映画&舞台『漆黒天』レポというより勝手な考察まとめ
⚠️くっそ長い
⚠️読みずらい
⚠️舞台観劇後勢いで纏めたものを少しずつ直した文章になっています。今見たらまた違う感想が出る気がする…。
⚠️元々考察できない人間によるハチャメチャ考察。気をつけろ!!!!
◇◇◇
感想
舞台のストーリーについて。宇内陽之助と旭太郎の成り立ちや生き方を交互に描いていてそのストーリーが交わる瞬間と、映画で観ていたシーンが舞台で再現されるのが最高に面白い。面白い以外の言葉でなんて表現したら良いのか。メイキングで「映画を観た後に舞台を、舞台を観た後に映画を観たくなるような〜」という説明がされてたけどまさにそう。噛めば噛むほど見れば見るほど、こんがらがって拗らせる。
後はやっぱり荒木宏文の演じ分けが凄い。スイッチの入りどころがちゃんと分かる。それがもう最高に楽しい。荒木さんの仮面をつけた姿を見て「これは荒木さんか?影武者か?」と思うことはあっても、荒木さんの影武者を見て「荒木さんだ」と思うことがなかった。これが凄い。荒木さんはちゃんと「どちらにも見えるように」している。あと早着替えが凄すぎてもはや世紀末の魔術師(?)実際に「このスパンでは早着替えじゃないだろ〜これは影武者の方だな!」と思って見てたら仮面をとって荒木さんのお顔が出てきた時本当に混乱した。
(荒木さんの影武者の顔がどうしても見たくてその時は必死に双眼鏡を構えたが、見えなかった。すごい。)
凄い良かったなあ。
荒木さんだからこそ、荒木さんにやらせたい役と脚本というか。末満さん、制作側の荒木さんへの信頼と愛が伝わってくるそんな作品だった。(個人的に。)
荒木宏文ファンによる荒木宏文を存分に活かした荒木宏文ファンの為の作品だった…。でも、荒木さんを知らない人が観ても作品として凄く面白いと思うんだよな。本当に漆黒天、良い薬です…。
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考察
舞台を観劇した結果、私の中で"映画で観ていた名無しは宇内陽之助だった"と思った。
映画だけを観ていた時点では「名無しは旭太郎が自分を宇内陽之助だと思い込んでいる姿」と確信していたのに、舞台を見たら全く逆で「宇内陽之助が自分を旭太郎だと思い込んでいる」と感じた。
最後に旭太郎の姿をした(多分)宇内陽之助が登場したが、あれはやはり「宇内陽之助を完璧に演じている旭太郎」なんだと思った。宇内陽之助として生きてきた方は旭太郎と出会い、旭太郎の視覚や感覚、記憶を共有したことで自分が「本当に宇内陽之助なのか分からない」状態になっており伽羅に「やっぱりあんたは旭太郎だ」と言われ、宇内陽之助の純真さ故に「自分は旭太郎なのかもしれない」と思い込んでしまう(ように見える)。私は富士や子供を殺したのは旭太郎だと感じたが、宇内陽之助は愛する家族を殺した記憶も、自分がやるはずがないのにやった景色が見えたから自分が殺してしまったのだと感じたのかもしれない。
一方、旭太郎は確実に「宇内陽之助になりたい」という意志があったように感じた。なので最後に登場した「旭太郎の姿をした宇内陽之助」は本当に旭太郎だったはずだ。それは「自分が宇内陽之助だ」と思い、宇内陽之助に「なってしまった」旭太郎なのだと思う。宇内陽之助は「旭太郎になってしまった」。あの物語の最後は、旭太郎が2人居るように感じる。宇内陽之助は旭太郎に飲み込まれてしまって、最後は旭太郎だけになってしまったような…。でも旭太郎は完璧な宇内陽之助に成り代わった、いや、最早「成ってしまった」ので、やっぱり宇内陽之助も旭太郎もそこに居るんだけど。
つまりそうなると、映画で見ていた「宇内陽之助だと思っていたもの」は「旭太郎が完全に宇内陽之助になった」姿ということ…。私は映画を見た時点で宇内陽之助が好きで、好きだと思っていたのに、実は旭太郎だったかもしれないのが衝撃でならない。確かに声のトーンの怪しさは悪役のソレであったが、宇内陽之助という人物を知らねばこそ落ち着いた武士にしか見えなかった。今考えるとあの怪しさも意図的に怪しく見えるように荒木さんが生み出してると思うとマジで意味わからん好き。
舞台で宇内陽之助という人物が掘り下げられたからこそ「宇内陽之助は自分を旭太郎だと思い込んでしまった」という結論を見い出せたんだよな。
舞台の最後の最後、全員が「本物」を見分けられたかどうか…。二郎太は最初旭太郎だ、と言った後に陽之助だと言った。私的には最後にでてきた旭太郎の格好をした人物は本当に旭太郎だと思っているので、二郎太はハズレ。ただ言えるのは、「目の前に居ない方が旭太郎になっていた」ならばハズレではない、というか。その場合は目の前にいた彼は確かに宇内陽之助だったから。二郎太が剣の教えを乞うた人物か、と聞かれればハズレなんだと思う。
蔵近に関しては、本当は「幼馴染の宇内陽之助」ではないと気づいていながらも、「宇内陽之助」らしさとしては正解だったから、宇内陽之助だと言ったのかなと思った。これは完全に梅津さんの芝居頼りの考察で、宇内陽之助に心酔しきっている彼的には「これが本物の宇内陽之助」と思ったんだと思う。
一方、死に際の伽羅に抱き着かれ「やっぱりよく見たら旭太郎じゃねぇか」と言われた彼は、宇内陽之助として生きてきた彼だったと感じる。自分と同じ顔に対面し、戦っていく中で、「自分が誰か分からない」となってしまったのは確実に宇内陽之助だけだった。だからこその「え…?」という戸惑いの声。きっと彼は宇内陽之助として生きてきて、宇内陽之助で生きていたはずなのに、迷いが生じている瞬間第三者に旭太郎だと言われて、混乱や動揺が見えたというか…。舞台をみていた中で感じたのは「旭太郎は自分の意志を持って宇内陽之助になりたがっていた」という所。だから、宇内陽之助はそういう面を考えると、旭太郎より意志がなく旭太郎になってしまってもおかしくない気がして…。というか、旭太郎が「宇内陽之助になってしまった」から、宇内陽之助は旭太郎になるしかなかったんじゃないかと思う。
意志の強さや戸惑いは宇内陽之助にしか見えなかったことから、私は映画の名無しを宇内陽之助とした。
多分この考察が1番王道パターンだと思う。(根拠は特にない。)ただこれも、私たちが舞台で観ていた宇内陽之助がいつの間にか旭太郎が成っていたものだとしたら、もう全部が逆になってめちゃくちゃ旭太郎が辛い展開という感じになるしそれはそれでアリだしめちゃくちゃしんどくて無理(語彙力低下)
ここで映画の展開について考えてみる。最後に生き残ったのはどちらか?という点。
だからつまり、私は「名無しが宇内陽之助である」と舞台を見て感じたわけなので生き残ったのも「自分を旭太郎だと思い込んでいる宇内陽之助」かと思う。物理的に、見ていると「押されているのは宇内陽之助として登場した方」というふうに感じていたから。
でも私の考えてる理屈だと「旭太郎は自分が旭太郎だと分かっていながら、宇内陽之助になった」というところではある。だから宇内陽之助がいくら自分を旭太郎と思い込んでいようが、純粋な宇内陽之助と純粋な旭太郎の強さを較べた時やっぱり純粋な旭太郎の方が強そう。でも話の流れ的には途中で入れ替わりさえなければ生き残ったのは「(自分を旭太郎だと思っている旭太郎になってしまった)宇内陽之助」。
しかし多分これをどれだけ考えても最後に笑ったのはどちらにせよ「旭太郎」と思う。演出的にもというか、ね。太陽のもとで初めて笑うという演出がね。
しかし宇内陽之助が旭太郎になってしまった姿か、旭太郎が旭太郎としての本性を現した姿かそこだけはいくら考えても分からない。
自分の映画の考察を見返したら、よく考えたら名無しは「自分は宇内陽之助だ」と言っていた。もし名無しが私の考えた通り純粋な宇内陽之助だった場合、本当に宇内陽之助には悲劇でしかない。旭太郎と交わることがなければずっと幸せに生きていていただろう彼は、今まで一緒に笑っていた仲間達に追われ殺されようとしていて…誰にも信じて貰えなかった。名無しは、自分が旭太郎であるとは言わなかったが、玄馬先生に「お前は旭太郎だ」と言われ「そうかもしれないな。でも分からないんだ。」って言ってた。これが本当に今思い出すとめちゃくちゃ舞台の宇内陽之助っぽい。映画見た時はこの時に「いやお前絶対旭太郎じゃん!」ってここで確信したのに。映画を初めて観た時は最初、名無しが宇内陽之助だと本当に思ってたから、ここで旭太郎じゃんってなったのに。舞台を観たあとにこのシーンを見たら「宇内陽之助っぽい…」ってなるのやば過ぎない?
では力の強さは?
産まれてから生き方が全て違った二人。
映画の「名無し」の強さは明らかにおかしい。
普通の人間じゃない。
そしたら結局名無しは旭太郎っぽくないか?と思う。映画を観た時もこの点で名無しを旭太郎と思ってた。
舞台で宇内陽之助が普通の人間より遥かに強いという描写があれば名無しが宇内陽之助でも納得いくっていうか逆に言うとここだけが引っかかるんだよな…。
まあでも旭太郎もめちゃくちゃ強かったみたいな感じでは無いし、名無しになった時点で獣的なところが開眼したのかなどちらにせよ…。
旭太郎は宇内陽之助になった時点で宇内陽之助らしい強さになってしまったんだろうか?宇内陽之助は本物の旭太郎になってしまったんだろうか。
一体荒木さんは、末満さんは、何を思って舞台の旭太郎と宇内陽之助を造り上げたのか…
ほんとに根掘り葉掘り聞きたい😭😭😭
しかしどんな真実であろうと、しんどいのは事実なのでした………。
〜完〜