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個人的なイランの思い出

1990年代初頭、小学生だった私は母に連れられてイランから送られてきたペルシャ絨毯を受け取るべく成田だか羽田だかの空港にいた。

工事現場の仕事で父に世話になったということで、母国に帰ったイランの人がお礼として絨毯を送ってくれたらしい。しかし、住所や宛名が不完全だったようで、結局、空港に取りに行くことになった。

なんというか、宛名が本来はYamada Taro となるところが、Yamad Taron になっていたり、住所も東京XXX市だけで番地も何も無く、よく連絡がついたな、という感じだった。

背景事情は大人になってから知ったことだったが、当時はイラン・イラク戦争後の影響とその前からイランと日本の間で締結されていたビザ相互免除協定もあって、イランから出稼ぎに来る人が多かった。

法務省のデータによれば、最盛期の1992年(平成4年)にはイランからの不法滞在の数も4万人ほどだったそうだ。
新宿などの繁華街に出掛けた時には、怪しげなテレホンカードを道端で売っている中東系の顔立ちの人がいたことを覚えている。

大工、鳶、基礎工事の仕事現場にも彼らはいた。
今で言うルームシェアのような形で、狭い日本の賃貸アパートで暮らしていた。もしかしたらあれは契約違反のところもあったのかもしれない。差し入れを持って行くと、彼等は和かに出迎えてくれた。

親方が入院した時に、何人かで見舞いに行った。少し人見知りもあって気恥ずかしかった子供の私は、観葉植物の葉っぱを揺らして遊んでいた。彫りの深い顔の1人が、それに気付いて、遠慮がちながらも相手をしてくれた。

当時の彼等は、何歳ぐらいだったのだろう。20〜30代の若い人が多かったと思う。
今はイランで元気にしているんだろうか。
名前も、連絡先も分からない。

ペルシャ絨毯がとても高価なものだと知ったのも大人になってからだった。


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