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2024/2/8

祖父が死んだ。
病室のベッドで寝たきりの状態で、ゆるやかに脈がなくなっていった。
祖父の体に繋がれていた機械から甲高いアラーム音が鳴り続けるなかで、私は祖父の浮腫みきった手をぽんぽん叩いたり撫ぜたりしながら、だんだんとその手が冷たくなっていくのを感じていた。

涙は出なかった。あの場にいた私、母、父、伯父、伯母、祖母の誰ひとりとして泣いている者はいなかった。身内が目の前で息を引き取る時は医療ドラマのようなシーンが起きるのだろうかと勝手に思っていたのだが、全くそんなことはなかった。私は、ただ今、じいじは楽になったのか、と少しの安堵すらおぼえた。

土曜日母から「そろそろヤバい」と連絡を受けて夏ぶりに祖父に会いに行くと、祖父は随分と痩せこけて、口だけを大きく開けて、呼吸する事に体の全ステータスを割いているような状態だった。
それでも、祖母の呼びかけに目を開けたり、首を振ったりはしていた。

次の日行くと、祖父は昨日よりも苦しそうに呼吸をしていた。看護師さんによると意思の疎通も難しい状態で、呼吸する度に顎をがくがくといわせていた。私は病室で祖母と会話したりしながら時折手を握ったり、聞こえていないだろうが声をかけてみたりしていた。土曜のほうが態度として苦しそうではあったが、もうそれを表現することも出来ないのかと気づいて、人間はこうしてゆるゆる死んでいくのか、と思った。

死にかけの祖父の横で私たち親族はほぼいつも通り談笑していたが、私は時折祖母がいつものテンション、表情で「来たよ、なんか言うて」「目ぇ開けて」と何度も声をかける姿から目が離せなかった。

祖父に繋がれた機械が煩くアラーム音を鳴らすようになったのは、ちょうど私たちがそろそろ帰ろうかという流れになった時だった。心拍数が90あったのが、1秒に5回ずつくらい、80になり、70になり、少し目を離すと40になり…と、だんだんと減っていった。酸素濃度も少なくなってきて、その場の人間が息を呑む音が聞こえた気がした。

身内が死んだ経験は、10代にしては多い方だと思う。私の親の家庭の事情が複雑で、祖父母が普通より一組多い。母方のもうひとりの祖父は私が小4の時に死んだ。それが身内が死んだ経験の最初だった。それから可愛がってくれていた母方のもうひとりの祖母の妹、その旦那さん。葬式でもう30半ばになる又従兄弟が泣き叫んでいたのをよく覚えている。
私も小4の母方のもうひとりの祖父の葬式で鼻血を出すほど大泣きしたのだが、今考えるとあの涙が「悲しい」という理由で出てきたものだとは思えない。あれは目の前にひとりの全生涯が横たわっている、その生涯がふたたび続くことは無いと、葬式で実感したことが言語化できずに涙となって現れたのであろう。周囲の人間はおじいちゃん好きだったんだねえ、と頭を撫でたりティッシュをくれたりしたが、そこで「違う」と言うのも子どもながらにおかしい気がして、ぐっと堪えた。

それ以降に参列した葬式では、私は遺体を見て「綺麗だ」と思うようになっていた。いくら最後に会った時から痩せこけていても、生前の険しい顔は欠片もなく、穏やかに眠っている。「永眠」とはまさにこういうことかと毎回納得してしまう。
思想として私は時折「死は救済」という旨のツイートをするが、あれは思春期に色んな親戚の葬式に参列してきて固まった価値観であり、もうよっぽどの事がない限り覆ることはないだろう。だって、死が救いでないのなら、死が苦しみだと言うのなら、何故、棺桶の中で色とりどりの花を手向けられたその全生涯は、幸せそうに眠っているのだろうか。俗世から解放されたと言っているかのように感じる。自殺した親戚の遺体が特にそうだった。多くは書かない。

祖父が死ぬ直前もそうだった。顎をがくがくさせながら大きく口を開けて呼吸していたのが、口がだんだん閉じてきて、苦しそうに閉じていた目もだんだん力が抜けてきて、手も足もそれはそれは浮腫んでいたのが心臓が止まってから柔らかくなってきて、外は暖かくなってきているのに病室は26℃の暖房がかかっており、布団2枚重ねに電気毛布で厳重に温められていて笑っていたくらい、元気だった時はいつも冷たかった手が温かかったのに、それも脈がなくなると生気のない冷たさに変わっていく。そんな手をぽんぽんしながら、葬式いつなんかな〜とかぼんやり考えていた。

祖父は、ひと言で言うとさっぱりした人だ。
祖父母の家に遊びに行ってもいつも玄関で迎えてくれるのは祖母だけで、彼は大体居間で寝っ転がって新聞を読んでいる。だが元来耳が遠いため、近くに寄って「来たよ」と声をかけると、嬉しそうなのが隠しきれない表情で「いらっしゃい」と言ってくれる。本人には言わないが、かわいい。
直接的になにか励ましの言葉などを貰った記憶は一切ない。バカにされて、それに対してさすがにそれはちゃんとしてるもんってちょっと怒って返して、それでお互い笑っている。そういう人だ。私が1番下の孫で、私にかけられる期待や重圧が一切なかったのもあるだろう。
嫌中のきらいがあるが中華は食べる。美味しいものが好きでこだわりが強い。入院した時も散々食べ物に文句をつけていたようだ。
歩くのが異常に速いが人に合わせる気は一切なく、幼少の頃祖父と2人で出かける時はずっと走っていた。杖をついていても普通の若者並に速い。別れ際に手を振って、ちょっと目を離したらもう見えなくなっている。いつも別れ際は強めにハイタッチをしていた。

そんな祖父だから、死ぬ時はコロッといくんだろうと勝手に思っていた。曰く家の階段から落ちて骨折してしまい、そこから色んな合併症を発症してここまで来てしまったらしい。私は一度母が病気で死にかけているためか変に度胸ができてしまっており、まあ死ぬときゃ死ぬか〜というテンションだったのだが。

直接看取るのは初めてだったが、きっとあの手の感触は忘れないと思う。乾燥しすぎて一周まわってサラサラになった手。浮腫んでぶよぶよの。

ご遺体を綺麗にしますので、と別室に移されて、1時間後に見た祖父は、1時間前よりも安らかで眠っているようだった。なんなら生きている時の寝顔の方が苦しそうだった。祖母も伯父も母もみんな、「このままゆっくり起きそうやなあ」「元気やん」などと会話をしており、割と穏やかな空気だった。
それから葬式の打ち合わせなどを済ませ、葬儀場の安置室に祖父が運ばれた時もやっぱり同じような会話をしていた。本当にそのままむくりと起きて「チャーハンが食いたい」とか言いそうだった。安置室で改めて見た祖父の遺体は、私が小学生の時に花札でわざと負けてくれた時のような優しい顔をしていた。やっぱり涙は出なかった。親戚そろって死に対してフランクなのは長所だ。

私にとって死は、きっとすごく身近なのだと思う。死は別れだとよく言われるが、私は祖父と今生の別れをしたとは思っていない。今もいる。生きている。気が違えた訳では一切ない。よく言われるフレーズ「心の中で生きている」と言われると少し違和感があるが、いるのだ。姿は見えないけど声は聞こえる。生きている時の手の感触も、死ぬ直前から死んだ後の手の感触も覚えている。それで十分だ。その声や感触を忘れてしまう時が、祖父という、私を産まれる前から愛してくれていた人のひとりが、私の中で死ぬ時なんだと思う。

きっと私は、その時に涙が止まらなくなるのだろうな、と、祖父の火葬場でもらい泣きをしながら思った。

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