本格やきう小説『大決戦』
※第6回阿波しらさぎ文学賞必然的落選作
「やきゅうだ。やきゅうで決める」
列席者は皆、その音を頭の中で即座に漢字に変換することができなかった。そして唯一当てはまる単語に困惑した。
野球?
不穏極まる国際情勢と予測される大災害を見据えた首都機能分散計画、その核ともいえる第二首都選定会議は紛糾に紛糾を重ね、第十五回にして未だ結論が出せずにいた。
なんとか二箇所にまで絞り込まれた候補地は、佐渡島要塞化計画をぶち上げた新潟、そしてジオ四国電子首都計画を牽引する徳島であった。互いに外敵に脆弱、災害対策が不十分と罵倒に近い指摘を繰り広げた末、膨大な調整と変更を重ねた両者の計画は、それぞれのプライドと想定される法外な身入りとも相まって、どちらも妥協の余地を許さないものになってしまっていたのだ。
そして発言が大方出尽くした重苦しい沈黙の中、議長でもある菱田澄夫首相がおもむろに放ったのが冒頭の一言なのであった。
「総理、冗談を言っている場合ですか」
徳島県知事五反田正秋が苛立ちを露わに言うと、菱田は落ち着いた口調で答えた。
「冗談なんかではないよ。かつては廃藩置県の際に、県庁所在地を相撲で決めたところもある。そうですよね、原隅さん」
名を呼ばれた新潟県知事は、無言のまま視線だけを菱田に向けた。
「両県とも独立リーグのチームがある。そうしましょう。なにより後腐れがない」
いやしかし、と誰かが口を開いたが、その先が続かなかった。誰もが先の見えない議論に疲れ果てていた。
「景気も停滞気味の今、この国に必要なのは一大イベントですよ」
誰もが誰でもいいから何か言ってくれと思っていた。
つまり、異論は出なかった。
思いがけぬ県知事五反田の訪問に沸きたった徳島インディゴソックスの選手コーチたちは、今や無表情で地面や空を見ていた。
監督の本岡哲治だけが正面切って五反田と向き合っていた。
「そんなギャンブルみたいな試合に選手を出すわけにはいかない!」
鬼の形相で本岡が詰め寄る。
「誹謗中傷が押し寄せたらどうするのです! 県は何かしてくれるのですか!」
「勝てばいいんです」
五反田は表情を変えずに平然と言い放った。彼の方が鬼だった。
「決まってしまったものは仕方ない。全力を尽くしてください。期待しています」
独立リーグの経営は決して楽ではない。集客とて毎回必死である。もっと期待してほしいと選手たちは日頃から思っていたが、よりによってこんなに迷惑な期待があるだろうかと暗澹たる気持ちになった。
第二首都を決める一大決戦の開催がニュースになると、練習場には連日大勢の観客が詰めかけて選手に声援を送ったが、笑顔で応える者など誰一人いなかった。もし負けてしまったらその声援がどんな風に変わるかなど、想像したくもなかった。
運命の日は一ヶ月後、場所は移動の有利不利を考慮して、新潟と徳島の中間地点、ナゴヤドームに決まった。国の将来を野球で決めようという暴挙を批判する論調も目立ったが、期待の声がそれらをかき消している感があった。あまりに突拍子もない現実を目の当たりにすると、人はきっと正常な判断能力が麻痺してしまうのだろう。観戦チケットは発売開始五分で完売した。ナゴヤドームのキャパシティが五万人と聞いた選手たちは、一様に身体を震わせたが、それは武者震いなどではなく、純粋な恐怖からであった。
「監督、大変です!」
球団事務所の一室で、対戦相手新潟アルビレックスBC(ベースボールクラブ)の試合の映像を観ていた本岡のところへ、ヘッドコーチの木橋が飛び込んできた。勢いよく開いたドアに驚いた本岡は、うわっと叫び声を上げて腰を浮かせた。
「心臓に悪いじゃないか!」
木橋は本岡の抗議を無視して、これを見てくださいと手にしたスポーツ新聞を広げた。見出しには「アルビBC、オジマ借受」とあった。
「なんだと! あのオジマか!」
本岡は新聞をひったくると、目から破壊ビームでも出しそうな勢いで記事を読んだ。間違いない。野球ファンの間で話題になっているあのオジマだった。メキシコリーグに現れた新人選手アーノルド・オジマは、その超人的な能力によりリーグの記録を次々に塗り替えていた。昨シーズンの本塁打率は三割五分二厘。打率ではない。本塁打率だ。リーグのレベルを考慮してもまともな数字ではない。メジャーのほぼ全球団が来季の獲得に動いているとも言われている近年最大のスーパースターである。新潟はどんな手を使ったのか、そのオジマを一週間、一試合のみの契約でレンタル加入の契約を結んだというのである。推定レンタル料は三億円。
新潟は本気だ。新聞を持つ本岡の両手がブルブルと震えた。独立リーグの球団が払える額ではない。集金力とてたかが知れている。県だ。県が本気なのだ。もし首都機能移転が決まれば、三億など一気にはした金と化すのだから。
「知事のところへ行くぞ」
そう言って本岡は立ち上がった。アポを取った方がと止める木橋を、そんな悠長なことをしている場合かと一喝した。
本岡にはアテがあった。もっとも彼の立場なら、誰でも思いつくであろうアテではあった。足りないのは、政治力だけだ。
星名豹馬。鳴門文化大学三年。右投げ右打ち。高校時代は凡庸な無名選手だったが、それは潜在能力に身体の成熟が追いつかなかったからだった。大学に進学すると、基礎練習による筋肉と体幹の強化で急速にその才能を開花させ、二年次にはエースとして鳴門文化大学を全国大学野球選手権大会ベスト4にまで一気に押し上げた。時速160キロを超える速球と高速のままで大きく曲がるスライダーが武器だ。
この二年後のドラフトの超目玉候補が徳島インディゴソックスへの緊急入団会見を行ったのは、決戦の二週間前のことだった。突然徳島県民の期待を背負うことになったプレッシャーについて尋ねられた星名は、涼しい顔でこう答えた。
「僕のせいで負けたとしても、それは僕の責任ではありませんから。野球とはそういうものです」
当然、NPB(日本野球機構)は猛反発した。アマチュア選手をドラフトによらず獲得するのは、野球協約の重大な違反だというのである。日本学生野球連盟も健全な学生野球の荒廃に繋がるとして、深刻な懸念を表明するに至った。むろん、本岡とてそんなことはわかっていたのである。
この問題についてぶら下がり会見でマイクを向けられた菱田首相は、待っていましたとばかりにこう語った。
「大学生など大半がアルバイトをしているでしょう。優秀な学生には起業する者もいる。それらと何が違うのか。もとよりドラフトという制度が、職業選択の自由、人権という観点から再考の余地があるのではないか」
スポーツ庁の対応は異様に早かった。急遽開かれた関係者会議で、今回の入団は前例のない試合に適用される特例とすること、当該のドラフトには何の影響も与えないことが確認された。もっとも世間は早くも星名とオジマの対決に盛り上がりを見せており、五反田知事の人知れぬ奔走などに目を向ける者はいなかったのである。
十一月二十三日、ナゴヤドームは日本シリーズの興奮冷めやらぬ野球ファンで埋め尽くされた。NHKとテレビ東京以外の民放各局はこぞって大物解説者を呼んで生中継を組んだ。徳島と新潟ではほぼすべての市町村でパブリックピューイング会場が設置された。
選手たちにしてみればたまったものではなかった。わかっていたこととはいえ、目の前の現実は想像を遥かに凌駕していた。「平常心」という言葉は、もはや「不可能」と同義だった。試合前の練習は一世代前のロボットのデモンストレーションを見ているようだった。選手紹介は死刑囚の点呼だった。オジマと星名だけが不遜な表情をしていた。
最初のヤマはいきなり、プレーボールの直後だった。徳島の先発はもちろん星名。新潟の先頭打者はオジマ。新潟の榛監督は一度でも多くオジマに打順を回そうとしたのである。本来ならランナーを貯めてのオジマがベストであるが、緊張の極にある選手たちを見てそれは望み薄だと考えたのだ。榛のミスは同じことが徳島の選手にも起こっていると想像できなかったことであった。
第一球、真ん中低めの直球が決まる。スピードガンの表示165キロに球場はざわめいた。星名は本物だった。第二球、ベースの手前で急激に曲がるスライダーが左打者の懐を抉った。追い込まれたオジマは、しかし眉ひとつ動かさなかった。彼は星名の球筋を見極めていたのだ。来日会見で記者の質問に答えながら、会場に迷い込んだ蝿を一瞬のうちに指の間で挟み捕ってみせた驚くべき動体視力で、たった二球で星名の球質を読んだ。
三球目。外角低めのスプリット。セオリー通りといえば確かにそうだが、非の打ち所がない球だった。天を指していたオジマのバットが動いた、と次の瞬間、バットは背中に振り切られており、聞いたことのない高い音と共にボールはライトスタンドの上空にあった。誰もインパクトの瞬間を見ていなかった。いや、見えなかった。バットスピードが速すぎたのだ。実況アナウンサーは「スイングが消えた」と表現した。翌日の新聞やテレビには「消えるスイング」の文字が踊ることになる。
星名がオジマをいかに抑えるかがこの試合の鍵だ、と観客が考えたのはしかしこの打席だけだった。星名は新潟打線相手に凡打の山を築いたが、見るからに動きの硬い徳島守備陣は失策の山を築いた。新潟のエース広瀬は徳島打線になかなか快音を響かせなかったものの、やはり球に手がつかない内野陣のせいで球数が増え、交代した軟投型岡崎の打たせて捕るピッチングは、打たせても捕れないが故に状況を悪化させた。
ひどい試合だった。後半こそさすがに緊張感も麻痺して比較的落ち着いた展開になったとはいえ、八回を終えてのスコアは徳島21対新潟20、試合時間は四時間を超え、いくつかの局は下がり続ける視聴率を見かねてテレビ中継を終了した。もっとも単に勝ち負けだけを求めるなら、逆転に次ぐ逆転のスリリングな試合だったと言えなくもない。
そして問題の九回である。
衰えぬ球威で順調にツーアウトを取った星名だったが、勝利を意識した野手の連続エラーでランナー一、二塁。打席には九番打者、ネクストサークルにはオジマ。
と、ここで星名の制球が突如乱れた。それとわかるストレートの四球で満塁。限界なのか、故障なのか。だが本岡は続投を判断した。なぜなら打席はオジマだからだ。ここまでのオジマは七打席五打数三安打一本塁打二死四球。星名は山なりのイーファスピッチや突然フォームを変える変則投法などを駆使して、オジマのタイミングを外し続けていた。リリーフを送ったところで後悔しか見えなかった。
解説者の江沢卓はこの時の星名の投球に驚きを隠さない。
「一球目はワンバウンド。完全に制球を狂わせたと見せて次はど真ん中。まあ手は出ません。プロはど真ん中など想定しません。そして二球続けて外角ボールの後でボールからストライクになるスライダー。これも手を出すのは難しい。つまり労せずしてオジマからストライクを二つ取ったのです。前の打者の四球は布石だったのです。と同時にオジマを抑えて勝つという彼のプライドでもある」
そしてフルカウントからの六球目。一球前とほぼ同じコースのスライダー。だがオジマには回転数が足りないように見えた。満塁。押し出し同点の意識がオジマのバットを止めさせたのだと江沢は語る。ボールは外角ギリギリを掠めた、ようにも見えた。
上がりかけた主審の右手が空中で止まった。無言のまま少なくとも五秒が過ぎた。ストライクを宣告すれば決まってしまう、自分の判断で。そのプレッシャーに彼の中で何かが壊れた。主審は突然うわあああと絶叫して走り出すと姿を消した。
球場は騒然となった。残された審判団が集まり、ビデオ判定の採用を決めたが、早くもヒートアップし始めた選手観客を納得させねばならないと、その映像を大型ビジョンに流した。それが間違いだった。それは本当にまったく、何度見返してもどうとでも取れるボールだったからだ。オジマのバットもまた止めたようにも振ってしまったようにも見えた。アウトだと主張して審判団に詰め寄る本岡に、新潟の監督榛が血相を変えて掴みかかった。それがきっかけで選手同士の大乱闘が始まった。乱闘はスタンドにまで波及し、球場のあちこちで小競り合いが起こっていた。止めようとする者は逆に殴り返されて火に油を注ぐバーサーカーと化した。
「どうするんですかこれ」
貴賓席で観戦していた菱田首相は、秘書官の問いかけに苦笑を返した。
冗談などではないと言ったが、実のところそれは冗談以外の何物でもなかった。あたりまえじゃないか。そんな馬鹿げた提案が通るなどと誰が思う。結局、あそこに集まっている連中には、物事を決める覚悟も合意を導くための良識も持ち合わせていないのだろう。利益誘導と責任逃れの間で反復横跳びをしているだけなのだ。
「そうだな、次の会議までに、移転機能を半分にして分担させる案を用意してくれ」
「そんな中途半端な案で納得しますかね」
「言葉は選んだ方がいい」菱田は真顔に戻って言った。「中途半端などと言うから角が立つのだ。中庸だよ、中庸。過ぎたるは及ばざるが如し、多くを望む者は何も得られぬと家康の頃から決まっているんだ」
なるほど、菱田は総理大臣に相応しい男だった。