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ばらがき 2
弐
はじめ少年は、ふと、目を細めた。
珍しい翅をした蝶が、庭先を舞っているのが視界にはいったのだ。
近くにある、クスノキの巨木付近でよく見かける蝶である。真っ黒な翅に青い筋を螺鈿細工のようにいれた翅斑として持っており、実に美しい。
庭に咲く、母のますと姉のおかつが丹精こめて手入れをしている花に誘われてここまで飛んできたのだろう。
はじめ少年は動物や虫が特別に好きではないが、美しいものを美しいと素直に愛でる感性は持ち合わせている。
しばし、花弁に戯れるようにしている蝶の舞いを、追った。ふらふらと踊る蝶を追い続けていると、唐突に姉が現れた。もっとも、姉の方ははじめ少年には気付いていないようである。
笑みを浮かべながら、花を摘もうと伸ばしたおかつの手に蝶がまとわりつく様子を、はじめ少年はじっと見つめる。
――姉上こそ、花のようだな。
おかつの縁談は至極順調に進んでいる。
あれほどの目にあったのだというのに、いや、だからなのか。
おかつの美しさは日に日に磨きがかかっている。弟ではあるが、はじめ少年は姉の、穢れていながらも楚々とした清潔さを失わぬう美しさに、そら恐ろしい思いを抱いていた。そう見せている、見えているのは、心底幸せだからだとしても、人智の及ばぬものを感じる。
――だが、姉上が幸せであるのならば、それで良い。
そういう事で、良いではないか。
問題にすべきは、そこではなかった。
たしかに、おかつは幸せをつかもうとしている。それは両親と祖父の尽力の賜物であるのだが、姉自身のちからでもある。己の不幸に身をもんで嘆くばかりでなく、真っ向から立ち向かおうという気概を見せたからだ。
――そういう人間は真っ当な幸せを手に入れるべきだし、そうなるだろう
はじめ少年が、未だに指と爪の間に刺さった棘が気にかかかるように問題視しているのは、姉の腹に宿った血の塊の元凶《もと》のことだ。
――子供は女ひとりで宿せない。
必ず、男が居らねば。
両親も祖父も、今さら元凶の話しをほじくり出そうとはしていない。今が幸せならば、と口にしない。だが、はじめ少年は承服できない。
男|《元凶》は。
今も、のうのうと暮らしているのか。
どこか別にまた、姉のような女ひとりふたりとふやしているのか。
どんな顔で、ふくらんだ腹を抱えて途方にくれている女のその後を眺めているのか。
想像するだけで、頬が怒りでびりびりと音を立てて張る。
「とうてい無理だ――ゆるせん」
姉上を苦しめた元凶に、それ相応の然るべき報いを与えてやらねば、気がすまぬ――
少年らしい青臭さで、はじめ少年は苛々としていた。
春の日差しのようにほのぼのとあたたかく浮かれささめく屋内とは裏腹に、はじめ少年は、木枯らしがふく寂しい山道をひとり侘しく征くような心持ちがしていた。
――調べてやる。
むりやり姉の躰をひらいて傷物とした男がどこの誰であるのかを、調べる。
そして仕置をしてやるのだ。
「この、俺の手で」
そう決心した、はじめ少年の動きは早かった。
父と祖父の仕事の手管をつぶさに仕込まれたわけではないから、動きにも何もかも無駄が多いのははじめ少年も承知していた。
――だが、この無駄こそが大切だ。
姉に関する事柄ながら、米ぬかほどの価値しかない話であろうとも手に入れようと躍起になった。
この時はじめて、はじめ少年は自分の中に、父、母、祖父の血脈、裏の門を出入りする者がまとう気質をまざまざと感じとっていた。
――俺の中に、こんな俺が存在していたのか。
はじめ少年は、己が感じている驚きを面白く、新鮮に感じていた。
そして両親と祖父も同様に、一人動き出したはじめ少年に血を見ていたのだろうか、何も言わない。口を出さないのが、その証拠だろう、とはじめ少年は思った。
そんなある日。
母のますが家の前をほうきで清めていた。
どうしてだか、母の背中と肩の動きから目が離せずにいたはじめ少年は、掃きそうじが終わった後、砂粒と木の葉、そして塵くず、それぞれをより分けながらますがつぶやく声を聞いた。
「ああ、まったく、砂がかぶったままでは木の葉は燃えないねぇ」
母のつぶやきを自分への激励の言葉だと受け取ったはじめ少年は、はじめ少年はぐるぐると情報を求めて動きまわった。まるで、竹ほうきで庭を掃き清めるように。
そして集めたちりあくたの山のなかから、一枚の木の葉を見つけだした。
医者に毎回かかる程ではないのだが、おかつは血の道がほそく弱いタチであった。
薦められた薬を飲んで、体質の改善に努めていたらしい。
だが、このかかっていた医者というのが解せないのだ。
本郷の町医者ではなく、小石川にまでかよっていたらしい。
――小石川……。
と、聞いて、はじめ少年は最初、顔をしかめた。
「まさか、養生所なんかに通っている……のか?」
八大将軍のころに幕府が設立したこの小石川の養生所は、主に生活に困窮した貧民層相手の医療施設だ。
おかつが通うはずがない、とさらに調べたはじめ少年は、……、と息を止めた。姉が小石川まで出向いていたのは、なんと水戸藩江戸屋敷に出入りする医者に診てもらうためであったらしい。
――しかし、どういうツテなのか。
たしかに、女の足だとて、本郷から小石川は歩いてゆけぬ距離ではない。
が、具合がわるいとかいいながら、一丁もない場所にある町医者ではなく、八丁も先にある水戸藩江戸屋敷まで出歩くのか?
そしてなにより、水戸藩の藩医を務めるような男を、一体全体、どこから紹介してもらえたのか?
「……わからん」
はじめ少年は、首をひねった。
ともあれ、そのかかっていたお医者というのが、姉の婿となる水戸藩の藩医を務めている男であるらしいらしい。
そして姉が服用していた薬というのが、水戸藩の江戸屋敷から半里ほど先にある市谷甲良屋敷の南側、先手組同心大縄地あたりを拠点に薬の行商をしている男から手に入れていたらしいのだが、どうやら『その男』とやらが、おかつの相手であるらしい。
――らしい、らしい、らしいばかりだ。
我ながら、怪しさ満点の情報ばかりしかない、とはじめ少年は顔をしかめる。が、怪しいはなしばかりだが、『その男』に関しては確証がある。
「いやぁ、あんないい男はちょっといないね」
「勧進帳の義経役の役者も、裸足で逃げ出すんじゃないかね」
「面体がきれいってだけじゃあ、ないのさ」
「どこか影があって苦みばしって、ねえ」
「ああ、ほんと、うっとりするよ」
「あんな男なら、泣かされてもいいから抱かれたいって思わない女はいないんじゃないかねえ」
言いようは様々だが、どの人物もみな、『その男』を色男だと褒めたたえた。
――色男。
色男といえば好き者に違いなかろう。
好き者であれば姉上の美貌をほうってはおくまい。
「つまり、そいつだ」
少年らしい短絡的三段論法で、はじめ少年は結論つけた。
そして何より、みな、口をそろえて褒めたのが。
『その男』の――目、だ。
「ことに、目さね」
「あの赤い、あの目にゃ、かなわんよ」
「目だよ、目がいいのさ、あの男は」
「目――が、ね、たまらないんだよ」
「人の目とは、とうてい思えないんだよ」
たいていの者は、その男のことをそう評した。
とくに若い女ほど、そうだった。
うっとりと身をくねらせ、唇にぽってりと赤い情熱をてからせる。胸元や腰のあたりに、むん、とくる牝のにおいを立ち上らせる女たちに辟易しながら、はじめ少年はその男とやらが根城にしている場所――
道場を、ついに探り当てた。
はじめ少年は、その場をにらみ、立つ。
「――ここが、そうか」
道場の看板には、『試衛館』とあった。