖い。人の笑顔も怖い。嘘も怖い。はやく死にたい。生きていたくないと思いながら死への恐怖は人一倍ある。そんな矛盾を煮詰めて瓶につめたような人間なのに。
みさえちゃんだけが、支えだったのに。
僕を支えていた過去はもうなくなってしまった。
これから先どうしたらいいのだろう。別にみさえちゃんの為に生きていた訳じゃない。
結婚しようね。
と言ってくれた過去。そしてどこかでもう一度会えるのではないかという期待。結婚するかもしれない未来のために生きていたのに。
勝手に裏切られた気になっていた。僕にとってたった一人の支えだったしたった一つの大切なものだったのに、彼女の中では数百の中の一つだったのだと思うといますぐここで刺殺されたかった。
もし今ここに不審者がいて僕を刺してくれたら。
そしたら彼女と彼女の娘は一生僕を忘れないだろうに。
この瞬間も彼女にとっては一瞬なのだ。
「久しぶり。娘ちゃんかわいいね。」
「ありがとう。あやのちゃんほら、お兄さんに挨拶して?」
「こんにちは」
「いい子だね。こんにちは」
あやのちゃんは声まで過去のみさえちゃんにそっくりで存在しないはずの記憶がどんどん増えていくのがわかった。
「ゆっくり話したいんだけど、いまから夕飯の準備しなきゃなの。」
「きょうはね、かれーをつくるの」
「ママと一緒にカレー作るの?」
「家族三人でつくるんだよね?」
「そうなのたのしみにしてたんだ〜。ねーはやくかえろうよ。」
とあやのちゃんはみさえちゃんの買い物袋を引っ張る。
黙れクソガキ。と払いそうになる。僕はいまみさえちゃんと話してるんだ。
と思う反面
はやく僕の目の前から立ち去って欲しかった。これ以上彼女の口から「家族」「娘」まだ出てきてないけど「旦那」「夫」が出てきたら僕は発狂しそうだった。
僕がいまこの瞬間、家族団欒をぶち壊しているという事実を受け入れられなくなりそうだった。
「おなかすいたー!」
「えー、そっかそっか。じゃあもう帰ろうね。ごめんね。またあったら話そ?」
「そうだね。バイバイ。あやのちゃん。」
「ばいばーい。」
あやのちゃんとみさえちゃんは手を繋いで帰った。
僕は時計台の下に蹲った。体育座りになった。もう家に帰る気力が僕にはなかった。周りの目が白いのはみなくてもわかった。顔を上げるとみんな蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
吐き気がとまらなかった。それ以上になにか変なこと言ってないかが不安だった。みさえちゃんと話してる時の記憶はほんの2秒前のことなのに思い出せなかった。頭にぼんやりともやがかかっていた。
冷気が容赦なく僕を冷静にさせる。
さっき話して知ったことは、
みさえちゃんは結婚して娘がいること。
それだけだった。
漢字もわからない連絡先も知らない。振り出しというよりマイナスになった気分だった。
そのあとぼんやりしていたら家のベッドで映画をみていた。お風呂も入ってご飯も食べてる。習慣の恐ろしさを知る。
映画はスプラッターでもホラーでもなく、『Midnight in Paris』だった。
「現在に誰しも不満を抱くものさ。なぜなら、人生には不満がつきものだからさ。」
うるさい黙れ。
僕にはもうなにもない。過去もない。未来も今もない。支えがない。思いを馳せるものがない。
みさえちゃんさえいれば、結婚しようね。と言ってくれたみさえちゃんさえいれば、思い出なんてなにも要らなかった。
こんなことなら一生会いたくなかった。一生会えずに幸せだけを願いたかった。
どんなにキツく目を瞑っても脳裏に浮かぶのはみさえちゃんとあやのちゃんだった。
煙草を吸う体力もお酒を浴びる気力もない。何もしたくない。このままザムザのように虫になりたい。最後、リンゴを投げつけられて死にたい。
僕は眠れなかった。目蓋は落ちてくることなく、稀に眠ったとしてもすぐにみさえちゃんの笑った顔が僕を揺さぶり起こす。
その日の夜中ずっと映画を流し続けた。映像は目に映るだけで脳に結びつかず、台詞は耳を通って壁に吸い込まれた。
外はだんだんと明るくなって朝10時のアラームが鳴った。
今日は中国思想のテストだった。
みさえちゃんの声が響く頭を振って支度を始める。
中国思想のテストなのになにも勉強してない。支度をするのもめんどくさい。
いまはただザムザになりたい。
僕は教務課に体調不良の連絡をしてベッドに横になった。
僕にはなにもない。元からなにもなかったけど。こんなに世界も自分も環境も嫌いだけど死ねない。
死ぬほどみさえちゃんが大切だったのに。死ねない。死ぬのは怖い。
映画の登場人物みたいに急に死ねたらいいのに。
僕は布団にくるまって眠気が底に落ちてくるのを待つ。ただひたすらに待つ。そして眠りから覚めて起きた時、虫になっているのを望む。
僕はいまでも虫になるのを待っている。