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ばらがき 結

「行って参ります」
 静かに、はじめは歩き始めた。
 あれから、すでに数日が経っている。もう、試衛館にかよう理由はなくなったのだが、今日もいつもの時間に家を出ている。
 行きたいから、行く。
 そういう構えであるはじめに対して、父親と母は、何も言わない。
 兄も、何も言わない。
 ――試衛館あそここそが、もう、おれの居場所なのだ。
 口にこそ出さずにいるが、はじめの中で育ちはじめている大きななにか・・・を、両親も兄も、苦笑しながら見守っているようである。
 そしてそんな親きょうだいの態度に、はじめは生まれて初めて甘えていた。
 甘えるとは、なんと心地よいのだろか。
 両親と兄は、まるで、腹いっぱいに草を喰らった芋虫が、薄茶色の鎧兜のような姿で眠る際に、寄りかかる木の枝のようである。そして、一本の糸のみでつながっておりながら、己の命の全てを飲み込む度量があると信じて疑わずに枝にぶら下がっている蛹が己ということになる。
「おれは、蛹なのだ」
 歩きながら、行く手にある大きな影にはじめは気がついた。
 真っ直ぐに、空を見上げる。
 こんもりとした形をした枝に、くろぐろとした草むらのような葉を茂らせている、家の直ぐ側にある例の木だ。
 ――クスノキ。
 界隈では有名な巨木だ。
 今度は、視線を落とす。
 まるで、強い雨だれに濡れたような影が、地面にある。
 そこに、ひらひらとなにかが落ちてきた。
 ――蝶。
 黒い翅に、まるで玉虫のようなきらびやかな青い筋のある蝶が、地面に舞い降りたのだ。
 蝶は影に吸いこまれるようにして、じっとしている。
 翅を開いたり、閉じたり、をくり返す。
 そのうちに、一枚、また一枚、つられて舞い散る木の葉のように蝶が地面に降りてきた。
 ――水を求めてきたのか。
 ひらり、ひらり、ゆらり、ゆらり。
 翅が開き閉じし、地面に蝶の花が咲く。
 あるはずもない、花粉と蜜のにおいがしてきそうな華やかさだ。
 ――おかしなやつだ。
 クスノキは、特異な臭気をはなつ木だ。
 だから、虫を寄せつけない。
 なのに、この美しい紺碧の空のような翅斑をもつ蝶だけは、黒い枝葉にまとわりき卵を産みつけていく。
 人が顔をそむける香りの中で、この、神々しい肢体の蝶は、まるで惹かれあうものどうしのように、一体となった世界を構築している。
 ――ふしぎな蝶だ。
 その中に、翅斑をなくした蝶を見つけた。
 真っ黒い翅のみのその蝶は、最初、仲間の蝶に嫌厭されていた。
 蝶じしんも遠慮を覚えているのか、遠巻きに飛んでいる。
 だがやがて、ひとつの翅が黒い翅に近づいた。
 すると、それを切掛として、一枚、二枚、と玉虫色の筋が黒い翅の周囲をめぐるようになった。
 やがて、見分けがつかぬ密度で蝶は舞いはじめる。
 ――……この黒い翅の蝶は、おれだ。
 蝶は自分の行手を予見しているかのように思えた。
 のび・・をしながら蝶の演舞をみていると、懐の中にいれている札が、こつ、と腹にあたった。
 ――まるで、急かしているようだな。
 ごそごそと探り、手のひらに乗せてみる。
 近藤が、自ら手渡してくれた木札だ。
「いや、なにな。忘れていたわけではないんだぞ?」
「……」
「俺たちの道場はよ、どうしてだか、そうそう簡単に居着かなくてな。あまり用意もしておらんのあったしなあ」
「……」
「そうは言うものの、本当なら、もっと早くわたしてやるべきだったのだがなあ。いや、すまん、すまん、悪かったな、わはははは」
「……」
「その木札に、名前を書いて来るといい」
「……」
 きまり悪そうに、しかし豪快に、近藤は笑って見せた。
 どうにも、その破顔した顔が、岩石にひょっとこの顔を描いたように見えてしかたがない。吹き出しそうになるのを必死でこらえているというのに、その背後では、新八、左之助、平助、源三郎、山南、そして土方と――なんと、総司まで笑いころげていた。
 ――まったく、遠慮もなにもない奴らだ。
 木札を、ぎゅ、と握りしめ、走り出す。
 だが、おれも、同じ穴の狢だ。
「……いや」
 脳裏に、翅斑をなくした、あの黒翅蝶がうかぶ。
「おれは、蝶となる」

 道場に駆け込むと、すでに近藤と源三郎、総司、新八、左之助が汗をかいていた。
 手合わせていた近藤と源三郎が、笑いかけてくる。
「おう、来たか」
「……はい」
「いつも同じ時間ですな」
「……はい」
 新八が、破顔しながら手招きし、左之助少年が、にやにやしながら続けて声をかけてくる。
「よぉ! はやくこっちに来いよ、いっちょ、仕合しよやろうぜ!」
「……ああ」
新八しんぱっつぁんの次は、おれだぜ!」
「……ああ」
 ちら、と総司がこちらを見た。が、また何食わぬ顔で木刀をふりはじめる。
 あの後・・・の御前試合では、圧倒的な強さで相手を叩き伏せてゆき、眼前敵なし無敗無敵で終えた、という話しだった。
 お殿さまは最年少剣士の腕前を褒め称え、小柄な彼の活躍を大層気に入られて、破格の褒美をとらせようとしたのであるが、総司はこれを丁重に辞退し、そうそうに御前からさがったという。
 もっともこれは、御前試合の最中に、総司の家はくだんの破落戸どものお礼参り・・・・にあっており、ひとり残っていた林太郎が、ぼこぼこにやられて、総司に助けを求めている、という報せが入ったからなのだが。
 ――……未だに、足腰たたずに寝込んでいるらしいが。
 どんな顔で、看病をうけているのか。どうせ、鼻の下を伸ばしまくった甘ったれた顔なのだろうな、と毒づきたくなる自分の腹の底の動きに戸惑いつつ、はじめ少年は、手にした木札を所定の場所に引っかけた。
 からん、とかわいた音が、道場にうすく響く。
 つ、と横から手が伸び、山南敬助、藤堂平助の木札が、表にかけかえられた。
「原田くんのあとは、ぜひ、わたしと仕合いやりましょう」
「……はい」
「ぼくともですよ」
「……ああ」
 かた、こと、とまだゆらいでいる木札を見た土方が、戸口にもたれかかりながら、にやりとする。
「字の面構えにまで、性格がにじんでいる・・・・・・じゃぁねえか――なぁ?」

 その後。
 試衛館の面々が時代の波濤に合流するまでに、暫し時がかかる。
 それまで、道場の一角にかけられることになるこの木札には、がちがちに硬い、くそ丁寧な字で、こう、記してあった。

 斎藤一


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