19.24

その場所はやけに煙ったく、とても大きな音で音楽が流れていた。人々はアルコールやニコチンを大量に摂取しながら踊っている。この様な場所に来るのは僕自身かなり久々で心が躍った。いろんな人間の様々なものが混ざった匂いは、鼻から綺麗に抜けることはなく、脳みその一番奥にずっしりと残る。水タバコの匂いや煙草の匂い、香水の匂いやアルコールの匂い、どれも僕を受動的に昔に連れて行ってくれる。悪い気はしない。だが良いとも思えない。


彼女は僕からしてみれば「お姉さん」そのものだった。ビールの美味しさすらわからない大学一年生のクソガキの頭を撫でながら「かわいいね」なんて言葉を水タバコを吸いながら僕に投げかけるほどの。
 爪は真っ赤で80デニールほどのタイツを履いていて、セミロングほどの長さの髪からはこの場所には似つかわしくない、綺麗な甘い匂いがした。店のテレビでやっていた「世界の車窓から」を見ながら僕は「ねえ、2人でこの場所に逃げようよ」なんてことを言っていた気がする。そんな僕の訳のわからないセリフを彼女はいなすことなく「そうね、じゃあまずは私達結婚しないといけないかもね」と僕の手を握りながら言ってくれた。
 「死んでもいいかもしれない」僕は比喩ではなく、直感でそう思った。きっとこの人となら、汚れ切った僕の生活を「死」をもって綺麗に終わらせることができる。

出会って1時間も経たないうちに僕は彼女を好きになっていた。

一緒に来ていた友人と、彼女の友人は気がつくとどこかに消えていなくなっていた。「お持ち帰り」とやらをする気満々だった僕の友人のことだ。僕になんの連絡もなく、ホテルに行っていても何もおかしくない。「2人、帰ってこないね」僕は彼女にそう言った。「そうだね。私達もどこかに消えちゃう?」遊ばれているのは分かっていた。この提案に乗っかって、僕らもどこかに消えてしまっても良かったかもしれない。だけど当時の僕にはそんな勇気もなく、その台詞にうまく返事ができなかった。
 2人で交互で水タバコを吸いながら僕らはお互いのことをゆっくりと話した。彼女はどうやら3年付き合っていた彼氏に浮気されて別れたばかりらしかった。彼女よりさらに年上のエリートサラリーマンだったらしい。そんな男に僕が敵うわけはなかった。「大学生」なんていう誰でも持てるブランドだけを引っ提げて、自由という名の不自由を無理やりにでも楽しんでいるだけの、ただのガキなのだから。でも僕は彼女が欲しかった。彼女の全てを知りたかったし、彼女の全てを僕のものにしたかった。僕は強く彼女の手を握りながらそう思って、ずっと黙っていた。
 「行こっか」彼女がそう言った。店はもう戸締りの時間だった。僕はカーディガンを羽織って彼女と一緒に店を出た。始発までまだ時間があったので2人で鴨川に向かった。朝の冷え切った河川敷は僕らを世界から切り離してくれた。彼女が寒そうにしていたので僕のカーディガンを肩にかけると「ありがと。これじゃ私が年下みたい」大人びた彼女からは想像もできないくらい幼い笑顔を僕に向けてそう言った。彼女の手はとても暖かかった。

「ねぇ、私近くの服屋さんで働いてるの。今日の夕方から出勤するから会いに来て。もし来てくれたらきっと良いことがあるよ」阪急河原町駅から帰ろうとする彼女は別れ際にそう言った。「分かった。きっと会いに行く」この「きっと」が僕にとっての最大限の見栄っ張りだった。その日は連絡先を交換して別れた。

次の日、僕は気づくと彼女の勤め先に来ていた。その店はビル一棟を一店舗とした広い店だったが、探すのには苦労しなかった。彼女は4階にいた。

彼女に声をかける。するとびっくりした顔で「ほんとに来たの?冗談のつもりだったのに」と言った。僕が「だって、、」と口を濁らせていると「おいで。今の時間このフロアで働いてるのは私だけなの」そう言って彼女は僕の手を引っ張って抱きしめてくれた。それがどれくらいの時間だったか分からない。彼女の髪からは昨日とは違った匂いがした。とても良い匂いだった。少し甘ったるかった。でも嫌な感じはしなかった。彼女は僕の腰から手を解くと、次は僕の頬に両手を当てて軽くキスをしてくれた。
「昨日してあげても良かったんだけどね。でもこっちの方がドキドキするでしょ?」僕はもうダメだった。全てをこの人に捧げても良いと思えた。何もない僕の、わずかに残っているプライドやらその他諸々の全てを。気付くとそれは口から出ていた。

「付き合ってください」

言ってから後悔した。僕の恋愛連勝記録が終わることなんてどうでも良かった。ただ焦ってしまったことに。だけど彼女は「んー、じゃあデートに行かないとね」と断ることなく僕を受け入れてくれた。
「バイトはもう終わるんだけど、私この後予定があるの。だからまた連絡するね。2人で出掛けよ?今はそれで良い?」僕は深く2回頷いて軽く会話をして、その日は帰った。

僕が家に帰ると連絡が来ていてデートは二週間後に行くことに決まった。その日からデートの日までは僕らは毎日の様に連絡を取り合っていた。彼女から電話がかかってくることもあったし、僕からかけることもあった。とある日は酔っ払った帰り道に電話をかけてしまった僕を優しく受け入れてくれた。また別の日は僕の学校帰りに彼女から電話がかかってきたこともあった。僕の携帯の充電が無くなってしまって勝手に電話が切れてしまった日は彼女はとても拗ねていた。この幼さが僕をまた一歩、確実に彼女の沼へと引き摺り下ろしていってくれた。でも悪い気はしなかった。そんなことを毎日してる間にデートの日は来てしまった。僕は精一杯のオシャレをして夕方5時、彼女のバイト先に向かった。店から出てきた彼女はとても大人っぽい服装をしていた。
「バイトだけだったらこんなにお洒落してないよ?でも今日は君とデートだから。出勤した時に友達に「どうしたの?そんな格好して」なんて言われちゃった」彼女がそう言っていたのをとてもよく覚えている。その日は映画を見てご飯を食べた。映画はマスカレードナイトだった気がする。彼女はこの映画の前作の大ファンらしく真剣に映画を見ていたが、僕は彼女の顔しか見てなかった。映画のことは何も覚えていない。帰り道にさらさでタコライスを食べた。たくさんのことを話した。取り留めのない話から過去の恋愛の話まで。でも彼女は名字だけは教えてくれなかった。それは今もなお知らない。お会計は彼女が払ってくれた。

「これでも一応年上ですから」誇らしげにしている彼女がとても幼く見えて、とても可愛かった。

その日は僕は彼女の最寄駅まで一緒に帰った。阪急電車の中で僕は勇気を出して彼女の手を握った。「あーあ。お酒も入ってないのにこんなことしちゃうんだ。ダメなのに」彼女はそう言いながらもしっかりと僕の手を握り返してくれた。僕はそれに安心したのか彼女の肩でぐっすりと眠ってしまった。気付くと駅に着いていて、彼女が起こしてくれた。改札の手前で「ここまでで大丈夫だよ。来てくれてありがと」と言ってハグしてくれた。とても短いハグだった。それが終わるとまたね、と彼女は言ってそそくさと彼女は帰って行った。もう一度告白しようとしていたのが見え見えだったのか、タイミングすら与えてくれなかった。

その日から連絡の頻度は少し落ちていった。僕は嫌な予感がして、もう一度デートの予定を取り付けた。そのデートの3日前、デートに備えて散髪を終えた僕に、彼女から電話がかかってきた。   「ごめんね。デートに行けなくなっちゃったの。それでね、私卒業したら東京に行かないと行けなくなっちゃって。だからもう会うのも終わりにしよ。私から連絡ももうしない」彼女はゆっくりとそう言った。僕はとても悲しくて言葉が出なかった。

「そっか」
精一杯の返事がこれだった。彼女は僕のこの返事に短く「うん。じゃあね。」と言って電話を切った。泣きそうになった僕は河原町のど真ん中で煙草を吸った。路上喫煙で取り締まられて千円徴収された。

「会いたい」

僕は彼女にそう送った。返事はなかった。
彼女が好きだと言ってくれた香水を、僕はあの日から一度もつけることができない。

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