ばらがき 5
伍
その日は家に帰るなり、はじめ少年は家の裏にまわった。そしておもむろに、洗濯の用意をしはじめた。
大だらいに井戸からくんだばかりの冷たい水をたっぷりとはり、洗濯板にむかって腕を上下に動かしまり、かたく絞った後、物干しにしている竹竿に等間隔でぴしりとほし、一枚一枚、ぱんぱんと手のひらで叩いてのしながらしわをけしていく。最初は背伸びぎみに、そして最後の方は屈んで、余すところなく伸ばすのである。
一人きりになりたい時、集中したい時、はじめ少年は褌の洗濯をする。
本郷にある山口家は小さな邸宅というわけではないのでが、姉の結婚が迫っているため人の出入りが激しい。そのうえ、母方の祖父である斉藤傳右衛門は馬鹿がつくほどの呑兵衛なのだが、部屋にはじめ少年がいる知るや徳利片手に押しかけてくるのだ。
おかつの結婚の慶びを酒を酌み交わしながら噛みしめたいのは、わかる。それにはじめ少年は、傳右衛門に似たのか酒豪の気があるらしく、別に盃を交わすのが厭ではない。
――ただ、じっくりひとりで熟考したいときに限ってそれをやられるから、かなわないだけだ。
そんな時、たまたま、母のますの手が空かないときがあった。きれい好きなこともあり、洗濯物をためておきたくなったはじめ少年は、自分の褌をうらで洗っていたのだが、そのとき、傳右衛門は誘いにこなかった。
――これはつかえる。
祖父に絡まれずに、家で考えをまとめ上げたいとき、いつしか、はじめ少年は褌を洗濯するようになったのである。
もっとも今日は、さんざんっぱらに山南に打ちすえられた姿を、見られたくなかったのもある。
ずき、とうずく腹をおさえる。
――……結局、一本も山南さんにいれられなかった。
今日まで数度、手合わせしているが、かすりもしない。
山南の剣は、近藤と比べれば弱々しく、土方に対しては全うで、どう考えても手が届きそうであるのに、実際には足下にも及ばない。正しく、口から吐き出される煙草の煙のように、見えているのに掴めないのだ。
――厭《や》らしいとは、うまいことをいうものだ。
まったくもって、いやらしい剣筋だと思う。顔や、袖からのぞく範囲の肌には傷をつけないのだ。だが急所には、寸分の狂いなく、しっかり青あざがはいっている。
山南は、青あざが消えるころをねつらって、手合わせを申し込んでくる。はじめて手合わせしたときと比べれば、青あざの数は減っているのだが、脇があまい箇所は何度も突きをいれられるのだ。おや、どうしたのですか、よもや、この程度の伸びしろだとは言いませんよね、と言わんばかりに。
――こちらが強くなるのを純粋に楽しんでいるのがわかるのも、いやらしい。
はじめ少年は、弄ばされている自分の不甲斐なさに舌打ちしながら、今日の分の褌を大だらいにぶちこんだ。
痛みをこらえつつ、この一ヶ月、試衛館に通って直にはだでつかんだ情報を反芻してみる。
――近藤さんは、磐の人だ。
どんと構えている人で、疑いようのない善の人だ。
そして妾のように厨にこもって食事の世話を焼いている、井上源三郎。
――この人も、趣味に生きている楽隠居のような人だ。
「この人らあたりまでは、まあ、いい」
いや良くはないのだが、まだまともな部類……いやそうでもないか、頭の中まで巌のお人と木刀よりも包丁握ってる時間のほうが長いお人とか、普通ではないだろう、とぶつぶつはじめ少年はつぶやきながら考えをまとめていく。
藤堂平助という同世代の少年。
土方に『サンナンさん』、と小洒落た呼ばれかたをしている山南敬助という男と連れだってくる少年で、どうやら、彼を崇拝しているらしい。
山南をまねて、相手を『きみ』と呼ぶだけでなく、己のことを『ぼく』などと口にする。小耳に挟んだところ、北辰一刀流にもともとは通っていたということで、さもありなん、とはじめ少年は得心がいった。
――強いには強い。
つまり丁寧な剣先だ。
が、重さがない。いわゆる、道場剣法の強さだ。
――お玉ヶ池の道場でいれば、一廉の人物として刮目して見られただろう。
しかし、試衛館では下から数えたほうが早い。技に頼った己の剣の軽さに驚いたらしい平助少年は、生来の素直さで黙々と鍛錬に打ち込んでいる。
海の物となるか山の物となるかは、この先の彼次第だろうが、誤った道は進まないだろうな、とはじめ少年は見ている。
――藤堂はまでは、まだいいか。
問題は、この先だ。
自分よりも少し年上の、永倉新八という青年。
火事と喧嘩は江戸の華とかいいだしそうな男で、しかも、それが似合う。女にも、そこそこもてる、と周囲に吹聴してまわっている。
だが言うほど、女運はあまり良くないらしく、大抵は手ひどい目にあって終わっているようだ。
そんな男のくせに、自分と年のより近い原田左之助という少年を弟分としてかわいがっており、この二人、最近はやたらとつるんで悪さの方向のあかんあそび、とどのつまり『悪所通い』に夢中になっている。
――腕っぷしはどちらも折り紙つきだが。
が、やりあったとしても、はじめ少年はどちらにも負けるきはしていない。
うぬぼれではなく、それこそ、自分と彼らとでは、剣の質がちがうのだと思っている。
――剣の質。
でいえば、おれに近いのは、沖田だろう。
これも、なんとなくではなく確証に近い思いを抱いている。
沖田。
沖田総司。
自分と同年代のこの少年は、どうにも暗い気をまとっている。
気質が、というよりも彼の存在が、あるのかないのか、と思えてしまうのだ暗闇のなかで、おぼろに浮かんだ月暈のような不確かさだ。
自分もまだ、生きるとはどういうものかを知らぬ子供だが、彼は子供のまま生きることをのぞみ、そのくせ、生きることの本質を知らぬまま死に臨んでいるような気がする。
――まあ、本物《・・》の強さでいえば、土方と山南さん。
この二人で決まりだろう。
自分だけでなく、試衛館の面々も、いやこの時代は武士といえども、人を斬ったことがあるほうが稀だろう。
だが、土方がと山南、この両名はすでに人肉の味を剣に教えている、とはじめ少年は察していた。
――近藤さんも強い。
しかしまだ、試衛館の中での強さから脱皮していない。
腹の底から、ぞわぞわと肌にあわをふかせる凄みがない。
――土方の剣は、本能で絞め上げてくる。
試衛館の剣術でいえば目録以下であるが、それは彼がそうした免許に全く頓着しないからだ。
ともかく、動きは頭で考えているとは思えないほど、早い。
もはや、腕が頭としてものの判断をし、木刀の先が目玉代わりにまわっているとしか思えない。
しかしながらその動きは、獲物の息の根を止めるまで容赦のない酸漿そのものように的確だ。土方の剣術は、喉に牙を立て、きゅうきゅうと魂を吸い取る酸漿のようなのだ。
まったくもって、タチが悪い強さだった。
――一方の山南さんだが。
タチの悪さでは土方とどっこいどっこいだ。
理詰めでグイグイと迫ってくる。
その隙間のなさときたら、まるで箱根の寄木細工さながらだ。涼しげで艶のある細工の表面のように整った顔立ちでいられると、対面しているだけでどっと疲れる。
勝手に追い込まれて、むりやり、勝ちという答えを求めて山南の箱の蓋を開けようとしても、手順の一歩の間違いも一つの塵すら許さない打ち込みなのは、すべてを見てきたことがあるからだ。
――つまり。
「ろくでもない奴らばかりが、むさ苦しい道場に暑苦しく雁首揃えている、というわけだが」
だが、土方歳三だけでなく、試衛館の男たちすべてに言えるのだが、曲がったことも汚れたことも許さないし赦せない奴らばかりだ。
――見てくれは襤褸集団そのもの。
「で。中身はいまだに、バラガキ、というわけか」
バラガキ、というのは、茨のようにしようもなく蔦と棘をからめてくる糞餓鬼という意味合いだ。
相手の実力を認めはしても、それはそれこれはこれ、はじめ少年の人物評価に容赦はなかった。
褌のしわ伸ばしはいよいよ佳境に入りだし、はじめ少年の思考も終わりに近くなりだした。
「……あの人らは、ちがう――」
ぼそりと呟く。
試衛館の彼らを知るにつけ、そして土方歳三という人物を深く知れば知るほど、姉を手籠にした人物は土方歳三ではない、試衛館にもいない、としか結論を導きだせない。
――となると、姉上を手ごめにした真犯人はどこにいるのか。
ぱん! と褌を叩く手に力が入る。
「探し出す」
――その前に、やはり、力をつけねばならない。
そういう意味では、試衛館は素晴らしく居心地のよい場所だった。
芋道場と揶揄されているが、気組みを中心とした実戦重視の天然理心流の教えは、はじめ少年には願ったり叶ったりだった。
――試衛館《あそこ》で、とことんまで腕をみがく。
強くなる。
人を容易く斬れるようになるまで。
刀に人肉の味を覚えさせている奴らのように。
すっくとはじめ少年は立ち上がる。
「待っていろ。かならず見つけだして、斬ってやるからな」
褌は、しみも小じわもない、完璧な仕上がりとなっていた。
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