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ばらがき 3
参
「リャ、リャ、リャァッ!」
気合いの声が道場に走る。道場の看板には、試衛館、とある。
――どうしてこうなった。
自分自身を呆れつつ、はじめ少年は道場で木刀を振るっている。直径二寸はある木刀は、ぼんくらの腰にぶら下がっているなまくら刀など足元に及ばぬ重さと、殺傷能力がある。
この道場に通いだしてすぐの頃、はじめ少年は持ち上げるのにも精一杯だった。直径二寸といえば子供の手首ほどもあるのだし、これまで竹刀しか手にしたことがないのだがら、当然だった。
が、どんな才能が人には潜んでいるのか分からないものだ。
通いだしの数日間こそ、腕のいたみでのたうち回り眠れないほどだったが、はじめ少年は十日もせぬうちに、この、どこの体力馬鹿が考案したと呆れかえる木刀を、己が腕の延長のように扱えるようになっていた。
――渡されたばかりのころは、重さですぐにへばったが。
まじまじと、木刀をつかんでいる腕を眺める。
今ではどうだ。
細身の己が、かるがるとふりまわし、あまつさえ、一端の動きを見せる域にまで来た。
木刀は腕だけであつかうのでない、と悟るのが早かったのもあるが、あっという間に、隼の羽ばたきに似た風切り音を周囲に響かせるにまで上達し得たのは、道場の水が合ったからに相違ない。
――かつて通っていた一刀流の道場では上手くはなったが、こうした成果は得られなかったが。
おかしなものだ、とはじめ少年は首をひねる。
――よほど試衛館の、天然理心流の教えが、おれになじむのか。
そうとしか思えないのだが、それはそれで、なんとなく納得しかねるというか、いやぁな気分になる。
――つまり、おれも馬鹿ということになる。
「……」
道場では、そこかしこで汗臭い身体をぶつけ合う、というよりも木刀を使ったどつきあいに近い手合わせが行われている。血しぶきのように汗が舞い、気合いとともに仕切り戸まで人体が吹っ飛ぶ。
しかも、そこで勝敗は決まらない。木刀を落としても人が転げ回っても、脛に蹴りだの鳩尾に拳だの顎先に掌底だのをくり出す。
ようは、相手に死が垣間見える状態、つまり悶絶、気絶、卒倒、失神、ともかく人事不省に陥るまで勝負はつづくのだ。
――そんな道場に、おれもよく、一ヶ月以上かよっている。
はじめ少年は頭を掻く。
――ある意味、おれも好き者か。
馬鹿と好き者、どちらがどれだけまともであるか、と洒落臭いことをつらつら考えつつ、はじめ少年は、『その男』をぎょろりとした目だけで探した。
――いた。
『その男』は、今日も来ていた。相変わらず、無駄に、むん、とした色気を方々に放っている。男臭いというよりは、悪臭いにおいが籠もる道場の中で、『その男』が居る場所だけが、一種異様な、香気のようなものを振りまいているのだ。
はじめ少年が姉の相手と目星をつけた『その男』の名前は、『土方歳三』という。
背は高くもなく低くもない。
筋肉の付き具合も、まあ普通だ。
だが、ともかく離れて盗み見ている分にも、土方という男の色男ぶりというのは感じ取れた。なんでもない、どうということのないことをしていても、女どもが目の色を変えてはしゃぎ立てる、という意味の、では収まりきらない。
そんな表面的な色ではない。
初めて、土方と遠目に目を合わせてしまった瞬間のことを、はじめ少年は今でも生々しく思いだせる。
――真っ赤な、酸漿のような目をしていた。
どうしてそう思ったのか、わからない。
だが、獲物と定められた運命に啜り泣く哀れな魂は、はじめ少年がかんじた『酸漿の目』に、喰いものされる歓喜に、我と我が身をさしだすのだろう、と予想がつく。
――初心な、姉上のような女が、あらがえるような相手ではない。
たちまち、上から下まで丸飲みにされているおかつの姿が瞼の裏にありありと浮かんでしまい、はじめ少年はため息をついた。
ともかく、試衛館と『土方歳三』にたどり着いたはじめ少年は、まずはもっと人物観察を重ねることだと、暇さえあれば周辺をうろつきまわっていた。
できれば姉だけでなく、『手を出されたことがある被害者』の情報をより多くつかみ取り、言い逃れができぬようにしたい、とはじめ少年は思っていた。
――逃しはしないぞ、土方歳三。
手の甲で、ぐい、と鼻の下に粒状に溜まった汗をぬぐい取る。
その、土方歳三がかよう道場に、はじめ少年が、なぜ、通っているのか。
ときは少々さかのぼり、必死になって探りをいれていたころのことだった。
「ほぼ毎日、土方歳三は試衛館に出入りし、木刀を振るっている」
ふむ、とはじめ少年は腕組みをしてうなった。
「そして時々、姿を見せなくなる」
これまでの慣習だと、短くて三日、長くて七日、といったところか。まとまって姿を消すときは、薬の行商に出るときだ、とわかった。
「なるほど。その間に、地元以外の女にも手を出すわけか」
勝手に納得しつつ、さらに観察を続けていた、ある日のことだ。ふらり、と土方歳三は姿を消した。
「土方歳三、今日は道場に居るか」
へたに家にいて、祖父の斉藤傳右衛門にとっつかまり、酒の相手にさせられるのと、居ても立ってもいられないのとで、はじめ少年は早々に家を出た。巨木が落とす影で蝶が涼を取っている横を、足早に抜けていく。
「今日で四日、か。早ければ今日あたり姿を見せるはずだ」
試衛館に向かって歩く。すると、背後から声をかけられた。
「よう、ぼうず」
全く気配を感じなかったため、飛び上がりそうになるが、ぐぅ、と腹に力をいれてこらえる。なんでもない素振りでふり返ったはじめ少年は、己の馬鹿さかげんに呆れはてる。
眼の前には、くだんの『その男』――
土方歳三、その人が道具一式を担いで立っているではないか。
「お前、ここんところ、試衛館の周辺をうろついては覗き見していやがる、ぼうずだろう」
――気がつかれていた。
背中にどっと汗をかく。
いや、初日に、土方と目がしっかり合った。そのときに、自分を忘れさせてやるものか、と思ったではないか。
――いや、それとこれとは話しがちがう。
いやちがう、そうではない。
そんなことをどうこうと気にしている場合ではない。
そもそも、試衛館の門前とかならともかく、こうも離れた場所で声をかけられるとは思ってもみなかった。
――いや、不意打ちならそれも当然か。
ちがう、問題はそこじゃない。
おれは馬鹿か、どうした、しっかりしろ。
狼狽する自分がまた情けない。自分自身に叱咤激励をしてみても、まるで意味をなさない。
そうしている間にも土方は前かがみぎみに、顔を覗き込んでくる。
「おう、どうしたい、ぼうず、なんとか言えや」
――面体も完全に割れてしまった。
どうする。
どうしたら。
どうしてやろう。
どう言い逃れるか。
顔色に出さぬように、自問する。
ふと、土方の肩越しの道の向こうに見知った人影を発見したはじめ少年は最初、目を疑い、続いて、げんなりした。
――なんだって、こんなところに居る。
なんと、姉のおかつである。
――次から次へと。
あまりの間の悪さに、自分で自分を張り倒したくなった。
――せめて、こちらに気づいてくれるな。
と願うのと同時に、姉はこちらをみとめ、にっこりと微笑みながら手を振った。
「あら、はじめさん。どうなさったの」
――来てくれるな。
と叫びたくても叫べないはじめ少年のもとに、おかつはうれしそうに小走りに駆け寄ってくる。
「このような所で会うなんて、本当に奇遇ね」
――今日のおれは、天中殺か。
はじめ少年はうまれてはじめて、神仏を呪った。