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あの頃の母を抱きしめてあげたい

最初にタイトルを書いた時点でボロボロ泣き始めてしまった。もうすでにつらみ〜。大丈夫かなこれ。
これは東京で生きていた私の母親が、私と同じくらいの歳で田舎に一人で嫁いでいったお話。
(嫁ぐという言葉自体がすでに好きではないのだけど)

私の母親は元CAだった。外の世界が好きで、色々な場所を飛び回れて、色々な人に出会えるこの仕事はまさに転職だった様子。海外旅行にも相当行っていたようだし、母が若い頃の話を聞くと、なんか私とめっちゃ似てるなあと思う節が多々ある。

母親は確か26歳くらいで結婚した(うろ覚え)私は今年24歳になるので大体同い年。
バブル全盛期のことだから、寿退社をして、女性は仕事を辞めて主婦になるというケースが一般的な時代。
母は、苗字も友達も家族もキャリアも置いて、父が暮らしているコミュニティに、身一つで嫁いで行った。

私の実家でもある、母が嫁いで行った先は栃木の一軒家。しかも二世帯住宅。つまり父親の両親と同居。母親だけ"よそ者"という状況が出来上がってしまった。自分で選んだ道でしょと言われればそうかもしれないけど、父と母で1対1だったのが、急に3対1になるのはフェアじゃないし、フェアじゃないことを自覚することと、その上でサポートをするのは必須だと思う。

家庭にもよるから一概には言えないけれど、本当に田舎の価値観というのは友達に話すとびっくりされるくらい古いもので、どのくらいかというと、私は女だから、当初大学行きも反対されていたくらい。
女が大学に行って何になる、と、今Twitterで言おうもんなら炎上必至の言葉を言われたりもした。大学を卒業してから知ることになるのだけど、私が大学に行けるよう、どうやら母親が説得してくれたらしい。

親戚の集まりでも、食べ物を運んだり、食器を下げたり手伝ってあげなさいと言われるのは女である私だったし、弟やおじさんには誰もそんなこと言わなかった。
「お母さんたちが作ってくれたんだから、せめて片付けはそのほかのみんなでやればいいんじゃないの?」と言って場を凍らせたこともあった。
結局わたしと母で一緒に食器を洗いながら、「大丈夫、間違ってないよ、ありがとうね」と母がボソッと言ってくれたのを覚えている。

孤独だったと思う。あまりに文化が違いすぎて息苦しかったと思う。「82年生まれ、キムジヨン」のようなことが私の母親にもまじで起こっていた。
母は仕事で遅くなっているのに、ご飯ができていないとなぜ母が咎められるの?なぜ父は遅くまで飲みに行くことを許されて、母は咎められるの?
あまりにもカゴの中の鳥すぎやしないか、と思う場面を何度も見てきた。


私がもしあの頃の母親と友達だったら、抱きしめてあげたい。

飲みに行って、愚痴を聞いて、もうやってられなくなったら一緒に家出したりしたかった。

気付けば私も、あの頃の母と同じくらいの年齢になっている。
留学したいからTOEFL頑張る、今勉強しているのはこれ、将来は自分で何かを始めてみたい、と私の展望をシェアする度、母はいいねいいね!と背中を押してくれる。と同時に、今の子は羨ましいなあと零し、少し寂しそうにする。
わたしの若い頃もそんな風にできていたらなあとでも言うように。

社会人になって最近感じるのは、母親に何かを託されているような感覚。
母があの時できなかったこと、やりたかったことを叶えていってほしい、言いたかったことを言ってほしい、あなたは色々な場所に飛んで行ってという願いを背中にひしひしと感じる。
私にとって、これは重荷になっているのではなくて、むしろ原動力になっている。

だからわたしは色々なことを勉強して、色々なことに挑戦する。周りになんか大変そうだねと言われても、生き急いでるねと言われても。
母にかっこいい背中を見せられるように。

さ、寿命を使い倒すよ〜!!!

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