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母に絶縁される

 こう書くと、私は一体何をしたのだろうと思われるかも知れないが、私は悪くない。「またまた〜。そういう人に限って自覚がないから困るんだよね。お母様、さぞ苦労なさったんでしょうね。」まぁ、気苦労はしたのでしょうね。でも私の知ったこっちゃない。あの人は勝手に他人に心を砕いて困ってる自分が好きなのだから。
 昨今、「毒親」に育てられた被害者達が自らの体験談を発信する機会を多く見かける。読んでみると私の母という人は見事なまでに、その毒親と呼ばれる人達の特徴を網羅している。「あぁ、あの人はただの毒じゃない。蠱毒だ。」と思ったものだ。彼女は、謎理論を展開して私の自由を奪い、気に入らない事があると私の人格を否定して、更には彼女が被害者であるかの様に振る舞い、私を苦しめる。機嫌が悪ければ暴力を振るい、思いついた様に死ぬ練習をさせる。そして気まぐれにドバドバと愛情を注ぎ、私を混乱させる。彼女のお陰で自己肯定感の低くなった私は愛情を注がれると「こんないい目にあって言い訳がない。」と拒絶する傾向にある。拒絶されれば「そうやって、あんたは私のしてきた事を何でも否定する!」と不機嫌になる。こんな母と何とか繋がって居たのは父が居たから。『子は鎹』というけれど、我が家の鎹は父だった。常に反発し合う私達を仲裁し、母のわがままや間違いを許さない私を宥めていた。
 そんな父は2021年の始めに亡くなった。私は父が大好きだった。コロナ禍で海外に住む私には病院を訪れる事も火葬(葬式はしなかった)に立ち会う事もできなかった。それから2年半が過ぎ、ようやく以前と同じ様に海外からの帰国が容易に出来る様になり私が帰るのを待って納骨する事になった。
 父の遺骨をどうするかについても母とは散々揉めた。母は「父の故郷にお墓を建ててあげたい。え?納骨堂?犬猫じゃないんだから、そんなのかわいそうよ。そうだ!お父さんの本家のお墓に入れてもらったら良いじゃない?」などと勝手な事を言っていた。でもそれは全く現実的ではない。父と縁の残っている子供は私だけで、その私は海外に住んでいる。お墓の管理はせいぜい私の代までしか出来ず私の子供達の代で墓じまいをしなくてはならない。本家のお墓は家を継いでない父が入れる訳もなく、分骨をして半分は父の故郷の納骨堂へ、もう半分は私と共にアメリカへというのが最適であると思われた。同じ父を持つ姉、父方の叔父に相談すると、やはりそれが良いという事になり、母に話をすると、「もういい!私が叔父さんと話するから!」と言い出した。結局、本家を継いでない方の叔父が生前にお墓を作り、そこに父を納めてはどうかと申し出てくださった。母のわがままが通ってしまったのは悔しいが、父にとっても喜ばしいであろう提案をありがたく受け入れた。
 2023年6月、3年半ぶりに日本へ帰った。事前に叔父との遺骨の段取りを決め、父の遺骨を伴って父の故郷大分へと母、私、私の子供達2人で向かった。それまで散々父に甘やかされて、目の前で御膳立てされて事をお姫様の様にこなしてきた母は全く何もしないのに口は出す。「亀(父が可愛がっていた)も連れて行こうと思うの。」馬鹿なのかな?荷物を持ち、父の遺骨を運び、さらに亀を2匹?水槽持ってくの?出来る訳がない。事前にペットホテルを予約していた旨を伝えると、「冷たい子だね!亀を得体の知れない場所に預けて何とも思わないの?!」と激怒したけれど、後に私の判断は間違って居なかったと分かるはずだ。
 父の親戚に会うのは初めてあり、かなり緊張していた。父と母は不倫の末に結ばれており、いわゆる略奪婚という形で家庭を壊した末に成り立った関係だった。それを父の家族は良しとせず、母は歓迎されていない事を母の言葉の端々から感じ取っては居た。ただ、それに関しても母の口を通してしか聞いていない為、どこまで正しいかは分からない。有難いことに、副産物である私は疎まれる事なく子供達と共に可愛がっていただいた。私の母との対応の差というのはあまりにもあからさまで、会食の際は私達が上座に座らされたのに対し、母はお手伝いさんの隣という待遇の差だった。正直、嫌悪感を隠そうともしない父の家族の態度を恐れはしたものの、今までの彼女の生き方を見ていると胸がすく思いをしたのも事実だ。納骨は滞りなく終わり、九州に居るついでに母と私の生まれ故郷である長崎へ寄ることにした。ここから元々辛うじて繋がっていた私と母の繋がりは急加速で切れていく。
 北九州に停滞していた梅雨前線の影響で、交通状態は壊滅的だった。大分の日田と長崎の佐世保をつなぐ公共交通機関は全て停止しており、一晩駅前のホテルで泊まる事となった。翌日、相変わらずバスは止まったままで、電車は一部期間のみ再開していた。この日のことは一生忘れないだろう。皆が平等に享受する天気を我が物であるかの様に受け取るのはおこがましいけれど、どうしても父が操作してるとしか思えなかったから。朝から激しく降っていた雨は、私達が昨日納骨したばかりの父のお墓へ着いた途端止んだ。お墓の前で手を合わせると太陽が出てきて丁度お墓の辺りだけを眩しく照らし小雨を降らせた。そしてタクシーに乗り込んだ瞬間に再び大雨となる。駅に着いて、これからどうするかと母に尋ねると、「電車動いてるんだから行けるところまで行けば良いじゃない?!馬鹿なの?」と。余計な一言まで付け加えて言う。私としては中途半端な所まで行くとかえって動きづらくなるのではないかと思った。この辺りから風が吹き始め、私が母にその旨を伝え「いつも好き勝手言ってるけど、あなた何もしてないじゃん?文句があるなら自分でバスの駅、電車の駅に行って私の考えが間違ってるか聞いてきなよ!思い通りにならないからって八つ当たりしないで!天気が悪いのも、電車やバスが止まってるのも私のせいじゃない!」と怒鳴ってる最中は傘なんて役に立たない程の暴風雨で雷と共に私は怒鳴り終えた。父が生きてた頃も父が雷を落として私達の間を仲裁していた。あれは本当に空から見ていた父の心模様を反映させていたのではないかと思う。よし、別の案を考えようと、ダメ元でタクシーの運転手さんに佐世保まで運転してもらえないかと尋ねると、やはり難しい様子。3人に断られ、4人目の運転手さんが「行きましょう!」と受け入れてくださった。すると、雨は止み空が晴れ渡った。
 佐世保までの道中はかなり辛かった。距離があるのはもちろんだが、何とタクシーのGPSというのは最新の交通情報を反映しないものであった。行き先を入力しても規定の道のりしか表示せず、無線で指示を仰ぐも「佐世保まで?ちょっと出来ないね。頑張って行って。」というものであった。そんな中、運転して下さる運転手さんに申し訳なった。幸い、アップルの地図は最新の交通情報を正確に反映していた為、私が道順を教える事となった。肝心な私は物凄く車酔いしやすく、画面を見ながら道順を示すのは容易でない。母は情報を正確に伝える能力が欠如してる為(父の入院先を尋ねたら「タクシーで15分行った所だよ!」という女です。自宅から半径15分以内にどれだけ総合病院があると思ってんだ?)頼りにならず、子供達は日本語が読めない。吐き気を我慢しながら道順を伝える。それと並行して、佐世保での宿泊地を探していた。人生のほとんどを東京で過ごした私に土地勘はなく、出来れば宿泊先までタクシーで行きたかったからだ。母は4人全員で泊まれる事にこだわっていた。しかし、4人以上1部屋となると佐世保から車で20分ほどしか離れた場所しかなかった。母に「◯◯って場所知ってる?」と尋ねると「知ったこつか(知る訳ないでしょ?くらいの強い言い方)!4人で泊まれるならそこに泊まれば良いじゃない!」と言う。でも、土地勘のない場所で近くにレストランやスーパーがあるかも分からず、佐世保駅までの交通手段も分からない場所には泊まりたくなかった。調べ様にも、ただでさえ気持ちが悪いのにそれ以上画面を注視することは出来なかった。母の言う事を無視して取り敢えず佐世保駅前のホテルで3人/1人合計2部屋の予約した。
 約3時間半後に無事に佐世保に到着し、チェックインまで時間があった為、フロントで荷物を預けて駅前を散策する事にした。喉が渇いて居たからスターバックスへ行った。この親子はスターバックスへ行くだけで喧嘩になる程仲が悪い。レジへ行き、全員分注文して、母たちには先に席についてもらい、私は飲み物を受け取って席についた。私と子供達はフラペチーノだったからストローがあって、母は冷たいコーヒーを頼んでストローはついてこなかった。私も母の飲み物の容器がどんなものだったかは覚えていないけれど、アメリカのスターバックスはフラペチーノ以外の容器は基本的にストローがなくても飲める仕様になっているからストローがない事に何の疑問も抱かなかった。これに怒ったのが母。「自分達の分だけストロー持ってきて思いやりがないね!私にストローなしで飲めって言うの?!」と怒鳴る。それが誤解である事、自分もストローが欲しかった事をもっとマシな言い方で伝えれば良かったんじゃないかと言うと母の怒りは加速し、今までの彼女の不満をぶちまけ始めた。埒が開かないと早々にお店を出て商店街に歩き始めれば、「私だけ部屋が違うのも私を仲間はずれにしようって言うんでしょう?ねぇ、この旅のお金私が全部出してるんだよ?こんな事されて言い訳ないよ!」と怒鳴り始める。すぐそこに観光案内所があった為、「そんなに不満なら今すぐそこで聞けば良いよ。この近くでそんな宿があれば今すぐ予約すれば良いじゃない。荷物は預かってもらったけど、まだチェックインしてないから理論上はまだキャンセルできるよ。私は恥ずかしくて出来ないけどね。」と言うと、「もう、あんたとは一緒に居れん。うちはもう明日、名古屋の姉さんの所に行くけん!」と。有難うございます!願ったり叶ったりです。その場でみどりの窓口へ向かい、「福岡から名古屋は新幹線動いてますか?はい、では朝イチで佐世保から名古屋までのチケット1枚お願いします。」と切符を買った。淋しそうに財布を出す母を見て、「大丈夫。ここは私が出してあげるから。」ときっぷ代を払った。
 翌日、間違っても乗り遅れのない様に母を起こし、名古屋に住む伯母たちにお土産を買い、改札の奥へ押し込んだ。この時思った。亀を実家に連れて行ったら会う事はないと。私たちはその後長崎で2泊し、母は名古屋で4泊して東京へ帰ってきた。母の帰宅に合わせて、亀をペットホテルから迎えに行き、実家の最寄駅のタクシー乗り場でタクシーを待っていると何と母が来た。母は、このまま泊まっていけと言うけれど、私には友人達と会う約束があるから泊まれないと伝えた。正直、約束はなくとも、母と一緒に過ごしたい気持ちではなく、それは子供達も同じ様であった。母は私に「もう家には入れんけんね!もう、あんたとは絶縁よ。」と怒鳴り、別れた。
 母にはこの世に迎えてくれた恩はあるものの、正直解放されたという思いしかない。母は自ら絶縁を突きつけ優位に立とうとしているかも知れないが、私にはどうだって良い。これから先、彼女に煩わされる事がないだけで幸せ。未だに過去に彼女にされた仕打ちの数々は私の心に深い傷を残してはいるものの、これで私は自由だと願いたい。本当に自由になるのは母が死んだ時なんだろうなと思いつつ、ピンピンコロリと逝ってくれる事を願う。

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