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典子伝—『典子ゲッセマネ』―2023/1/7

一世一代の大芝居を今夜はやらなければならない。逃げる事もできるのだが、彼女は逃げなかった。人々がそう思うように自分は振る舞わなければ。
神の子になるかならぬかは、今夜ここでの大芝居にかかっている。
 北から死人の声がする。ままならない季節の途中をこの部屋で感じる。人間だから愛するのではない、それが他者だから、つまりそれが私だから、氷は六角の赤い柱に育って。命にこだわれば命を失う、つまらない話だ。何を怖れて言葉を弄ぶのか、たちまちに雪は融け、自己は自己によって自己を証明することはできない。何をするって? 証明の方法が知りたいのか、何が証明されるのか、生きているおまえが何だと言うのか。苦しめばよいではないか、南への船が港を離れる夜、殺人鬼は喜びの歌を叫ぶ、死者が笑顔で来世を信じている、野焼き。

 彼は祈りの為に丘の頂上に赴いた。小さな岩に腰を下ろして、背筋を伸ばし瞳をなかば閉じて遠く荒野の開ける様を見つめた。何を考えてもよいが、考えることも別にないのなら無心に座っていよう。別に何も無い、今ここにいる事が私の全てだ。芝居がかった事は何一つして来なかった。あの時から全ては神の御手の中にあった。インドから来た一人の男が街の広場で人々に説いていたあの時。私も遠巻きの人々の後ろから首だけ出して立ち聞きしていた。丸坊主のその男はある一人の過去に現れた聖人の生涯について話ていた。

 生きていながら、まさに死んでいる人。死んでいながら、まさに生きている人。彼はすでに生死の法を越えて真理とともにある。不安を去り苦しみを去り俗界を去っている。しかも人々の不安を包み、苦しみを消し去り、欲界の内に生きる。全ての生物に、慈しみの心を持ち、全ての生物の悲しみを我が悲しみとする。しかも彼は、子供のように屈託なく、ほがらかであり、自由気ままに振る舞っている。「ここはインドではあのませんから、インド式の家ではだめです」「この地方にはこの地方にあった家の建て方をしなければなりません」

 オリーブの実をグラスに浮かべて、人間の生活がとめどなく続き退歩して行くのを感ずる。空を区切るようにあらわれる雲の帯、「俺は絶対絶命だ」だとしたら朔太郎よ、君はもう一歩進まなければならない。身を投げてしまわなければ、変わることのない自分が又苦しみを感じるだけだ。オリーブの葉がくもる空に、ひるがえる時、運命を運命的にひっくり返してしまうのだ。

 限られた思惟、このままなら限られた幸福、そして苦悩。体を動かし少量の脳細胞を働かせて、何かのハプニングを期待し、終に落日はガラス繊維を染め抜いた。神よ、まして笑う事にもあきた顔をして、あなたの事を考えてみても良い。多くの人々があなたの事を考え利用してすがって来たのであるから。そして何よりもあなたを否定することによって、力づけられてきたのだから。手を見せなさい両手を広げて抑圧されている人間の分厚い肉を確かめなさい。だが光は小さな窓から入る時もある、自らについて思考する者は終に何ものも存在しない事を知る。存在するものは、すり抜けて街へ出て行く、ああ曇った高層ガラスの中に、何億の堕落が生き延びる事か。

 岩を攀じ登りつつ、指は鍛えられていく、もちろん顎の力は齧りつく事によって鍛えられ、齧りつくことは最大の努力を要求する。岩は直立しており、精神は垂鉛の絹糸である。典子は舐められたあめ玉の大きさで光り、オリーブの枝葉ゆるやかにさわぎたる。この地に生きてこの時に記す、大いなる自然の流れは私をして神の子の役目を受命させた。その御心はまるで絹ごし豆腐の美しさだ。神の働きはあまりにあでやかで華麗で粋で新鮮で、それでいてあくまで捕えどころなく虚ろでとげとげしく厭味にあふれ、そしてなんとこざっぱりとしている事か。岩を掴む手の大きさが今ここでは問題になっている。故にレモンとスイカの色味形、それらの異点について詳しく述べ立てる準備が必要である。指に力を入れて堅い岩に突き刺すような、そんな芸当が新しい時代には待望されている。人よりも優れた精神力とそれを支える強靭な肉体を持ってこの人類の大問題に決然として臨まなければならない。岩は大地の上に積み上げられ、不動の姿勢を保っているように見えるが、その真実は人間の言葉の一つでもって、海洋へ投げ入れる事もできるのだ。典子の目玉は舐められたあめ玉の丸みで持って光り、ゲッセマネの丘々には幾百の球体が、シャボン玉の千倍の大きさで七色に輝き、回転しつつ漂っていた。

 絶対に否定された行為の絶対に不可能のこの地点で典子は言葉し、奇跡し、法悦を感じさえした。だけれども典子は不安であった。大芝居に千両役者、確かに適役であり時節を得た大興行でもあった。それでもまだ不安が残っていた。
「ゲッセマネ。私を活かす地がどこにあろうか。
 ゲッセマネ。ここで決めるしかない。だが。
 だが、私は—―神よりも自由になりたい」。
彼は祈りつづけている。