ばらがき 【 小説 】
序
――気がつかれた。
そう思った瞬間、はじめ少年は脱兎のごとく、逃げ出していた。
だが、やっと顔をまともに見られた。
これは収穫だった。
――あいつ。
多摩の百姓の出だとかいうはなしなのに、まるで役者のように美しい顔をしていた。
女が引き寄せられるタチの男だと、ひと目見てわかった。
あきらかに女が好む、いわゆる危険な匂いのする――男だ。
――あの顔で、姉をおとしたのか。
なるほど、初心で世慣れぬ姉なれば、ころりと容易にものにできるだろう。
めらめらと音をたてて、胸の内側で怒りが燃えているのを、はじめ少年は感じていた。
――忘れない、忘れるものか。
はじめ少年は、口元にわいた、血の味がする唾のあぶくを、ぐっ、と手の甲でぬぐい去る。濡れた手の甲は、なぜかしくしくと痛痒くしみた。それらを感じていないとでも言うように、はじめ少年は、きっ、と真っ直ぐに道の前を見すえて走りつづける。
ふいに、埃が目の中にはいった。
思わず固く目をつぶる。
途端に、瞼の裏に、ぐわ、と男の顔が迫ってきた。
白く、端正な。
それでいて、ぎらぎらとした容赦のない双眸をした男の顔が。
――目。目が、おそってくる。
――あの目。
あの目は。
まるで、酸漿だ。
先の割れた舌を出し、黒々とうず巻く気を放ちながら威嚇している時の。
酸漿の目――だ。
ぶつぶつと肌が粟だってくる。
はじめ少年は、まるで蕁麻疹のように手の甲にまで飛び出てきた粟をさすりながら走る。
酸漿に睨まれた尻のしっぽが取れたばかりの青蛙の気分とは、よもや今の自分と同じではないか、と思いかけ、はじめ少年は、激しく頭を振る。
――なにを弱気になっている。
だが燦々と赤く燃える男の目玉は、はじめ少年を許してくれない。
――俺を逃す気がないならそれでもいい。
いや、いっそのことその方がいい。
忘れられなくなる。
ぎゅ、とはじめ少年は唇を硬くかんだ。
俺は忘れない。
だからお前も俺を忘れるな。
土方歳三。
壱
「あんなにむずがっていたくせに、嫁に行くとなると腰がすわるものなのだな」
父の祐助と兄の廣明はのん気なものだった。うきうきと、進む姉のおかつの嫁入り支度をながめている。
「ああ、全く、女は化けるものだなあ」
素直に感嘆の声をあげる廣明を横目にしながら、はじめ少年は呆れた。
――馬鹿か。
頬にうすくべに色をさしてうつむいている姉を見れば、なるほど、確かに恥じらっているようにみえる。
――だが、おれは知っている。おれだけではない。父上も兄上も、そして母上も知っているはずではないか。
この、姉の姿が、真実でないことを。
「……女は化ける……か」
ある意味では、はじめ少年も兄の言葉に賛同する。姉の胆力には畏れいるばかりだ。
姉の横では、母のますが甲斐甲斐しく世話を焼いている。
――よくも農民の出で、ここまでやる。
実際、母のますは農家の出身だ。
地元の川越では有名な豪農の娘で、なまじの貧乏御家人などより、よほど良い暮らし向きを送っており、斉藤の苗字を名のることも許されていた。そしてどこをどう見初めたのか、父をたいそう気に入った母方の実家の斎藤家は、父に御家人株を購入する資金として二百両をぽんと持参金代わりに寄越したのだから、財力のほどがしれよう。祐助はそれを資金源として有効につかい、御家人株として売りに出されていた山口家を買い取ったのである。
じ、とはじめ少年は、くるくると動く母の身体を見つめていた。
出自が百姓だからといって、母を馬鹿にしているのではない。
むしろ逆である。
はじめ少年は素直に感心している。
ただ喜怒哀楽のあらゆる感情が、そのまま表情にでないタチであったため、はじめ少年は親兄弟にも誤解をうけていた。今も、むっとした顔で兄の廣明ははじめ少年を諌めた。
「はじめ、なにを難しいかおをしておるか。姉上の祝いの席が近いというのに」
言いながらも、廣明は惚れ惚れとした眼差しでおかつを見つめている。
いわれた当の本人である姉は、ますます頬を赤く染めて身をよじりながらうつむきなどしており、そんな娘を見て、おお、あれあれ、と両親は微笑んでいる。
――ほほえましい風景だが。
しかし、はじめ少年は、内側も外側もちがった。姉の恥じらいの姿を見るにつけ、さっと暁光の光りが射し込むように胸に暗い影が宿るし、仏頂面になる。
――いずれ嫁入りした姉が、どんな顔で夫やその両親に額ずくのか。
全く、想像もできない。
正座した姉の躰は、きゅ、と固くすぼまっている。きっと、尻にはえくぼができているのに違いない。そんなにしている姉が未通娘でないどころか、子の形になるまえとはいえ、腹から血の塊をひきずりだしたとは、よもや、姉の婚家は想像もできまい。
三つ年上の姉、おかつに縁談が持ち上がったのは、一年ほどまえのことだ。この縁談を持ってきたのは母方の祖父の斉藤傳右衛門で、故に、大いに張り切っていた。
「もったいないほど、良い話だ。おかつ、良ぉくはげんで良い子をたんとつくれ。よいな?」
気の早い傳右衛門は、話しを伝えた途端にもう、姉が嫁いだ気分で上機嫌だった。
父と母を結びつけたがったのは、母の実家、傳右衛門のちからであるが、それは、ますが多く子を産んで、そのうちの一人をもらい受けるつもりでいたからだ。
地域一帯を仕切る傳右衛門は、見た目そのままの胆力家で正妻と妾とあわせて多くの子を持っていたが、悲しいかな、長男は惣領の甚六ということばそのままの人物だった。それだけならまだしも、長男を筆頭に男子はみな、ぼんくらだった。
かわって、娘たちのほうがキビキビとよく動き、祖父の仕事をなにくれとなく手助けした。
豪農らしく、百姓仕事以外にも商売をやっていたのだが、表の門と裏の門の出入りするものはたいそう違っているのはよくある話しである。そして、娘の婿にと目をつけられた祐助も裏の門からの出入りが縁だったらしいのも、これもまたまた、よくある話しだった。
裏の門のしごと。
つまり、隠密働き。
いわゆる、密偵である。
出会い方と押しつけられ方はともかくとして、たしかに、父の祐助はますを惑溺した。
愛玩、ともいえるかもしれない。
祐助の仕事が、伝えられた額面通りのものではなく、未だに祖父宅の裏の門が関わっていることくらい、はじめ少年はとうに知ってる。その裏の門が、祐助の心に燻みとなって表に出ようとするのを未然に防いでいたのが、母という存在を愛玩することだったのだろう、と薄ぼんやりとであるが察していた。
それはそれとして、ものの三年半のうちに、姉のかつに兄の廣明、そして自分が次々と産まれたのだから、傳右衛門の期待はがぜん強くなった。しかし傳右衛門の最大の誤算は、自分を最後に、ぱたりと母の腹は膨らまなくなったことだった。
母を耽溺すること激しかった祐助は、子供を取り上げられて身を揉むようにして嘆く未来の妻の姿をおもい、自分の以後、子を作らなかった、いや作らせなかったのではないか、とはじめ少年は勘ぐっている。
父と母の思惑を知ってか知らずか、せめて三人、男子がおれば末子を養子にできたものを、と未だに嘆いている傳右衛門のことだから、唯一、自由になりそうな姉の存在を捨てておくはずがなかった。
「おかつが産んだ子を養子にもらい受け、今度こそ、儂が跡目を継がせてみせるわ」
おかつが男子を産み続けるかどうかもわからない。
また産まれたとてその子が一廉の人物となるかもわからず、そしてそこまで祖父自身が長生きするかどうかも定かでない。
だというのに、傳右衛門は自信たっぷりに言い放つ。
ここまで信念をむき出しにして腹を据えられると、いっそ執念、というよりも怨念に近い。鬼気迫った顔で舅に迫られた祐助は、反駁の言葉を絞り出すのも容易ではなかった。何しろ、今の自分があるのは、妻の実家あればこそなのだから。
「早すぎる」
それでも、可愛い娘を思えばこそか、普段は悶着を嫌い言うがままになる祐助が、傳右衛門に難色を示してみせた。だが、嫁ぎ先が郷士とはいえ裏で商いをしており、しかも大層な高禄であると聞かされるや、何と祐助は、ころりと首を縦に振ったのだった。
武士は喰わねど高楊枝、といわれる時代であるが、祐助は、そんな武士の窮状がどれほど怖ろしいものであるのかを知っていた。
「二人扶持三十俵など、飢え殺しにひとしい。おかつに生活苦の垢染みなんぞを作らせてたまるものか」
江戸の物価高騰はこのところますます激しい。
家禄百石取りの御家人であっても、生活はかつかつであり、生活の足しにするため公然と内職が行われていた。何かあれば、元来、他人である嫁など真っ先に女衒に売られて家計の足しにされる。
大切なますが産んだ愛しい娘を苦労一色に染めあげるなど、祐助にとって埒外だったのだ。
しかし、浮かれる周囲とは裏腹に、おかつは話しが進むにつれて暗く沈んでいった。
娘の様子がおかしいことに最初に気がついたのは、さすがと言えようか、母親であるますだった。
「おかつ、おまえ、何か隠しておいででないかい?」
きりりとした面持ちでたずねる母の膝に、わっ、とおかつは泣き伏した。まるで、小童のように、わんわんと泣きじゃくりながら、おかつは恐るべき告白をした。
「腹に、おややができました」
強い顔でおかつの告白を受け取ったますは、呼吸を一瞬とめた。
だが、次の瞬間から、すさまじい勢いで動きはじめた。
まず、夫である祐助に娘の身体を侵蝕した秘密を話す。
次いで、ますは信頼の置ける口の固い医者をさがしだし、娘を哭かせた元凶をこの世から永遠に滅した。ふくらみかけた腹がつぶれた後の女の心と身体の扱いはひどく難しいものだ。が、ますは娘を庇護するところまで完璧にこなしてみせた。
実家の裏の門のしごとを手伝っていたますならでは、だろう。昔とった杵柄とはよく言ったものだ。
この時のますは、娘の不幸時でありながら、生き生きとさえしていた。
ますが娘の世話を焼いている間に祐助は妻の実家に走り、娘の状態を漏らさず話した。そして事態を知った傳右衛門は、婿とともに、ひそひそと裏の門の動きをしはじめる。
自らが選びだした嫁入り先だというのに、どこでどう拾ってきたのだろうか。あれやこれやの問題点をほじくり出し、気がつけば、相手側から頭を下げさせて破談を成立させていた。
この頃になると、はじめ少年は姉の身に何が起こったのかを漠然とであるが知った。
兄の廣明のみが、家族の中でどんな過酷な渦が荒れているのかを知らぬ様子でひょうひょうと過ごしていたのだが、総領息子らしい鷹揚とした胸の広さをもつ廣明は、あえて目をつむっていたのかもしれない。
ともかくとして、無事に破談が成立し、おかつが心身ともに落ち着きをみせはじめて、ようよう、この話しは終わるのかと思っていたのだが、話しはとんでもない方へと飛び立ちはじめた。
なんと姉の身体を診た医者が、是非とのぞんで嫁に迎え入れたいという方向に発展したのだ。
聞き耳を立てたはじめ少年は、この医師が水戸藩の藩医を勤めているのだと知って仰け反った。
そんな身分の男が、一体全体、どういう心境で姉を欲したのか。
まるで分からない。
だがキズモノとなった娘を嫁にのぞむ以上、相手もなにやら腹に一物抱えているには違いない。この縁談を、両親も祖父も、断る理由はどこにもなかった。
かくして、姉の縁談は再び動き出した。
この間、最初の縁談が持ち上がってから僅か三ヶ月ばかりに起きた出来事だった。
まさに、怒涛の日々といえた。
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