立ち止まって考えたいこと

 「自分に合ったやり方」や「自分に合ったペース」で学べる場所。学校がそんな場所であったら、学校をそんな場所にできたら。そんな思いがある。だから、自由進度学習の目指しているものにも、納得できる部分がたくさんある。そして、チャレンジしてみる価値がある学習形態だと思う(自分の場合、知らず知らずにやっていたことが自由進度学習にかなり近い部分があったのだけれど…)。

ただ、気になるというか、立ち止まって考えたいなって思うことがある。

それは、自由進度学習が推進される中で、「一斉学習(一斉指導)」=「画一的な授業」=「現在の学校教育の諸悪の根源」といった論調で語られていることがあること。
中には、「雀の学校」なんて例えもあって、うーん、と思ってしまう。

確かに「一斉授業」は「近代学校の発明品」なのかもしれない。

でも、130年前と全く同じ形態、手法で授業が行われている学校なんて現在の日本では皆無じゃないかな。あまりに大きな主張がされると、ますます、うーん、ってなってしまう。

『今年一年は、自由進度学習についてとことん学ぼう』

そう決めて、書籍に論文に公開授業にと自分なりに様々な形で自由進度学習に触れてきた。

その中で感じているのは、当たり前なんだけれど、「チャレンジする価値はあるだろうし、やってみることで見えてくるものもあるんだろうけれど、やっぱり万能ではない」ってこと。もっというと、時代に乗り送らないようにって、「形だけを真似ていく」こと。すごく危険だなって思う。

僕がむしろ、問いたいのは、自由進度学習が機能するための土台の部分。

自由進度学習が機能する学級では、おそらく、一斉学習の中でも学び合うことができているだろうなって思う。そして、先生たちの力量、教材研究や児童理解も相当に高い水準だと思う。

結局のところ、自由進度学習にせよ、一斉学習にせよ、「一人ひとりの子どもが自分らしくいられる場所を作りたいな」って考え、試行錯誤してる先生がそこにいるかどうかが大事なんじゃないかな。

そんな先生が一斉学習の中で、どんな風に子どもと過ごしているのか。どんな風に共に学ぶ意味や価値を子どもと共有しているのか。

一斉学習の中での「教師の佇まい」や「教師の在り方」。子どもたちの何をどのようなまなざしで見つめ、その教師の信念がどんな風に「語り」として表出されているのか。

教師としての『根っこ』の部分。

そこが知りたいなって思う。


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