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ばらがき 6
陸
混じりけのない群青色にひっかき傷をつけて征く雲のように、日が流れていく。
この間に、またすこし、試衛館まわりで様子が変わった。
「総司、こちらにいらっしゃい」
ひとりの女が道場の門扉ちかくに立ち、うっすらと微笑みながら手招いている。
この女が門扉の前に立つようになったのは、自分が試衛館を知ったころからだと聞いたが最近はとみにうるさいようだ。女の正体は、沖田総司の姉だという。
――なるほど、言われてみれば似ている。
汗で濡れた総司の横顔をちらりと見ながら、はじめ少年は思った。
――同じ『姉』でも、おれの姉上とはまたずいぶんちがう。
おかつは純朴というか素朴な味わいのある、いってしまえば田舎田舎した娘だ。
だが、総司の姉は、嫣然とした空気を内側にこもらせた色香がある。
花で例えれば、おかつは山あいの草むらに人知れず密やかに咲く、露草や鷺草のような女で、総司の姉は芳香を放って色目をつかう、くちなしや夕顔の花のような女だ。
試衛館の男たちは、彼女の芳しい彼女の香りが漂うだけで色めき立ち、鼻の下を伸ばし、盛りあがった股間を押さえてつけている。
――おれは苦手だが、ああいう、むんむんむらむら来るのが好きなおとこの方が、ぞんがいに多いのか?
「……それとも、女体があたえる快楽とやらにはまれば、ちがうのか……?」
身近な女といえば、みとめた者だけが、ひそかに愛でればよいような、ひっそりとした姉くらいであるはじめ少年には、まだわからない境地だった。
ともかく、いま、試衛館は上を下への大騒ぎのただなかにある。
己の意志も思惑もなしに誰彼構わず魅了し、堕落腐敗させる気まんまんに香りたかい女が現れると、新八、左之助、平助あたりは、お互いをひじで小突きあいながら何やらひそひそとやり合い、かと思うと苛立ちのこもった声で怒鳴りながら殴り合いに発展したりと忙しい。無論、その間にも、視線は幾度となく総司の姉のほうに走っては戻りしている。
台所がすみかのようになっている源三郎でさえ、親戚筋という特権を大いに活用して話しかけて、道場の若者たちに無用な敵意を買っているし、近藤などは焼き岩石になっている。
態度も見た目も全く変わりない様子でいるのは、土方と山南くらいなものだった。
――二人のこの余裕は、女に不自由しないとか自由になる女が多いからとか勝手に女がよってくるから、ということか。
床に飛び散った汗をながめながら、はじめ少年はぼんやりと思った。
「……しかし、前髪を落としていない、少便くさい小僧でもあるまいし、なんだって送り迎えなんかしている……?」
聞きもしないのに源三郎が話してくれたところによると、両親を早くに亡くした沖田家の家督は、あの姉が継いでいるらしい。しかし、婿養子を迎えて数年たつが、いまだに子なしのままだという。
――……つまり、いずれ総司に家督をゆずるつもりでいるのか?
姉にかわいがられてはいるが、こういったべたべたしたまとわりつきを味わったことがないはじめ少年は、ふん……? と目を細めるばかりだった。
「おう、来ていたか」
腕組みをしながら横から現れたのは、土方だった。
ほんの僅かに目を眇めているのは、このところの道場内の浮かれた空気が気に入らぬからだろうか。
「お前は、あの女が気にならんのか?」
「……」
――『あの女』よばわりとは、また。
まだ女体の神秘の奥深さを知らないはじめ少年ではあるが、ぴん、ときた。
――なんだ、土方さんも表情には出さないが、なんだ、総司の姉上が気になっていたのか。
新八や左之助とは別方向の気になり方なのだろうが、土方ほどの色男の気をそぞろにさせるのであるから、やはり魔性の香りを放つ女、なのだろう。
「総司のやろうが、今度な、白河藩のお殿さまの前で、御前試合をやるんだとよ」
「……」
源三郎から、沖田家は白河藩士だと聞いている。だから、御前試合に呼ばれたとしても不思議ではない。
問題は、こんな田舎道場から招待される、という点だ。
はじめ少年が、むっ、とくちびるを曲げたのを目ざとく目にとめたのか、土方は、平助少年に手ほどきを行っている山南に向かって顎をしゃくった。
「話しゃ、長くなるんだがな」
沖田家の婿養子にはいった、林太郎という男。
もとは、近藤勝太の養父である近藤周助の門人だった。
親戚である源三郎の話では、そこその腕の持ち主だったらしい。が、どこか軽薄才子な面の持ち主でもあったようだ。
義理の弟となった総司の腕を、解脱の域を極める、と評するほど惚れこむと同時に、天然理心流ごときに埋もれさせてはならん、と今様ばりに流行りとなっている、お玉ヶ池にある北辰一刀流の玄武館に同時に通わせんと決意したのだという。
「そこで、林太郎のやろうを調子に乗せる事件がおきちまったのさ」
「……」
入門初日に師範代から目をかけられていた同世代の門下生たちと仕合い、ぼこぼこにのして彼らの度肝を抜いた総司は、羨望の的になるよりは敵意の眼差しをむけられるようになった。
事あるごとに、彼をとっちめてやろうとする輩から、仕合を申し込まれるが、その都度、総司はこてんぱんに返り討ちにしてやり、死屍累々ではないが、負けたことがない奴は道場に通っていない奴だけだ、とまでいわれるようになったらしい。
「で、総司のやろうは、山南さんと平助に出会うって流れでな」
「……」
ある日、玄武館では恒例の、他流仕合いが行われることになったのだが、その際の面子を選出する審査の最中に、沖田に手ひどい洗礼を喰らわせてやれ、と玄武館の面々はいやらしくもくろんだらしい。
「そこでかり出されたのが、同世代のなかでも随一の腕前を持っていた、平助だったんだとよ」
「……」
しかし、玄武館では向かう所敵なしであった平助少年は、総司と竹刀を合わせるやいなや、強かに背中を道場の壁板にめり込ませ、気絶することとなった。このときの手合わせの審判として一部始終をみていたのが、山南だった、というわけだ。
「山南さんと平助のやろう、総司の強さのもととなった天然理心流が気になるとかおもしろいとかなんとか、ごちゃごちゃ言ってる間に、あんにゃろうらも、試衛館に通うようになっちまったってはなしさ」
「……」
――なるほど、毛色のちがう山南さんと藤堂が試衛館に流れてきたのは、そういうわけか。
合点がいったはじめ少年を無視して、土方はとっとと話しをすすめていく。
やがて他流試合がおこなわれ、そこでも総司は無敵の強さを発揮した。
程なくして、総司の竹刀のはやさについていける者は、師範のなかでもいなくなった、と玄武館以外でも話題となった。そしてそのうわさは、どこをどう流れていったのか、白河藩の若き殿さまの耳にも届いた。
「それで、その小僧の腕前を見てみたいという、殿さまの気まぐれに、駆り出されることになったんだと」
「……」
またこの殿さまってのが、なにをとち狂ってやがるのか、相手は玄武館から選り抜け、本当に師範でも歯が立たぬのか、とくと見てみたい、とお命じになったんだとよ」
「……」
玄武館内で総司に敵う者はいなかったのだし、御前試合で殿さまの目に総司の腕前がとまるのは確実だ。出世の道が開ける、貧乏武家に婿養子ふぜいにも、運がまわってきた――と林太郎は、ほくほくしていた。だがその軽忽さを苦々しく思っている者が、無事に総司が御前試合に出られると思うな、と脅してきたのだという。
「やっかみ半分だとしても、玄武館の門人たちのほとんどから恨みを買っている総司を心配して、姉がそばについている。よもや女がそばにいては恥ずかしくて手はだせめぇよ、てぇのが、総司の姉貴の――みつの言い分だとさ」
「……」
「だとしても、えらく過保護だわな」
言いたいことを吐き出してすっきりしたのか、土方は、ふらり、とまたどこかに消えた。くだんの、みつが姿を見せたのだ。
「総司、こちらにいらっしゃい」
まるで夕暮れをつげるひぐらしのなき声のように、みつの声が道場にしみていく。
手の甲で唇のあたりにぶつぶつとわいてくる汗を拭いとりながら、はじめ少年は、総司の姉の名前を口の中でころがしてみる。
「……みつ――さん……――」
名は体を現すというが、なるほどな。
はじめ少年は、奇妙に納得した。