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お賽銭の心理と福豆の価値
節分の日、巫女として神社に立ちました。授与所での仕事です。普段のお守りお札もそうですが、福豆を配る役目も担いました。
福豆は、極論すればただの大豆を袋に包んだものです。
しかし、それにどれだけの価値を見出すかは人それぞれでした。
神社では、福豆を無料で配布しています。
個数制限はありません。参拝者が家族や地域の方のために持ち帰るのも自由です。
その横には、お布施のためのトレイが置かれています。ここに「お心」を頂戴する形で、お賽銭を入れることができる仕組みです。
興味深かったのは、このお賽銭の額が人によってまったく異なっていたことです。一円も入れずに二十袋ほど持ち帰る方がいる一方で、千円のお賽銭で三人家族がそれぞれ一袋ずつ受け取る方もいらっしゃいました。
最も驚いたのは、五百円のお賽銭で一袋だけ持ち帰る方です。その方は、福豆を受け取る前に手を合わせ、受け取った後にも再び手を合わせて拝んでいました。
「ご家族の分もぜひお持ちください」と声をかけると、驚いた表情を見せたあと、再び五百円をお賽銭に入れ、一袋だけ受け取って笑顔で去っていきました。そこにあったのは、福豆への深い敬意でした。福豆という存在が、ただの大豆ではなく「神の授けもの」として認識されていることへの驚きがありました。
一方で、神職の方の言葉にも驚かされました。
「お札のお賽銭が入ると、その上に百円や五百円を重ねるんです。目に入りやすくすることで、お賽銭をする人が『これくらいが普通なのかな』と思ってくれるんですよ」
思わず笑ってしまいました。しかし、理にかなっています。
お賽銭の額には明確な決まりがありません。そのため、他の人の行動を参考にする心理が働くのでしょう。
福豆一つに込められた価値の違い。金額の大小ではなく、その人にとっての「意味」。
私は、ここまで何かに「ありがたい」と感じたことがあったのかなぁっと。
神社の節分の日、そんなことを考えさせられた一日でした。
余談として。
帰ったら複数のパッケージに包まれた福豆が十数個あり、見た瞬間吹き出しました笑
父が複数の神社仏閣を跨いでいたようで、帰ったら沢山あったんです。
私も貰ってきてたので、暫くのお菓子は大豆になりそうだなぁ~笑笑