ばらがき ( 余 )
近藤に風呂場をかりて血と汗をおとし、土方の着古しを借りて家にたどり着くころには、すでに高くなった陽光にこうこうと庭が照らしていた。
「……さて……」
――一応、源三郎さんに、家のものにうまく言い繕ってくれ、とたのんでおいたが。
忍び足で、うら口にまわる。
――母に騒がれでもしたら、かなわない。
先程の襲撃よりも、よほど慎重にことを進めていく自分に、はじめは苦笑いする。まるで、いたずらが発覚せぬよう、抜き足差し足で忍ぶ悪童ではないか。
なにも悪さはしていない、むしろ、はじめとしては、己の命と魂の高ぶりを知った初めての夜である。誇りたいくらいである。
とはいうものの、一から十まで説明するのは面倒は、できるなら御免こうむりたい。しかし静かにしようとすればするほど、ものに身体があたったりすれたりして、音が出る。
――なさけない。
今ごろになって、落ち着きがなくなってきているのか、と舌打ちしたくなるのをこらえながら、部屋に向かう。
そのときだ。
「はじめ」
不意に、声をかけられた。
「帰ったのか」
「……」
声の主は、兄の廣明だった。
聞こえぬふりで、何食わぬ顔をよそおい、頭を下げて素通りしようとする。が、こちらに来い、と廣明は手招きした。
――見逃してはくれんか。
仕方なく、兄の部屋に入る。
「座れ」
「……はい」
座布団を薦められる。姉の結婚が決まってから、新調したばかりのものだ。とまどいながらも、その上に座る。
「試衛館の方がくれたつかいの話しでは、はじめてお前を交えて無礼講でたのしむため帰りはおそくなる、とのことだったそうだな」
「……」
「うむ、つきものが落ちた、良い顔をしている。たのしんできたようだな」
「……は?」
――まて、兄上、なにか激しく勘違いをしていないか?
弟の顔つき顔いろがかわらないのを逆に見すかされたととったのか、廣明はしたり顔で、やれやれ、と頭を左右にふる。
話しながら廣明は、起き出してきた下働きのむすめに、茶の用意をするように手で命じる。そして、ふむ、と鼻息を吐き、腕を組んだ。
「だが、いかにもこれは遅くなりすぎであろう、先方にも失礼ではないか」
「……」
「姉上の輿入れも近い。何がどのようなうわさ話の火種になるか分からぬ」
「……」
「しばらくは自重するように。剣の鍛錬のみ、励め。よいな」
「……はい」
兄の言葉は当然といえば至極当然ではあるのだが、こうくどくどねちねいと言われては、なにかが胸に、むっ、とくる。
――俺は戦ったのだ。
武士として、男として、己の腕を信じて、生まれて、はじめて、と声を大にして叫び出したい。
膝の上においた握りこぶしに、ぐっ、と力をこめ、今にも飛び出しそうなむかつきをおさえつつ、はじめは立ち上がる。
「ああ、そうだ」
そこへ、また、廣明が声をかけてきた。
これまでのしかめっ面から一転、ふっ、と優しい笑みを浮かべられ、はじめはとまどう。
「肝心の話しがまだだった」
「……」
「座りなさい」
微妙な顔つきのはじめをまた手招きし、廣明は文机のほうに身体をよせ、肩ひじをつく。
「姉上のことだが」
「……」
「姉上は、身ごもってはおらぬよ」
「――……は、いっ?」
思わず、はじめは身を乗りだしていた。手を使い、ずり、と座布団ごと廣明にすり寄る。
「どういう、意味なのです、それは」
「はなから演技だった、と言っておるのだよ」
「演技、とは?」
「言葉そのままさ」
「きちんと、順序立てて、詳しく話してください」
「もちろん」
言っている意味がつかめず、わけも分からず、頭の中でぐるぐると渦が巻いている状態のはじめをよそに、廣明は、笑っている。
身体が弱かったおかつは、小石川の水戸藩に務める藩医に通いだしたのは、はじめがつかんだ通りだった。父の祐介のつてであったらしい。
「どうも、父上の裏の仕事のお仲間のひとりであったようなのだが、通ううち、姉上はこのお医者と相愛になってしまわれてね」
「……」
両親に結婚を認めてもらおうとした矢先、祖父の傳右衛門から結婚話がもたらされた。性急で有無を言わせぬ強引さと、そしてなにより独善的な傳右衛門に、気弱なおかつはわりない仲となった男のことを話し出せないでいた。
「そこでね、わたしが相談をうけた、というか、と姉上におどされたわけさ」
「脅された? 身ごもった、という嘘に協力しろ、と?」
「平たく言えばそうなる」
――角をたてて言っても、丸くなるように言っても、皺がよるように言っても、そうにしかならんだろうが。
呆れるはじめをよそに、廣明は頬杖をつく。
その余裕ぶりがいささか、かちん、とくるが、こらえて先を促す。
「子どもができた、という話しが祖父に伝われば、自ら結婚話をこわしてくれる、とふんだのだろうさね」
だが、さすがに母は母親だった。
おかつに告白された瞬間、娘はまだ清純無垢な身体だと即座に見抜き、こちらの作戦も悟ったのだ。
「さすが、母は強し、だったよ。いや、母上が強し、と言うべきかな」
おかつに、そうまで言わせた相手はだれか、と廣明は首根っこを押さえつけて詰問されたのだという。
「仕方ないから、あらいざらい話したが、いやはや、母上があんなそら恐ろしい顔つきをなされるとはね。まずは何ごとも、母上を味方につけねばならなかった、と反省したよ」
「……」
「存外、父上が母上を大切にするのは、そういうことなのかもしれないぞ、はじめ」
どういうことだ、それは、と怒鳴りたいのを必死で堪える。どうにも、兄の前では、調子を狂わされっぱなしである。
「それで」
「――ン?」
「なぜ、いまさら、わたしに話そうと思われたのですか、兄上」
「そりゃおまえが、強くなったからだよ」
したり顔で、廣明はうでをくむ。
「はじめ」
「……」
「試衛館とやらにかよいだしてから、強くなったのはつまようじがお似合いのわたしですら、わかるからね。あとから事実をしって、怒ったおまえに前から後ろから横からななめから、こう、ざばー! と斬られでもしたら、かなわないからなあ」
「……」
――なんだ、それは。
くわばら、くわばら、と廣明はおどけている。はじめは、もはや怒鳴り声をあげる気も失せており、脱力感のまま、その場に突っ伏して、唸りながら転がりたかった。
「ま、そこから先は、はじめ、お前も知っての通りの展開《はなし》になる」
「……そうですか」
しかしそこで解せないのは、なぜ、母は自分に打ち明けてくれなかったのだろう、ということだった。
黙りこむはじめを前に、廣明はすまなさそうに頭をかいた。
「それは、わたしの責任でもあるんだ、はじめ」
「……」
「おまえも、父上の仕事のことを察しているだろうが」
「……」
「わたしは、お祖父様にとっても、父上にとっても、どうにも、期待はずれの不肖の子だ」
「……」
確かにそうだった。
自分とちがい、廣明は剣の才能がからっきしの男だった。
かわって、めっぽう数字に強いのであるだが、この才能は、父も祖父も落胆失望させるものだった。母は母なりに、愛する父の仕事を長男である廣明が継ぐだけの能力がないのを気に病んでいたのだろう。そこへ、この話しに憤慨した自分が、突然に、怒濤の動きを見せだした。
「母上はおどろきはしたが、同時におまえに期待したんだよ。姉上を思って、おまえがどう動くか。父上の跡目を継ぐだけの、ものになるうつわであるかどうか、見定めようとしたんだよ」
「……」
「親心なのさ、分かって差し上げよ」
とりなすように言いつのっても無言をつらぬく弟が、さすがに気なったか、廣明はかぶせて言った。
「期待したんだよ、母上は、おまえに」
「えらく迷惑な話しです」
おもわず、本音がぽろりと口からついて出た。
――あの、透明な笑みと、背中を後押しする声音が、演技だった、だと?
むすっ、とした声音とはうらはらに、なぜだか、頬がゆるむ。
こうまで見事にだまされると、いっそ清々しい。
廣明は、弟の様子に安心したのか、表情を和らげた。そしてどちらからともなく、肩を揺らして笑いあう。そうこうしているうちに、茶の用意ができたむねが障子戸のむこうから告げられた。
「どうだ? せっかくだから、飲んでゆかぬか?」
「いえ、ひと眠りしたいので、遠慮いたします」
茶を飲むと寝付きが悪くなる。それでなくとも、まだ、興奮は腹の奥底に熾火のごとくにある。
「……そうか」
残念そうにはしたが、立ち上がった弟を、廣明はそれ以上ひきとめなかった。はじめと入れ替わりに、盆をもった小間使いのむすめが廣明の部屋にはいる。
手際よく用意をしはじめた娘のうなじを、じっと見つめる兄を肩越しにみていたはじめだったが、茶の芳香がゆげとともにのぼりはじめると、静かに戸を閉め、そっとつぶやいた。
「……兄上。女は化ける、ではなく、女は化かす、が正しいですよ」
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