
ばらがき 7
漆
目玉をぎろぎろさせながら、はじめ少年は道場を闊歩する。
木刀が腕になじめばなじむほど、天然理心流をおさめるのがおもしろくてならなくなっている。自分がめきめき上達し、つまり、強くなっているのを自覚できるのは、至極楽しい。
だが反対に、相手がどんどん限られていく。
たいていの者は、土方のクソ下手くそな字で『さいとう』と書かれた木札をひっくり返す音が道場にひびくやいなや、そそくさと姿を消していく。
つまり、相手になるような腕のものが極端にへってしまった。
――……ん?
はじめ少年は大きな目をするどく細めた。
――様子がおかしい……?
試衛館内で、何やら不穏な空気がながれている。
とくに、ろくでもない大人組ととんでもない少年組の顔色が悪い。滴る汗のすだれの隙間から、どうしたのだろうか、と目を瞬かせていると、おい、と近藤から呼びつけられた。
「……」
無言で寄ると、近藤は人さし指をカギ状にまげ、ひょいひょい、とさらに近寄るようにまねく。耳を傾けるようにちかづくと、これでも本人的には内緒事を話しているつもりなのだろうが、かなりの音量の声でたずねられた。
「これからちょっとばかり、ひまはあるか?」
「……」
無言のまま首をひねるはじめ少年に、左之助少年と新八が二人そろって顔をしかめる。こいつも連れて行くのか、と露骨に嫌な顔をしてみせる二人に、信用がないな、とはじめ少年は苦笑した。
……つもりだったのだが、どうも、自分で感じていたよりも頬の筋肉|《にく》が動いていなかったらしい。ほれみろ! と大声を出しながら左之助少年が指を指してなじってきた。
「見ろ、見たろ! 近藤さん! これ、こいつの笑い方!」
「フッ……、だとよ、フッ……! フッ……、フッ……、って、くあぁ~!! 格好つけやがって! どうせこいつぁ、あいつと同じなんだ、近藤さん!」
「誘うこたぁないぜ! あいつと同類の奴なんか連れて行ってもものの役にたつもんかよ!」
――……あいつ?
二人して、やいのやいの騒ぎ立てるのを聞きながら、はじめ少年は首をかしげる。
――あいつ、とは誰のことだ?
なぜか、こめかみのあたりが、ぴしり、ぴしり、と音をたてている。
本能が、なにかを察知しているのだ。しかし、眉一つ動かさずに無言のまま突っ立っているはじめ少年がますます気に食わないのか、新八と左之助少年は、まだやいやい言いたててやかましい。
「静かにしやがれ、糞餓鬼どもめ」
制したのは土方だった。げんこつを、ぼかり、ぼかり、と新八と左之助少年に食らわせて、容赦がない。
「頭数があればいいというもんじゃあないが、こいつはお前らなんぞより、よっぽど強ぇんだ。はずせねえ」
「けどよう……」
まだ口の中でもごもごと文句をたれていた左之助少年は、黙りやがれ、と土方に低くすごまれ、すごすごと引きさがる。
「とにかく、詳しく話しをさせろ。そのうえでどうするかは、こいつが決めるこった」
「……」
――何かがあった。
憮然としながら押し黙る新八と左之助少年、そして普段は赤くなることが多いのに青ざめている近藤、緊張にかたくなっている平助に、平素とかわりないゆったりした温順な眼差しをした山南。
――何か、が、あった……?
「……そういえば、沖田がいない……?」
道場からのほほんと台所にむかう時間帯なのに、源三郎もいない。
道場の面々の面構えを順番に見ていき、沖田と源三郎の不在を確かめたはじめ少年は、さいごに、腕を組んでいる土方を見た。
それを、話せ、という合図として受けとったか、土方は口を開く。
「みつが拐かされた」
芝居小屋にでも誘われた、とでもいうふうに、土方は言った。
沖田みつ。
沖田総司の姉であり、沖田家の総領娘。婿に林太郎をむかえて跡目を相続している。
早くに結婚したが、子はまだない。
そのためか、いまだに生活につかれ、垢じみた女の疲労感をただよわせていない。
むしろ、水をかぶれば露のような珠がはしるだろうと夢想されるほど肌にははりがあり、髪は豊かでつやがあり、指先のつめの桃色は未通娘ように初々しい。
だが、ふと振り返ったときの後れ毛の影や、腰にできるもたつきと胸元からのぼる香りはひと妻のそれというつり合わなさが、男心をより錯乱させる。
生まれついてもった魔性が、環境で、さらに磨きがかかってしまった、この場合は良い例と言うべきか悪い例というべきか、判断がつきかねる。
その、この世全ての男という男どもを溺れさせ陥落させ、堕落させるべく生まれた出たかのような、淫欲のにおいに塗れた女――
みつが、さらわれた、と土方はいう。
沖田家が仕えている白河藩の殿さまのほんの気まぐれにより、御前試合にでるよう、総司に命がくだされた。
名誉なことである。
人物が卑しいくせに、いやだからこそ、出世に目がない婿養子の林太郎は義弟の総司に沖田家の命運を懸けていたが、下級武士が日の目を見ようとすると、上からは貶みから出る杭は打てとばかりに叩かれ、下からはやっかみから足を引っ張られるのは世の常だ。
「玄武館に子弟をかよわせているやつらが、破落戸どもをやといやがった」
「……」
試衛館に弟を送り迎えしているのは、すでにむこうにまで知れわたっている。白河藩の下屋敷から試衛館まで、おおよそ一里ほど。みつが総司を試衛館に送っていった帰り道、彼女がいつどこでどのように休むのかを調べるなど、かれらにとって造作もないことだったろう。
「やつらめ、試衛館と破落戸の私闘に見せかけようって、はらなんだよ」
「……」
土方の眉間には、深いしわができている。
――林太郎とかいう、旦那はなにをやっている
思いが表情に出ていたのか、へっ、と土方は肩を揺らした。
「その、肝心の大黒柱のはずの野郎が、泣きついてきやぁがったのさ。御前試合は、明日の昼八つ。それまでお殿さまにばれないようになんとかしろ、ってな」
「……」
「あのやろう、みつを助けてくれってぇんなら、ともかく、総司が御前試合に出られなくなる心配ばかりしてやがった」
「……」
――なるほど、あいつとは、旦那のことか――しかし、試衛館(ここ)に助けを求めてくるとは、情けないやつだ。
いやそれよりも。
そんなやつと同種のたぐいだと思われたのか、思われていたのか、おれは?
はじめ少年の腹の中では、ぐらぐらと音をたてて烈火の炎ごとき怒りがさかっていた。
――沖田、は、どこに居る?
思う間もなく、土方がかぶせてくる。
「林太郎の予想どおり、総司のやろう、知ったが早いか、ひとりで斬り込みに行きかけてやがってな。源三郎さんにとめてもらってるんだよ」
「……」
――なるほど、あの人が相手では沖田のやつも沸騰した頭のまま飛び出しはできまい。
井上源三郎は、生まれたときから総司の相手をしている、家族以上の付き合いをしている間柄だ。
――しかし、みつさんが破落戸どもにさらわれた、だと?
「総司、こちらにいらっしゃい」
みつの声が、わんわんと脳内でこだまする。
――あんな女を目の前にして、平静でいられる男はいない。
現に、試衛館でも彼女の色香に当てられる者が続出――いや、土方のような、女体を切らしたことがない男でさえ、落とした女だ。
――何をされるかなど、火を見るより明らかだ。
思ったとたん、はじめ少年は身体中に痛いくらいの熱が走るのを感じていた。怒りの熱だ。
冷めた目をしたもうひとりのいけ好かぬ自分が、常に高いところから自分を見下ろしているかのような錯覚の中で生きていたはじめ少年は、このとき、己の中にもたしかに熱い血潮が流れているのだと実感していた。
――姉上のように泣く女は、もう作らせは、せん。
有名な寺社にある憤怒像のような形相になったはじめ少年の迫力に、新八と左之助少年と平助少年は、飛び上がるようにして身をすくめた。