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ReHacQ『村上隆vs斎藤幸平シリーズ』感想
テレビ局のプロデューサーだった高橋弘樹氏が独立して立ち上げたYouTubeチャンネル「ReHacQ」の中で全4回に渡って配信された村上隆との展覧会巡りと対談のシリーズがめっぽう面白かった。あらゆる物の見方が根本から変わるかもしれないとさえ思った。自分の視野はなんと狭いものだったのか。
そもそも彼がこれまで何をしてきたのか、どのようにして今のポジションを築き上げたのかまったく知らなかった。元々あの萌え絵のトーンが苦手な性分もあって秋葉原のオタクカルチャーとは意識的に距離を取っており、全くアニメに興味を持つことなくこの歳まで生きてきた。完全にノットフォーミー。
しかし今回の動画をすべて見て、一個人が興味を持つかどうかなどと言っている場合ではなく世界は回り続けているのだということが痛いほどわかった。
さらに僕個人の考え方としてアートというものは芸術作品そのものはもちろん、それを巡る様々な議論それ自体もアートであり、突き詰めていけば世の中の森羅万象すべてアートと呼べてしまう、それくらいにアートという言葉は良い意味で卑怯でずるいものとして捉えてきた。
ゆえに途中に出てくる議論でゴッホの「ひまわり」にトマトスープを投げつけるという愚かな行為は一種のアートパフォーマンスとして将来的には置き直されるのではないか、愚かな大衆によって境界線を逸脱する瞬間こそがアートかそうじゃないかの境界線を揺るがすのではないか、と斎藤氏が質問をしたくだりは印象的だった。
僕の感覚もまさにそこに同意する部分があり(それに続いて村上氏のスーパーフラットでやってきたこともある種同じようなものではないか、とまで言ったのはさすがに失礼すぎると思ったが)、行為自体の是か否かに関わらずやがてすべてがアートの文脈に取り込まれて、この論争自体がまるごとアートになり得るという認識をしていたので、村上氏がそれは違う、芸術ではないと言い切ったのは非常に意外だった。彼らアクティビストはアートの文脈でアクションをしていないからだと。それは政治的なメッセージであって芸術のアクションではないと。
(本動画29:39〜あたりの部分)
もしその場にいたらそこでさらに聞いてみたかったのは、ではバンクシーのシュレッダーはどのように位置付ければ良いか?ということだ。あの行為もトマトスープと同じように作品を汚し傷つけた。しかしバンクシー本人の意に反して再度アートの文脈に乗せられ、その後のオークションで価格は爆発的に高騰した。
もちろんテロ的に行われた行為と作者本人が仕掛けた行為を一緒にするのは違う。ただしそれは”今は”違うだけのことだ。例えば後年になってオークションにトマトスープをかけられた「あの」ひまわりが出てきたら、これは芸術ではないと大衆はスポイルできるだろうか?それなりの物議を連れながら法外な値段で競り落とす誰かがきっといるのではないだろうか?
ここで村上隆イズノットフォーミーとさらに突き飛ばすことが出来たらカッコいいのかもしれないが私は残念ながらそれもできない半端者である。何より彼が持つ謙虚と不遜のバランス感覚がとても心地良く、大好きになってしまった。次に展覧会があったらぜひ行ってみたいのだが日本ではもうやらないと決めたそうで、そうさせたのは私のこれまでの無関心さも一役買ってしまっているのである。ああ人間とは何と度し難いものよ。
※ただの妄想。この動画で村上隆のことを初めてちゃんと知って好きになったという層と、先の都知事選で石丸氏の躍進に驚いた層は似通っているのではないかなー(私もそうであるように)とかおもったり。