小説『フルーツミックス』
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『フルーツミックス』 reina☆
第1部(第1話〜第50話)
第1章(第1話〜第10話)
第1話「放課後」
電車に乗ると普段よりも少し高い位置だからか街が見渡せる。ぼんやりと窓の外を眺めながら考えてみた。
おれが生まれてからずっと住んでいる東京の郊外にある「よりみち商店街」はバブルが弾けてから随分経った今ですら、近所の酒屋が押しボタンを押すと開く自動ドアをつけたとか、生協の煙草の自販機を最新式にしてお札が入るようになったとかそんな些細な変化が話題になるばかりで、おれのまわりは相変わらず古臭い昭和の頃の印象が残ったまんまだった。それが、こんな風に視野を広げて少し遠くを見てみると、前までは雑草だらけで無駄に広いだけだった空き地や山がここ数年で広く開拓された。高層マンションや工業団地が隙間なく密集し平行線宛らに建ち並び、これから少しずつ大型スーパーやショッピングモールができる予定らしい。小洒落た色素の薄い夏らしいペイントでサマーオープンだと書かれたボードが街のあちこちに貼られていたり、オシャレな服屋やカフェだなんだと、そういう浮ついた話が高校の至る所で行き交っていたのを思い出した。
おれは最寄り駅で鈍行電車を降りる。改札口の向こう側で幼馴染の棚引霞(たなびき・かすみ)がこっちに気づくと手のひらを大きく広げて、細い腕をぶんぶんと横に振った。おれは定期券を通しながら駆け足でカスミのところへ行った。
「ヒロム、昨日新しくできたっていうコンビニエンスストア、寄っていかない?」
カスミは、今日もおれに構ってくる。
「高級マンションの一階にできたやつ?」
「そうそれ」
「嫌だよ。おれの姉貴がアルバイトはじめたんだから」
「シズカさんが?レジ打ちかな?」
「恐らく。品出しや掃除とか力仕事をあいつにさせたら罵声を浴びせられそうだ。『アタシを誰だと思ってるの?』ってね。新規開店の臨時アルバイトっていうだけで多分長続きしないよ」
「そしたらきっと今頃美人見たさに大行列が出来てるわね」
「今頃その本社とかに電話でクレーム対応の全部が姉貴による不祥事だったりしそうな勢いなんだよな」
「そんなことないわよ‥多分」
「ほらカスミだって、ちょっとはそうかもって不安になんだろ」
「確認のためにも行ったらいいんじゃないかな?わたし無料引換券持ってるの」
「なんの?」
「ソフトクリーム♪」
「やめとくよ」
「えー、チョコかバニラかミックスか、選べるのよ?」
「姉貴がいたずらして何か変なモン入れそうだな、チューブで6センチくらいの練りわさびとか」
「仕事中なんだから流石にそういうことはしないんじゃない?」
「いや、あいつは気にしないでそういうことするんだよ。おれはこれから古本屋寄るつもり・・・ほら、あるだろ読書感想文の宿題」
「真面目すぎるのよ。まだ夏休み始まってもいないんだから。そんなの今日じゃなくたっていいじゃない。でも、どうしてもっていうんなら‥わたしも古本屋寄る」
「どうしてもじゃ無いから、今日はいいよ。カスミはおれなんか誘うんじゃなくて、他のそういうの好きそうな女の子の友達と行ってくれば?」
「今日の気分はヒロムだったのよ」
「なんだそれ」
カスミはツンと唇を立てて、すー、と鼻息を吸い込み、軽く横を向いた。
「一緒に帰れりゃ、わたしはなんだっていいのよ。あんたは魔除けよ魔除け」
「男避けじゃなくて?」
「それもあるけど魔除けにもなるのよ」
「例えばどんな?」
「あんたといるとね、わたしが嫌だと思ってること。そうね、悩みとかいざこざとか混乱してることとかが、何もかも全部まるごと吹っ飛んでいくのよ」
そう言ってカスミはどこか照れた様子で、でもちょっと嬉しそうに笑った。そして今度は視線を落として暫くぐっと息を潜め、わざと黙っている様子でおれの後ろを歩いていた。
いつもこんな風に大人しかったら女の子らしくていいのにとおれは思ったが、いつものカスミらしくない気がした。おれは少し時間を置いてから「カスミは居たら居たでうるさいけど居ない時にはなんかちょっと寂しいぞ」と言った。
変にこそばゆい、ふわふわした雰囲気から逃げたい、という気持ちがあって、どこかなんだか違和感があるのだった。
「その、うるさいってのはすごく失礼だし、余計よ」
「事実を言っただけだ」
「うるさいわね。わたしは珍しく褒めたのに、なんか貶されたみたいだ」
「貶してなんかないよ」
「でも褒めてもない」
「まあね」
「ヒロムは時々でかくて邪魔よ」
「それはしょうがないよ」
邪魔というのはおれの身長のことだ。カスミはよく、おれの身長のことばかり悪く言う。高校生になればそりゃ身長が伸びる。しかし、伸びすぎるのも困りもので、一学期最初の身体測定で183cmを超えはじめた。
「最近、寝てるとき金縛りがひどくて大変なんだ」
「金縛りってなったことない」
「え、そうなの?」
「どんな感じ?」
「動けない」
「へえ、おもしろそう」
「面白がるな」
そんな感じでおれたちはこんな風に土地開発の進んでいくのを遠目で見ながら、大して何も変わり無い商店街の路地裏を抜けた。古本屋はいつだって行けるけど、近所だけど、だからなのか、行くのは久々だった。むせ返るようにいろんな人間の匂いが集まって漂う。それはどこか雨の森の中のような温かさも感じられた。おれは夏休みの宿題を七月中に済ませておかないといけない。八月になったらやる気が起きないし、理由あって出来なくなってしまうのである。そして、その読書感想文の宿題は、小説を四冊読んで感想文を書くか、新書二冊読んでレポートを書くかのどちらかで選択が出来るというものだった。
「小説がいいよね。新書なんて読んだところでわたしたちは研究家なんかじゃないわけだし」
「でもおれ哲学か心理学がやりたいんだ」
「そうなの?相変わらずお堅いわね。」
「だからおれは新書かな」
「じゃ両方やったら?ちょうど二冊だし」
「なんかすごい言われようだな」
「口が悪いのは私の特徴なの」
「なんだそれ。意味わかんないね」
「でもわたし思うんだけど、ヒロムには哲学も心理学も向いてないと思うわ」
「そうハッキリ言うなよ。でもどうしてそう思うんだ?」
「だって、人の気持ちに気づいてないんだもの」
「誰の気持ち?」
「わたしの気持ち」
「どういうこと?」
カスミは少し黙って、ゴホン、と咳払いをした。
「わたしは小説にする。おすすめの小説、何か選んでよ」
「そうだなあ、なんのジャンルがいいの?」
「なんでもいいわよ」
「よくないよ。興味とか相性とかあるだろ?」
「じゃ、恋愛小説」
「お前が恋愛小説!?」
「悪い?」
「や、悪くないけど。なんか今日、お前らしくなくってさ。お前、明日死ぬんじゃねえか?」
「失礼な!どんなわたしだってわたしよ」
「そうか」
「ちょっと放っといて?真剣に選ぶから」
カスミが日本の小説の棚の作者や題名に目を通している間に、おれはプラトンの哲学とユングの心理学についての本を買ってきた。レジで石山の爺さんが手こずっていて結構遅くなった。実家のレジと同じものだったから、客のくせにあれこれと手伝ってしまった。お礼のついでに「カスミちゃんとまだ付き合ってないのか」って余計なことを言われた。老舗ってそんなもんなんだよな。客をもてなす気がまるでない。長いことおれらを知ってるからつついてくる。ほんと、面倒くさいな。
それから戻った頃にはカスミはおれを探していて、その後ろ姿が見えたので「カスミは最近出たばかりの新刊とかの方がいいんじゃない?」と声をかけた。
「び‥びっくりした!気配を消して近づかないでよ」
「そんなにおれって影薄い?」
「いつもはそんなことないよ。でも、今は、すごく、びっくりしたの」
「そうか」
「どこ行ってたの?」
「買ってきたよ二冊。安かったよ。さすが古本」
「わたし飽き性だし、最後まで読めるか自信がないからやっぱり図書館で借りるわ」
「じゃあ今日付き合わせたし、おれも今度一緒に図書館行こうか」
「それ私が行かなくても、どうせさっきの本に関連する資料を集めるために行くんでしょ?」
「うん」
「わたしが行く意味がないじゃない」
「一人で行くより、寂しくないし」
「それがわたしじゃなきゃだめってわけではないんでしょう?」
「うん」
「でもわたしは、今日の気分は、ヒロムじゃなきゃダメだったのよ」
「そっか」
「そうなのよ」
「じゃあ今日もうち来れば?フルーツミックス作るし」
「それはわたしじゃなくちゃあね」
「そうだね」
おれの住んでいる家は三階建ての古い倉庫のような家で、商店街の中でもおれん家より古い家なんか見たことがない。おれの実家はおれにとっては自慢にもならないただのボロ屋だ。おまけに改装に随分と不向きなつくりで、おれが産まれる前に耐震性の良くない屋内階段を取り壊したから、唯一昇り降りができるのは作業場や工場の傍にあるような傾斜が急で歩く度に音の鳴る錆びついて色の剥げた鉄製の非常用外階段だけだ。だから移動するのにわざわざ外に出る必要がある。手間はかかるし、面倒だ。家の中では二階にある俺の部屋として使っている小さな畳の部屋と、それから家族で食事をしたりする居間以外では土足で生活をしている。
でも少しだけ良く言ってみれば、子供の頃から新しいものに囲まれて育って出来たてほやほやな高層マンションに引っ越してきた周りの奴らには特別珍しいものだった。まるで田舎の秘密基地やら隠れ家なんかに通じるものみたいらしく、当時ちょい悪や不良っぽいのが流行っていたのもあって、大勢の暇な友達が集まっては適当に遊んでいた。
でもそれはそのボロ屋が人気なだけじゃなくおれん家が五代二百年ほど続くいわゆる老舗の『矢尾青果店』で、母の作ったそこらでは評判の「うちで扱ってる野菜の見切り品を上手く使った日替わりの特製フルーツミックスジュース」がタダで飲めることを期待してやってくる奴がほとんどだったんだ。だから二ヶ月ほど前におふくろが病気で急死してからは秘密基地なんて誰も言わなくなって、中学生時代の友達やクラスメイトがこれまでみたいに集まることがなくなった。 そんな中、幼馴染というより生意気な常連客のカスミは今日も、おれが母のレシピを見ながら試行錯誤してフルーツミックスを作っているのを手伝っている。いや、手伝っているというよりは飲みに来ては美味しくないとか違うとか適当に批評するために飲み比べの査定をしに来ているんだけど。
「今日のは割といいほうだと思うんだけど。傷んだ林檎の味を活かしてみた」
「うーん・・・まあまあかな」
「人参が多すぎた?」
「ううん、人参は確かに多いけど、苦味とかそういうのはそうでもないの。レモンみたいなやつ入れたでしょ?レモンとは違うけど柑橘系みたいな・・・それがちょっと酸っぱすぎるわ」
「なるほどそれライムだよ。一個まるごと搾って入れたから」
「ライムなんてこの店で売ってたの?」
「市場で競りしてて、つい親父が安いからって乗せられて仕入れたんだよ」
「前に言ってた進藤さんでしょ?」
「そう何でも上手く売る口だけの営業マンだよ 。まあ、あの人のおかげで市場は活性化するっていうか流通も景気も良くなるからそう悪くばっかりは言えないんだけどね」
「ちなみにライムの旬っていつ頃なの?」
「九月から十二月だよ。その早生ものを仕入れたみたいだから」
「それで、お店では売れたの?」
「全然」
「ふうん、やっぱり」
おれん家の八百屋の常連客もほとんどがお年寄りで、だから『ライム』なんて言ってもわかるわけがない。だからそんなもの当然売れるわけがない。前まではジュースを飲みにいろんな世代の人が集まっていたというのに最近おれがジュースを作るようになってからは随分と客足が減った。
「カスミは羨ましいよ…嗅覚も味覚も良いし、そんなん言うなら作ってくれよ」
「ここはヒロムの家だし、そもそも私が作れないことくらい知ってるでしょ」
「でもそんないい味覚しててなんで料理下手なんだろうな?」
「仕方ないじゃない。なぜかそういうのは壊滅的に駄目だったんだから」
「人には得手不得手がある」
「そう、そのとおり」
「でもさ、おれとしてはそこまで、おふくろの味?を再現しなくても別に、ほら元々日替わりだし味が違ってもしょうがないっていうか」
「ばかね、もう戦意喪失?今まであんたもわたしもずーっとあのジュース飲んで生きてきたんだからそれって、物凄く大事なことよ?」
「カスミが厳し過ぎるんだよ。そう大袈裟に言うんだからさ」
「少なくともわたしの半分くらいはフルーツミックスでできてるのよ。ヒロムのうちはフルーツミックスを作ってる場所なのよ。つまりヒロムはその倍以上フルーツミックスで出来てるに決まってるでしょ?」
「それ今日の現代文の授業で散々使った三段論法?」
「そう!」
「でもガーナでチョコは作られてても、ガーナでチョコを食べてるやつは居ないんだろ?」
「それはえっと、それはともかく」
「ともかく?」
「代わりなことくらいわかってても、代わりになるものがないよりはそのほうがいいに決まってるじゃない」
「よっぽどうちのフルーツミックス好きだったんだな」
「当たり前じゃない」
「うん、分かった。がんばるよ」
「ヒロムの場合、リツコさんと違って愛嬌たっぷりなわけじゃないから客寄せのためにパンダの着ぐるみでも着ないとお客さんも来ないかもしれないしね」
「なんだよそれ」
「今度出来るショッピングモールが開く時、パンダのなんかのキャラクターの着ぐるみがやって来るってチラシに書いてあったのよ。それに確か野菜を多く使った料理を出してるオシャレな喫茶店か洋食屋さんも出来るから、ライバルになっちゃうわよ」
「追い討ちかけるなよ。お前はどっちの味方だ」
「わたしはいつでもヒロムの味方よ」
「ほんとか?」
「これはもう、おふくろの味をぐーんと超えないと売れないし万が一売れたとしても暫くは比較されるわね」
「うーん・・・参ったな」
「というわけで、わたしの鋭い味覚が必要な時には呼んでね」
「それお前がただジュースを飲みたいだけじゃないのか?」
「そうだけど、そうじゃない。フルーツミックスがこの店からなくなったら個性がなくなっちゃうと思うの」
「個性なんて、八百屋には必要ないと思うけど」
「良い個性は活かすべきなのよ。樋野先生が言ってたでしょ?フルーツミックスは矢尾青果店にとっていい個性なのよ」
「カスミの言いたいことは大体わかったよ。がんばってみる」
「うん。がんばって」
第2話「ニュース」
例年よりずっと早くやってきた梅雨明け、蝉が煩く鳴いている。期末テスト明けの午後。夏休みが始まる前に既に出されている宿題の半分くらいを黙々とこなした後、自分の部屋にあるジリジリと横にヒビのように線が入る中古で買ったテレビを点けたまま六時からのニュースが始まるのをぼーっと適当に流していた。
「本日のカスミはビッグニュースが目白押しでっす!」
聞き慣れた声がテレビと反対の方向から聞こえて、おれは後ろを振り返った。
「うわ・・・なんだよ、びっくりした」
おれは座っていた学習机の椅子から転げ落ちそうになりながら答える。あいつがおれの部屋の窓枠を外からよじ登ってきていたのだ。おれはリモコンを定位置のベッドの枕元に取りに行き、テレビをリモコンで消した時にはもう既にカスミはおれの部屋に上がっていた。
「よっ・・・と」
おれの幼馴染で裏の三階建てのマンションの二階に住んでいるカスミは、ぺたんこのミュールサンダルを両方とも左手で軽々と持って軽装というより完全なる麻生地のゆったりした部屋着で、右手に小さなビニール袋を提げていた。
「なんでテレビ、消したの?」
まるでさっきまで寝ていて、すぐそこのコンビニエンスストアに買い物に出てきたというくらい、何も持っていなかった。
「さっきのアナウンサーの人、聴きやすくていい声してるわよね、ちょっと好き」
窓枠を飛び越え降りた時に襟元が開いているTシャツの胸が見えるか見えないかのギリギリで、おれは幼馴染とはいえ少しだけドキッとしてしまった。
「お前がニュースがあるとか言うから。何かと思って‥」
おれはリモコンをもう一度手に持った。
「ううん、アナウンサーはもういいの」と、カスミはおれの持ってるリモコンを取り上げた。
「それにしても、こんな所よく登れたな。その窓よりこっちの窓の方が低い位置にあるのに」
「わたしの前世は猫だったのかもしれない」
「そうだなお前、猫かぶり上手いもんな」
「そうじゃなくてさ」
さすがおれの家は防犯性の無いボロ屋である。カスミのように器用な泥棒がいつ入ってもおかしくは無いなと考えながら、おれは「ほれ」と机の引き出しから中学時代に使っていたバッシュ用の巾着袋を出してカスミに渡した。
カスミは受け取ると広げた。
「ねえ、これ穴空いてる」
「どこ?」
「ほらここ」
「仕方ないだろ。三年間ほぼ毎日使ってたんだから」
「洗ってある?」
「当然だろ。開けて見りゃわかるよ」
カスミは巾着の口を広げてクンクンと嗅いだ。
「そんなもん嗅ぐなよ」
「あんまり男臭くないんだよな、ヒロムって。そうだ、この部屋もだけど」
「でもおれ男だよ」
「知ってるよ」
「嫌ならビニール袋もあるぞ」
「これでいいよ」
「そうか」
「わたし、あんたのそういうとこちょっと好き」
「何が?」
「綺麗好き」
「そうか?」
「うん」
そう言うカスミは女の子らしく照れる感じと言うよりは、どちらかというとおれを上から目線で見てニヤリと笑うような意地悪な感じだった。そして見るからにおれのバッシュ入れに見合わない華奢なサンダルを手早く入れて紐を閉じそのへんに投げ捨てると、勝手におれのベッドに腰掛けた。
「お前ん家のマンションから何か言われたりしなかったか?苦情とか」
「『気をつけてね』って中田さんはベランダ菜園でトマトに水をやってて。吉岡さんは『あらカスミちゃんは昔から木登り得意だものね』って」
確かにカスミは幼稚園の時から雲梯や登り棒が得意でいつもこつも高いところによじ登るからあだ名が猫やテナガザルやアカアシドゥクラングールだったが、ここまでとはおれも思わなかった。
「吉岡さんはその時双子の息子さんのちっちゃい靴下をいっぱい干してた。小学一年生だからかな?植木鉢に薄紫の朝顔が咲いてたよ」
「ああ、まさるとさとる?・・・お前、繰り返してっと警察に通報されて逮捕されるぞ」
「それは、誰に、通報されるの?」
「えっ・・・と、おれに?」
「わたしってスタイル抜群で脚がものすっごく長いのよ。だから簡単にヒロムの家をよじ登れるのよ。それだけのことだよ。罪を被せるならわたしじゃなくてこのながーい手脚に言いなさい」
そう言いながらカスミはショートパンツから痩せ過ぎた華奢な脚を下から上へと軽く撫でて見せた。それはおれの目にはスタイルが良くて脚が長いのか、細すぎて長く見えるのか残念ながらよくわからない。ただ、周りからよく言われているところを聞いては、そうなのかと思っていた。
「でもお前、この前松前に『カスミは美脚でいいよね』って言われて『えーぜんぜんそんなことないよー』とか言ってたろ」
「だってわたしってすっごく性格悪いんだもの。本当に思ってる事を言って傷つけたりしたくないじゃない」
「性格悪いの自覚しているって分かって安心したよ」
「なにそれ酷い」
女友達に言ってることとおれにやってることが違い過ぎてこいつ実は人間の皮を被った悪魔なんじゃないかと思う時がある。
「それにしても本当に突然だな」
「突然やって来るって最高でしょ?」
「昨日読んでたファッション誌の・・・『月刊オルケ』?の、今月の牡羊座は『意外性のあることをすれば恋愛運が上がる』とかいうやつ?」
「『月刊オルケ』じゃなくて『月刊オルフェ』ね。オルケってリルケみたいよ」
「でも惜しいじゃねーか」
「まあ、そうね」
「それでその・・・ビッグニュースってのは何?まさかジュースじゃないだろ」
「ラブレターの数、更新したの」
「またそれか」
「悪い?」
「別に悪くは無えけどさ。良い気もしねえよ」
窓から入ってきたのは初めてだったが、カスミは時々こうやっておれの家にやって来ては何か適当に話をしていくのだ。正直本当にどうでもいい話をしていく。暇なのか世の中や誰かに対する愚痴だったり、自分のことに関する自慢だったり、そして特にラブレターの更新については毎回必ずやってくる。それは、カスミはまるで漫画みたいに毎日、束ねればこの机の棚に置いてある広辞苑の高さと同じくらいになりそうな量のラブレターを貰うからでカスミはその懲りない少年達を相手になんてしないのだ。
「前の記録は一日に18通だったっけ?」
おれは自分のダイアリーの一番後ろのページに書かれた一番大きな数字をさりげなく読んだ。
「そんなにモテるんだったら意外性なんて必要ないだろ」
「『モテる』と『恋愛運』は全然違うんだもん」
「うーん、わかるような、わからんような」
「『頭が良い』と『勉強ができる』は全然違うでしょ」
「なるほど、よーく分かりました」
「ねえ今、シズカさんのこと思い出したでしょ?」
「思い出してねえよ」
「思い出したよ、絶対!」
「それで?」
「それで今回は23通だった」
今度は18と書いてあるその真上に23と黒のボールペンで追記した。
「5通も増えたのか」
「こんな分厚いのもあるのよ。きもいわね」
「きもくないだろ。想いの厚さだろうが」
「そういうのが、ねちっこくて、じめじめしてて、暑苦しいって言ってんのよ」
「セミのことならおれも同感だけど?」
「夏休み前だからかな」
「いや、おれはまだ生きてますよーって必死に叫んでんだろセミたちは」
「違うよ。セミってオスが鳴いてメスを呼んでるんだよ。『セックスしてぇよお』って」
「お前なあ、女がそういうこと言うなよな」
「だって、本当にそうなんだよ。確か」
「いや、おれは知らないけどさ」
おれはちょっとだけ引いてしまった。カスミってそういうこと言うんだ?と意外に思ったのだった。
「ヒロムこそ実際どうなの?高校生にもなれば彼女くらい欲しいって思うし、そういうことちょっとくらいは考えるでしょ?」
「まあ、考えてないって言ったら嘘になるけどさ」
「そう考えるのって恋文も蝉時雨も似たようなもんだよね」
「ロマン無いなお前」
「だって下心のない人間なんている?」
「そりゃ、そうだけどさ」
「今の時期ってさ、焦ってるのか知らないけどみんなそういう感じよね。さみしいのかもしれない」
「さみしくないのか、お前こそ彼氏いないだろ」
「だってだって、興味・・・無いんだもん」
「多少興味持てよ。花の女子高生?なんだし」
「興味あるやつからは絶対そんなの来ないし。そいつらに興味無いんだもん」
「正直者ってわけか」
「うん、そうだよ。だからわたしはヒロムが」
知ってるのと興味があるのとでは違って興味があるやつは?
「じゃあ返事も書かねーの?」
「書くわけないでしょ」
「それでどうするわけ?」
「こうするの」
カスミはそう言って、小さなビニール袋から比較的薄いラブレターを1つ取り出して思い切りビリビリと破った。そのビリビリになった紙はおれの部屋のゴミ箱へパラパラと細かく流れていき、つまらない有名な誰でも思いつくダジャレが脳裏を彷徨いたあと横切ったが、面倒だったのかカスミは袋に残った22通をまるごとゴミ箱の中へドサッと落とした。
「さて、ヒロムの今日の日記はこうよ。『ラブレターがヤブレター』、でしょ?」
「お前言ったな。残念ながらウケない」
「だって事実じゃない」
「ひどいな」
「ひどくて当然よ。わたしは性格がひっどく悪いんだもの」
おれは自分がもしラブレターを書いて、好きな女の子に渡したとして、そんなザマになってることを知らずに返事を待つ男の気持ちをなんとなく考えていた。
「相手だって書くこと人生掛けるかって程真剣に、一生懸命考えるだろ」
「だってわたしのこと、ぜんっぜんわかってないんだもん」
「付き合ってからわかってもらえば」
「どうせ好きなのはこの顔なんでしょう?」
確かにカスミはクラスの中でも美少女と言われているのだ。ただ性格には絶大な難があると言っても過言ではない。ラブレターを読むのも破り捨てるのも面倒になって、そのまま捨ててしまうくらいの鬼畜な神経を持ち合わせるに至るまではおれが思い出すことも嫌になるくらいで、とはいえその手紙の内容のうち一人くらいはカスミの性格の悪さを理解していて、それでも好きというやつがいてもおかしくないんじゃないかとおれは思う。
「お前一度は読んだっていいんじゃないか?その手紙。目を通すくらいには」
「わたしはね同情なんてしてられないんだよ」
カスミはそんな深刻な話の中、口をつんと尖らせ目を真ん中に寄せるようにして変な顔をして見せた。そして、べーっと言って舌を出した。その顔を見たらラブレターを渡したやつは全員告白を取り消すぐらいといえば過言かわからないが、とても凄まじい顔になっていた。
「じゃあヒロムはラブレター貰ったらきちんと返事書くわけ?」
「書くよ。それか呼び出すよ。もちろんちゃんと返事する」
「ていうことはラブレター貰ったら付き合ってみてもいいかなとか思うわけ?」
「まあ」
「わからないな。だって関わりなんてそれまでは全然無いってわけでしょう?」
「あるやつかもしれないし無いやつかもしれないけど好意はそういうものだろ」
「好きって思えるのかなあ、そういうの」
「それはわからないけど、きっかけは1からでも作りたいじゃんか」
「ヒロムの場合さ、こんな良い女が近くにいるから絶対彼女出来ても不細工に見えるよ。絶対」
「お前さっき言ってたことと全然話が違うぞ」
「顔がどーのっていうのは、ヒロムの恋愛に関わってくるんだよ」
「なんでだよ?」
「ねえ、ヒロム。そんな軽くっちゃ男がどんどんさがるよ!」
「別におれは軽くはないと思うけど」
「だってね。好きって言葉は重いよ。だから多分そんなに簡単にいくものじゃないと思うの。ラブレターなんかでそんなものが伝わるなんて考えるうちはその重さになんて気づいてなんかないんだよ」
ふーん、なんだかなぜそういう話をしてるのかよく分からないがカスミのくせに、もっともらしいことを言うもんだ。「おれはそうは思わないけどな。だってそうなら芸能人へのファンレターが嘘になるだろ」
「それは会えないから。当たり前に会える人じゃないから話せない代わりに手紙を送るんでしょう?」
「お前のことを当たり前に会える人じゃないと思ってるやつは、その中にいるんじゃないか?」
「そういう隙があればついてくるんだから。そういう男って嫌われるよ」
「お前に嫌われたって構わないよ」
「ほんとに?」
「うん」
「ヒロムがいつか本当に好きな人が出来た時にそうやって気づかないうちにボロがボロボロ出るよ。絶対出るよ。嫌われるよ」
「そーですか」
「そーですよーだ」
カスミは時々、泣きそうな顔になるのを堪えて怒るのに必死だった。それがなぜなのか、おれは時々不思議に思って眼の際に視線を落として、確かにカスミは睫毛が長くて、言われてみれば綺麗な顔立ちだなと見ていた。
「お前がラブレターを更新しているうちは、そいつらの気持ちなんてわからないんだろうよ」
「そうね。一生わかりたくないわ」
カスミは目を細めてあからさまにムッとした。
「わかろうよ」
「わかりたくない!」
「・・・じゃあ一生独身か?」
「それは絶対嫌!」
「あまりに理想が高いと身を滅ぼすぞ」
「私の理想なんて1ミリも高くない」
「そうならとっくに彼氏いるだろ」
「女の子に向かってそれは最低」
カスミって宝の持ち腐れだよな。一体何が楽しくてラブレターをわざわざ数えたり破ったり捨てたりするんだろう。外で猫を被って、モテてしまって、ラブレター貰って、ストレスが溜まって、そしておれの所へ来て愚痴を言うのだとしたら、そんな負の連鎖よせばいいのに。もっといい方法があるかもしれない。
「お前、誰か好きな人でも居たらいいのにな」
「え?なにそれ」
カスミは驚いたように言う。
「ばかね、わたし、好きな人くらい居るわよ」
おれにとってはかなり意外なくらいの即答だった。てっきり居ないものだと思ってたからだ。
「なーんだ、居んのかよ」
こいつが好きなるやつなんて一向に想像付かねえ。
「じゃあお前、おれにそんな話する余裕あったら、先ず、そいつにアタックするべきなんじゃねえか?」
「当たって物凄く砕け散ってるわよ」
「ふ・・・ふられたのか!」
多少、直球過ぎたからまずいなとは思ったけど聞かずにはいられない。
「そ、そんなわけないでしょ」
「ふられる前に、玉砕か?」
「うるさいわね。こんな美少女を前にして最低男なんだもんね」
「そんなやつやめとけよ。ていうかそれ気がないとかいう以前に相手にされてもいないんじゃねーか?」
「ばーか!」
「図星か」
「ばーかばーかばーか」
そ、そんなに好きなのか・・・そいつのこと。
「おれの知ってるやつなら、協力するけど」
「多分何回もそれとなーく教えてるわよ。だから‥そんなの教えてたまるもんですか」
カスミの鼻が膨らんで、鼻息もちょっと荒かった。
「そ、そうなのか?」
思い当たるやつが誰も居ない。それに余程言いたくなさそうなのでおれは、こいつの好きなやつが誰か気にならないことはなかったけど、詮索されるのも嫌なのかもしれないと思った。
「それで、告白したことあるのか?」
「多分100回くらいはしてるわよ」
「それで?」
「全く気づかないのよ」
「そりゃひでぇや」
「部屋にも入れてもらったことあるのよ」
「それはすごいな」
「でしょ?」
「でもその先どうなったか幼馴染としてききたくねえな」
「なにもないのよ」
「そんなことがあるのか?」
「あるのよ」
「不思議だな。そんな男もこの世の中にいるのか」
「バレンタインデーにもばっちりの本命あげてるのに『激まず』とかって、もうすっごいひっどい言い方するのよ」
「それはお前の料理のセンスのせいかな。おれ宛の義理チョコでも激まずだと思ったもんね」
「おまけに顔近づけたり色っぽい話を持ちかけてみても真顔なのよ。すごく真剣な感じなの。まあそれが好きなところでもあるんだけど・・・」
カスミが誰かに近づいて顔真っ赤にしないやつをおれは今まで見たことがない。そんな奴がどこかにいるのならお目にかかりたいものだ。全く。
「しかし、付き合ってもないのにノロケみたいな話だな」
「ノンケだったらいいんだけど」
「うええ、そんな心配が必要なほど女々しいのかよ」
カスミはなんだか悲しそうな顔をしている。
「女々しくなんか無いよ。たまにすごく男らしい時があるし」
「そうなのか」
「あのね、恋愛は理屈なんか何にも通じないんだよ。言葉に表せないくらい心が爆発しちゃいそうで、理性と闘うので精一杯な感情の世界だから。ヒロムはそんな気持ちになったことはないの?」
「残念ながら無いな」
そんなにも切実なことなのか。
「でも女の子に興味が無いとか、そういうんじゃないよね」
「おれは女の子に興味があるぞ?でもそうだな、そいつがおれに興味があるかどうかはちょっとよくわかんないんだよな」
「そ、そうなの?」
「わ、わかったそこまで言うんなら男の持ち物の隠し場所を教えてやるよ」
「エロ本?」
「お前そういう所まで露骨なのはどうかと思うぞ」
「ヒロムはそれがどこって?」
「ベッドの下に」
カスミはおれのベッドの下を覗き込み始めた。
「うわ、ホコリまみれじゃない?掃除しなさいよ」
「お母さんみたいなこと言うなよ」
「たしかに私もベッドの下ホコリが溜まっているかも。掃除しなくちゃ。それで?」
「待て、おれのじゃねーぞ?お前の好きなやつの話だって」
「ベッドの下に?」
カスミが突然にやにやし始めて、鼻を少し鳴らすようにフッと笑った。一体どうしたんだか。謎なほどにんまりしている。
「なんだそのきもい顔」
「きもいとは失礼な。こんな美少女に向かって」
やっぱりにやにやしている。
「聞く気あるのかよ変態」
「変態はお前だー」
「なんでそんなに楽しそうなんだよ?」
「だって楽しいもん」
「言いふらすなよ」
「どうかなー」
「あのな、素直に聞くしかねえかもな」
「え?なんて?」
「あなたはゲイですか?って」
「なにそれ。中学英語の教科書のすごく変な直訳みたい」
「たしかに」
「ねえ、それで?ヒロムはどうなの?」
「おれ?」
「あなたはゲイですか?」
「ちげーよ」
その瞬間にカスミはふわっと花が咲くみたいに女の子のような顔でクスクスケラケラ笑った。いつもそういう顔をしていればおれだってカスミのことをそういう対象として好きになりそうな気がしたけど、カスミにおれはお呼びじゃないことくらい分かってたし、どっかで歯止めみたいな扉に鍵をかけている気が、いつもしていた。
「なにこれ!ヒロムって熟女好きなの?」
「違うよ。これは安田に借りたんだ」
「安田くんとそういう貸し借りをしていたなんて知らなかったわ」
「だからさ‥」
「うわあ。スチュワーデス、ナース、OL、レースクイーン、セーラー服って、一体どういう趣味なのこれ?コスプレ?」
「だからさ、おれの聞いて一体どうするんだよ」
「参考にしてるだけだよ」
「参考になるかよ、そんなの」
「ねえヒロム。この中で一番好きなのってミニスカポリス?」
「なんでだよ?」
「だってこれなんか一番折り目がついてるし、何個も似たようなのあるし」
「ちょっと、お前もうそれ漁るな。返せ」
「コスプレとかってほら、わたしスタイルが良いから何でも似合うと思うんだけど、ていうか、どうせどっかに隠し持ってるんでしょ。そういう服」
「あるわけねえだろ」
「彼氏のフリしてくれたら着てもいいよ」
「お前何言ってんの?おれで練習みたいな真似すんなよ、そんなの女の価値が落ちるだけだぞ」
「じょ、冗談だよ。言ってみただけ」
「そう言ってさ、結局本当は好きなやつ居なかったとかいうオチだろ?おれが真剣に聞いといてもいつも損するやつ」
おれが笑ってそう言うと、カスミはちょっと困ったというような顔をし「そうだよね。本当ばかみたい。ごめん、わたし好きな人なんて居ないんだ」と言って、泣きそうな作り笑顔を見せてそう言った。おれは知ってる。これは、あいつが嘘を吐く時に見せる顔なんだ。
「お前・・・いい加減にしろよ!どこから嘘だったんだよ」
「全部だよ」
カスミは思い立ったように右脚を持ち上げてササッとサンダルを履き、左手に片方のサンダルを持って、「もう帰らなきゃ。ご飯の時間だもん」と言って、思い切りおれの部屋の窓から大きくジャンプするように飛び降りた。二階からとはいえ、脚の長さに自信があるのか知らないが、かなりある大きな段差だと思う。おれはそれを見ながら、全部嘘だと言われた時に全部本当なんだろうなと、なんとなく察してしまった。
「なんなんだよ」
近すぎると分からないものってきっとある気がする。例えが難しい。眼鏡をかけたまま眼鏡を探す、読書しているおばあちゃんみたいに。うーん。それもそれで何か違うような気がする。カスミの好きな人って結局誰なんだろう?特に用もないくせに突然やってきておれを困らせるカスミって本当にふしぎなやつだ。ただ、おれの性癖について知られてしまった。これはまずい。うるさいあいつの事だから絶対どこかで誰かに話すんだろうな。
そう思いながらおれはあいつのマンションのベランダの方を見て、日が暮れていく途中の空を眺めていろいろ考えてしまいそうな頭をカーテンを閉めて遮った。そしてもう使うかどうかわからないバッシュ入れの穴を適当に繕い、内側に入れた玉結びを失敗した。見えないからいいけど不細工な感じで、でもやり直す気にはなれなくてそのまま机に仕舞った。男がこんなちまちました作業をするもんじゃないなと思いながら余った糸くずを捨てられずに針山に刺した。ゴミ箱のラブレターはビリビリになったものも含めて拾い集めた。「憧れの存在だ」とか「綺麗だ」とか、「優しくてかわいいところが好き」だとかが見えたとき、読もうか少し悩んだけど、やっぱりそういうことをするのは気が引けるなとおれは辞めた。ちょうどあった、モロゾフの風見鶏の絵柄が描かれたクッキーが入っていた空の箱の缶かんに入れて先刻カスミが入ってきた窓の傍に、それはまるで墓に手向けた花のように置いて、おれは何も特に考えずに手を合わせて拝んでみた。そしてまた「なんなんだよ」と呟いてどこでもない遠くを見た。
やっぱおれはカスミが好きだ。でも恋愛感情とは少し、何かが違っているような気がする。
さっきまでカスミが座っていたベッドの上に腰をかけて、頭を後ろへと倒すように寝転がった。ほんの少し女用の香水っぽい匂いがする気がして、ああ、おれはだめだな、なんて思った。気がつくと電気を点けないといけないくらい外は暗くなって、そのまま朝まで寝てしまいそうなほど静かに、心の奥もしんとしていた。電気をつけて、寝間着を出して風呂に入ることにした。おれは真面目だ。
カスミはどんどん大人の女性になっていく、おれはまるでいつまでも子どものまま変わらないで追いつけないみたいだ。身長ばかり大きくなって、声が低くなっても、彼女が欲しいとか考えてもいい年頃になったのに、カスミのいう話を聞くとなんだか取り残されたような気分になって仕方ない。でもいつか、カスミまでおれから去っていくのは時間の問題だろうなとなんとなく思った。
第3話「ペーパーナイフ」
わたしの水曜日は元々ろくな事がない。呪われているのではないかと考えている。寝坊をするのも、電車が遅れるのも、興味の無い奴に告白されるのも、教科書を入れ違いで間違えてしまうのも、ヒロムとタイミングや調子が合わないのも、大抵が水曜日なのだ。
クラスメイトと駄弁りながら三時間目の授業が始まる前の休憩時間を潰していたらヒロムがチラチラとわたしの方を見ていることに気がついた。毎日ヒロムの事についてだけ挙動不審なわたしが言うのもナンだけど、ヒロムが今日は何だか変だ。なんていうか変なんだ。何か変なものでも食ったのか、隠し事をしているのかわからないけど、悩みがあって落ち込んでいるというわけでもなさそうだけど妙にそわそわしている。
「カスミ」
「どうしたの?」
こうやって話しかけてくる時でさえ、そわそわしている。「別に何でもないんだけどさ、お前気づいた?」
「な、なんの、はなし?」
「気づいてないならいいや」
「だから一体何の話よ」
「気づいてないならいいって」
「それって本当に何でもない話なの?」
「いいって」
わけがわからない。男って本当にわけがわからないけど、ヒロムは違うと思ってたのに。何に気付いて欲しいのかな?・・・ていうかわたしの方がよっぽど大切なこと気付いて欲しいのに。
「だから一体なんなのよ!」
「カスミ、次体育、外だって」
「はーい」
体育着に着替えたらわたしたちは昇降口で靴を履き替えた。「こんなに暑いんだからプールが良かったな」
「ねえ!男子はプールらしいよ」
「あれ?」
靴箱に手紙が一通入っているのが見えた。自然な感じの、とても目に優しい綺麗な若草色で小さなメモみたいなサイズの封筒だ。
「カスミ、またラブレター入ってたの?」
「ま、まあね?」
こんなものが入ってるのは朝か放課後くらいだけで勘弁して欲しいんだけどな。もういっそ、どうにか鍵をかけられるようにしたい。
「カスミって本当にモテるよね」
「ねえねえ、誰から?」
よく見覚えのある字だった。デジャブかと思いながらその封筒をちらっと裏返し、すぐに名前を確認するとわたしは瞳孔が開いた。今までではありえないくらい最速の速さでポケットにしまった。
「今、カスミ、目がなんかすっごいびっくりしてた」
「目?なにそれ?」
「ちょっと、誰だったの?」
「秘密だよ」
「えー、勿体ぶらず教えてよー」
ヒロムが言ってたのってこれだったのか。一体いつ入れたんだろう。ラブレターはいつもピンクや水色が多いし黄緑色の封筒なんてあまり色気が無いかもしれない。でもわたしはあの優しい色がとても好きなんだ。それを知ってるのは多分ヒロムだけなんだ。
「ねえ、カスミ。どうしたの?」
「なんでもないよ」
「矢尾くんのことでしょ?」
松前は小声でわたしにそう言った。
「なんでわかるのよ」
わたしは小声で返事をした。
「私にはわかりやすいもの」
「松前だけだよ、そんな風に言うのって」
体育の授業中、ハーフパンツのポケットの中の手紙がカサカサとわたしの太ももに当たる度に中身が気になって仕方が無かった。頭の中は「一体何が書いてあるんだろう」でいっぱいになっていて、体を動かすことやそういうゲームを見るのが好きなわたしがあまりにぼんやりしているので松前が心配して時々声を掛けてくれた。「ちょっと気がかりなことがあるの」とわたしは言って、松前は気をつかってくれたのか、それ以上は聞かなかった。
体育が終わって、みんなが更衣室へ行くと、わたしはトイレへ行くと友達に伝えてトイレのすぐ手前にあってあまり人通りの無い廊下の消火栓のある傍に行った。深呼吸をしたあと、透明人間が息を潜めるみたいに手紙を開いた。相変わらず丁寧に書こうとしても結局拙く見えてしまうという味のあるヒロムの字で、封筒には形式どおり「棚引霞様」「矢尾弘」と書かれていたから勘違いしそうになった。メンディングテープで綺麗に閉じてあってヒロムの几帳面さを感じた。
わかってたけどやっぱり期待ばかり裏切るやつだ。それがそわそわしていた理由だったなんて、最悪すぎる。そんなのじゃ、まるで目の前で野良犬が糞をして通り過ぎて行ったのと変わらないじゃない。
「あー!もう、頭にきた」とわたしは叫んだ。
「そうだね。先生の自慢話長くて最悪だったー。」
「あ、カスミ、次は第二実験室だから早く着替えてすぐ移動だよ」
「はい、はい、はい・・・」
「どうしたの?」
「え」
「怒ってる?」
「いや、違うよ。ちょっと考え事でイラついてたの」
「それでさっきのラブレターは一体誰だったの?」
「それがね、ラブレターじゃなくて果たし状だったのよ」
「果たし状?」
「果たし状って、カスミ。ヤンキーじゃないんだからさ」「でもケンカ売ってるような内容なのよ」
「そういえばカスミちゃんって元ヤンだってほんと?」
「そんなこと誰が言ったのよ」
「矢尾くん」
「あいつめ。こらしめてやる」
「やっぱりほんとだったんだ」
「そんなわけないでしょ!」
「そういえば石山くんが言ってたけど、昨日カスミ、矢尾くんとデートしてたってほんと?」
「デートじゃないよ。宿題の相談したの」
「古本屋デート?すてき」
「デートじゃないわ。あんっな嫌なやつ」
「でも宿題の相談できるくらいには仲が良いのよね」
「幼馴染だからよ」
「良いなあ幼馴染って、憧れるー」
「ねえ松前もそう思うでしょ?」
「そうね」
「もういいわ面倒くさい」
ヒロムが「商店街の情報網甘く見るなよ」って言ってたからうまいこと利用しようと思ったらこれだ。みんな余計なことばかりするし、そう都合のいいようにはならない。
ううん。違うんだ。わたしの世界はヒロム中心に回りすぎてる。だからヒロムがいないとわたしが狂うだけ。ヒロムはわたしがいなくたって狂わない。それが嫌なんだ。それが寂しいんだ。ただそれだけ。原因なんてわかりきってる。
ホームルームが終わったら、隣の席の三河くんが、「なあ棚引霞、俺とデートしないか?」って言ってきた。「お断りですよ」と伝えたら、「パフェ奢るからさ」と言われた。わたしは、ヒロムのお姉さんならその誘いに喜んで乗りそうだなと思った。「パフェなんかじゃつられないわ。そうね、高級車じゃないと。それで、ごめんなさい今日はデートがあるの」と言ったら引き下がった。バブルの頃のアッシー君と言うやつを聞きかじったので試してみた。「すげー、棚引ほどになると今の時代でもアッシー君がついてるのか」って三河は笑って言った。
「松前、ちょっと相談してもいいかな?」
「二人で?さっきのこと?」
「そう」
「いいよ」
松前は今日も頭の回転が早い。
「今日はこのあと生徒会があって‥急ぎだった?」
「ううん、大丈夫」
「電話ならいいよ。そうだな、夜の8時から9時までの1時間くらいなら‥」
「助かる。じゃあ、あとで電話で」
そして放課後、同じ方向の女の子の友達二人との帰り道でヒロムの友達らしき人に声をかけられた。
「あのさ、ちょっといいかな?」
ヒロムの友達にしては誰が見ても格好良いという感じの男子高校生で、制服もシワひとつなくきっちりばっちりと着こなしていてまともな雰囲気を醸し出していた。居場所が間違っているのではないかと思うくらいこんな山奥のこの場所が似合っていなかった。まあ、さっきの三河とはあまりに何かが違うよな。軽そうな感じではない。それに女の子の友達と三人でいたのに何気なく声をかけてきたから、こいつはやるなあと思った。
わたしは友達二人には「ごめんね、先に帰っててもらっていい?」と言うと「んー、わかったー」って軽く通り過ぎたように歩いていってくれた。でもあとで絶対面倒な女子グループの誰かに言って、広めるんだろうなと思うと面倒過ぎて真面目にこんな自分をやってらんない。
でも、それでもいつもわたしの前では悪く言わないでくれる。前向きなことばかり言って励ましてくれる。だから友達だなと私は思う。
「何あの人、格好良いね。王子様みたい」
「カスミってほんとすごいよね。モテ過ぎて時々羨ましい」
「でもなんで誰とも付き合わないんだろうね?」
「あの人と付き合うかもしれないね」
「そうかも」
そんなわけあるか。なんて、二人の会話が聞こえなくなるとわたしは目の前のモデルみたいな男子に向かって真正面に立った。もう、どんなやつがきても答えは決まっていた。
「あのね。さっきヒロムから話は聞いたわ」
「えっと、それは何の話?」
「ヒロムに頼んでたんでしょう?わたしに告白したいとかって・・・違うの?」
「何の話だかよくわからないけど君を待っていたのは本当だよ」
「わたしたち、どこかで会ったことあった?」
「僕と君ってさ、この辺でしょっちゅう、朝とか帰りとか何度もすれ違ってるんだけど気づいてない?」
なんだかとてもムカついた。わたしは自分のこと「僕」って私生活で使ったり誰かを「君」とかって呼ぶ人は何だかあまり好きではないんだ。でもたぶん、初対面だから、気を使われているのか。じゃあ、それは無難なのか。
「気づいてない。わたしはあなたに出会ったのは今がはじめてだと思ってる。わたしには幼馴染の腐れ縁の馬鹿しか見えてないのよ。周りなんてどうでもいい」
ヒロムみたいに遠慮なく「おれ」とか「お前さ」って言うやつの方がいい。勿論馴れ馴れしすぎるのも嫌だけど。
「それにわたし、人のことを見た目で判断するやつが大嫌いなの」
「確かに君のこと綺麗な子だなと思ったよ。それがきっかけだし、でも僕は君のことを全然知らないから、興味がある」
「残念だけどわたしはあなたに興味無いわ」
「少しでいいから話をしてみたいって思うんだ」
「面倒くさい」
「僕は、告白するんじゃなく、君と友達になりたいんだけど?」
「そう言って付きまとってくる奴を今までいくらでも見てきたのよ」
「どうしたら信じてくれるの?」
「その五月蝿い口を閉じて、わたしの目の前から消えたら」
「それは嫌だ!」
「その綺麗な顔、ボコボコにしてあげてもいいのよ?」
そう言うとわたしは目を細めて相手を威嚇するような視線を送って、そして一発殴ってやった。
「本当に強気だね」
そしたらこいつはわたしの握り拳を手のひらで押さえ込んだ。女々しく見えるけど、思ったより力が強い。負けたくないのに押し返せない。
「わたしのこと、ばかにしてるの?」
あれ、よく見たら別の高校の制服なんだ。ヒロムの友達じゃなかったってこと?
「何してんだよ!?」
ヒロムの声がした。ヒロムは隣に男子を連れていて、もしかしたらそっちが紹介したかった友達なのかもしれないけど、その友達はわたしの方を見ると驚いた顔をして逃げるように走って行ってしまった。
「おい、待てよ深志!」
わたしは握りこぶしをパッと外すと力を入れすぎていた反動で転びそうになった。ヒロムが駆けてきてわたしの背中を左の手のひらで少し強めに押し上げてくれたおかげで助かった。
「おい、お前大丈夫か?」
大丈夫だよ!ありがとうヒロム、とわたしがお礼を言おうとしていると、隣でヒロムは王子みたいな男子高校生の肩を支え手を握っているような姿勢をしていた。そっちかよ!?心配するのは女のわたしじゃねーのかよ!?やっぱこいつ、ゲイだったかもしんない。
「お前、ナンパするにもこんな凶暴女に突っかかるのは辞めた方がいいぜ。これは女じゃない、宇宙人だ」
それを聞いて「そうなんですか?だから、かわいいんですね」と男子高校生は言って、ヒロムの手をのけて制服のホコリを落とすようにあちこちを手ではらった。その仕草はまるでどこかの王子様みたいな品の良さが透けて見えた。
ヒロムはなんだか、目が点になったような感じで男子高校生を見た。呆れた様子だったがわたしの方を見ると真面目な口調で小さく「あれがお前の好きな人なのか?」と聞いた。わたしは何が何のことか咄嗟に思い出せなくて「え?なに?」と判断が遅れてしまった。そしてヒロムは「なるほど・・・」と返答を待たずに勝手に納得してしまった。
「すっげえ理想高いじゃねーか」
「違うよ!」
ゴホンゴホン、とその男子高校生は咳払いをしてわたしたち二人がコソコソと話をしているのを遮った。
「改めまして、僕、鉄平っていいます」と言った。
「じゃあ、鉄平は長いから、これからテツね」
「それでな、テツ。一旦ちょっと状況を整理するため説明させてくれ」
そうヒロムはわたしとテツに話を始めた。
「おれは友達の深志がカスミに告白したいっていうから、放課後、教室に残ってろって手紙で伝言をしたんだ」
「ちょっと待って?放課後、教室に残ってろなんて書いてなかったわよ」
「え?書いてあったはずだぞ」
「うそ」
わたしはヒロムからの手紙をスカートの左ポケットから取り出して見てみた。すると手紙の中にもう一枚同じような黄色の小さなカードが入っていて、ヒロムの無骨な字とは違う丁寧で綺麗な楷書のお手本のような字で
と書かれていた。
「ともかく、カスミはそれをすっぽかしたわけだ」
「誤解よ。ヒロムの友達からの二枚目の手紙が入ってるのに気づかなかった」
「それで?」
「わたしは友達と帰ってて、その途中テツに声をかけられた。わたしはテツをヒロムの友達だと勘違いしてその時一緒にいた友達には先に帰っててもらった」
「カスミ、お前今日勘違いをし過ぎだぞ」
「水曜日は調子が悪いのよ」
「曜日の所為にするなよ。お前のせいで二人も誤解して傷ついてんだから」
「テツ、本当にごめんなさい。勝手に勘違いして」
「いや、『僕は』大丈夫ですけど」
「それでお前らお似合いなんだよ。さっき逃げ出す深志が出たくらいな」
「それで逃げたっていうの?ヒロムの友達ってとんだ奴なのね」
「おれも実際あの時、逃げようかと迷ったよ、邪魔するかと思って。でもよく見たらお前が思いっきし殴りかかったようなポーズしてるからさ」
「そうなのよ。テツって面白いこと言うのよ。わたしのこと知りたいんだって」
「カスミに興味持ったって出てくるのは凶暴だけ、だけどな」
「そうなんでしょうか?」
「そうなんだよ。野生だ。活発で、アカアシドゥクラングールによーく似てる」
「失礼ね」
「アカアシドゥクラングールって結構かわいい動物ですよ」
「そうなの?それ、サルなんじゃなかったの?」
「そんでテツもなんかちょっと時々宇宙人みたいだけどな」
「ヒロムはさっきから、わたしとテツがお似合いとか言ってるけど、わたしとヒロムだっていつも二人で歩いてて傍から見たらお似合いだとは思わない?」
「仲良いですよね」
「前にすれ違う人から、月とスッポンって言われたことあるぞ。あとは、あの子めっちゃ可愛いけど隣にいるの随分地味だなって言われておれは立ち直れるか分からんくらいショックだったな」
「そんな馬鹿な」
「まあそれはそうと、テツとカスミは並んでるとお似合いで美男美女だ。ほらあれだ、高校紹介の冊子に制服で二人の男女がならんで写真撮ってるやつあるだろ?あれでしっくり来るパンフレットの表紙みたいだ」
わたしは優等生ぽくないようにさりげなくスカートの上の方を少し巻き上げて短く直しながら「テツってうちの高校じゃないよね?」と聞いた。
「そうなんですよ。向こうに見えてる高校なんですが」
「無駄に学力高い私立校だね」
「学力に無駄も何もないだろ。あれ姉貴の母校だよ」
「お姉さんいらっしゃるんですか?」
「ああ、まあな」
「テツって顔も綺麗で、頭も良いんだ。確かにどこを見ても素敵には違いないのよね。見れば見るほど格好良い」
「やめてください。照れます」とテツが照れ笑いしたとき、少し強めの風がビュンと横に吹いた。
「おいカスミ。お前今、パンツ見えたぞ。慣れないことはやめとけ」
「見たわね」
「風が吹かなくても見えるレベルだったぞ」
「僕は見てませんよ」
わたしはテツが指の隙間からちょっと見たのを知ってる。
「好きな色は?」
「きみどり」
「見たわね」
「あ」
「それで?身長は何センチなの?」
「177cmです」
「良かったねヒロム。勝てる所が一つだけあって」
「うっせえな」
「僕はまだ成長期ですから伸びますよ」
「そうなの?」
「お前らそんなにお似合いなら付き合えよ。そんでおれ、帰ってもいいか?」
「だめだよ」
「なんでだよ」
「なんででもよ。言ったでしょ?わたしには好きな人がいるって」
ヒロムは「お前の好きな人がおれには皆目見当もつかないんだけど」と言ってから「なあ、そろそろ教えてくれてもいいんじゃねえか?」困ったように眉を下げた。そしてわたしはテツの近くに寄ると「ねえ、とんだ鈍感野郎でしょ」と呟いた。「人のことは過干渉なのに自分のこととなると盲目になるのよ」。すると、テツは何かを決意したようにわたしに「ちょっと僕に任せてみて」と言った。
「僕はカスミさんが好きです。一目惚れだと思います」
「うーん、そう言う人はよくいるわね」
「ごめん、おれもう帰る。今日は親父が自治会のオッサンと飲みに行くから店番しなきゃ」
「待ってください。ヒロムくんにも関係あるんです」
「なんで、おれ?」
「でも僕は君の好きな人が誰か知ってます。だからどれだけ押してもビクともしない鉄壁がカスミさんの周りにはある」
「そうね」
「その鉄壁に入れる人が一人だけいて、それが僕にはすごく羨ましい。それがヒロムくん、君なんです」
「おれかよ」
ヒロムは泣きそうな弱気な声を出して、わたしの方をちらりと見た。
「君はカスミさんのこと好きでしょ?幼馴染っていうのは友達よりずっと大きな存在だと思うし、ウマがあうってこういう事なんだろうなって思います。僕に君を超えられる自信なんてない」
「おれは幼馴染としてカスミのことは大事だけど好きな人のために頑張って欲しいし、テツも悪いやつじゃないってことはなんとなく分かる。ただ、おれはカスミときょうだいってわけでもないし、これ以上隣に居て心配する必要があるのか?」
「ヒロムはわたしのこと煩い子どものお守りだとか思ってない?」
「思ってるよ」
「わたしがどんなに一途だとしても?」
「うん。おれには余裕が無い。まるでおれだけ時間を止められたみたいに変われなくて、時々ひどく窮屈になる。おれはちょっと今よく分からなくなってるから、少しひとりになりたい」
「分かった」
わたしがそう言うとヒロムは「ごめん」と謝るようにわたしの肩に軽く手を置いてから逃げるように走っていった。下り坂が急で、アスファルトのでこぼこで時々転けそうになりながらヒロムは見えなくなる所まで足をとめなかった。わたしは少しくらい、チラッとでもいいから後ろを見て欲しかったなと思いながら、その様子をずっと見つめていた。ヒロムが帰ってしまったあと少し経ってからわたしは「ねえ、テツ。お願いがあるんだけど」と声をかけた。わたしはすごくゆっくりと時間が過ぎていくことを感じながら、蝉の声とぬるい風が私の周りを包んでいるようだった。
「なんですか」
「キスしていい?」
わたしはテツの肩を引き寄せて額をつけるとテツは「えっ」と小さく驚いた顔をしたままわたしに唇を奪われていた。わたしは目を閉じて暫く鼻で息をした。すごく気持ちが良くて、不思議なくらい永遠みたいな感じがした。テツってなんだかすごくいいにおいがする。男前のにおい?違うか。
そしてわたしは唇を離すと、顔を真っ赤にしているテツはわたしの体を抱くみたいに今度は自分からキスをしようと近づいた。 その途端にわたしは今一体何をしたんだろうと我に返った。背筋が凍るような鳥肌がぞわーっと立って、
「いーーやーーーーーーー!!!」
バシン!と咄嗟に手を出してしまったことに気がついた。反射神経で足も出てしまった。またテツは「えっ」と驚いた顔をして、うおっと倒れかけた。
そうかも。ヒロムの言うとおりだ。「慣れないこと」は、するもんじゃない。でもわたしって最低だ。今、わたしはこいつをヒロムの代わりにしようとしたんだ。ヒロムがフルーツミックスを作っている時にわたしが言ったことを思い出した。「代わりなことくらいわかってても、代わりになるものがないよりはそのほうがいいに決まってるじゃない」
わたしはヒロムとテツにそういうことを少しでも考えたのかな?自分が怖くなる。「最近カスミがカスミらしくない」ってヒロムはいうけど、わたしって一体なんなんだ?どれが本当のわたし?ヒロムが好きだと素直に言えずにいたわたし?それともヒロムに正直に一途でいるわたし?
とにかく、さっきテツにキスをしようと言い出したわたしは、別の誰かみたいだった。わたしの中に誰か乗り移っていたみたいだった。
一体わたしは何がしたかったんだろう?嫌じゃなかったならなぜビンタしたの?頭のなかをぐるぐると考えこんで感情が巡りすぎて、消化不良を起こした感じだ。気がつくと涙が溢れて、止まらなくなっていた。
第4話「ビンタ」
頬が腫れて痛いとかいう経験をしたのははじめてだった。母さんにさえビンタされたことは一度も無いな、そういえば。親父にはぶたれたことあるけど。
男としてそれなりに強い力があるつもりで居たから唐突に不意を突かれると驚く。しかもキスとビンタという似ても似つかないかけ離れたようなもので、それがこんなに綺麗な女の子からだなんて型破りなことが起こるなんてちょっと考えられなかった。
「ごめん、つい・・・」
途中まで言いかけていた言葉を濁したあと、でも僕に謝る必要があったのか疑問に思って途中で辞めた。いつもはこんなことにはならないのに、調子狂うな。どうしてこの子とすれ違う度に胸が締め付けられるような気持ちになるんだろうと思っていたけどこうやってものすごく近くにいると天国にでもいるような気分になるんだ。
「僕たち、友達にはなれないんですよね」
「なれないよ。友達はキスなんてしないもの」
カスミさんの目から涙が溢れ出て、多分僕とキスをしようと言い出したのはカスミさんの中で何かがプツンと切れたように感情を止められなくなったんだろうということは分かっていた。
「あとさ、僕の唇カサカサして‥嫌じゃなかったですか?」
カスミさんの唇は柔らかくてツヤツヤしていたし、僕のこと嫌だと思ってたら
「それに僕、ちょっと汗くさかったかもしれませんし・・・」
「ううん、テツってなんかいいにおいする」
「そうなのですか?」
カスミさんはのぼせたような顔で世界中の色気をそこに集めたかというほど綺麗だった。
「そうだよ」
その返事に僕はカスミさんをこれでもかというほど強く抱きしめてしまいたかったけれど、僕はカスミさんが好きで、カスミさんはヒロムくんが好きだという一方通行な二つの事実だけが僕の前にまるで何かの法則のように見えている事象が頭の中を過ぎった。
僕の心の中はカスミさんのことで頭がいっぱいで、思いをぶつけたくて仕方がない湧き出る感情を、カスミさんのヒロムくんへの思いを考えようとする理性で押さえつけていた。そして僕は自分の心臓に釘を刺しておくみたいに「お願いだから、そんな目で見つめないでくれませんか?」と言った。「え?」と驚いた様子でカスミさんはやっぱりうるうるした丸い目で僕を見た。
「分かってても、こっちはその気になっちゃいますし。男は涙目に弱いんです」
「ああ、うん。ごめん」
そう謝るとカスミさんはふっと力を抜いたように落ち着こうとしてみせたかと思ったらその途端に足を滑らせてしまった。僕はカスミさんを助けようとして肩に手を置いた。
「ファーストキスだったのよ。動揺して当然だと思わない?」
カスミさんは半分泣きそうで半分笑っていて、そしてほんの少し困った顔をしてそう言った。僕はカスミさんが言うことにきゅんとし過ぎて、これは死んでしまうかもしれないと思った。そんなこと言われてどうしたらいいんだよって。
「今日名前を知った初対面の人とファーストキスをするなんて信じられる?」
「信じられません」
「そうでしょ?」
これはもしかすると、無かったことにして欲しいって言われるのかなと僕は思って、気を遣った方が良いのか強気でいくべきか、少し悩んで「でも、無かったことには出来ないですよ」と、でも柔らかく優しい口調で言ってみた。すると、「ううん、そんなことわかってるし、そういうこと言いたいんじゃないよ」とカスミさんは僕に言って、小さくため息を吐いてから「わたしは多分、意外とテツのこと嫌いじゃなくて、寧ろ好きな方なんだと思う」と言った。
「わたしはわたしがヒロム以外の男にキス出来ちゃったってことに驚いて、しかもそれが思ったよりもずっと良かったから、もっとしたいって思っちゃったんだよ。例えそれが野生的な本能だったとしても、わたしは誰彼構わずキスが出来るほど軽くないし、性欲の捌け口にするとかじゃなくテツのことばっかり考えていたし、今なんかテツのことで頭の中が占領されてる」
涙目に弱いって言ったのに、カスミさんは僕をもう涙が溢れ出るかぎりぎりの、光が反射してきらきらして見える目でじっと見た。
「だからってビンタすることなかったよね。痛かったでしょ・・・ごめん」
僕はなぜヒロムくんがカスミさんのことを野生だというのか、わかったような気がしたけど、僕にはすごく都合がいいなと思った。そしてただなんとなく、どうなってもいいから肩を引き寄せて抱きしめてしまった。カスミさんの肩は震えていて、少しぎゅっと力を入れるとおさまった。でも今度は僕の心臓の音が煩いほどに大きくドクンドクンと響き始めておさまらなかった。
「ねえ、一度キスしてしまえば、あと何回しても変わらないでしょ?」とカスミさんは目を細めて言った。僕はカスミさんのその言葉があってもなくてもさっきから唇の色気の魔力に引き寄せられて仕方がなくて、気がついたらまたキスをしていた。僕は気持ちよさの中で心の奥が傷んでいくのを見たような気がした。多分、僕とカスミさんの心の奥を。唇を求め合う度に僕は何かの代わりなんてないことを知りながら、代わりを求めてさまよう気持ちも知った。
沈むのが遅いはずの夏の日はあっという間に過ぎて、僕達はキスが終わるとぼーっと空を見上げ、あとはお互いわざと何も話さずに僕が軽く手を振ったのを合図に帰った。
その次の日の放課後、僕はよく知らない学校の校門の前でカスミさんを待っていた。少しでいいからカスミさんのことをもっとよく知りたいと思ったから。
カスミさんの初恋の相手はヒロムくんでも、ファーストキスの相手は僕で、だからというわけではないけれど、隙のなさそうに見えたカスミさんとヒロムくんの間にほんの少し僕を入れてくれそうな予感がしたのだった。
そしてまず先にヒロムくんが昇降口から出てきた。ヒロムくんは体が軽い。動きにくい制服でもローファーでもへっちゃらというように体が柔軟に動く。いかにもスポーツをやってて得意という感じで放課後だというのに疲れた様子が一切無い。
「やあ、えっと、ヒロムくん!でしたよね」
だから、僕が彼を引き止めるのには反射神経が必要だ。
「あ、テツじゃねえか。お前さ、カスミはやめといた方がいいぜ」
言葉も物凄く軽い。これじゃあただのチャラい男だ。「なんで?」と僕は聞いた。
「あいつ顔は良いかもしれないけど、悪魔というくらいに性格悪いからな」
「そうなんでしょうか?」
「そうなんだよ」
「僕は、君に一途で頑張るカスミさんを素敵だと思うし、天使だと思いますよ」
「あいつは好きな友達や近くにいて欲しい人には誰にだって一途だ。それにあいつには好きなやつ居るんだぞ」
「そんなの君から言われたくありません!君はちょっと自分を客観視した方がいいと思います。でないと、カスミさんが報われない」
「それじゃあな。多分そろそろあいつが友達と出てくる」
そう言ってヒロムくんは早足で帰っていった。
「今日、チサがまた三河に振られたって。何度告白しても駄目な理由がまた棚引霞なんだってさ」
「男子ってどいつもこいつも懲りないよね。棚引のどこがいいんだか。所詮顔だけでしょ?」
「棚引って相当性格悪いよね。時々、正義の味方みたいなこと言って周り困らせてさ。ああいうの余計だってことくらい、気付けばいいのに」
「それでクラスで綺麗系の松前と坂本と椎名とつるんで、たくさんの男子が味方で周り囲って、どうしようもなく困ったら幼馴染の矢尾くんの所に行けばいいんだもんね」
「本当それ」
「え?でも言い過ぎじゃない?」
「そんなことないでしょ、実際そうなんだから」
「てか矢尾くん可哀想すぎ。幼馴染をパシリにしてる女ってどうなの」
「良いように使ってるだけなんだろうね」
「でも私、前から思ってたんだけどさ、矢尾くんて意外と格好良いのよね」
「あ!それわかる。背高いし、清潔感あって、なんにせよ優しいよね」
「アイロンがぴっちり掛かったシャツ着てるのにマザコンな感じが全くしないよね」
「わかるわかる」
「そういえばさ、先週、ミオが矢尾くんに告白したんでしょ?」
「えっ?あいつが?」
僕は黙ってなんとなくこんな話を聞いてしまってもいいものか分からなかったが、周りの人達から見るとカスミさんが相当嫌われていて、ヒロムくんはカスミさんの隣でこき使われている存在という風に見えるのだなと思うと何だか確かにカスミさんは恐ろしい人のように思えてきてしまった。
「川上未央ってどんな子なの?」
カスミさんの声がようやく聞こえてきた。
「どんな子って美人で勉強が得意で、本を読むのが好きで。絵に書いたような真面目な優等生よ」
「たしか良いとこのお嬢様よ」
「スカートの短さが知能の薄さとか言ってたわ」
「でも暗いわよね、なんか」
「ふーん」
カスミさんは三人の女の子たちの後ろを通ってそれぞれの腰の辺りを意味も無いように少し軽く触れながらサッと通り過ぎた。
「黄色の水玉、黒、ネイビー」
「何?」
まるでカスミさんの指示に従うとでもいうように、風が大きく舞うように吹いて靡いた。
「そんなスカートがひどく短いとパンツ、丸見えよ?大丈夫?」
女の子たちはきゃーきゃーと言って駆け出した。そしてぼくとすれ違うと、三人とも目が合ってそのうちの一人が「やだ、何あの人、王子様みたい」と言った。
ぼくはその随分懲りない女の子たちを見ながら、やっぱりカスミさんはなんだか良いなあと思った。なんだろう。タイムスリップした漫画なのかな?おもしろいな。
「ぼくはやっぱりカスミさんが好きです」
僕はほんの少しだけカスミさんの頬が赤くなるのを感じた。そして、照れを隠すようにこう言った。
「とても光栄ね。通り過ぎただけで王子様扱いされる人にそう言われるのは‥」
「ラブレター書いてきました」
「ありがとう。でもわたしは死ぬほどあの腐れ縁の木偶の坊の野菜果物馬鹿のことが好きなのよ」
「知ってますよ」
「だから、同情なんてしてられないの」
そう言って僕が渡した手紙を封筒ごとビリビリと目の前で破って、僕に返してきた。でもカスミさんはどこか悲しそうな顔をして、そのビリビリになった紙を見つめていた。僕は申し訳なくなって、さっと鞄にしまった。
「面と向かって告白してくる人にはこうやってちゃんと見切りをつけるの」
「なぜですか?」
「相手に無駄な期待をさせないため。自分に素直に生きるため。自分の本当に大好きな人を大切にするため・・・間違ってると思う?悪いと思う?」
「僕にはわかりません。ただ、カスミさんのことを前より少しだけ知れた気がします」
「何を知れたの?」
「なんでしょう?でも僕はまたラブレターを書きますよ。それで好きなだけ破ってください」
「意味がわからない」
「どうして?」
「どうしても」
カスミさんは怒ったような困ったような、でも笑っているような、なんとも言えない顔をして「じゃあね」と言うと早足で帰っていった。
多分、僕にはカスミさんにとってヒロムくんに勝るものなんてないんだろうけど僕はカスミさんが好きで、カスミさんはヒロムくんが好きで、それが身に染みて辛いと感じるのは僕だけだと思うから、僕はカスミさんに読んでもらえなくてもいいから励ましのラブレターを、破るだけのための無意味なラブレターを書こうと思った。
第5話「天才」
アタシは生まれたときから誰とも違ってた。何をやっても簡単でつまらない世界に生まれた。あまり努力という感覚がない。頑張ったことがない。だから分かり合える存在がいない。協調性なんてまるでなかった。だって誰かと足並みを揃えれば自分の欲しいものは手に入らないもの。
そんなアタシを一番に不安がっていたのは母だった。誰よりも人と人との和を大切にする人だったから。子どもの頃は、家に帰るとその優しさを拠り所にしている人が群がってた。ジュースっていう安っぽい飲み物に大した価値なんてないじゃない、とアタシはいつも思っていた。その空間を見るだけでも悪寒がするくらいに嫌いだった。
幼稚園の年長のとき、先生にすすめられて小学校を受験した。アタシの部屋は小学一年生の夏休みの自由研究に大きく改装した。お年玉と懸賞生活と全国なんとかコンクールの賞金、全部合わせて15万円くらい貯めて、できるだけコストを抑えつつボロ屋の中にここまでするかと思わせるほどの城を築いた。アタシは八百屋なんてダサい実家は捨てるつもりでいた。だから、部屋を改装したあとも同じように資金調達して中学はアメリカのコロラド州デンバーに3年間留学をした。博物館が多いし、最先端技術があって、学べることは物凄く多かった。母の入院にも、死に目にも葬式にも顔を出さないような親不孝娘だった。色々言い訳をしたのだ。勉強がどうとか、用事がどうとか。
ある日、弟が言った。「姉貴は何でもできるけど、何をしているのがいちばん好きなの?」それで、アタシは何も答えられなかった。随分と、真理を突いていた。何でもやってみたいという思いはある。好きなことはよくわからない。すごいと言われるのは嬉しいけど、何をしたいのかはっきりしない。それに比べて弟は楽しそうだった。転んで怪我をして大泣きをする。テスト勉強に苦戦して泣きながら宿題をこなす。プールで泳げないと恥ずかしいからと一生懸命に練習に行く。
普通というのが私にはよくわからなかった。でも弟は「普通」という言葉の模範解答だった。それでも頑張り屋ですごくいい子だった。アタシよりずっと天才なところがあるとすれば「人に好かれる素質」だった。周りに人を寄せ付けないでおきながら、不特定多数にチヤホヤされたがって、まるで孤独を紛らすようにあちこち男に走るようなアタシと違って、ヒロムは周りに人を惹き付ける何か不思議な魅力があった。友達はすぐできる、リーダーシップがある。何より気遣いと空気の読み方がうまい。
夏祭りに行ったときもそうだった。
「あ、ヒロムくんだ!」
「久しぶり。ミキちゃん」
「覚えてたの?」
「覚えてるよ。そっちだって覚えてたんだろ?」
「うん」
声をかけられて、華奢な女の子がアタシに気づく。
「小学生の時同級生だったミキちゃん。これは俺の姉貴」
「これって言うな」
「ヒロムくんお姉さんいたの?」
「こんにちわ、姉のシズカです。よろしくね」
「よろしくお願いします」
「似てないだろ?よく言われるんだ」
そして、その子はちょっと安堵したような顔をする。
「うちの弟好き?」
「優しくて楽しいです」
「そうかそうか。だってよヒロム。どうする?」
「どうするったって、ミキちゃん彼氏いるだろ。誘導尋問するなよそうやって」
「へえ、でも本命はヒロムなのかもよ」
「なんでだよ」
息を切らして誰かが走ってくる音がした。アタシはなんだろうと後ろを振り向いた。走ってやってきた女の子は物凄くかわいい子だった。目がくりくりしてて、誰もが憧れそうなアイドルみたいな顔立ちで、その瞬間にミキちゃんが露骨に嫌そうな顔をしてムッと睨んだ。
「もー。ヒロム、やっと見つけた。はい、ヒロムのぶん」
「ありがとな。お前そうやって、モーモー言ってると牛になるぞ」
「うるさいわね。ヒロムもついてくればよかったのに。おじさんが会いたがってたよ」
「カスミが一人で行くとさ。絶対あのおっちゃんが増量してくれると思ったんだよな」
「それでわたしに頼んだわけ?ひどくない?」
「だって、うちの姉貴大食らいなんだもん」
「そんなわけないじゃない。こんなモデルさんみたいな体型のどこにこんな特大サイズの焼きそばが入るのよ」
ああ、この子があの、小さくて天使みたいだった近所のカスミちゃんか。時間はどんどん過ぎていて、そりゃ子どもはみんな成長するもんなあ。あれ?でもヒロムは特に変わんないような‥。
ミキちゃんはちょっと複雑そうな顔をして「彼氏が来たからもう行くね」と作り笑いをしてヒロムに声をかけた。「おう、またな」とヒロムは答えて、カスミちゃんはヒロムの様子を横目で見ながらアタシと目を合わせた。
「あっ、もしかして、シズカさんですか?お久しぶりです」
「久しぶり。カスミちゃん、随分と綺麗に育ったね」
「えへへ、そうですか?」
アタシはヒロムがカスミちゃんに買ってきてもらった焼きそばを開けた。カスミちゃんもわたしにつられて開けていた。
「わーい、できたてほやほやだね。いい香りー」
「はい。あのおっちゃんの店、人気で結構並ぶんです」
「ありがとうね。買ってきてくれて」
「奢ってくれるっていうし、おつりくれるって言うから」
「一人で並んでたの?大丈夫だった?」
「いえ。おっちゃん知り合いなので、もう作ってあるって、お金は要らないって、こっそりくれました」
「じゃあ、アタシは払わなくていっか」
「お金の心配してたんですか?」
「うん」
「それで?あいつにいくらもらった?」
「1000円」
「あいつケチだね」
「でもピン札だったんです」
「にくいねあいつ」
「そうなんですよね」
話しながら、すぐに無くなっていく焼きそばを見て、カスミちゃんはちょっと引いている感じだった。そりゃそうか。特大サイズの焼きそばだったもんね。
「それで?ヒロムとは付き合ってんの?」
「実は付き合ってません」
「えーっ、なんでー?」
「なんででしょうね」
「告白は?」
「しても、なんだかいつも手応えが無いんですよね」
「そっか、どうしたもんかね」
「鈍感なんですよね」
「そうね、どうしようもない鈍感よね」
「逆を言えばですよ、鈍感が寧ろ取り柄なんじゃないだろうかと」
「カスミちゃん、それはたぶん、恋に盲目になってるんだよ。正気に戻りなさい」
「はい、さすがに考えすぎました」
「あ、もうお腹いっぱい?要らないならちょうだい」
カスミちゃんの食べてた焼きそばを狙うのは、とも思ったけどもう満腹そうな顔をしていたからもらってしまった。
「そ、それとも、鈍感なフリをしている、とか」
「それもないと思う。自分のことにだけ鈍いだけで、人のことには妙に敏感だし、世話焼きだし」
「そうですよね」
パタパタと走ってヒロムが向こうから楽しそうに帰ってきたのを見て、カスミちゃんは目を少し細めた。
「何がたこ焼きだって?」
「食い意地だけは張ってんのよ。バカ」
「それは姉貴のほうだ。なあ、今、おれの悪口言ってたろ?」
「なんで?」
「なんとなく。コソコソしてっから、そうかなーなんて」
「ふーん、わかってたの?」
「え?本当にそうだったの?おいカスミ、本気にするなよ。姉貴、本当らしい嘘ばっかりつくから」
「そんな面倒な嘘はつかないわよ」
「ほんとかよ」
多分、アタシが日本に久しぶりに帰ってきても、ヒロムからは「ここにいていいよ」って思いがなんだか聞こえる気がする。でもそれじゃだめなんだ。アタシは何かこれって思うものを探さなきゃ。努力してできるような何かを探さなきゃいけないのよ。
「ねえ、ヒロム、たこ焼きとイカ焼き、買ってきて」
「まだ食うのかよ」
「カスミちゃん。もう一回、焼きそば屋さん」
「え??なんでですか?」
「だってカスミちゃんが行けば、焼きそばタダでくれるんでしょ?」
「そうですけど‥」
第6話「クレオパトラ」
傍から見れば、姉さんは天才少女で、カスミは学校一ともいわれるほどの美少女。そんなおれは「綺麗なお姉さんとかわいい幼馴染に恵まれた地味男の矢尾弘(やお・ひろむ)」である。いつもそうやって容姿端麗な人達と日常を過ごしていることは結構羨ましがられる。
特に、自分に自信もある真面目な優等生くんや口の軽い何人も彼女がいるような余裕のあるハンサムな男なんかによく嫉妬される。でもおれからしてみれば、貪欲で自分勝手でよく人をパシリにし、放っておくとおれの分まで食ってしまうほどの胃袋に底なしの大食らいと、天使のようなのは見かけだけの性格の悪い元ヤンである。周りが思うほどそう良い女だと思ったことがないのだ。ただ、何が間違ってそうなったのか遺伝子は同じはずなのに姉貴とおれは似ても似つかないもので、無口で天然な性格の親父が、姉貴がクレオパトラならおれは埴輪に似ていると言うほどなのだ。それは博物館の展示会に行った時見た唯一国宝とされている埴輪『挂甲(けいこう)の武人』を見た親父が「これヒロムにそっくりだな」と一言ぽんと呟くように言って、それを一緒に来て横で聞いた姉は大笑いし、しばらくの間おれを挂甲の武人と呼んでいた。傾国の美人と掛けているのか、掛けていないのかわからないが、それはおれにとって、それなりにショックだった。でも親父はいい意味で言ったのだといい、その国宝を見ると不思議とおれ自身も自分に似ていると思ってしまうので間違いでは無いのだろう。不細工なわけではないし、当時の埴輪の中じゃ寧ろ凄く格好が良いので、悪くないかなと思ったりもする。
カスミがまた次のラブレターの更新でやって来た時、おれはその時の博物館のお土産で買って飾ってある挂甲の武人のレプリカを観察して鉛筆デッサンをしている最中だった。カスミは露骨に口を尖らして不満な顔をして来た様な声だったのに、その俺が描いた下手くそな絵を見て涙が出るくらい大笑いした。
今回は窓からじゃなく、ちゃんと玄関からやって来ていて、基本的に無口な親父が階段を駆け上がってきて大声を出して「おいヒロム!カスミちゃんが来たぞ」と一大事のように、おれの部屋のドアをノックして知らせてきた。
カスミはスニーカーを持って上がって、またおれのバッシュ入れに入れ、部屋に入るとまた適当に投げ捨てていた。今までも楽しそうでは無かったのだが、いつにも増してそんな理由は他でもないテツだったのだ。あいつが目の前に現れてからというものカスミに気の迷いがあるのか、時々ひどく不安そうな顔をする。カスミの好きな人がどんな奴か知らないし想像もつかないが、おれがカスミだったとしても普通のやつはテツほどのハンサムな男が現れたら付き合ってみてもいいと思うに違いない。
「お前、この埴輪に比べたらミケランジェロが作ったみたいな端正な美青年の方が好きだろ」
「もしかしてそれダビデ像のこと?」
「そう、それ」
「マッパのやつだね」
「あのな」
「股間がちーさい」
「だからさ」
「で?」
「で、旧約聖書の英雄でゴリアテに石を投げるんだ」
「素っ裸で?」
「だから恥ずかしい言い方するな」
「だってヒロム、公衆の面前で裸で英雄伝説起こせる?」
「知らないよ、俺は。とにかく顔が綺麗って具体例だよ」
「でもいくら顔が綺麗でも、公衆の面前で裸なのよ?」
「そうかもしれないけどさ」
「わたしはこの埴輪、大好きだけどな」
「どういう所が?」
カスミはおれが着ていたパーカーのフードを無理やり頭に被せた。おれは突然視界が狭くなったので「何すんだよ」と怒った。
「フードを被ってる時のヒロムにすごくそっくりなとこ。あとね、満面の笑みなのに全然笑ってるように見えないとこ」
「なんだそれ」
おれはフードを脱いで頭を振った。暑苦しいし、すごく痒かった。
「なんか犬みたいその動き」
「ウー、ワンワン」
「ニャーオ」
「お前はいたずら好きの猫だな」
「そうね」
ウーワンワンと近所の本物の犬の声がした。
「ビンタくんだわ」
「ビンタってかわいいよな。尻尾が羽みたいで」
かわいい犬の話をしていておれは楽しかったけど、カスミの表情は一瞬曇った。
「それで、今度は何通だったんだ?」
おれは自分のダイアリーを取り出して、例のページに書かれた一番大きな数字を黙読した。前回は二十三通か、それ以上ってのがあるものなのか?
「五十通よ」
おれは持っていた大阪土産のボールペンを床に落としてしまった。
「五十って・・・倍以上じゃないか。お前何か良いことでもしたのか?ボランティア活動とか」
「良いことしたら報われるはずなのにラブレターに成果が現れたら、わたしにとってそれは神様の嫌がらせじゃない」
「そう思うのは世の中でお前だけだろ」
「それがね。半分くらいはテツなのよ」
「なんだそりゃ。あいつ他校だろ?」
おれはボールペンを拾い上げてペン立てに戻した。
「タコってひどいわね。ヒロムの顔の方がタコに似てるわよ」
ボールペンの押すところがタコ焼きなのだが、のっぺりした顔が書いてあってこれはカスミからもらったやつだ。土産物屋でこれを見つけておれのことを思い出したらしい。
「タコじゃなくて『他校』だよ。他の学校の方だよ」
「ああ。それね」
カスミはお腹を抱えて笑う。
「全然面白くねーぞ」
「あはは、ごめんごめん!その埴輪も面白くて」
そう言いながらカスミはまだ笑い転げていた。
「お前こそ、口が紅くて、たらこくちびる」
「色つきリップだよ」
「ふーん」
「ねえ」
カスミはその一瞬で、まるでお淑やかなお嬢様みたいにもじもじしていた。
「何?」
「ヒロムってちゅーしたことある?」
カスミはおれの方に近づいて、まるで頭がぶつかりそうで息がかかる所にいて、おれはカスミが目を合わせると咄嗟に逸らしてしまった。
「あるよ」
そう言うとカスミはすぐに目を見開くように驚いていた。そしてすぐまたおれと目を合わせてきた。
「ほっぺじゃなくてだよ」
「ん?うん」
今度は目を合わせて答えた。
「誰?川上さん?」
「そんなわけないだろ。なんで川上が出てくんだ」
「じゃあ誰よ?」
「誰でもいいだろ」
「よくないよ。気になるじゃん」
「それにしても近くで見ると濃いよなお前のけしょ・・・」
「ぶっ殺すわよ」
おれは、カスミの剛腕ノーコンで力任せのパンチを頑張ってうまく避けた。
「多分オレンジよりオペラピンクみたいなほうが似合うんじゃねえかな?」
するとカスミの手がピタリと止まった。
「オペラピンクって何?どんな色?」
「そうだな、クレパスに濃いめのピンクってあるだろ?」
「ビビッドピンク?」
「ごめん、そういう細かい違いはわかんねえや」
おれはちょうど画材をまとめたケースがあったので、クレパスのピンクを出してみた。
「こういう色だよ」
「へえ。そうか。それは興味深いわ」
カスミはちょっと考えているという風に、瞬きをした。そして口を開く。
「そうだ、わたし、テツからのラブレター、ちゃんと受け取って目の前でビリビリにやぶって、ちゃんと好きな人がいるからって断ったのよ」
「目の前でビリビリに?」
悲しそうに微笑むテツの表情が想像ついた。そして、恐らくこれは、おれに対する何かの宣戦布告なんだろうな。
「そう。それで次にまたあっちからやって来たら嫌だから逃げることにしたの」
おれはふーん、と頷きながら話を聞いていた。
「でね、そしたら今度はわたしの友達に預けて渡すように頼んだみたいなの」
「よくやるよな、そんなの」
「ほんとね、って感心してる場合じゃないのよ。ヒロム!どうにかしてよ」
「おれはドラえもんじゃないんだからひみつ道具なんて出せねえよ」
「違うわよ。多少無理があってもいいから彼氏のフリするとかさ」
「お前の好きなやつに頼めばいいだろ」
「そ・・・そういうわけにもいかないのよ」
「頼りねえやつだな、そいつも」
「そうなの。ねえお願い」
「でも今更、嘘だってバレるだろう?」
「最近付き合い始めたって言えば全然いけるわよ。あの馬鹿なテツなら」
「無理だよ。その前に学校でカスミのファンに殺されるよ」
「先ずはテツの前でってだけでいいのよ」
「あ、そっか」
「弱気になってちゃいけないわよ・・・ヒロムの男が下がるわよ」
「別におれ、そんなことで下がらないと思うんだけど」
「ほら一発ぶちかますのよ」
「例えば、なんて言えばいいんだよ」
「『ヒロムはわたしのものよ!』みたいな感じで」
「それ不自然じゃないか?」
なぜ、おれが例えなんだよそれを言うなら「カスミはおれのものだ」だろうが。
「なんかジャイアンみてえじゃねえかよ」
「ヒロム、ドラえもんから離れなさいよ。子どもね」
「なんだよ。ドラえもんはいくつで見ても感動するものだぜ」
「わかったわ。うまくいったら時屋の一番でっかいドラ焼きをおごるわよ」
尚更ドラえもんじゃねえか。
「おれ、演技下手なんだけど大丈夫かよ」
「よーく知ってるわよ」
「どうすんだよ」
「じゃあ本当の彼女だと思ってよ」
「そりゃ絶対無理だ」
「なぜ」
「カスミがおれの彼女になるとか真面目にどう考えてもありえねえもん」
「ありえるよ!全然ありえることだよ、ヒロム」
「そんなにテツが嫌いなわけ?意外と良い奴そうだけど。いいところ見つけていけばいけるんじゃねえ?一途だし見た目も王子様だしお前とお似合いなんだし」
「お似合いだから付き合うとか絶対無いと思うよ。ヒロムは他人事だけど、好きな人とかいないわけ?」
「うーん?そういえば居ないな。お前のことなら、人として好きだけど」
「人として?」
「おう」
「わたしもヒロムのこと好きよ」
カスミは長くて細い美脚だと言っていた脚をピタッと揃えて軽く屈んだ。
「そうか?」
「それなら、別に彼女のフリくらいしてくれたっていいじゃない!」
「お前の好きな人が勘違いしたらどうするんだよ。弁解のしようがねえかもしれないぞ?」
「そういうことじゃないって言ってるじゃない」
「何が言いたいのかさっぱりわかんねえ」
「もう!ヒロムのばーか!ばーか!ばーか!」
「どうせおれは馬鹿ですよ」
「ふん・・・もういいよ!ヒロムに頼ったわたしがばかだった!」
カスミはそう言うと、今度は靴下のままで靴を入れた袋を持って窓から飛び降りた。その唐突な跳躍力を見ておれは時々カスミが天使のように優雅に見える時があって、それが今この瞬間だなと思った。しかしこの罪悪感を残させて帰る感じがムカつくし嫌なんだよ。おれが全部悪いみてえじゃんか。おれは階段を降りてトイレに行き、部屋に戻る時に「あ、ヒロム。洗濯物取り込んどいて」と姉貴に声を掛けられた。男からの貢物か知らねえがうちの野菜とは桁違いの高級品で美味そうなマスクメロンにでかいハムを巻いてフォークで突き刺してふんふん鼻歌を歌いながら食べている。それらしいドロップ型のピアスをしていて耳たぶが下へと伸びそうなプトレマイオス朝エジプトの最後のファラオに頼まれ、おれは「おう」と良い返答をするしかない。
姉貴はメロンを目の前に口に突っ込まれ、「ヒロム、あんたアタシと結婚しない?」と言い出した。
「何言ってんだよ」
「いやー、ヒロムってなんでも出来るし、なんでもやってくれるし。どこに出しても恥ずかしくないから多分すぐにでも嫁に出せるわ」
「おい、おれ跡取りだぞ」
「本当だ!そういえばそうだった!」
高飛車な感じで姉貴はわははと笑いだした。
「あ!そうそう、それと、白桃ももらったんだ♪冷やしといたぞ、冷蔵庫に」
「白桃!!」
「岡山のやつだよ」
「岡山!高級品じゃねえか…一個千円くらいするぞ」
「いや、本当にヒロムってお姉ちゃんのこと大好きだよね」
「そんなわけねえよ、バーカ」
「何言ってんのよアタシは国が認めた天才よ」
「おれが好きなのは野菜と果物だから」
「え?なにそれ、本気で言ってんの?」
馬鹿と天才は紙一重だ。それにしても、待てよ、姉貴がクレオパトラ七世だったなら史実上カエサルやアントニウスより前に先ず弟のプトレマイオス十三世と兄弟で結婚すんのか、そしておれは最終的にあいつと敵対してカエサルに倒されてしまうのか、最悪だな。
おれは二階に上がり窓を開けてベランダに出た。ベランダの向こうにはカスミがいて、気になって戻って来てしまったのかずっと居たのかわからないが、おれの部屋の窓をじっと見ていたらしかった。手が咄嗟にガシャンとプラスチックハンガーと物干し竿の金属が音を立ててしまい、カスミが驚いてこっちを見た。おれは何か言おうとして何も思い浮かばなくて「今ハンガーを落としたのは、わざとじゃない」と言った。カスミは「ヒロムのばかやろー!」と叫んだあとパタパタと向こうへ駆けて行って、おれは遠くからさっきと同じようにカスミの不安そうな何かに迷いがある雰囲気を感じた。おれは階段を降りて居間の畳の上に洗濯カゴを逆さにしながら、「おれの何が悪いんだよ」と一人でつぶやくと姉貴が聞いていて「何もかも全部、あんたが悪いのよ」とテレビを見ながら大声でケラケラと笑った。「理不尽だな」
そう言いながらおれは洗濯物で取り込んだ姉貴のブラジャーを姉貴の頭に乗せた。
「世の中そんなもんよ。あんたは自分のことばかりじゃなく人の気持ちも汲み取らないとね」
「汲み取ってるよ、そんなもん。だからこうなるんだ」
姉貴はそのブラジャーを手にとって見ずに食べた。
「あれ?これ、食べ物じゃないじゃん」
なんだよーと言った。
「なんでも食うよな、姉貴って」
「さっきの話だけど、じゃあ自分のこと考えな」
「どっちだよ」
第7話「スイカ」
ヒロムと喧嘩をした。喧嘩かどうか分からないけど、わたしからの一方的な宣戦布告だ。でも終業式が終わって夏休みになるとヒロムは前から言っていた、4時から5時半頃まで自転車の新聞配達のアルバイトをはじめた。新聞配達から戻ると、6時から家事をこなし7時頃朝ごはんを済ませ、8時半までに家業の八百屋の準備をする。シャッターを開けてプラスチック製のカゴやダンボールやらを店の前に並べて開店の準備を手伝う。そんなことを考えるわたしは気持ち悪い。
夏の朝、私の部屋はちょうどよく真っ白い光が窓から差し込んでくる。わたしはつい目が覚めて頭の中は起きているけどベッドに寝たまま、わざと目を閉じてヒロムの真面目な車輪やブレーキやパサッと紙がポストに入る音を聞く。馬鹿みたいだなと自分の心を疑う。ヒロムはそんな私をよく気持ち悪がらないなって思う。だって自分の外の窓を登って突然訪ねるのだって普通の女の子だったら絶対にやらない。例えヒロムが世界一の鈍感であったとしても、そんなのって少しは嫌だと思うだろうし、家族同然だとはいえ親しき仲にも礼儀があって当然だ。
二度寝が出来ないわたしは天井の電気が点いてないライトの紐を眺めて、すぐ側にあるベッドライトを置いていないヘッドライトを置くためにある小さい箪笥の、その引き出しに入れてあるラブレターじゃなかった嬉しくない報せだったあの手紙と、間違えて持って帰ってきてしまった巾着袋を出してきて両手に持って、ぼーっと見ていた。ヒロムが器用に繕った部分に気付いて指で撫でた。ヒロムの気づいた時に行動するそういう性格が好きだ。わたしがまたすぐ来るなんて思ってないだろうし穴が空いてるかどうかなんて、用途上はそこまで気になることじゃない。
「ヒロムってこういうのは得意なのにどうしてこんな字が下手なんだろ」
考えてみる。わたしは五感は物凄く優れているけど、料理だけは全然出来ない。好きな人には一途になれて、好きじゃない人に好きだと言われてもなんにも嬉しくない。ヒロムがわたしと居てくれるのは幼馴染としてだけだったら、わたしがどんなに好きだと言葉にしてもヒロムには伝わらない。一番良いのは真っ直ぐ気持ちをぶつけることだけど、去年のバレンタインだって「ヒロム、本命チョコだよ」とヒロムが学校へ登校する時間に玄関の前で待ち伏せをして渡した。でもその時だけ素直になったところであいつは絶対に信じない。「はいはい、毎度義理チョコどうもね」って返事が返ってくる。いつもバレンタインには素直になろうって決めていて、でもヒロムは「カスミ、バレンタインの時だけちょっと変だぞ」と言ってくる。物心ついた時からわたしはずっとヒロムにバレンタインの本命チョコをあげている。義理だったことは一度もない。「女の勇気をなんだと思ってるのか」なんてヒロムに言ってやりたいけど、わたしは隣で落ち着いて居られて自分の性格を押し付けても嫌わないヒロムが好きで、その時間に浸っていたくて、でもその日頃の行いからヒロムはわたしを恋愛感情なんかじゃ見ることがないとは絶対に認めたくないから、どうしようもない自分の非力さに呆れる。
「とにかくお前がおれをからかって楽しんでるってことだけはわかった。ちなみにおれ毎年お前のチョコで腹下して寝込むんだけど」
「わたしの作ったチョコが食べられないっていうの?」
「うん。なんか変な隠し味入ってるだろ?唐辛子とか」
「そんなもの入れないわよ。溶かして固めているだけよ」
「じゃあどうして変な味がするんだ?」
「変な味なんてしないわよ」
結局バレンタイン張り切っても、帰り道にはそういう色気の無い会話になってしまう。それでホワイトデーにヒロムは小さな子どものいたずらみたいに郵便ポストから飛び出すくらいたくさんビニール袋に詰め込んだ駄菓子をいっぱいくれる。わたしは美味しいチョコをあげられていないというのに。わたしの誕生日だってそうだった。見たことないくらい綺麗で大きな高そうなイチゴと練乳をくれる。確か、淡雪だって言ってたかな。白いイチゴはあの時初めて食べたんだ。わたしが喜ぶものを知っていて、飽きないようにちゃんと毎回別のものをくれる。心のこもっていることだけじゃなくてヒロムらしさがある。ヒロムは人の喜ぶことばっかり考えてるんだ。わたしばっかりが嬉しくてどうしようもない。もうすぐ来るヒロムの誕生日にわたしはどうしたらいいのだろう。頭の中に一番あいつがびっくりしそうな事を考えた。ほっぺにキスをするのはどうだろう?ものすごくぎゅーっと抱きしめるのは?
そしてその時、わたしはテツとキスをしたことを思い出してしまった。
わたしは長い髪を持ち上げ高くキュッときつく束ねると、パジャマから一張羅のワンピースに着替えてお母さんのおつかいという体でヒロムの八百屋に向かった。
「ミニトマトのまとめ売りのやつとキュウリっていわれた」
「おっけー。ちょうどさっきスイカ冷やして切ったんだ。食うか?」
「ううん」
「珍しいな。いつもなら食うのに。恋煩いか?」
あんたが言うか。
「ヒロムもうすぐ誕生日だね。何か欲しいものある?」
「んー、今は特に無いな」
「強いていえば?」
「あー世界史のノート切れてたから大学ノートの束で売ってるやつ欲しいかな」
「ヒロムって色気が無いよね」
「要らないもの無理に言う方が失礼と思うけど?」
「唐突だけどね、わたし、テツと付き合うことにしたの」
作り笑いを浮かべて絶対嘘だってすぐにバレるような嘘を吐いてみた。
「へえ。いいじゃん変人同士」
ヒロムは真面目な顔をしてそう言った。
「嘘に決まってるじゃない!」
「え、本当かと思った」
「最低ね」
ありえないわ。危機感も何もないんだから。わかってるのかしら。わたしが誰かと付き合ったりしたらヒロムとこういう会話もできなくなるかもしれないってのに。
「でも、そうだよな。カスミ、好きな人いるんだもんな」
「そうよ!諦めてたまるもんですか」
「どういうやつ?テツより格好良いってこたぁねえだろ。この学校?」
「うん」
「同じ学年?」
「そうよ」
「同じクラス・・・ってこたあねえか」
思い切って言ってみた。「同じクラスよ」
「そ、そんなわけねーだろ!何ばかなこと言ってんだ。テツみたいな男前なんていねえぞ」
いるんだよ。中身が男前なのが・・・ん?男前なのか?わからなくなってきたぞ。ただの鈍感な馬鹿にしか見えなくなってきた。こんなやつ好きじゃないわ。でも、うん。これからきっと格好良くなるのよ。大学くらいでスーツの似合ういい男になっていくんだわきっと。
「もしかして樋野じゃねーだろ?」
きっとそうよ、きっと「そうよ!」
あ、強気になり過ぎて思ってたことが声に出てしまった。「樋野?樋野ってあの樋野だろ?」
ひ、ひの?ひのって・・・「樋野先生?」
樋野先生っていうのはうちのクラスの担任で確かにみんなに格好良いって騒がれていて、独身なんだけど。
「なんで疑問形なんだよ」
「ギモン?」
「お前、叶わぬ恋をしていたんだな。先生に恋しちまうなんて、だからオレにまで隠していたんだな」
なんて勘違いを・・・。
「ち、違うわよ!ヒロム、勘違いしないで」
「わかった、誰にも言わないからな」
「ちょっと待ちなさいよ。違うってば!」
そう言いながら、わたしの否定を聞かずにヒロムは去っていく。
「ち、違うぅ!」
いやーーぁああああ!!
どうしよう、なんてこと。この勘違いをどうといたらいいわけ?考えに気を取られてヒロムの言うこと聞いてないからこういうことに。しかしなんて清々しい顔してたんだろうあいつ。「そうかあ、納得」みたいな顔、うざいのよ。
とにかくこの状況は最悪だ。だけどこのまま落ち込んでいたらあのテツのスキスキ攻撃にやられてしまうわ・・・まあ悪い奴ではないし、テツはわたしの気持ちもわかってくれようとするからテツに相談に乗ってもらうってのもありかもしれないけど、いや、だめね「そんな奴やめて、僕と付き合いましょうよ」とかうまく乗せてきそうだわ。困ったな、とわたしは家の前の階段を上がり、郵便ポストの中を確認してから奥へと入っていった。
「あ、カスミさん?」
「ひいいい!出たあ!」
角を曲がると白馬の王子みたいな外見のやつに出会う。そんなの少女漫画じゃないんだから。
「それ、ひどくないですかあ」
「なんでこんな所に?」
テツは変てこなてんとう虫が描かれたワンポイントの黒いシャツに青のハーフジーンズを履いていて白い靴下に黄色のスニーカーを履いていて、個性的というよりも呆れてしまうくらい適当にありあわせのものを何も考えずに着ているという感じだった。
「木下の家でゲームしようって約束してて、でもちょっと早すぎたんでコンビニで飲み物でも買おうかと思って駅の方へ戻ろうとしていたらカスミさんがいるから、驚きました」「木下?」
「最近引っ越したばかりの新しい家、見に来いよって言ってくれてさ。中学の頃から仲良くしてる友達なんだ」
「へえ、そうなんだね」
声がうわずった。だってさ、噂をすれば影がさすなんていったって、このタイミングの良さはおかしくない?でも、つけられてる感じはないんだよな。いつも。偶然?ある?そんなこと。あ、そういえばお母さんが、新しく引越ししてきた隣の家の人が高そうな菓子折をくれたって言ってたっけ?
「二階の角から二番目って言っていたな。202号室」
ということは木下さんて、うちのおとなりさんなの!?
「それで、カスミさんは?もしかしてここヒロムくんの家なんですか?」
「そ・・・そうなのよ」
咄嗟のことで嘘吐いちゃった。でもさすがに隣って気まずいな。
「あ、カスミ居た。あれ、なんでテツが居るんだ?」
ヒロムが紐を巻き付けたスイカを持って階段を昇って来ていて、わたしはまずいと思った。
「僕は友達の家にゲームしに来てて。これからお邪魔するところなんですよ」
「そうか。友達って吉岡の双子か?」
「いや、木下だよ」
「え?木下?」
「それで、ヒロムはどうしたの?」
「やっぱあとで食いたくなるかなと思ったし、親父がいっぱいあるから持ってけってさ。夏休み中はジュースの研究進めっからお前暇な時飲みに来いよ!あ、テツお前もよかったら・・・」
ヒロム、それはわたしだけの特権なんだよ。テツなんかに奪われてたまるもんですか!
「ねえテツ未確認飛行物体って見たことある?」
「未確認‥って、ああ、UFOのことですか?」
「そ、そうそう」
「無いなあ、居るのかなあ。宇宙人」
良かった。テツって興味津々だから頭は良いんだけど、すごく馬鹿なんだよね。そんな風に馬鹿にしたらヒロムがわたしの方を見て、不安げな顔をした。
「そろそろ木下くんが待ってるんじゃないかな?」
優しくヒロムはそう言って、「そうだね。それじゃまた」と笑った。男子って羨ましいな。テツはわたしのことを好きで、わたしはヒロムのことを好きなのに女の子なら嫌がらせをしそうなところを、テツはヒロムに何かしたりしない。私がそういうのを嫌がりそうってわかったのかな。でも、ごめん。私は振り向かないよ。絶対にね。
「じゃあね、テツ。もう会うこともないでしょう」
「悲しいこと言わないでください」
わたしはそう言いながら、テツの顔をちゃんと見られなかった。
「ところでその木下ってゲーム強いのか?」
「めちゃめちゃ強いよ」
「そうなんだ、おれも参加したいな。次ぜひ誘って」
「じゃあ、連絡先交換しとこうか」
ヒロムはスラスラと電話番号をエプロンから取り出したメモに書いた。テツは「ごめん。ありがとう」とヒロムのメモをもらってテツの番号を書いていた。そしてテツは202号室のインターホンを鳴らし、「いらっしゃい」と木下くんが出てきた。わたしは少し後ろに下がった。ヒロムは堂々と玄関へ行って、「こんにちわ。おれ、近所に住んでて。ちょうどテツと会ったもんだから、ここまで話してて。でもこれから用があるから次の機会があったら一緒にゲームしてもいいかな?」
「もちろんだよ。今日もできればよかったよな」
「何持ってんの?スイカ?」
「そう。おれんち八百屋なんだ」
「へえ、すげえ。もらっていいの?」
「おう。ゲームの前払いってことでさ」
「ずいぶん大きいな。ちなみにどこ産なの?」
「定番の熊本産」
「ありがとう。嬉しいよ。次の土曜日なんてどう?」
「アルバイトしててさ、午前中じゃなければ大丈夫!」
「へえ、何のアルバイトしてんの?八百屋?」
「新聞配達をしてる」
「なるほど。夏休みだし、いい手だな」
「そう。でも帰ってから午前中は二度寝してる」
嘘だ。シズカさんに負けないように勉強してるくせに。
「ゲームって人数多いほうが楽しいしな」
「じゃあ、次の土曜日な」
テツを見送りながら、ヒロムはわたしの方を不思議そうに見ていた。
「お前、嘘吐いたろ」
「うん」
「テツに聞かれてここをおれん家って言ってたろ?」
「うん」
「階段登ってる時聞こえてきたぞ」
「うん」
「なんでだよ。201号室に当然というような感じで苗字が『棚引』って書いてあるだろ?どうするんだよ」
「テツはわたしの下の名前の『カスミ』しか知らないでしょ」
「そういう問題じゃないんだって。お前の嘘は結構自分のための時あるよな」
「だって、しょうがないじゃない。びっくりして咄嗟に言っちゃったんだもん」
「知らねえよ。おれは商店街のど真ん中の八百屋の跡取りだから顔は嫌でも広くなっちまうし、木下さんて前からうちによく夫婦揃って買い物に来てくれてるんだよ。それに商店街で木下さんの旦那さんの方が息子さんらしき人を連れて買い物してるのを見たことある。その息子さんがテツと仲良いんだったらそのうちそういうの全部広がってボロが出るぞ。咄嗟に嘘吐いちゃったって言っとかねえと」
「・・・わかったよ」
「謝るのはともかくとして、ちゃんと、きちんと、テツに言えよ」
「わかったってば」
私は急いで鍵を開けて、家に入った。ちょっと強くドアをしめてしまった。ヒロムは酷く真面目な顔をしてうつむいた。そのあと、小走りで階段を降りていったのが聞こえた。隣の家から楽しそうな笑い声がたくさん聞こえた。わたし、土曜日にヒロムもそこに加わった笑い声を聞かなきゃいけないのかな?嫌だな、出かけようかな。だって、それは、すごく寂しい気持ちになるから。私が好きな男の子と、私を好きな男の子が仲良くするなんて、すごく複雑だよ。それにおかしいよ。
ピンポーン、とインターホンが鳴った。玄関のドアアイを覗くと、ヒロムがいた。
「はい、なんでしょう」
「何がお前。『はい、なんでしょう』だよ?」
「え?だって」
「急にそうやって妙にしおらしくなるときあるよな。気持ち悪いぞ」
「‥ひどい!」
あ、スイカ持ってきたんだ。
「じゃ、またな。見かけより重いから気ぃつけろよ、これ」
ヒロムはギリギリまでわたしに負担が掛からないようにわたしの手にスイカの紐を引っ掛けるように渡して、ヒロムは階段を降りていった。
「なんでこうなるのよ」
わたしはスイカを持った右手よりも、握りこぶしをつくった左手に力を入れ、ぐっと締めた手の平がほんの少し、赤くなって、痛くなった。秘密もつくるものじゃないし、我慢しすぎるとだめになっちゃうな。泣きそうな目を左手で擦って、わたしはもうそろそろ、報われてもいいんじゃないかって思ってしまった。
わたしはだれでもないヒロムが好きなの。好きなんだよ。
スイカを切ったら、中が黄色だった。産地もよく見たら長野のスイカだった。熊本産の定番じゃない別のをくれたんだ。恋愛感情はどうであれ、わたしのだけ、特別なのかな、なんて図々しく思った。でもやっぱり隣はゲーム音で煩かった。わたしは松前に電話をかけることにした。
第8話「生徒会」
私は坂道を自転車で漕ぎながら逃げ水を見ていた。東京都内の癖にこの道はどうも田舎じみている。向こう側にある公園は公園なんかじゃない。絶対にあれは森だ。森でなければ何だと言うんだ。
「あっついなー。参るなあこれは」
夏休み、わざわざ制服を着て学校に行かなきゃいけないのは正直なところ苦だ。制服じゃなくてもいいようにしてくれって、生徒会の目安箱に入れておきたい。できれば匿名で。そう、匿名で。
「スー、おはよう」
「お昼前ですが、おはようございます十和子先輩」
「おはようって言うんだよお昼前でも。社会では」
「社会ですか?なるほど。勉強になりますわ」
「自転車停めてくるね」
「はい、わたくしめ、日陰で涼みながらお待ちしてます」
私は松前十和子(まつまえ・とわこ)。高校二年生。なんて、主人公になりきったみたいに今、考えてるけど、恥ずかしいな。例えばカスミみたいにかわいい子だったら主人公として需要があるのだろうけど、私はそんなんじゃないなあ、なんて考えてしまう。あとはこの一年生の後輩のスーみたいな華奢で上品な女の子とかも主人公になるんだろうな。
「おまたせ」
「いえ、日陰はまだマシですわね」
スーは日傘をさして日陰で待っていながら、そう言った。それは、どういう?嫌味か何かかな?
「昇降口のとこで待ってもらっても良かったんだけど」
「いえ、日陰はまだマシでしたわ」
「そう」
大事なことだったのか2回言われた。
私はあんまり自分には自信がない。仲良くしてくれる子はみんな可愛い。すごくキラキラしてる。私はそんなにキラキラできない。
「スーも恋とかしてるの?」
「え?なんですか、突然?十和子先輩、恋してらっしゃるんですか?」
「してないよ」
「そんなあ、大人っぽくて、クールビューティーな先輩ですもん。モテますよね。困っちゃいますよね」
「そんなことないの。それより私の親友がね、せつなーい恋してるんだよね」
「それはもしや三角関係ですか?好きな人被っちゃいました?」
本当にいつも思うんだけど、一体全体、この子の想像力はどうなっているの?
「違う違う」
「それはつまらないんですの」
スーはそう言いながら左手に傘を持って、右手だけでも器用に上品にタオルハンカチで汗を拭いていた。
「面白くしてどうするの?」と私は言う。
「それでご親友がどうされました?」
「ずっと好きな幼馴染がいるんだよね」
「幼馴染ですか。それは随分と甘美な響きですわね」
いつも思うんだが、スーって遠回しな表現がすごく好きなんだよな。それでちょっと不思議に思う。
「それでずっと振り向いてくれないらしいの」
「なるほど」
「スーはどう思う?」
「そうですね、相手にしてないってことでしょうか」
「やっぱりそう思う?」
「他に意中の女性がいらっしゃるとか」
「でも幼馴染だよ?ずっと一緒にいて気づかないことがあったら変でしょ」
「それはもしかして男同士のラヴでございますか?」
「それもあいつの性格上はないと思うんだ」
「もしかして十和子先輩。ご親友のこと、とか言いながらご自分のことを相談されてたりします?」
「ううん、それは違うの」
「ちぇ、残念ですねぇー」
急に低い声に変わってお嬢様口調を辞めて話すとこわい。でもほんと、スーって面白いよなあ。なんでそこまでアップダウン激しいのか。
「最初から言ったじゃない、親友のことだって」
「他人の心配より、ご自分のことをお考えになられたらどうですの?」
「ほんっとに、その通りね」
「ちなみにわたくしめスーは、最近、彼氏が浮気しましたので殺さない程度にしめましたわ」
「一体何をしたんだか」
「よくぞきいてくれましたわ」
「ききたくないな、それ」
「えー、愚痴くらいきいてくださいまし」
「え、それ本当に愚痴なの?最後は惚気じゃない?」
「ちっ、バレましたか」
こんな会話を繰り広げながら、昇降口を過ぎ、上履きに履き替えた。
「うまくいってるならいいことじゃない」
「ちなみに十和子先輩は好きな人とかいらっしゃらないんですか?」
「いないかなあ。そういう切ないのばっかりを目の当たりにしちゃうとね。中学時代に付き合ったりはしたんだけど」
「そういう言い方ってことは別れたんですね」
「そうよ」
「ちなみにわたくしめスーの彼氏は、中学時代に一緒に付き合ったんです」
「そうですか。そして一体あなたはどこに語りかけているの?」
「テレビの向こう側ですわ。十和子先輩」
「なにそれ、これがテレビ番組だって言うの?」
「もしかすると十和子先輩の意外と近くに運命の相手がいたりとか、いなかったりとか、しちゃうかもしれませんけどね」
「いなかったりもしちゃうんだ」
「ええ、わたくしめに言い切るという無責任なことはできませんので」
「言い切るってほうが責任があるんじゃないかな?」
「そうでしたっけ?」
「うん」
「十和子先輩!もしかして意外にも好かれてる節がありました?」
「ん?ないない」
「いや、今、脳裏にほんわりとある男性の姿が」
「ないってば」
スーって私のこと買いかぶり過ぎなんだよな。私のことクールビューティーとか言ってくれるのはスーくらいだよ。
「もしかして、十和子先輩はあの接戦だった生徒会役員選挙でご自分の投票数が良かったのは押し付けられたのだとお思いですか?」
「え?それは私がどうしても中央階段の心霊現象が変だったから」
「でも一年生でその除霊と改築の快挙を成し遂げた生徒は今までいなかったんですよね。その噂はかねがね」
「バカバカしかったのよ。ただ単に古い階段だっただけで心霊現象なんて感じなかったわ。ただ、本当っぽいことが起きてなんだか可哀想で除霊すべきだと思ったし、それにあの階段が通れないと遠回りになって不便だったわ」
「わたくしめは十和子先輩のそういうところに尊敬をしております」
「そ、そう?照れるわね」
「そういえば、恋といえば最近スーのお兄様が、可憐な女性に恋をしたとおっしゃいました」
「へえ、どんな子なんだろうね」
「ラブレターをやぶられたそうですわ」
「え?ちょっと待って?聞き慣れたような聞き慣れないこと聞いたんだけど、もう一回、お願いしていい?」
「ゴホン、ラブレターを‥ゴホン、あのう。ダジャレじゃありませんことよ」
「でしょうね」
ラブレターといえば、カスミって相当ラブレターもらってるんだよなあ。それくらいにモテる子ってことなのかな?
「そしてスーは、そういうお兄様のそんな勇姿を見るのが楽しくってしかたありませんでしたの」
「ねえ、スー。それってもしかして勇姿じゃないんじゃ」
「そうですわ。そのとおり、ざまあみろ‥ですわ♡」
「やっぱりそうか」
スーって面白いんだよなあ。こうやってお嬢様語を話してるけどよくよく聞いたらとんでもないんだよなあ。
「ちなみにわたくしめのお兄様は✕✕✕で、✕で、✕✕で、✕✕でございますわ」
「こらテレビ番組だったらアウト発言を連発するなあ」
「あっ‥」
そう、こういうときに限って、向こうに居るのが男子の集団だったりするんだよね。
「あ、スーちゃんじゃん」
「ほんとだ」
「おう、元気か」
「ごきげんよう」
「ごきげんようだって、お嬢様じゃん」
「そうでございますわ」
こいつ、世渡り上手かよ。
「なあ、聞いた?今、お兄様が✕✕✕とか✕とか聞こえたような気がしたよな?」
聞いてたらしいぞスー。さてどうする?
「うちのお兄様だけでなくて、スーも✕で✕✕で✕でございますわ」
「スー、あんたって相当変わってるわ」
「よく言われますわ。うふふ」
スーはにやりと笑いながら、ぴょんぴょんと歩いた。
「そうだ、十和子先輩。さっきのお話なんですけど、その男の幼馴染の方と十和子先輩はお知り合いだったんですか?」
「そうよ」
「じゃあやっぱり、他に好きな人がいるって可能性があるんだとしたら、ご親友のためだと思って告白をしてみたらどうでしょう」
「嘘の告白をして、その後聞き出すってこと?」
「そうすれば、何かわかるかもしれないじゃないですか」
「やってることが諜報活動よそれ」
「そうですね」
「それにさらにややこしくなりかねないわ」
「そのとおりですわね」
「楽しんでる?」
「はい、とっても」
「私、スーのそういうとこ嫌いじゃないけど、自分を弄ばれると嫌いになるわ」
「そうでしたか。ところで十和子先輩、先程から生徒会室の扉の前に怪しい人影が‥」
「え?もしかしてあの階段の幽霊が?」
「カタカタカタといわせてますわ。鍵は開いてますのに」
ガラッと扉が開いた。
「おい今、松前が嘘の告白を誰にするって?」
「なんだ。生徒会長だったのか。びっくりさせないでよ」
「遅いですよ会長。もうこんな時間ですわ。会長たるお人が遅刻じゃいけませんわ」
「それより誰に告白するんだ?」
「心配しなくても、そのご相手は会長じゃ、ありませんわ」
紹介が遅くなったけどこの人はこの学校の生徒会長で、新見始(にいみ・はじめ)という。私とスーは生徒会役員をしているのである。
「そうか‥ん、そうか、じゃない!」
「会長、もしかして十和子先輩に諜報活動されたかったんですか?」
「そうじゃないぞ」
「そんなことより新見会長」
私はしっかりと用紙に耳を揃えて、ぱちんと右斜め上を止めておいた物を眼の前に出した。
「なんだ松前。改まって」
「匿名で、夏季休暇中の部活動及び生徒会活動は私服登校を許可してほしいという投稿が目安箱に!」
「俺はよく知っているぞ、その字は『お前の字』だろ」
「いえ、実はこんなに」
「ちょっと丸文字とかカクカクさせてそれらしく見せてるだけで全部『松前の字』だろ」
「いいえ、これとこれだけ、先程書いた、わたくしめ『スーの字』でございますわ」
「やっぱり『お前らの字』じゃないか」
「え、いいんでございますの?会長!気になるあの娘の夏休みの私服が、どこでもない学校で合法的に見られるんですわよ」
「でも、それは匿名ではなくて松前だけ入れたんだろ」
「なるほど会長も✕✕で✕✕✕で✕✕で✕でございますのね」
「なんだと?」
第9話「コーラ」
「はい、松前です。あら、カスミちゃん?ええ、十和子は今、学校に用事があるからって出掛けていて居ないわ。自転車に乗っていったし、いつもかけてるとこに制服がないから間違いないと思うのだけど‥」
生徒会活動かなあ。大変そうだもんな。でも困ったな。そうだ、ヒロムの家に押しかけよう。わたしはそう思って、ベランダに出た。すると隙間から向こう側でゲームをして遊ぶテツと木下という男が二人でゲームをしているのがなんとなくわかった。声もちょっと聞こえてくる。
「テツって妹いたよな?」
「ああ、うん。いるよ」
盗み聞きなんて卑劣な真似はしたくない。でも、テツって妹がいるんだ。そんな感じ全然しなかった。
「いいなあ。噂じゃご令嬢みたいなキャラなんだって?」
「まあ、僕の父親は社長だから、令嬢なのは本当だよ」
「さらっとすごいこと言うよね」
「別にみんなが知ってるような大きな会社ではないし、僕がたてたわけでもないし」
「そ、そうなんだね」
「それで妹は傍若無人なんだよ」
「ごめん、もう一回いい?」
「傍若無人なんだよ」
「ごめん、四字熟語苦手でわかんない」
「なんだよ」
「ごめんって」
「綺麗な言葉遣いで勝手気ままなこと言ってるいわゆる不思議ちゃんってところかな」
「へえ、なんかそう言われたらもっと気になった」
「変だけど、なんだかんだ言ってかわいいよ」
「ほらな」
「僕は綺麗なかわいい女の子はみんな好きなんだ。でもそれで内面が普通だったらつまらないでしょ?変な子のほうが面白いよ」
「それはみんなそうだと思うけど、テツみたいにハッキリ言うやつは珍しい気がするな」
「最近ちょっと特に気になる人がいるんだ」
「へえ、どんな子?」
「僕からのラブレターを目の前でやぶった」
「すげえ」
「でも、嫌われてはいないと思う」
「なんでそう思うわけ?」
「多分なんだけど、長い時間をかけて自分のこと見てほしいって感じがするんだよ。そんなにすぐにすぐ、追いかけてこないでって思ってる」
「シンデレラじゃないってこと?」
「自分から追っかけたいんだろうね」
「そっか、なるほどね」
「それで、今は好きな人がいるって、その人が軸になって世界が回ってる子なんだ。だから僕がその軸になれたらいいのにって思うけど、なかなかそうはいかない」
「じゃあどうすればいいと思う」
「別にそれでいいんじゃない?」
「え?なんで?」
「だって、僕だってそうだもん。好きな人を追いかけたいし、自分のことよく見ててほしいよ。男がみんなそうで、女がみんなそれを受け入れなくちゃならないなんておかしいよ」
わたしがサルみたいによじ登ったりするのができたのは、見られても気にならなかったからだ。ヒロムだけしか見てなかったからできたんだ。そう思ったら、私ってもしかしてテツのこと意識しすぎてるんじゃないかな?サルみたいによじ登ったりしたら幻滅して諦めてくれるかな、なんて、ちょっとでも都合のいいこと考えた。そんなの絶対に起こらない。多分大笑いして見るような性格してる気がする。面白いことするねって言う気がする。それでいて好きだって言うんだ。それって、なんで?わからない。わからないけど、わたしはそれがすごく歯がゆくて嫌なんだ。
わたしはヒロムの部屋の窓を見る。
「今、留守かな?窓が開いてないや」
わたしはそのまま家に居ても仕方ないので出掛けることにした。ミーンミンミンミンミーン、ジリジリジリと夏の音がする。そう言えば鳴くのはオスだけなんだっけ。「ピーピー泣いてばっかりいる気がするな。私、女なのにな」なんてひとりごと、呟いてみた。
「カスミさん?」
「え?」
「ごめん、今、ちょうど君のこと考えてたんだけど、なんでここにいるの?」
「いや、そっちこそ」
テツが目の前にいた。よくわかんないけど、いるんだ。
「なんかカスミさんの声がきこえたような気がしたから来てみたんだ」
「いつ?」
「ベランダから」
「どんな?」
「『窓が開いてないや』って、きこえました」
「なんでわたしだってわかんの?」
「僕、地獄耳なんだ。電話が聞こえたくらいからなんかおかしいなと思ってた。カスミさんによく似た声がしたから」
「そうなんだ。でもちょっとそれはなんか気持ち悪いかも」
「ご、‥ごめん」
「木下くんは?」
「自販機で飲み物買ってくるって言っといた。だからすぐそっちに戻るよ」
「わたし、木下くんの家の隣りに住んでいるの」
「そうだったんだ」
「嘘ついてごめんなさい」
「なんで?僕がヒロムくんの家なんですか?って聞いたから『そうなのよ』って、返事しただけですよね?カスミさん嘘ついてないじゃないですか」
「うん。そう言ってくれるかなとは思った」
「そうですか?」
「ヒロムがうちにスイカ持ってきてくれたの。でもその時ちょうど階段でそれを聞いたみたいだから、怒られちゃった。別にテツが付き纏って来たりするとは思わなかったけど、うちがわかったら利用しようとするかなとは、なんとなくよぎった」
「そうですね。地獄耳なのは気持ち悪いでしょうし」
「傷ついた?」
「でも、そうだったから今こうしてるんじゃないんですか?誤解してた部分、解決が出来ましたし」
ヒロムもわたしの声を聞いたらすぐにわかる。でもこうやって駆けつけてはくれない。なんだかね、わかりたくないけど、テツがわたしにくれる気持ちは、わたしがヒロムにあげたい気持ちと同じなんだなと思ってしまう。それでヒロムがわたしにくれる気持ちはそれとはどこか、なにかが違うんだ。
「どうしたんですか?」
「なんでもないよ」
涙が溢れてくるんだ。どうしようもなく。
「前、言ったの忘れたんですか?男は涙目に弱いって」
「そうだっけ?」
テツがわたしを抱きしめる。こうやってムード上手く作ろうとするあたり、女たらしっぽいのよね。こいつ。
「あのね、ごめん。嬉しくないってわけじゃないんだけど、すごく暑い」
「すみません」
服がなんだかひんやりしていた。だから、正直なところ、わたしを暑いって思われたくなかったの。
「木下くんの家はエアコンが効いてたんだ」
「はいっ」
「カスミさん家は扇風機ですよーだ」
「はいっ」
テツはなんだか、困ったような眉をしていた。本当にこの人、わたしのこと好きなんだ。我慢してるんだろうなって、すごくよくわかる表情をするんだ。そういうのずるい。ずるいなあ。
「ねえテツ」
「はいっ?」
「コーラ一本奢って?どーせコーラ頼まれたんでしょ」
「ああ、良いですよ」
「やった」
「缶のやつで」
「ケチ、ペットボトルで」
「はい」
わたしは一番近くてコーラがあるのを知ってる自動販売機にテツを案内した。一番最初にテツが押したとき出てきたコーラをわたしは取って、すぐに飲んだ。
「コーラ飲むだけでもヒロムくんとの思い出が浮かんできますか?」
「なによ、悪い?」
「別に。そうなのかなあって」
「あっ!」
テツはわたしの飲んでるコーラを取り上げて飲んだ。
「ちょっと何するのよ」
「一度キスしたら何回しても変わんないんじゃなかったでしたっけ?」
「あのね」
「なに?」
「勢い込んだからゲップでそう」
「えっ?」
「あっ、そうだ。一回だけ‥デートしてもいいかなって思ったの、わたし」
「え、なんですか?」
「あんた、地獄耳だったわよねぇ?」
「そうでしたっけ?」
「あのね」
「いつですか」
「夏休み、暇なときでいいから」
「じゃあ明日」
「明日はだめ」
「じゃあ明後日」
「明後日もだめ」
「どうして」
「どうしても」
「カスミさん、実は明日でもいけますよね?」
「いけない」
「なんでですか?」
「明日はヒロムんち行くから」
「へえ。そうですか。じゃあ僕も行こう」
「だめだめ」
「明後日どこ行きますか?」
「そうね‥八百屋さん」
「だめだめ」
「えー、じゃあ、ショッピング、とか?」
「明後日の10時に新しくできたショッピングモール行ってみますか?」
やっぱりわたしにはヒロムの顔が頭をよぎるのだった。
「あ‥うん。わかった!じゃあ明後日」
第10話「お迎え」
眠ると同じ夢ばかり見るの。それをずっと不思議に思って生きてきた。そして目が覚める前には必ずこう。「シズカ!ごめんね。いつか迎えに行くから」
その言葉だけが頭を離れない。だからいつも夢の内容は忘れてしまう。それが、とても寂しい気持ちになる。そのあと必ず、目覚まし時計が毎日鳴る。そのリズムを刻むみたいに体にしみついている。昼寝もしない。寝坊もしない。
アタシは2才のときに孤児院から引き取られて、この八百屋に来た。ヒロムはアタシと血が繋がってると思っているし、本当の父さんと母さんだって信じている。でも複雑なんだ。ずっと言えないし、言ってない。言えるはずがない。
アタシは母さんが嫌いだった。あんな酷い人、他にいないからなんだ。弟が産まれたのは一体どういうことなのか理解できるような年齢になったとき、アタシには母さんの行動の意味がわからなかった。そしてヒロムに対してどう接していいのか深く悩んだ。ちょうどその時アタシの前に交換留学の話が舞い込んで来たのは物凄く都合が良かったんだ。でも結局、母さんは死んでもヒロムに本当のことを告げなかった。父さんは無口だから話していないと思う。自分のことに鈍感なヒロムが気づくとは思えない。アタシが言うしかないのかもしれない。
母さんが亡くなったことを精一杯受け止めて、父さんと二人三脚して八百屋を守ろうとしてるあいつに、本当に血が繋がってるのは母さんだけだったなんて、アタシには言えない。そんなことをしたら、弟が壊れてしまいそうで。アタシは大学に行って、アルバイトして、彼氏の家に泊まって、たまに海外旅行に行って、のらりくらりして、逃げることばっかりしてきた。弟だってそうすればいいのにって、あれこれおすすめして見せる。でも弟はそんなことには興味がないという顔をする。そして「姉貴はすごい」って言うんだ。アタシはなんにもすごくない。ただ、なんでも簡単なだけ。
ずっと迎えを待ってるの。「いつか迎えに行くから」って、それはいつなんだろうって。その声はきっとアタシのお母さんなのかなって。探してる。同じ声の主を探してるけど会ったことがない。わからない。迎えに来るのはもしかしてアタシが死ぬときなのかな?だとしたら、それまでずっといつもあの夢しか見ないのかな?
頑張ってるの。誰よりも。いつか迎えに来るあなたのためにアタシは生きてるの。アタシはここでどう生きたらいいの?ヒロムにどう言ったらいいの?
アタシは留学先の教会で神父様に相談したことがある。「君は重く考えすぎなのかもしれないね」って答えてくれた。そして「君にとってその夢は怖い夢ではないんだね」と聞いた。「とても懐かしくて優しい夢です」と答えると「それは良いね」と頷いた。打ち明けたのはその一人だけだ。他には誰にも言ってない。
アメリカで出来た友達はもちろん家族も大切にしているけど自立した心も持っていて、アタシみたいに複雑な子もいたけどあまり気にしていなかった。自分のやりたいことを精一杯すればいいんだ。そう思わせて、全部忘れさせてくれた。実力はちゃんと評価がもらえるから、勉強が出来れば出来るほど楽しかった。
日本に戻ってきたら、やっぱり思い出してしまう。悪いスイッチみたいに切り替わってしまう。淀んだ現実だ。隣近所、あちこちで噂が広まりやすいこの商店街で誰もアタシが養子だなんて言わない。ヒロムの出生についても誰も何も言わない。気持ちが悪い。こんな古くてじめじてして酷いところ、無くなってしまえばいいと思いながら、うちの弟は必死でそれを守ろうとする。それをどうすればいいんだろうって。興味があることはなんでも勉強して、知らないことはないんじゃないかって言われて表彰状いっぱいのこのアタシは、それだけは何もすることができない。
とても嫌だ。嫌い。逃げたい。アタシを見ないでって。アタシの居場所はここじゃない。「知らないほうが幸せなこともある」なんて、そんなこと言いたくないの。でも、一体ヒロムにちゃんと伝わるように話すにはどうしたらいいのだろう。どうしたら傷つけずに済むんだろう。話さないでおいていいのかな?でももし商店街で酔っ払ったおじさんがポロッと言ったりしたらそれがいちばん最悪なんだ。こんな大事なことを考えているときに、弟が部屋の戸をノックする。保留音のグリーン・スリーブスが微かに聞こえてくる。
「おい、姉貴!また素朴な苗字の彼氏から電話」
「今忙しいから無理って言っといて。かけ直すから」
そしてパタパタと階段を降りていくのが聞こえた。
「すみません。今、手がはなせないそうです。あとでかけ直すって言ってました」
アタシは階段を降りて弟がその受話器を置くのを聞いたら、声をかけた。
「あのね、ヒロム、話があるんだけど」
「先に言わせて、伝言。吉田先生が盲腸で緊急入院だって。それでしばらく休講になるって」
「ああ、そう」
「ああ、そうじゃないだろ?」
「誰だったの?」
「田中‥って姉貴今彼氏何人いるの?」
「3人だよ」
「名前は?」
「田中、山田、佐藤」
「よくいる名前だな。それで、なんで?」
「なんでって、付き合ってって言われたから」
「普通、付き合ってる人がいるって断るだろ」
「付き合ってる人がいるけどいい?って言ったらいいよって言ったのよ」
「意味わかんねえよ。誰が一番なの?」
「誰も一番じゃないし、好きじゃない」
「なんで好きじゃないのと付き合うんだよ」
「暇だから」
「もういいや、なんか。バカバカしくなったよ。それで?話って何?」
「あのね‥」
話そうとした途端に電話が鳴る。そして弟が取った。
「はい、矢尾青果店です。どちら様でしょうか‥」
どうせまた田中だろうと思ってアタシは弟がうまいこと言ってくれて切るのを待っていた。
「えっと、姉貴。アサイさん、って女性、知ってる?」
「知らないけど」
「シズカさんはいらっしゃいますかって、言われたけど」
アタシは誰だろう?と疑問に思いながら電話に出た。
「はい。お電話変わりました」
「あの、シズカさん、ですか?」
アタシは夢と同じ声が聞こえるのに驚いて腰を抜かした。そして何も言えずに、どうしたらいいのか困っていた。アサイさんも困っているようだった。
「はい。シズカです。あなたはアタシを‥アタシをいつか迎えに来てくれる方ですか?」
第2章(第11話〜第20話)
第11話「シズカ」
俺は元はよく喋る男だった。明るさが取り柄だとよく言われた。この街の中心だと言ってくれる人もいた。
ある日、急にうまく喋れなくなった。そして今、俺は何を話せばいいかわからない。ただ、「このままでいてはいけない」ということだけはよくわかる。
長い歴史が続くものというのは、それだけの理由があると思っていた。俺は、八百屋の5代目当主として、伝統を重んじ、守ることが当然のことだと教えられた。だから俺はそのことを大切にしたいと意気込んでいた。ずっと一緒に育った女の子と結婚した。可愛いだけじゃなくて、話上手でくるくると動く働き者だった。今、たまに自分とヒロムの存在を重ねることがある。あいつは俺によく似ている。近所に住むカスミちゃんを見てると本当にそう思う。ただ、俺はヒロムに伝えるべきか悩んでいることがずっとある。
「新しいもの」というのは古い街と対称的だと思われやすい。しかし、長く続けるには変化が必要不可欠だ。そのままでいてはいけない。新しい風を取り入れて、広い目でやっていかなくてはならない。
俺とリツコには子どもができそうになかった。流産を二度も経験させてしまったことで諦め、里親に応募することにした。しかしそれも、そう簡単な話ではなかった。いろんなところに出向いて、話を聞いてもらい、勉強することがたくさんあった。二人で話し合って、実家のこともあって、男の子がいいと希望を出していた。しかし、こんな子がいると紹介を受けたのは2歳の小さな女の子だった。ひと目見たとき、不思議とうちに来ても違和感がない子だと思った。なぜかわからないがうちの嫁さんにすごく雰囲気が似ていて、紹介されたことにも納得ができた。俺もなぜ男にこだわっていたのだろうとすぐに考え直せるほどだった。出生名はシズカといった。しかしこの子自身、静かな子というわけでもなく、よく話す子で頭の回転がすこぶる良かった。
最初に大変だったのはまわりからの理解だった。親世代に養子縁組があった時代を生きた人だっているはずなのにもらってくるのが男じゃないというだけで八百屋の存続を心配する声があった。まあその通りだろう。しかし俺はシズカを引き取ると決めたとき、早く死んだ親父のぶんと、次の代のぶんまでも俺が長生きしてやるんだと、心に決めていた。「一体どんな顔の子か見てやりたい」と言う近所の頑固おやじが、ある日シズカを見た瞬間に絶句した。そして飲み屋で「よくあんな子を見つけたもんだ。たまげた。リツコの子どもん頃に、そっくりだった」と吹聴したものだからシズカは話題になって、色んな人がシズカを見に来るようになった。
シズカが幼稚園に入園して少し経つと、急に先生に電話で呼び出された。
「正直なところシズカさんは私共の手には負えないほどといいますか。こんな子もいるのだなと驚かされるばかりで、もしかするとどこか私立に編入されたほうがよろしいかと‥」「え?そうですか。ご迷惑をおかけしてすみません」
「いいえ。そうではありません。早熟といいますか、他の子よりも物覚えが良くてしっかりした子です」
「ええ、それは私もそう考えています」
「私立の小学校へのお受験は‥お考えになられていますか?」
「この辺の公立小学校へ進学するのでは、シズカには窮屈になりそうなのですか?」
「申し上げにくいこととは思いませんでしたが、意外でしたでしょうか」
「意外なことというわけでもなかったですが、シズカは養子で、ついこの間うちにきたばかりなんです」
確かにものすごく頭のいい子なのはよくわかっていた。話していることも、図書館で借りてきて読む本もどんどん難しいものを読みはじめていた。一緒に遊んでいた木のパズルを難なく解いてしまったり、俺とリツコが話している会話を勝手に理解していて、あとで的確なアドバイスをくれたこともあった。3才の子どもというにはあまりにも大人びていないかと。そう、そこだけが、俺たちの子どもでないことに、どこか不安に感じていた部分だった。
「才能があるのならそれは伸ばしてあげたいです。親としてそれはすごく思います。ただ、一緒に居られる時間を減らすようなことはしたくないです。まだ、もう少し、俺たちの力で愛情を与えたい育てていきたいと考えています」
シズカはそういう知識競争の場へ行きたがるだろうか。そのほうがいいのだろうか?優劣をつけるべきなのだろうか。普通と違うことを受け入れるべきなのだろうか。
外見も、雰囲気も、話しているときも、ちゃんと俺たちは家族だと信じられた。でもその決断を急ぐには、俺たちがシズカの存在を遠くにしてしまうのではないかと。
「幼稚園では縦割り保育というものがありまして、つまり、よく年上の子たちとの交流の場をもうけているんですね。そのほうがシズカちゃんはすごく楽しいようです。その話でお分かり頂けますでしょうか」
近くに住んでいて交流のある子どもがいて、近い年の子ともよく遊ばせているのに、家で話をするのは小学生のお兄さんお姉さんの話ばかりだった。
「わかりました。一度持ち帰って妻とシズカも一緒に相談をします。それまでご迷惑をおかけしますがお願いいたします」
児童相談所に連絡して、シズカについての情報ができるだけ多く欲しいことを訴えたが、保護された時に着ていた服に「静」と名前が記されていたことと、その服が不自然に仕立ての良いものだったこと以外には何もないと言われた。そして他にも教えてもらった情報は以前聞いた事柄と何ら変わりもなく、シズカ本人からも聞いたことのあるような話ばかりだった。俺はただ、仕立ての良い服を取りに向かった。
確かに服のタグは作りが凝っていて、俺たちが買うような服とは違う高級なもののように見えた。近所の古着屋に訪ねて子供服のタグに詳しい昔なじみに聞いてみたが、そんなブランドは聞いたことがないと言われた。店主のほうが詳しいかもしれないから聞いてみると言ってくれたが、やはりそれでもわからないままだった。「不思議ね、まるでオーパーツみたいだわ」と言われただけだ。
さっきの話だがそこらの私立幼稚園のことではないんだろう。大学の名前がついていたりする私立幼稚園のことだ。どこにあるのか知っているが、一番近い幼稚園は歩いて通える距離ではない。自転車を買うか、仕事用の軽トラではない普通車を買うか。それで俺は両方を買った。
家族で話し合うと、附属幼稚園を見学に行き、通っていた幼稚園から推薦書をもらい編入試験を受けた。何か対策をする必要があるのか不安に考えていたのだが、何の難もなかった様子だった。俺とリツコはただぽかんとしていた。
有名私立の制服を着ているシズカは嬉しそうだった。帰宅後の表情も前とは違っていた。やっぱりその場所のほうが相応しかったのかと俺はよくわかった。正直にすすめてくれてよかったのかもしれないと。ただ、元々養子だったのも才能があることも話題には上がりやすかった。
妻はある日、俺に不妊治療というものがあることを持ちかけてきた。体外受精というものがあると。その時は古い商店街というのもあって、あまり聞いたことのない技術だった。ただ、シズカの送り迎えでリツコの情報の耳が早くなっていたり、比較的新しい風に触れる機会が増えたことでそういうことも考えるようになったのだった。俺はシズカのことで頭がいっぱいで、そんなことは考えることもなくなっていたが、ただ確かに俺が出かけるとシズカばかりの話で持ち切りになるのでシズカばかり目立ってしまうのも問題だと考えていたし、もう一人いたらいいだろうなとも思っていた。もう俺はそれが男でも女でもどちらでも嬉しいと思えた。
シズカが5歳の時にヒロムが産まれた。シズカが考えた名前で、矢と関係のある漢字の一つだからと言っていた。「どうして男だとわかったんだ」と聞いたら、「女の子の名前は思いつかなかったからじゃないかな」と言っていた。「だって、女の子のお名前はお人形に付け切ってしまってたんだもん」
そして、ヒロムは俺にばかり似ていてシズカのようなかわいいかんじでも、整った顔立ちでもなかった。残念なのか、いいのかわからなくてちょっと複雑な気持ちだった。ただ、シズカがヒロムに巡り合うチャンスをくれて、俺たちはシズカもヒロムも大切にしたいと思った。
ヒロムは近所の同じ年齢の子どもと遊んだ。カスミちゃんと仲がいいのもあって幼稚園も近くで問題なさそうだった。親としてほっとするようなしないような、ただ、シズカとヒロムが違うのは俺の目から見てもよくわかっていた。
一人っ子で育った俺とヒロムはちゃんと違うはずだ。でも姉弟がいるということはいいなと思うほど、本当のことを伝えにくい。
シズカはリツコに本当によく似ている。血の繋がりまで感じられる気がしてしまうほどに、不思議なくらいに。ただ、やっぱり見込み通り、大人になっても誰よりも天才だった。それが俺たちを困らせた。
認められる天才というだけでなくて誰よりも頑張り屋のシズカを誰も悪く言わない。ヒロムのことも、みんなが「あのきょうだい」ってちゃんと言ってくれる。本当のことを知っているのは俺たちだけではない。だからヒロムに伝わることになったら一体ヒロムはなんて言うのだろう。こんなに言いにくい話はない。でもいつか伝えなくてはならない。そう思っては話せないまま、どうしたらいいのか悩むばかりだった。
第12話「母親」
「はい、矢尾青果店です。どちら様でしょうか‥」
おれは、また姉貴の彼氏の田中だろうと電話に出たとき、おれは妙な空気感を感じた。知っているような知らないようなそんな不思議な感覚。でもすごく遠い。電波が悪いのか、どっかのアンテナが壊れているのか、ノイズが煩い。
「シズカさんはいらっしゃいますか。私、アサイと申しますが」
「少々お待ち下さい」
おれは電話口を抑えて姉貴に聞いた。
「えっと、姉貴。アサイさん、って、女性。知ってる?」「知らないけど」
「シズカさんはいらっしゃいますかって、言われたけど」
姉貴は不思議そうにした。
「はい。お電話変わりました」
代わった瞬間、そのアサイさんの声をきいた姉貴の目の色が代わった。
「はい。シズカです。あなたは、いつか‥いつかアタシを迎えに来てくれる方ですか?」
いつの間にか親父が姉貴の受話器を取った。
「二度と電話してくるな」と言って、すぐに切った。
「何するのよ!アタシはこの家の本当の子どもじゃないじゃない。本当のお母さんだったかもしれないのに」
姉貴は今までには見たことがないような悲しい顔をして姉貴は親父に向かって怒った。
「シズカは俺とリツコの娘だ」
「本当のこと、何も言わないくせに」
「シズカがうちに来なかったらヒロムは生まれなかった」
「ヒロムの父親だって誰なのかわからないじゃない」
「俺だ」
「嘘よ」
「シズカが附属幼稚園に通っているときに都心の大学病院の技術を知ったんだ。体外受精っていうのがあるらしいってな。だから本当に俺の子なんだ。シズカがいたから、ヒロムがいるんだ」
「だからってなぜ電話を切ったの?もう二度と掛かってこないかもしれないじゃない」
もう一度電話が鳴った。姉貴は急いで受話器を取った。複雑そうに親父は姉貴を見ていた。
「はい。矢尾青果店‥なんだ、また田中か。聞いたよ、弟からその授業のことは。ごめんね田中、アタシ、もう、暇じゃないから、もう、別れよう。伝言は受け取った、ありがとー」
強くガシャンと鳴るように電話を切った姉貴と、これ以上どう話していいか悩んでいる親父と、おれはその空気には耐えられそうにはなかったけど、立ち去るわけにも行かない感じだった。ただもし次に電話が鳴ることになったらおれが出るべきだなと思って電話のそばにある椅子に移動して腰掛けた。
おれとシズカに血の繋がりがないのは何となくだが気づいていた。母さんと姉貴の関係がぎくしゃくし始めたのも、親父と姉貴のやり取りの違和感も。そして、親父と母さんの関係性におれとカスミが重なることにも気がついていた。「大事な話がしたい」って誰かが言うたびに、多分そういうことなんだろうなと気付かされる。だけどずっと思ってる。言わなきゃわかんないよって、事実だって確認のしようがないって、勇気出してちゃんと言ってくれよって、そう思ってる。親父は姉貴に「ちょっとシズカこっちに来い」と、おれに「電話は頼んだ。ちょっと待ってろ」と言った。おれは、あの電話の感じからするとなかなか掛かってくることはないと直感があったが、その通りに電話の前に留守番した。二人は物置部屋に向かった暫く時間がかかったが、おれの直感通り電話もかかってこなかったし、今の時間帯は客も来なかった。
二人が戻ってくるとテーブルに小さな服を広げた。
「シズカの本当の親の手掛かりはこれだけだ。どこの仕立て屋で作られた服なのか知らないが、高級品という感じがする。でもいくらブランド名を調べてもわからないし、その類いの詳しい人に聞いたがそれでもわからなかった」
「アタシが着てた服?」
「そうだ」
「ここに『静』って書いてある」
「本当だ」
「しっかりしたタグだ。こんな刺繍に拘ったタグをつけるのは珍しいらしい。当時これを見た人はまるでハイブランド製みたいだって言ってた」
「たしかにそうかも」
「おれ、思ったんだけど、電話の向こう側、すごく遠い感じがした。なんだか不思議な感じ」
「アタシもそんな気がした。でもなんだか懐かしい感じがするの」
親父は気まずそうにしていたけど、電話を切ったことについて謝ろうという気はなさそうだった。ただすくっと立ち上がって仏壇の前に座った。線香をさして、手を合わせた。姉貴もおれも、同じように正座して手を合わせた。
「おれにとっては三人とも家族だ」
「アタシ、ヒロムのそういうところが嫌いよ」
「どういうところだよ?」
「察しのよすぎる男はモテないわよ」
「そうかよ」
第13話「好き」
今日もわたしはヒロムの家に来て、フルーツミックスを作る手伝いをしようと思っていた。手伝いというか、また味見という名のただ飲みだ。
トマト、茄子、ピーマン。 付け合わせは胡瓜と海月のサラダ。今日、手伝わされたのは夏野菜カレーだった。そりゃそうだ。夏野菜だらけだもの。
ヒロムのうちでは毎年この時期に夏野菜カレー弁当を販売する。においにつられてやってきても限定50皿分しか売り出さないから毎年争奪戦になる。料理ができないわたしが手伝えたのはせいぜい接客と野菜を切るのと洗い物くらいだ。
「ヒロムの親父さんて調理師免許持ってるのよね」
「この店もちゃんと料理を提供する許可を取ってる」
「ヒロムも調理師免許とるの?」
「そのつもりだよ。うちは食べ物を扱う店としてもプロだからね。継ぐにはそれくらいはしないとさ」
給食調理みたいな大鍋で作ったのに、夏野菜カレー弁当はあっという間に完売した。
「ねえヒロム、ところでデートってしたことある?」
「あるよ」
「誰と?」
「言わねえよ」
「ふーん。あのね、わたし、明日デートするんだ」
「誰と?」
「言わなーい」
「どうせテツだろ、あいつとお前、付き合うのは時間の問題って感じがするよ、おれは」
「そうかなあ、本当にそう思う?」
「うん」
「そうなったらヒロムに会いに来れなくなるかもね」
「まあ、そうだよな」
「いいの?」
「え?そりゃあフルーツミックス作るのには困るかな」
「そんだけ?」
「うん」
「なんだ、そんだけかあ」
ヒロムは昨日より機嫌が良い。わたしがちゃんとテツに謝ったことを話したというだけでは無さそうな機嫌の良さだ。何があったのか聞きたいけど、聞きたくないな。
「わたしはね、会いに来たいな。それでも」
「まあ、幼馴染だし」
「そう。幼馴染だしね」
こいつはどう言っても通じないのか。わたしの気持ちは今日も完敗ですかと、なんだか嘆くのも面倒くさい。
そして、「ずっと思ってたんだけどさ」とヒロムは言った。こういう風にヒロムが切り口をはじめるとき、思ってたことが合っていた試しがないが、「うん」とわたしはとりあえず相槌を打ってみた。
「お前が好きな男っておれだったの?」
わたしの時間はぴたりと止まった。そして、まるで近くでアホだと笑うように鳩がぽーぽ、ぽっぽーぽーと鳴いた。
その瞬間わたしは何がなんだかよくわからなくなった。
「どうしてそう思ったの?」
「いや、なんとなく」
座っていたパイプ椅子からフラフラと立ち上がった。
何だろう、穴があったら入りたいってこういうことなんだ。急にヒロムの察しが当たった瞬間にわたしは恥ずかしくて仕方が無くなった。だって、気づいてほしいって思って行動していたことは、バレてないと思って思いっきり露骨にしてきたんだ。恥ずかしくて恥ずかしくて仕方がない。
「ど、どうした?大丈夫か?」
「わたし‥」
なんでだろう。すごく、ヒロムがすごく、男に見える。目が回りそう。何度も何度も、ヒロムを思うと心があったかくなった。でも今はきゅうってなる。心臓の鼓動が聞こえる。歩いても、走ってもいないのに、全速力で走ったあとみたいだ。
「わたし、ヒロムが、好き」
ヒロムがびっくりした顔をした。わたしはすぐに鞄を拾って、今はこれ以上ここに居られるほど心が強くないと思って逃げた。心が持たなかった。走れるほど余裕がなくて、わたしは遠くに逃げたふりをして、ヒロムの家の裏側の道に隠れた。
どうしよう、言っちゃった。たぶん、伝わった。一生、伝わらないかもしれないとまで思っていた。絶対に伝わった気がするな。顔が真っ赤だった。涙目になってた。今までそんな状況ではなかったと思う。
チリンチリンと自転車のベルが鳴った。邪魔だったかなとわたしは道の端に退いた。キュッと止まった。止まった?と思ったら目の前にテツがいた。制服だ。塾か補習かどっちかの帰りかな?
「泣いたの?」
「違うの。嬉し泣き」
「ヒロムくんに会って?」
「そう」
「ほんとに?」
テツは自転車から降りて、脇に停めた。
「わたし、今日はテツに会いたくなかった。今日はこの気持ちをそのままで帰りたいし、明日もずっとそうしたい。今の私はヒロムのことでいっぱいなの、それがいいの」
「なんて言われたの?」
「言いたくない」
「どうして?」
「どうしても」
テツってどうしてこんなに真っ直ぐにわたしの目を見るんだろう。いつでもそうなんだ。誰に対してでもそうなのかな?そんなに真っ直ぐに見られたら困る。
「わたし、ヒロムが好きなの」
分かってるでしょ?って意味でわたしはそう言った。でもテツはただ黙ってわたしを抱きしめた。
「テツ、ちょっと、はなし、きいてた?」
力が強いんだ。わたし、握力に自信あるのに、いつも手応えがない。それに妙にいい匂いがする。わたしも首のあたりを嗅がれたような気がした。
「ちょっと‥テツ」
だめだ。押し返せない。ぱっと力が弱まって手のひらが動いて押し返せたとき、わたしは驚いて一歩後ろに下がってしまった。
「僕のほうがカスミさんのこと好きだ」
わたしの頬と顎の付け根にテツは優しく触れた。そしてキスをした。わたしってダメだ。告白した帰りに揺れ動いてる。慰められて、どうしたらいいのかわからない。
走るような足音がする。吐息が聞こえた。すぐにわかった。ヒロムだ。テツはわたしを隠すように前に屈んだ。
「ひゅー、熱いね」
タバコの匂いが鼻をくすぐる。そしてわたしは窓際でタバコを吸うシズカさんを見た。
「誰?知ってる人?」
「シズカさん。ヒロムのお姉さん」
カラカラと窓がすぐにしまった。何かを察したようだった。
「ああ、そういえば、お姉さんいるって言ってたっけ」
「そう。すごく優秀な人なの」
「もしかして矢尾静さん?」
「知ってるの?」
「中等部一年で大学入試レベルのテストを全教科満点を取ったとんでもない天才として有名ですよ。以降その記録を塗り替えた者はいないという」
「そ、そうなのね、ところで家まで送ってくれる?」
「いいよ」
「この自転車、二人目が乗れるところがないじゃない」
「そうなんですよね」
「ヒロムが探してる」
「一体何を探してるっていうんです?」
「わたしを」
「それで、どうするのです?」
テツはにやりと笑った。まるで、からかって楽しんでいるみたいに。
「見つかりたくない」
「どうして」
「どうしても」
「じゃあ回り道していいですか?」
「うん」
テツは自転車を押しながら公園に向かった。
「デートだっていうから、かわいい服を着るつもりだったの。なのにこんな部屋着みたいなのでテツと鉢合わせるとは思わなかった」
「いいじゃないですか部屋着も見れてよかったですよ僕は」
「へえ、そうですか。こんなボロでも?」
「だってヒロムくんに会いに行くって言ってたじゃないですか?」
「言ったよ。でも、来ちゃだめとも言った」
「そんなこと言ってましたっけ?」
「とぼけるな」
「来ちゃだめとは言ってなかった気がします」
「そういう意味で何か言ったはずなの」
「だめだめ言ってた気がしますよ」
テツはふわっと笑った。わたしといるとそうやってなんか、いい顔する。
「ねえ、どうしてわたしのこと好きなの?」
「どうしても」
「ふざけてる?」
「だって、カスミさんって僕が『どうして?』って聞くと、答えはいつも『どうしても』じゃないですか。答えになっていませんよ」
「そうだっけ?」
「気づいてなかったんですか?」
「気づかなかった。なんでだろう」
「どうして?」
「どうしても」
「ほら」
「ほらって‥言われても困る」
「気を張りすぎてるんじゃないですか?」
「そうなのかな」
「ずっと浮気者がそばにいたら誰だってそうなりますよ」「ヒロムは浮気者なんかじゃないわ」
「僕はヒロムくんだなんて一言も言ってないですよ」
「わたしのそばにいるのはいつもヒロムなのよ。他にいないわ」
「じゃあ、ヒロムくんが浮気者じゃない証拠でもあるんですか?男はみんな、女が好きですよ」
「なんでそんな意地悪言うの?」
「心当たりでもあるんですか?」
「ないわよ」
「じゃあ、どうしてヒロムくんはカスミさんと‥」
「言わないでよそんなことまで。テツに何がわかるのよ」 「僕はカスミさんが好きで、カスミさんはヒロムくんを好きなんですよね?」
「そうね」
「ヒロムくんは好きな人いるんですかね」
「今日、ヒロムにデートしたことがあるかきいてみたの」
「へえ」
「あるって言ってたわ」
「そうですか」
「ちょっと前のことだけど、キスしたことあるって聞いたら、あるよって言ってたわ」
「誰なのかわかりそうですか?」
「わたしだったらいいなって思うの。わたし、デートとは言ってないけどおめかしして会いに行くときもあるの。覚えてないけどファーストキスだって幼稚園でヒロムとしたかもしれないし‥」
テツは共感性がすごく高いんだ。とりあえず話を聞いてくれる。相槌を打つのがすごく上手いんだ。だから話しやすい。でも、キスの話をするとどうにかしてでもキスしてこようとする。なんなんだろう。男のプライドなのだろうか?
「そうやってすぐ近寄るのはやめて」
「でもカスミさんが覚えているうちにしたファーストキスは僕です」
「わかったから唇を尖らせないで」
「ほんとに?」
「ほんとよ‥ねえ、テツ‥」
「なんですか?」
「近いってば」
「そうですね」
「なんでそこで照れる?離れなさいよ」
「今日も暑いですね」
「そうね、暑いわね」
「そう言って僕から離れないでくださいよ」
「どうしてよ」
「どうしても!」
「真似しないでよ!」
わたし、なんでこんなに意地張ってるんだろう。なんでこんなにテツと喧嘩みたいなこと言い合ってるんだろう。
「僕はたなびきかすみが好きだ」
真っ直ぐにわたしの目を見てテツは言った。恥ずかしいくらい大きな声で言った。わたしはぽかんとした。気がつくと抱きしめられていた。相変わらず力は強いんだけど、なんというか優しい力強さっていうのが感じられるんだ。なんか変なの。嫌っていうくらいに真っ直ぐなの。
「棚引って‥名前、知ってたの?」
「だって学校に行ったらカスミさんのこと、みんな棚引って呼んでるじゃないですか。表札見たときすぐ気づきましたよ。正直なところ、木下、引越し先よくやったって思った」
「スケベ」
「そうかもね。好きな子のことは知りたくもなりますよ。地獄耳で良かったとすら思います」
なんとなく、どうしてテツがそんなにへこたれないのかわかるような気がした。だけどわたしはひるまない。
「あああああ」とテツの耳元で大きな声を上げてみた。
「どうだった?地獄耳には堪えたでしょ」
テツは笑いをこらえるのに必死になって下を向いたり上を向いたりしていた。
「いいよ、そういうのすごい好きだよ」
「なんだ、効果ないのね」
「耳がキンキンしてるけど幸せなんだ」
「もう一回やる?」
「もういいよ」
「なんだ、効いてるんじゃない」
第14話「目玉」
「ちょっとヒロム。目玉焼き、まーだあ?」
「もうちょっと掛かる」
「半熟にしてよ。固まったとこと、ちょうど綺麗に半分ずつにして」
「わかってる」
「ベーコンは別でこんがり焼いてね」
「うるさい」
シズカは朝ごはんに目玉焼きを四つも食べる。食パンは二斤なくなる。もう一度言うが、二枚ではない。「二斤」である。本人はその異常さに気づいてないのか、こう言う。
「何度も言ってるけど、アタシが食べるのは生きるためよ」
「そうですか」
「あんた育ち盛りの高校生でしょ?食べなくてどうするのよ」
そんなふうに言われると、なんだかおれが間違っている気すらしてくる。
「これ以上背が伸びたら、屋根裏に入れなくなるんだよ」
「いいじゃん。減るもんじゃないんだし」
「じゃあ、屋根裏部屋、掃除してくれよ」
「やだ」
「せめて掃除機かけるのくらい」
「アタシにそんなこと、させるわけ?」
「じゃあ誰がするんだよ」
「ヒロムの得意なことはヒロムにおまかせするわ」
おれは大きめのフライパンに焼いた目玉焼きをフライ返しに乗せ、ベーコンとミニトマトと一緒に皿によそい、食卓テーブルまで運んで置いた。
「ありがと。塩と胡椒はどこ?しょうゆは?」
「はい」
「ねえ、カスミちゃん、男出来たの?」
「え、なんで?」
シズカは目玉焼きの1つ目にナイフを入れた。ドロっと卵黄が流れ出た。それを口元へ運ぶ。
「あっつ!」
「そりゃそうだろ。焼き立てだし」
シズカは唇を右手首に押し付けながら「最近よく隣に居るアレ、うちの制服じゃない」とモゴモゴ言った。
「ああ、テツのことか」
確かに、テツはシズカの後輩にあたるのか。
「へえ、テツっていうのね」
「そう。確か‥鉄平。苗字はなんだっけ‥忘れた」
「なぜ」
「思い出せない」
「珍しいわね。ヒロムが人の名前忘れるなんて」
「たしかに」
「でも、4つも下だとわかんないもんだね。まあ駅とかですれ違ったことはありそうだけど、当時中等部とかだったらガッコー通ってた時でも射程圏外だったし。まあ、顔は綺麗に育ったのね。なーんかあれは見目麗しいわよ、あんたと違って」
この女‥男と見りゃ、すーぐそういう考え方するんだよな。
「でも、狙うつもりなんて、おきないよ。あれじゃ年下過ぎるし。なんていうか、あんなに見た目も中身もレベル高そうなカップルが誕生する瞬間を目の当たりにしてるような空気、はじめてだったのよね」
「まあ、普通に考えりゃ、あまりにお似合いだよな」
そういえばあの時、二人が並んでるのを見て深志が逃げ出したっけ。シズカもそうだったのか。ああいう反応が普通なんだよな。おれはテツがカスミにボコされそうに見えたけど。
「どうすんの?幼馴染としてさ」
「それはカスミに彼氏ができたら?って話?」
「そう。いつも隣りに居た男としてどーよ」
「別に好きで隣りに居たわけじゃ」
「でもなかなか普通いないわよ高校までの幼馴染なんて。少なくともアタシにはいなかったし」
「どうもしないよ。そもそもカスミはモテるし、男なんて選び放題だろうし」
「カスミちゃんっていかにも高嶺の花って感じだもんね」
「地味におれだって告白されたりはしてるけど‥」
「昨日、カスミちゃんに告白されてたね」
「あ、あれは‥」
「キスしてたよ」
「え?何が?」
「カスミちゃん、鉄平と」
「え、どこで?」
「あんたに告白して、走ってったら、そこの路地でカスミちゃんが鉄平と会って。あんたが追ってきて隠れたの」
「なんで?」
「アタシ窓辺で煙草吸ってたら見ちゃった。なんかね、羨ましい感じだったよ。優しくてさ、好きっていう気持ちを押し付けないけどちゃんと伝えたいって感じがしてた。あんなのあんまりいないよね、今どき」
「それで‥」
「たぶん、あのふたり、キスしたのは初めてじゃない感じがしたのよ。ねえ、そーんな微妙な顔してるけど、あんた関係あるわよねえ?」
「ないよ」
「そうね、例えるなら、こうね‥まず、ある男Aは女に告白されました。その女がその後すぐに別の男Bとキスしてたわけ。でも、男Aであるあんた本人はその女とは何にも関係ないってことにしたいって、そう、言ってるのよね?」
「そうだな」
「まるで女の不倫現場みたいね」
「浮気じゃなくて?」
「だって、不倫のほうがわかりやすいじゃない?あんたが夫だとして、妻が知らない男連れ込んでキスしてたわけだ。そりゃその妻との今までを捨てたくもなるわ」
「話をわざと大げさにしてカスミを罪深い女に仕立てないでくれよ」
「でもそうじゃないの。どうするの?」
「どうもしないよ」
「そうだ。アタシのことも聞かないの?この家で血のつながりがないこととか。いろいろ」
「聞けないよ、そんなの。ていうか、それとこれは同じにしちゃだめだろ」
「同じでしょ!だって、ヒロム、カスミちゃんと同じくらいアタシのこと好きじゃん」
「家族のことだろ。自分のことくらい重く考えろよ」
「友達や恋人のことも、家族と同じくらい重く考えなさいよ」
ああ言えばこう言う‥。
「それで?カスミとテツが何してたって?」
「あの後ホテルでも行ったんじゃない?慰められてさ」
「テツはそんな手の早いやつじゃ‥」
「キスしてるのに?」
「それは‥」
シズカは3つ目の目玉焼きのど真ん中をフォークでドンと刺した。皿がカチャンと鳴った。その勢いの良さにはビクッとした。
「ヒロムの好きは軽いのよね。恋愛ってもっとグロいと思うんだ。ハートとかそんなイメージの綺麗な型じゃないんだよもっと生々しい血管が浮き出てる心臓なのよ。カスミちゃんがヒロムに対して一生懸命な時、ヒロムに必死でそれを隠そうとしてたよ。鉄平は当たり前みたいにカスミちゃんの前で愛を見せてるんだわ。ふたりとも恋愛の厳しさをわかっていながら戦って。今のあんた、それに勝てっこないのよ」
「そりゃあ、そもそもそのリングに立つつもりがないんだからそうだよ。カスミのことは好きだけど、おれがカスミの彼氏になるのは、なんか違和感がある気がする」
「幼馴染の関係を続けたいってこと?」
「そう」
「でもさ、カスミちゃんに彼氏ができたら、今までの自分だけのかわいい幼馴染ではいないのよね。それでもいいの?」
「いいよ」
「本当に?わかってるの?あの子がどんな切ない思いでヒロムと向き合ってきたのか」
「わかるよ。鈍感なフリはもう辞めるつもりだし」
「ヒロムにはわかりっこないわ。そんな気持ち」
「わかるって。だっておれずっと変だと思ってたんだ」
「何を」
「シズカのこと、一度も姉貴だなんて思ったことない」
「じゃあ、なんだと思ってたわけ?」
「‥好きな‥女」
「それいつから?」
「‥気づいた時からずっと」
「気持ち悪いわよ、それ」
「おれだって気持ち悪いよ。一生隠し通すつもりだった」
「そうすればよかったのに」
おれはシズカの手を引いた。おれは強くしたりはしない。シズカは驚き抵抗したが、おれはその手をやさしく自分の左胸に置いた。我慢はもう、慣れっこだ。
「カスミといる時とは比べ物にならないくらい、勝手に心臓がバクバク鳴るんだ。おれでもそんな自分に引いてるよ」
シズカはそのままおれの服を掴んで「ふざけんな」と言った。そんなのでおれはもう怯まない。
「ふざけてないよ。もっと早く本当のことを教えてくれればよかったんだ‥そうすれば」
「ヒロムだけは、ヒロムだけはアタシにとって無理なく居られる本当の家族だったのに。あんたまで。アタシの周りは全部偽物だったっていうの?」
「おれがカスミと付き合ったらそれはたぶん偽物だ」
「アタシがあんたと付き合ったって本物にはならないよ」
「親父は店を継がなくても良いって言うんだ。おれは店を継ぎたい気持ちがある。でもおれ‥」
「そこにアタシの居場所は無い」
シズカはそう遮った。
「でもおれは‥」
おれはそう言いかけて、遮られた言葉を取り戻せなかった。時々おれはシズカの頭の回転の良さに負けることがある。嫌なくらいに思い出させられる。メシ食ってんのに、食べ物に夢中でかけこんでるのに、なんでそんなに。
「良いわよね。ヒロムの周りは全部本物なの。アタシのは全部偽物。だから、たらふく食べるのよ。食べられる時に食べておくの。そうすれば寂しくないもの」
シズカはずっと、ずっと思ってきたのか。自分の居場所を探していたんだ。だからそういう言葉がすっと出る。おれが勇気を出して言えない、言いたいことよりも、なんだかそれは重みが違う。おれとは違う。
「偽物だったから報われた気がしたんだよおれ」
「アタシを不幸にさせないで」
「それってさ、おれにきょうだいのフリ、し続けろってこと?もうおれ、普通の弟って気持ちじゃないけどな」
「いいよ」
「おれは‥それじゃ、よくないんだよ」
「あんたよく考えなよ」
「何を?」
「大人になるってのはいろんなこと守って生きていかなくちゃいけないのよ。この店を守りたかった親父が母さんに似てるアタシを見つけて養子にしたの。本当は跡取り息子が欲しかった。あんたはこの八百屋、守るために生まれたんだ。だからアタシはあんたに『ヒロム』って名前をつけたんだ。それはアタシの意志よ。もちろん二人もそうさせてくれた。血のつながりがなくたって、他にちゃんと繋がりができるように。アタシはあんたのこと弟だと思う以外に道はない。あんたはそれを壊そうとしてる、それを分からないあんたは愚かなのよ」
子どもみたいに口の周りにマヨネーズとか卵とか、そんなにくっつけて大人になることを語る姉貴の話はあまりに正論だった。そのちぐはぐさにおれは、やっぱりなんだかいつも心を救われたりする。
「理想と現実は違う。わかってるよ」
笑いはこらえた。今は笑うときじゃない。
「そうね」
「でも、おれ、シズカのこと恋愛感情で好きだって、素直に言える理想は叶ったよ。親父には聞いたけど、シズカがいなかったらおれは生まれてないしな」
「そうね。でも、アタシはヒロムのことは姉弟としての好きよ。恋愛感情は一切無いわ。これからも無いの。ヒロムがカスミちゃんの彼氏になるには違和感を持ったように、アタシはヒロムと付き合うのは違和感しかないわ」
「いいよ。おれは、それでも。まあ、初恋なだけだし」
シズカは意外と物分りいいのねという顔をした。
「実はちょっと、気になっている子がいるんだ。ほんと、そういう子好きになるの、シズカのせいなんだけどさ」
「ふーん。それ、カスミちゃんじゃ、ないわけ?」
「カスミじゃないよ」
「報われないね、だれも」
「でもそれで、一番苦しいのは誰なんだろうな」
おれが問うと、シズカは「鉄平じゃない?」と答えた。
「なんで?」
「例えるなら、『タイタニック』のキャルほど面倒くさい男っていないじゃない?あんな迷惑なやつに振り回されたら、ほんと、大変なの。どう見たってジャックとローズのほうがお似合いなのに、何から何までローズの周りにある全てを遮って逃げられなくしてあるの。探偵までつけてね。あんた、アレによく似ているわ」
おれはなるほどと感心しながらも、ちょっと考えを巡らせた。自分の口から咄嗟に出た疑問に自分で迷っている気がする。人の苦しみの比較なんて自分の身だけでは測れない。恐らくは平等であってその分散が違うだけだ。
「いや‥ちょうどいいんじゃない?男って『簡単に手に入らない女』の方が好きだし、そのほうが宝物みたいに大事にすると思うんだよ」
シズカの目には何も映っていないとでも言うように、なんだか虚無感が漂った。おれはそういうシズカの遠い目を何度も何度も見ては、何もできない非力さを噛み締めてきた。
「あんたのそういう性格が心底大嫌いだわ」
おれはシズカの生意気な性格が心底好きだ。
「時間は?」
「急がなきゃ」
「顔、洗ってきなよ」
「わかってるわよ」
第15話「代用」
「ヒロム、今日はフルーツミックス作らないの?」
「作らないよ」
「朝の新聞配達のバイト、今日はなかったのね」
「なかったよ」
「シャツのボタン、かけちがえてるわよ」
「そんなわけ‥あ、ほんとだ」
「ぼーっとしてるとお客さん入りにくいわよ」
「うるさいなカスミ‥」
と、目の前にいるのは知らない女みたいだった。
いつのまにこんな、「近い」
「何、考えてたの?」
口元がキラキラしながら動いた。
「おまえ、近いって。いつここまで来たんだよ」
「さっき」
「誰だよ」
「カスミだよ」
「いや‥誰だよ」
「これからデートなの。約束しちゃったから」
「テツと?」
「そう。借りを作っちゃって、一回だけっていうから」
男の「一回だけ」って言葉ほど、信用ならねえものって他にないよな。
「弱みでも握られたか?」
「うるさいわね」
いつもなら言いたいこと全部言って、言わすのに、おれはそれ以上何も出てこなくて黙っていた。
「ぼーっとしてるととられるわよ」
「え?」
「商売してるんでしょ?今」
「あ、うん」
確かにその通りかもしれない。おれ、今なんか何も考えられない。これってぼーっとしてるのか。気が変になりそうだ。そう思った時、いかにも女という香水が包むみたいにふわっと鼻先をくすぐった。
「誰だよ‥おまえ‥」
「だから、カスミだよ」
「おれの知ってる強くてうるさい元ヤンのカスミはいったいどこに消えたのか」
柔らかいふわふわとした感じに違和感しかなかった。
「元ヤン言うな」
「おい、近い」
背中側の壁に押された。痛いわけじゃないけど。無理矢理にでもキスされるのか、おれ。カスミに。それで、気づくんだろうな。おれがカスミのこと恋愛感情で好きになれないこととか。一応、こいつ、ちゃんと確かめに来てるのか。一縷の望みでも‥か?
「カスミ、おれさ、昨日‥追いかけたんだけど」
おれと目を合わそうとしないから、まあシズカの言ってたことは本当だったんだろうなと思った。
「まあいいや。今、何するつもり?まあ、言わなくてもわかるけど」
おれはカスミにキスをした。カスミは「なんで?」とか言いながら、あまりに幸せそうな顔をするから、罪悪感も心地よかった。おれのこういうところは良くない。分かってる。
息が続かなくてカスミが離れた時、目を開いておれをまっすぐに見ていた。真っ赤に火照った顔で見ていた。まあ、するよな。してくれって顔をするのならするよ。
おれはカスミの唇を舌先で舐めて、舌を絡めた。抵抗するようにおれの胸元に手をおいてぐっと押していた。
「待って。ごめん、びっくりしたの」
カスミの言葉に関係なく、とにかくおれはキスしていた。テツとキスしたのは、いつだ、何回だって、普通なら思うんだろうけど、今、おれはこいつを何かの代わりにしようとしてるんだなという考えばっかり巡ってる。だからカスミがあいつとキスしたせいにして上書きしてやりたいって綺麗な気持ちは、おれにはない。全くない。でも都合がいいんだよ。おれにとって、そりゃあ、ものすごく。だからだめなんだ。なのにカスミにも欲情できる自分の本能には気分が悪い。泣きそうな顔でカスミは俯いた。こうやっておれが思ってる時、お前が考えてるのはこれからデートするテツのことなんだろう?じゃあ、おれと同罪だよな。何を勘違いしてんだか知らねえけど、男は好きな女じゃなくたって出来るんだよ。キスだって、その先だって。
「テツは舌、入れなかったんだな」
「なんで?」
「別に」
「なんで?」
「なんとなく」
「気づいてたの?」
「まあ」
カスミはおれの目をじっと見た。おれはそらすしかなかった。そらした方向に手を合わせていた。またおれは目をそらした。
そうだよな。こいつ、おれが本命で、テツは違うんだもんな。それで、テツのことおれの代わりにしてるのか。
「なあ、カスミ‥誰かの代わりになるやつっていると思うか?」
「いないよ。ヒロムの代わりなんていない」
嘘つけ。俺のせいでテツを代わりにしてるくせに。
「お前、女を安売りすんなよ。似合ってねえよその服」
「ひどい!」
真面目っていいよな。おれはテツみたいな真面目にはなれねえな。ある境を見つけたら、一気に物事を展開させたくなる。まあ、おれは普段は亀のフリしてるけどな。
「向いてねえことすんなよな。きもちわりいのなんの」
そうだ、カスミはいつまでも高嶺の花でいりゃいいんだよ。おれのことがただ好きで、一途でさ、それで、ラブレターをやぶって、「サバサバして元ヤンなのが良い所なんじゃねえか」。
「さっきから、黙って聞いてりゃなんだって?」
「あ、戻った戻ったよかった」
おれらしくねえな。なんで残酷なことばっかり考えてるんだろう。いつまでも幼馴染のままで、都合好く居てくれりゃいいなんて、なんてこと考えてるんだろうな、おれ。そうはいかないのに。なんかドラマで見たことあるよ。「付き合う」って言いながら付き合わない詐欺。そのワンクッション、普通なら要らないって思いながら見てた。おれ自分でわかっていながらそういうことしようとしてるのか、今。
「胡瓜と茄子」
「ん?」
「帰りに取りに来るから袋のやつキープしといて」
「ああわかった」
カスミは「安売りしすぎんなよ」とおれに言った。
「何を」
「野菜」
「おう」
これでカスミがテツと付き合わなかったら、これからおれはもっと狂うんだろうな。付き合えばいいのに、なんて考える自分が嫌だけど、やめられないよな。カスミのことを本命に思うなら、一回のデートで何がわかる?おれたちの付き合い、何年だよなんて、言えるんだろうな。おれは言わねえよ。言って欲しかったのかなあいつ。帰りに胡瓜と茄子、取りにちゃんと来るのかなあいつ。戻って来なきゃいいのに。
おれ、なんであいつとキスしちまったんだろう。急に頭の中でつながる。見なかったふりしてたことが渦巻いて、姉貴の言ってた「生々しい血管が浮き出てるような心臓」っていうものの意味がなんとなくわかったような気がして、自分の中の不穏な感情が、わけがわからなくなってしまっていた。
第16話「涼み」
これまでのあらすじですわ。
昨日の夜、意中の方とのデートのことで頭いっぱいで眠れなかったお兄様。深夜まで悩み込んで、悩みながら数学の宿題をしたら、なんと終わらせてしまったのだそうですわ。やっと疲れて眠れたときにはもう朝でしたので、スーは何も知らないフリをして飛び蹴りして起こしましたわ。だって目覚まし時計がうるさいのに消さないのですもの。うるさくてかなわない、それはお兄様が悪いですわ。お兄様の目の下にはくまがありましたわ。悩んだ時には数字を見れば心を落ち着かせることができるというお兄様の頭は200%おかしいですわ。
この頃、連絡もなくズル休みしている生徒会執行委員には朝の6時半に留守電を入れましたわ。もちろん同級生だけですわ。びっくりするほど大きな声で入れて置きましたのでご家族の方にも影響がありますでしょうね。ざまあみろ!親に知られて怒られろ!立候補して当選したのなら夏休みでも任務を執行しろ!‥ですわ♡
さあて、今日も大好きな十和子先輩と生徒会長にイタズラをするのは、このわたくしスーでありますわ。ただ、お二人をからかうためだけに学校に来ておりますわ。
暑苦しくてベタベタする夏で、せっかく新調したハンカチがすぐに湿ってしまいますが、わたくしめの心はスカッと清々しいですわ。そう思いながら学校の前の坂を上がっておりましたら、後ろからチリンチリンと音がしました。自転車といえば十和子先輩に違いないと思って振り向いたら、なんと汗びっしょりの野球部でしたわ。
「なんだ野球部の青柳さんでしたの」
「誰だと思ったんだよ、高そうな日傘のお嬢様」
「お嬢様キャラなんじゃなくて本当に社長令嬢ですの」
「本物かよ。それでなんで、うちの公立高校だよ」
「秘密ですわ」
わたくしは自転車の前の籠と後ろの籠にくくりつけられた箱からはみ出たレジ袋を指さしましたわ。
「それ、なんですの?」
青柳さんは「内緒な」と言って何かを手渡しましたわ。
「いいんですの?」
なんだろうと思ったら、当たるのかもしれないソーダアイスでしたわ。
「ちょうど冷たいものがほしいと思っていたんですの。助かりましたわ」
青柳くんは「安いのでごめんな」と言った。
「夏はこういうのが一番美味しいんですのよ」
「‥だよな」
青柳さんはくっと笑われました。わたくしが汗を拭いていたハンカチをポケットにしまったら、「へえ、今治のタオルハンカチとか使ってんだ。意外」と青柳さんは言いましたので、わたくしはもう一度ポケットから出しました。
「これですの?」
「うん」
「意外でしたの?」
「うん。俺も汗拭く時、今治のタオルだからさ。そんな小さいのじゃ間に合わないけど」
「いざというとき、頼れるのは日本製ですわよね」
青柳さんはまたふっと笑った。
「日本製だけじゃないものを使ったことないと出てこないセリフだな」
「そう‥ですわね」
わたくしはただ汗を拭いてポケットにまた戻しました。そして日陰の方に移動しました。青柳さんも日陰の方に自転車を停めてサドルから降りました。
「いつもこの時間ですの?」
「いや、毎日5時起き、6時半に集合。池澤みたいなマネージャーがいたら俺もっと頑張れる気がするのにな」
「わたくしマネージャーができそうに見えますの?」
「見えないな。家にお手伝いさんがいそうだね」
「居ますわ。桜様の作るお料理は格別美味しいですわ」
「へえそれはすごいな」
「でも、わたくしだって料理しますわよ。今日のお弁当は自分で作りましたの」
「そうなんだな」
「本当に頑張る方は、何もなくてもただ頑張ってますわ」
「じゃあ、今日会えたのは頑張ってたから?」
「そう‥かもしれませんわね」
「珍しく池澤が甘口だ」
「わたくしが、いつ辛口でしたの?」
青柳さんは大げさに笑った。
「いつも」
「いつも?」
「いつもだよ」
「わたくし、カレーは辛口に限りますわ」
「俺も辛口が好き」
「帰りは何時ですの?」
「午後6時まで。池澤は?」
「わたくしはお弁当を食べたら帰ります。それで午後は彼氏とデートですわ」
青柳さんは、ちょっと間を置いて、斜め左方向を向きながら「いいなあ、池澤とデートできるなんて」と言いました。
「してみますか?」
「え?なんで?」
「別に悪いことではありませんことよ」
「悪いよ」
わたくしはちょっと考えて、青柳さんに訊ねました。
「それは、わたくしの彼に悪いのですか?」
「そう」
「それとも野球に悪いのです?」
「そう」
「じゃあ、そういうことですわね」
青柳さんは、はっとしたように言われました。
「つまりそれって池澤が彼氏に伝えて、おれが野球部に伝えれば別に良いってこと?」
「それでよければです」
「‥夏祭り、一緒にどうだろ」
「いいですわ」
青柳さんは、すーっと息を吸って、吐いた。「よっしゃ」と左手をグーに丸めた。そしてどこからか油性ペンを取り出して右腕に描き始めた。
「油性ペン?」
「忘れないように」
「忘れますの?」
「残しとくの」
「サウスポーですの?」
「そう。あ、連絡先も教えて」
「書きますわ」
「え?ちょ、待って、くすぐってえ」
「ふふ」
「嘘の番号とかじゃないよな。間違ってたら俺怒るよ」
「どうやって怒るんですの」
「生徒会室に行くよ」
「構いませんけどこれ、クラスの連絡網と同じ番号ですわよ」
「そういうことじゃねえんだよな」
「どういうことですの?」
「ん?なんでも」
青柳さんがわたくしを引き留めたいと思うほど、アイスは溶けるんですわね。そしてきっと先輩に怒られる。その明からさまなメモ書きも、わたくしが青柳さんを振ったなら、失恋パーティみたいなのをパーっと部員に起こして貰えそうですわね。今、もらったアイスも食べにくい。でも多分、青柳さんはそんなのどうでも良くて、わたくしとの約束のほうを大切にしたいんですわね。
「これ、今いただいても、よろしいのでしょうか」
「もちろん。なんで食べないんだろうって思ってた」
「え?そうでしたの?」
「あ、そっか。俺も食べよう」
「青柳さん。ちょっとまってくださいまし」
「え、、何?」
「これですわ!間違いありません」
「何が?」
「これがきっと『当たり』ですわ」
「なんでわかるの?」
「なんとなくですわよ。それで、数は大丈夫ですの?」
「多めに買ってきた。いつもの数で買ったけど、法事や旅行で休んでるのとかいるからさ」
「生徒会もそうですわ。言い訳が下手くそですの」
「そうなの?生徒会は真面目の集まりだと思ってたのに」「真面目なのは十和子先輩だけですわ」
「会長は?」
「ああ、あれは十和子先輩目当てですわ」
「俺は池澤目当てだけど」
「青柳さんはそうはっきりおっしゃる所が素敵ですわね」
「言える時に言っとかないと、部活だと缶詰みたいなものだから」
「なるほど。じゃあ今は缶の外ですのね」
「そう‥あれ?池澤は真面目じゃないの?」
「青柳さんのせいで遅刻ですわ」
「ごめん」
「でも、夏休みですもの、こういうのもたまにはいいですわね」
「俺もそう思う」
「ところで青柳さんは、わたくしの下の名前をご存知ですの?」
「池澤鈴美(いけざわ・すずみ)だろ。知ってるよ」
「知ってて下さったんですわね。みんな私のことスーって呼ぶのに」
「疑問に思ってたけどなんでスーなの?キャンディーズ?」
「キャンディーズなんてはじめて言われましたわ。たしかにラン、ミキ、スー‥居らっしゃいますわね」
「なんだ。違ったんだ」
「サウスポーはキャンディーズではなくてピンクレディーでしたわよね。甲子園の定番曲」
「俺ら、世代じゃないから、似て見えるよな」
「そうですわね」
「それで、なんで?」
「ああ、結構わたくしの周りには『ますみ』とか『はつみ』とか『かずみ』が居るんです。最後に『み』がつく名前がたくさん。まあいろいろあってそれでスーなんですわ」
「俺も名前『み』が付くよ」
「青柳辰巳(あおやぎ・たつみ)…まあ、ほんとですわ!」
「話変わるんだけど‥どんなやつなの?」
「何がですか?」
「彼氏」
「あまりそういうのはお聞きになられないほうがおモテになられますわよ」
「俺は気になるんだ」
「普通の人が持ってない能力を持ってますわ。でもそのために人一倍、努力して頑張っていますわ」
青柳さんは深呼吸されました。
「池澤‥」
「なんですの?」
「俺、池澤のこと‥」
「わたくしのことを?」
「が、学校で、一番その制服、似合うと思ってる。多分ずっと!これから後輩とか入ってきても変わらないと思う」
「はあ‥そうですの」
「そう」
「でしたら浴衣も似合うと言わせなくてはいけませんわね」「うん」
青柳さんは照れたように俯かれました。
「俺、もう練習に行く。夕方、学校の公衆電話から連絡する」
そう言って、青柳さんは自転車に跨り、アイスを口にくわえたまま走っていった。
「頑張ってくださいませ」
後ろ姿のまま、青柳さんは左手を上げられました。わたくしは昇降口へ駆けていきましたら、すると賑やかな野球部の声がしました。
「青柳!何やってたんだよ。おせえぞ。とっくに休憩時間は過ぎてるし」
「コンビニ、思ったより混んでて」
「今のこの時間に?あの店が?」
「ケホケホッ」
「どうした」
「なんでもねえよ。今ちょっと、むせただけだ」
「おい、こいつ顔真っ赤だぞ」
「まさに赤柳だな」
「なんだそれ」
「熱中症か?水筒飲め」
「なんでもねえって」
生徒会室の扉を開けても中は涼しくなかった。
「なんでエアコン、つけてないんですの!??つけますわよ。ほら、窓をしめてくださいまし」
「はいはい、お嬢様」
「会長、はいは一回で十分ですわ」
「スーが遅刻なんて珍しいわね」
「知り合いとそこでばったり会いましたので、ちょっと世間話など‥すみません」
「夏休みの旅行を理由に休んでる真島よりはマシだな」
「適当なフォロー、ありがとうございますわ生徒会長」
「適当って言うな!」
「会長は真島くん、特にお気に入りですよね」
「あいつは特別だからな」
「ところで会長、私服での登校についてはどうお考えですか?」
「検討中だ」
「いつまで検討ですか?夏休みは8月末までです。現実的にお考えください!」
「わたくし思ったんですが、生徒会と吹奏楽部以外はユニフォームを着てるような部活しか活動がなさそうでしたので、制服でも良いのではないかと」
「スーが裏切るなんて!どうしちゃったの?」
「そういえば十和子先輩、中学生の時お付き合いされていたんですよね」
「そうね。急に、どうして?」
「失礼でなければで構いませんが、それってどんなお方だったのですか?」
「バスケ部のマネージャーをしてたんだけど」
「バスケ部の殿方とお付き合いされたんですか」
「殿方って‥時代劇以外ではじめてきいたわ」
「その方とはもうお付き合いされるということはないのですか?」
「ない。こっそり付き合ってたんだけど、ちょっといろいろ気になること聞けなくてさ」
「プライド高いくせに繊細すぎて聞く耳を持たないようなお人は頼れなくてモテませんわよね。わかりますわ。いくら他の部分が良くてもそれだけで最悪ですの」
「そうね」
「スーは今、まるでわかったようにいいましたわ」
「そうね」
「なぜなら、なんだかお兄様を思い出したからですわ」
「スーってお兄さんを悪く言いがちだよね」
「脱線させてすみませんわ。‥それで、その方とはどのくらい付き合ったんですの?」
「訳あって、部活中以外はこっそり会ってただけ。そんなんだから、たまに遊園地とか遠くへ二人で行ったんだけど、正式には三ヶ月も続かなかった。ぎくしゃくしながらも三年間は向こうにまだ気があったみたいでアプローチはあったの」
「随分厄介ですわね」
「だけどさほど悪くはなかった。正直言うとね、心地よかったの」
「十和子先輩‥実はダメンズウォーカーでは」
「そうなのかな?」
「マネージャーを辞めるという手はありませんでしたの?」
「頼られると嬉しいの。利用されてても別にいいかなって思っちゃった。私、相談を聞いちゃう質なの」
「そうですね。それが十和子先輩のいいとこでもあり、悪いとこに傾きそうな時を感じることもありますわね」
「だから、全部、取り入れちゃうの。それがだめね。つけこまれる」
「どこまで『取り入れた』のです?」
「うーん、どこまでだろ」
「では、どこまでを『受け入れた』んです?」
「まず、周りには内緒ってことでしょ」
「そうでなくて‥十和子さんが嫌なふうに思われたことです」
「周りに内緒なのから甚だ疑問だったわ」
「私もそう思いましたの。ちゃんとこちら側に納得いくような理由がありませんでしたら、相手を受け入れてはいけませんわ。それが『自衛』なのですわ」
「そうね」
「本当にわかっていらっしゃいます?」
「わかってるわよ」
「近すぎると見えませんから、たまに遠ざかるべきです。そうしないとだめです。自分を失ってはだめです」
「でも、面倒くさいことに、人って見えないものを大切にするわ。それが時々すごく嫌だけど良い時もまれにある」
「まれにあるその10%のために十和子先輩は90%を消耗してるんですよ?それじゃいけませんわ」
「でもそうじゃない人間っているのかしら」
「それは残念ながら、スーにはわかりかねますわ。しかし十和子先輩のやり方では身を滅ぼします」
「そうね」
「自分に自信のある男ほど、とりあえず保存をしておきたがるんですよ」
「保存?」
「フォルダ保存ですわね。要は『俺は今まで何人の女と付き合ったんだ』とか、『何人の女と寝た』とか、そういうのを記録してやがるんですわ」
「なるほど、その気持ち悪さはなんとなくわかるわ」
「そういうのに限って『高校の時付き合ってた彼女が‥』なんて、別れてるんですから結果的には大事にできないで傷つけた女を武勇伝みたいに語り出すんですわ。そのために今、貴重な勉強時間を無駄にして、無理にでも付き合おうとする。それを平気で繰り返す。残念ながら、男性だけでなく女性にも平等にいますわね」
「いるわね」
「スーはそういうことを、『自己中で中身がない恋愛』と呼んでおりますわ。数と中身が比例していないんです」
「まったくそのとおりだわ」
「スーは十和子先輩のお話を聞いてその武勇伝を語るやつらとは違うと思いとても感心いたしましたが、お相手の方はどうでしたの?」
「いかにも武勇伝として語っていそうな性格だったわ」
「じゃあ、もうそのお方とは付き合いませんし、別れたことが正解でありますわね」
「そうね」
「嫌なことを思い出させてしまいましてすみません」
「いいえ、悩みが晴れた気がするし、もう変なのに引っ掛からないようにぶれない軸が持てそうだわ」
「ところで生徒会長は今のお話を静かにおききになられていてどう思われました」
「どうって言われてもな」
「でもすごく真面目におききになられてましたわよね?それはどういうお気持ちでしたの?」
「真面目な話をしていたから困った」
「本当にそれだけでありますの?」
「例えば、好きな女性がいて、そんな経験をしていたら、そんな思いさせたくないなとは」
「具体的にどんな経験ですの?」
「え?」
「それはもしや、✕✕✕ですの?それとも✕✕ですの?もしかして、✕✕✕✕ということですの?」
「なんて下品なことをツラツラと言うんだ!上品な語尾さえ使えばなんでも許されるわけじゃないんだぞ」
「いいえ。スーだけは許されますわ」
「許されるか!」
「それからさっき、そんな思いさせたくないっていうのは‥具体的にはどんな思いですの?」
「傷つけたくない」
「それはどうやってですの?」
「守る」
「どうやって」
「それは‥」
「所詮、生徒会長も男性ですわね。ちっとも女性のことをわかっていらっしゃらない。そんなんではいつまでも意中の某お方なんて無理の無理ですわ」
「え?会長、好きな人がいらっしゃるんですか?」
「まあな」
「スーもお慕いする素敵な女性なんですわ」
「へえ、そうだったの?うちの学校?」
「スーは時々、会長を哀れに思いますわ」
第17話「センス」
頭がぐるぐると回っている。数字がチラチラと目の前を行き来する。何が何だかもう何もわからない。
リリリリリ・リリリリリという音がする。それはつよく、頭に響く。
「うっ」
「お兄様、目覚まし時計がうるさいですわ」
「はい、ごめんなさい」
僕は目を擦りながら、着替えを済ます。
「お兄様、一体どこに行かれるおつもりです?相変わらずダサすぎですわ」
「え?ダサい?」
「最悪ですわ。どうしたらそんな服を来てデート行くんですの?」
「彼女の好きなものは野菜なんだ」
「いくら野菜が好きでも、彼が野菜の服を着てきたらドン引きますわ」
「じゃあスーツを着ていこう」
「街に出掛けるのにスーツですの?」
「指輪を渡しますから」
「まだ夢の中にございますの?初デートで結婚を申し込むやつがありますか?お馬鹿ですわ。重いですわ」
「じゃあ制服で行きます」
「それはいけませんわ」
「どうすればいいというんです」
「センスが無いなりに、イチからセンスを磨き直さなければだめですわ」
「まずマネキン買いを、ということですね」
「はあ‥見込みがありませんわ。もうわたくし出掛けなくてはなりませんの。いざというときは桜様に見立ててもらってくださいましお兄様」
「あれ?」
僕の記憶が間違ってなければ、今妹に飛び蹴りされて起きた。それで置いておいた着替えを寝惚け眼で着てみたらダサいと馬鹿にされたような気がします。嫌な目覚め方だなと思いました。
「聞いてくれ!今日はカスミさんとのデートだ!」
僕は階段を駆け下りる。
「桜さん!僕はさっき鈴美にダサいと言われたんですが、どこが悪いんでしょう」
「桜さんなら、お二階です」
「吉野さん、これをどう思います?そんなダサいですか?」
「ぼっちゃん、よく鏡をご覧になってください」
「はい」
「ひどいです」
「何がどう、ひどいっていうんです」
「全てでございます」
「全て?このトマトのTシャツは?」
「やめたほうがいいかと」
「なぜです?」
「ぼっちゃん、今日はどちらへ?」
「三善さん。おはようございます」
「おはようございます」
「僕は今日、新しく出来たショッピングモールへ行きます」
「そこで新しい服を全身揃えてお買いになられてはいかがでしょう」
「もしや何一つ似合ってないというのです?」
「桜さん?桜さんはどこに?」
「はい?私ですか?」
「ちょっとぼっちゃんの私服をお願いします」
「またですか」
「そうなのですよ」
「うーん‥とりあえずセットアップでどうにかしましょう」「セットアップってなんですか!?」
「端的に言えば制服みたいなものです」
「それは好きな女性に格好良いと思ってもらえるものでしょうか?」
「今の服よりはぐんと良く思っていただけるかと」
「じゃあ、お任せします」
僕は桜さんが持ってきた服にサッと着替えた。
「ぼっちゃん」
「はい、なんですか?」
「やはりそのほうがよろしいです」
「そうですか」
「ぼっちゃんはせっかく格好良くお生まれになられたというのに、自分できちんとした服を選べないなんて恥です」
「そうですか」
「今日お会いするのはどなたです?」
「本命の女性です」
「くっ‥なんということ?もっとお早い時に相談をしてくださいませ。そうすれば手の打ちようもございましたのに」
「約束したのは一昨日のことだったんです」
「なんでそんなに急なんです?」
「しかし、一昨日に知らされていれば、もっと結果は変わったと思われますよ」
「わかりました。これからは気をつけます」
「見栄を張らなくてもいいお相手なのですか?」
「いや、カスミさんはすーごく綺麗な子です。ちょっとでも多く見栄をはらないとだめだ」
「大変申し上げにくいのですが、ぼっちゃんの美的センスはあまりに独特過ぎていて信用なりませんので、私共では何とも言い難いのですが」
「それはどういうことです?」
「今まで、ぼっちゃんが『可愛い』や『綺麗』などとおっしゃってきたおもちゃや美術品など、それらはお世辞にもそうとは言い難いものでございました」
「それはひどくはありませんか?ずっとそう思っていたんですか」
「はい」
「み、みんなですか?」
「はい」
「‥僕の今までの美的センスが間違っているかどうかは別として、カスミさんがどんな子なのかは確かめてほしいものです」
「では、今日は特別、ぼっちゃんの尾行を広い意味でお許しいただけると?」
「カスミさんに見つからず、僕の邪魔もしないという約束ができるのなら構わないです」
「承知しました」
「ですが、父上に報告するのは待ってください。彼女はとても人気があって、やっとの思いで一度だけのデートを承諾してくれたんだ。その先を決めるのは彼女であって僕じゃない」
「畏まりました。その点に尽きましては私共と同じ考えです。では、『カスミさん』についてこの書類にご記入を」
「ぼっちゃんの恋人になるかもしれない方ですから、念のための調査です」
「書かなくていい、という選択肢は?」
「尾行中に私共が他の女性と間違えないためですから出来るだけ多くの情報があるほうが助かります」
「わかりました。僕はこれからずっと、お付き合いがある度にこういう書類を書かされるのですか?」
「そうです」
「妹もこれを書いているのですか?」
「書いていただいてます」
「尾行もついている?」
「はい」
「鈴美はなんて?」
「『面倒ですわ』と言いながらも、『適当に』書いてらっしゃいます」
「じゃあ僕も適当でもいいのです?」
「ぼっちゃんは次期社長候補であらせられます」
「桜さんはこのシステムについてどう思われます?」
「仕事ですから、何とも申し上げられません」
「そうですか。僕の今までの友人についてもこういう書類を作成していたんですね」
「そうです」
「今まで自分ではなく誰かが極秘に取り扱っていたものを、これからは自分でこのように書くというだけですね?」
「そのとおりです」
「それでその担当はどちらに?」
「鋭いですね、これから別の部署へと異動になります」
「クビではなくて安心しましたが、僕にはそれが本当であるか確認はさせていただけないことなんですよね。口先だけならどうとでも言える」
「そのとおりです。時が来たら、然るべき形でお伝えいたします」
「僕のセンスがあるかないかというより、こういうことを黙ってこそこそやるほうがよっぽどセンスがないんじゃないかと思いますが」
「格好良いことを言っているおつもりでしょうが、私共はぼっちゃんのセンスは時に笑いをこらえるのに必死になっております」
「雑貨屋で笑い声と皿の割れる音がしたのは尾行の一人だったんですね。それが‥もう十数年も前のことだ」
「尾行をされていたことについてはご存知だったのですね」
「今まで上手くまいていたつもりです。僕は動揺しませんが、僕の周りを動揺させるようなことはしないでください」
「もちろんです、ぼっちゃん」
「これからデートだというのに、なんだかあまりいい気分ではありません」
「すみません、ぼっちゃん」
第18話「尾行」
私はずっとぼっちゃんの尾行を担当している桜大二郎である。池澤家の尾行役を務めさせていただいて早くも14年。表向きでは車の運転、警護、身の回りのことを担当しているが、やはりぼっちゃんのことはいつも気がかりで仕方がないのだ。
ぼっちゃんが想いを寄せられている棚引霞についての情報はインターネットではそんなに出て来なかった。ただ、彼女のことを商店街で尋ねると、どんな人間も「あの子は随分と綺麗な子に育った」と話していたのである。寧ろ私の歩き方や身なりを怪しんでいる様子だった。この商店街は一体なんなんだ?
「野菜、買っていかれませんか?」
「いえ、結構」
「ではスイカでも食べませんか?」
私には急にぼっちゃんの顔が浮かびました。
「中身が黄色のスイカはあるか、大玉の!」
「それなら良いのありますよ」
「と‥糖度保証は」
「もちろん」
いつの間にか私はスイカを買ってしまった。この尾行役が荷物を作るとは、なんたる失態。
「もしかしてこの後ご用事があるんでしたら配達しますが」
「ありがたい」
「ここにご住所とお名前を、希望時間はここに」
「はい」
「良かったら赤い大玉もつけます?」
「そうしてください」
「じゃあ追加分のお支払いどうされます?」
私は千円札を出す。
「ありがとうございます。おまけもつけときますね」
「おまけっていうのは?」
「胡瓜と茄子です。お盆も近いので」
「なるほど‥それでは急いでいるんで」
「そうすか」
「あ、あの、棚引霞という女性についてご存知だろうか」
「何かあったんすか?」
「別に何もないが‥」
「探偵さんとかなんですか?」
「いや‥そうではない」
「スパイ?」
「違う」
「じゃあ警備とか警察とかの方だ」
「まあそんなところだ」
「随分、背が高くて声が低いんっすね」
「よく言われる」
「黄色いスイカが好きなの、なんか意外です」
「それはぼっちゃんの好物でして」
「ぼっちゃん?‥もしかして、テツん所の方ですか?」
「え?」
「なぜわかったのだ?」
「テツの家がある辺りは恐らくは高級住宅街じゃないですか?お手伝いさんが常連なんすよ。この八百屋」
「そうだったのか」
私は食材の調達に携わったことがなかったから知らなかったのだ。
「今日、カスミとテツがデートするのに、おれが出てきたら邪魔になるんでしょう?だからあなたはテツに派遣されたんですね」
「いや、それは違う。ところであなたは誰です?」
「あなたが探している棚引霞の幼馴染です」
「そうか。あなたはぼっちゃんとお知り合いで、『テツ』とお呼びに」
「そうですね」
「失礼だが、カスミさんというのはどれくらいお綺麗な方でいらっしゃるのだろうか?」
「そうですね‥男が皆、憧れるほどのようですよ。おれは近くに居すぎて慣れてしまってますが、それをよく、妬まれます」
「なるほど」
「ぼっちゃんが恋をされたのははじめてなので、心配でならない」
「高校生が恋愛をするのはごく普通のことですよ」
「そうだがな」
「正直な所、あなたがカスミとテツが並んでいるところを見たら、こんなお似合いなカップルなかなかいないなんて思われますよ。おれちょっと、なんか悲しくなったくらいですから」
「そうか」
「そんなに心配してるなら、もしかすると悲しくなるかもしれないっすね」
「そんなにか」
「これからどちらへ向かわれるんすか?」
「ぼっちゃんの尾行で、ショッピングモールまで」
「なるほど、あいつはデートするのも一苦労なんですね」
「私だって好きでやってるわけではない。任務だからだ」
「協力するというわけではないですけど、たぶんカスミの出掛けた格好でいうと向かった先はコンサートとかそういう類の場所だと思いますよ」
「なに?」
「ノースリーブワンピースにカーディガン羽織ってましたから」
「なるほど。ところであなたは誰の味方なんだ?」
「おれはカスミとテツがうまくいけばいいと思ってますよ」
「そうか。それはありがたいことだ」
第19話「悪夢」
おれは不意に思い出したことがあった。不思議な話だ。
「なあ、今日は何曜日だった?」
「水曜日」
「そうか。もう折り返し地点なのか」
「そうだな」
数学の授業の時、前の席に座っている君島直(きみじま・なお)が話しかけてきた。今まで君島とはろくに話をしたことがない。たまに今日は何曜日だったか聞かれるか、先生に注意されてこいつの居眠りを起こす程度である。でも今日は少しだけいつもと違っていた。
「なあ、矢尾弘」
「なんだ、君島直」
「お前、ホラーとか好きだったよな。昨日、悪夢を見たんだけど聞いてくれるか?」
おれはわざとちょっと意地悪を言ってみることにした。
「夢の話って、ラジオ番組じゃ禁止されてるって知ってるか?」
「そうなのか?たしかに‥言われてみれば聞いたことないな」
君島は残念そうな顔をして、「そうか。じゃあやめとく」と言った。
「いやね、おれは普段そんなに話してこない君島がわざわざ話にきたってことはおもしれえんじゃないかと思ったから聞きたいよ」
「まあ、自分の視点では面白かったよ。それにちゃんとオチもある」
「そうか。じゃあ聞いてやろう」
「そう上から目線されるのは、むかつくな」
そう言って苦笑いしながらも君島は話し始めた。
「夢の中で授業を受けてたんだ、今と同じような教室でな。そうしたら、先生から『君島、お前ちょっと一年生の教室にこれを届けてくれないか』って頼まれて、なんか書類を渡されたんだよ」
「どんな書類?」
「わからない。夢だからな。でも階段を降りたのは覚えてる。でもあるとき気づいたら真っ白い階段に変わっててさ。ほら、うちの学校の階段ってちょっと汚れて黄色っぽいグレーがかってるし、緑色の滑り止めがついてたり手摺りや点字ブロックもあるはずだろ」
「それが真っ白い階段に変わってたってことか。手摺りや滑り止め‥何もかも消えてた」
「そう。すごく無機質な感じだった。窓もなくて、それで一年生の教室があるはずの一階には冷蔵庫が一台ちょこんと置いてあった」
「冷蔵庫?」
「そう、それで開けてみたんだ」
「冷蔵庫ってのは具体的にはどんな感じだったんだ?」
「すごく古い。恐らく昭和の。そんな古い年式の冷蔵庫なはずなのに真っ白だった。日焼けしてなくて、まるで新品みたいなね。ドアは一個。思い出されたのは‥そうだな、ナルニア国物語の衣装箪笥かな」
「じゃあその向こうは雪景色だったのか?」
「それが残念ながら、ちゃんと一年生の教室だったんだ。でも変でさ、まるで幼稚園や小学生のときの教室みたいに何もかもが小さくて窮屈に感じた」
「ホラーって言うよりファンタジーに聞こえてきたよ」
「ちゃんとホラーだから安心してくれ」
「わかった。それで書類を届けたんだよな」
「そう。そこまではよかった。たしかに不思議な気持ちにはなったけど」
「後ろを振り返らなかったのか?」
「そこなんだよ。普通振り返る。来た道を戻って次の授業を受けるんだから。でも、振り返らずとにかく進んでたんだ」
「なんで?」
「わからない。でも何か不穏なんだよ。ここが一年生の教室のある廊下だと言うのは分かるんだけど、本当に何もかもが真っ白だったんだ」
「人はいたんだろ?」
「たぶんね、たくさんいたと思う」
「あ、これ夢だ、とは」
「ならなかったよ。なんでだろうね。それでなぜか今度は白い階段を登ってた。途中から階段に登ってることに気づいたよ。するとその先に真っ赤な世界が広がってたんだ」
「真っ赤な世界?」
「中華料理店の玄関みたいなところ。もしかするとそうだったのかもしれない」
「中華料理店?うちの学校に?」
「店員さんみたいな人は中国語話してたよ。それでテーブルにはシュウマイが置いてあって、それで一つつまみ食いをしたんだ。そうしたら突然警報が鳴って」
「展開がはやすぎないか?」
「夢の中だからな」
「そうだけどさ」
「私は店内にあった大きい階段を登ったんだ。ステアケースって言うのわかるか?真ん中に大きい階段があって左右に階段があって‥上野の東京国立博物館にあるみたいなやつ。でもそんなこと考えている暇じゃなくて逃げながら登っていたら途中からハシゴになって」
「ハシゴ?」
「死ぬ気で急いで登ってたら急に水浸しになって、下見たら地獄絵図が広がっていて、ハシゴを登りきったところでやった!って思ったら溺れそうになって、息を吸い込んで泳いでたんだけど意識がなくなって‥それで目を開けたら夢だった」
「突っ込みどころしかない。怒涛の展開だ」
「妙にリアルだったよ。息苦しくって」
「君島ってそういえば水泳部だったよな」
「そうだよ」
「なぜ溺死する夢を見たんだろう」
「わからない、夢だからな」
「そうだけどさ」
「でもハシゴを登り切ったときに私ってこんなに根性あったんだ!ってびっくりした。ちょっと喜んじゃった」
「そうか」
ガラッと教室の扉が開いた。
「君島!」と先生が呼んだ。
「はい!」と君島は大きく返事をした。
「お前ちょっと一年生の教室にこれを届けてくれないか」
おれは急に怖くなって君島を見た。
「お、おれも行く」
今までの面倒くさがりのおれだったら言わなかったかもしれない言葉が出た。
「お、矢尾弘、それほんとか?助かる」
「え?」
君島はなんの不安もなさそうに元気に答えた。君島が任された書類はたしかに山のようで、助けが必要そうだった。
「これとこれ、よろしく」
「重い‥」
「こんな時、男手はありがたいんだ。だから助かった、ほんとうに」
「君島‥」
今、そんなことを言っていて良いんだろうか?正夢になるかもしれないだなんて不安はないのか?
「なあ、矢尾弘。階段も見ててくれ。突然白くなったりするかもしれないからな」
「え?」
「突然白くなったりするんだ」
「そんなわけないだろ」
「あるんだよ。赤くなったりもする」
「中華料理店?」
「そうだ」
君島は驚くほどに明るい。夢で見たことを忘れたかのように明るい。それがおれにとっては一番不気味だった。
「このままでいくとおれたち溺死するんだよな」
「私がシュウマイをつまみ食いしなければ大丈夫だ。たぶんな」
「なあそれって異空間ってことだよな?そんなところで死んだらおれたちは見つかるのか?」
「大丈夫だ。夢だからな。本当には死なない」
「うわ!」
本当に突然のように階段が白くなっていた。そしてその向こうには真っ白い空間に冷蔵庫が置いてあった。
「戻ったらどうなるんだ?」
「目が覚めるんじゃないか?」
「そのほうがいいのか?」
「わからない」
「じゃあ聞き方を変える。おれはどうしたらいい?」
「じゃあ戻って私をたたき起こしてくれ」
「わかった」
おれは教室で寝ていた。数学の授業中のようだ。
「おい、矢尾弘!眠気覚ましに問10を解いてくれ」
「はい」
あれ?君島は?君島がおれの前の席にはいない。
頭の中がぐわんとした。
「君島はどこだ?」
第20話「デート」
私は今日テツとデートする。テツは私が好きで、私はヒロムが好きだ。当てつけみたいにヒロムに会いに行った。そしたらキスされた。ちょっと語弊がある。キスしようとしたらなんか、すごかった。ただ、なんかびっくりした。別の人みたいだった。今、すごく語彙力がない。
私はヒロムとずっと一緒に生きてきた。だけど、我に返ると、そのほかは?別れや出会いや、そういうのを繰り返した。何も要らないというふうに。失礼なことしたり、嫌な思いさせた人もいるんだ。テツはその一人だ。ヒロムがいないと私は何も残らないかもしれない。自分と向き合って来なかったから、何も無いんだ。テツと付き合ったっておんなじ。テツがいないとだめみたいな弱い人間になる。そんな私じゃ、絶対にだめなんだ。
「テツ、ごめん。やっぱり気持ちの整理がうまくできない」会って早々、変なふうに声をかけた。
「奇遇ですね。僕もです」
「え?」
テツは周りを見渡しながら、眉を潜めていた。待ち合わせ時間より十五分も早いのに、私を探しているのかと思ったらどうやら違うらしい。
「街行く人がすべて怪しく見えたことってありますか?」「人を信用できなくなったってこと?」
「そうです」
「あるよ。小学生のころ、上履きがなくなったとき」
私の上履きの話などどうでもいい様子で、テツはとても真剣な眼差しで何かを探していた。
「例えば『犯人はヤス』ってやつが有名だよね」
「ヤス?」
「捜査の相棒だったヤスが犯人だったんだよ」
「意外と敵は近くにいるということですか?」
「そうかもしれないよ」
「そういうほうがずっと困りますよ。カスミさんが実は僕んちの機密文書を狙っているとか」
「ないない」
わたしは大げさに首を振った。
「それは良かったです」
「そもそもテツのうちって機密文書があるの?」
「さあ、わかりません」
テツもなんだかいつもと違う人に見えた。いつも私の前ではかっこつけたがって見えたのに今日はなんだか…縄張りを守ろうとするトラ?みたいだ。威嚇しているみたいな、ちょっと怖い顔つきをしている。そして今までにもないほど自然に私の手を引いていた。うん、やっぱりいつものテツじゃないな。
「ねえ、テツ」
「なんですか?」
「テツはフルーツだったら何が好き?」
「ふるーつ…?」
びっくりするほど何かに夢中なのか、テツはものすごく上の空に見える。こんなテツはなかなか見たことがなかったな。
「は!カスミさん!!?」
何を今更…。
「テツもマイワールドにトリップすることがあるんだね」
「カスミさん?あれ、僕…あれ?」
つながった手を見て顔を真っ赤にした時、なんだかちょっと不思議に思った。そうか、もしかすると素はあんな感じなんだ。私が見てる世界って本当に狭いんだな。
「えっと…フルーツですか?」
「そう」
「柑橘類が好きです。爽やかな感じの」
「そうなんだ。よく聞いてたね」
「地獄耳ですから」
「そういえばそうだった。すっぱいのは?」
「すっぱいのも含めて好きです」
「そうか」
私はヒロムの作ったライム入りのフルーツミックスを思い出した。
「カスミさん、実は…えっと…ちょっとでも不審な人を見かけたら教えてください!僕の追手かもしれないので」
んん?なんだそれは?テレビドラマか?警察のやつか?テツ、何か悪いことでもしたか?
「んんとね。テツが一番不審だよ」
テツは私の返答を聞いて、目をぱちくりとさせた。言い過ぎたかもしれない。
「そうかもしれませんね」
テツはそう言ってから下を向いた。唇を結ぶみたいにして困った顔と不思議なほど悔しげな複雑な表情だった。そしてそんなテツを目の前にして私は意外な一面を見たような気分だった。
「いつも、あ、カスミさん!カスミさん!ってかんじだから、なんだか新鮮だな。そういうの」
テツは目を少し細めた。そして、「『新鮮』だとか『フルーツ』だとか、どっかの八百屋のことばかり考えてます?」と嫌そうに言った。私は「もともとヒロムに会う前からずっと野菜は好きなの。健康にも良いでしょ」と言った。「そうですね」とテツは口を歪めた。
「それで、実は僕には、尾行役がついていたらしいんです。10年以上前からだそうで…僕はそれをなんとなくは気づいていたんですが、それが誰かはわからなくて」
なんか、どこかで聞いたことがあるような話だな、なんて、思った。聞いたことないけど。なんかあるようなかんじ。どこで聞いたんだろう。
「知りたいんだ?」
「はい」
「そうですね。カスミさんが僕の彼女になるとは限らないし、僕の尾行役が知らない人だとは思えない」
「でも、私といつか付き合うかもしれないし、尾行役が知らない人かもしれない」
「そうですね」
ああ言えばこう言ってる私。
「だから犯人探しみたいになったんだね。私ね、正解は一個しかないと思い込んだんだけど、もしかしたらたくさんあるんじゃないかな?」
「何人も居るってことなら最初からそう思ってますよ僕は」
テツは難しい顔をした。
「私、選択肢は多いほうがいいと思うんだ。もし尾行役の立場だったら、テツがどこへ行っても大丈夫なようにしているはず。じゃあ私たちは喜んで自由にしたらいいと思う。だってせっかく楽しみにしてたのに縮こまってたらつまらないでしょ?」
テツはやっぱり複雑そうだった。
「カスミさんがそれでいいなら、いいんじゃないですか?」
「うん。だから、私も選択肢を多くしようと思うんだ。テツの彼女になるかどうかはわからないよ。だってたまに突然すごく女たらしになるでしょ?そんな男、心配だよ。あちこち女の子ひっかけそうだし、浮気ばっかしそう」
「カスミさんのほうが思わせぶりじゃないですか?僕は本気の本気なのに、からかわれてるみたいですよ」
「そうだよ。からかってるよ。面白いから」
「面白くありませんよ」
第3章(第21話〜第30話)
第21話「帽子」
ピンポーンピンポーン
「おい、トオル!醤油貸してくれ!」
「ショウユ?」
僕は寝ぼけ眼で扉を開けた。
「トオルやっと起きたか。目玉焼きには醤油だろ、醤油貸してくれ」
僕は目覚まし時計を見るとまだ午前5時半だった。
「いくらなんでも早すぎです。迷惑です」
「おい、醤油は?」
「他を当たって下さい。コンビニでも置いてるでしょ」
バタン
「おい、トオル!醤油貸してくれよー」
人間の生き死に、みたいな、そんな大きな類いの話になってくると面倒なことに時間をあまりに無駄にしてしまう。今日も「生」と「死」とその境を行き来して僕は目覚めた。僕は何もなければただの幽霊と同じである。
ピンポン・ピンポン・ピン・ピ・ピ・ピ・ピンポーン
玄関のインターホンが壊れそうなくらいに鳴った。なんだか楽器のようなリズム感がある。こんなふうに押すのはただ一人しか、思いつかない。
「ちょっと、泉水(いずみ)さん!お昼に目覚めるなんて遅いですわよ」
「起きてるよ。入って」
「起きてるというだけじゃ、だめですわ。さ、早く、出てきてくださいまし」
「わかったよ」
ドアを開ける。僕のパジャマ姿を見て鈴美は呆れるように冷ややかな目で見た。今日も鈴美はやはり僕の家には絶対に上がろうとしない。たったの一歩も入ろうとしない。僕は鈴美をじっと見た。今日も鈴美はとてもかわいい。まぶしいくらいに。珍しく制服だ。定規で線を引いたような、そんなきっちりとアイロンが当たった白いシャツ、全て止められたボタン、中心に曲がっても歪んでもないリボン。鈴美がゆったりとしているのを僕は見たことがない気がしてくる。それは優しいとか、柔らかいとか、いい匂いとか、そういう意味ではない。そういう色気は充分にあるんだ。だからこそ不思議と何かが苦しい。うまく言えないけど強さの中に何か恐ろしさを抱えてる気がして。
「デートのお約束でしたわ」
「鈴美、僕はだめだ。今日は出かけない」
「だめじゃありませんわ。帽子をかぶっているんですから外に出かけないといけませんわ」
「僕の場合はそうじゃないんだ」
「まあ、そうやって自分を特別と断定されて諦めますの?わかりました。それではわたくし、別れますわ」
「別れないで」
「じゃあ早く用意してきてくださいませ」
僕は帽子を斜め45°に被る。リュックサックの教科書を全て出して机の上に置き、財布とハンカチだけを入れた。
「そういや、なんで今日制服なんだ?暑いのに」
「制服が一番似合うと言われたからですわ」
「誰に?」
「内緒ですわ」
「僕も制服のほうがいい?」
「なるほど、それ素敵ですわね」
鈴美は律儀に外で待っている。こんなに暑いのに僕は待たせている。でもなぜうちに入らないんだ?もしかして僕の家、汚い?男臭いとかか?エアコンちゃんときいてるはずだけど。僕は氷と麦茶をコップに注いだ。
「いりませんわ。氷を満タンにした水筒を持ってきてますの。それに泉水さんのほうが暑そうですわよ」
行き場のないコップを口元に当てる。
「僕たち…付き合ってるんだよな?」
「はい」
「なんで入らないんだ?こんな暑いのに」
「待ち合わせでしたわ」
「怒ってるってこと?」
「はい。とっても」
僕は鈴美がよくわからない。でも鈴美がいないと寂しい。僕はただ玄関のドアをあけて鈴美を抱きしめた。
「また、いつもいつも急展開、頭の中だけで考え過ぎですわよ。そしてたぶん、まだ寝ぼけてるんですわ」
そう言って鈴美は僕の頭をピシャリと強く叩いた。
「痛って!」
「ズボンがまだパジャマですわよ」
そして靴下で玄関を出た足をローファーで強く踏んだ。
「痛って!!」
本当にいつもいつも思うけど、鈴美は僕なんかのどこに価値があるんだ?なんで付き合ってくれてるんだろう?そう思いながら僕は急いで着替えた。
「顔は洗いましたの?歯磨きは?」
「お母さんが居たことがないと、僕にとって鈴美はお母さんみたいです」
「それではいけませんわ。別れますわ」
「別れないでください」
僕は暑かったり寒かったりする温度差を行き来した。何度このドアを開けたり閉めたりしなくてはならないんだろうか。まるで僕が閉め出されているみたいだ。本当は逆なのに。そして僕は問題を解きかけのノートを見て寝落ちしたことを思い出した。まだあれもこれも途中だ。
「宿題が終わってません。手伝ってください」
「そうでしたの。一人でがんばってくださいませ」
「中途半端なままではいけないので」
「わたくしのことは中途半端でよろしいのですか?」
「両方を手に入れたいとき、どうすれば」
「二兎追うものは一兎も得ずと申しますわ」
僕は頭を抱えた。別に何もしないとは言わないけど、そんなに家に上がりたくない理由が他にわからない。
「わたくし、思うのですが、どんなにセンスの悪い洋服を着ていても相手のことばかり考えていてワクワクドキドキしながら楽しみにデートに行く人のほうが素敵だと思いましたわ」
「それは僕ではない誰かとデートをしたと」
「いいえ、それはこれからですわ」
「これから?二兎追うものは一兎も得ずだけど」
「わたくし、今、目の前の一兎逃がそうとしておりますわ」
「捨てないでください」
トントントンと階段を登る音が聞こえる。宅急便が何件か隣のインターホンを押した。鈴美の元気に鳴らしたのとは違うみたいに聞こえた。鈴美が僕のことを好きでいてくれてることはなんとなくわかる。でもなぜそんなに線を引いたようなんだろう?僕らは恥ずかしくなって黙りこくった。僕は鈴美の手を引いて玄関の扉を閉めた。鈴美は驚いて、そしてちょっと気まずそうに、後ろをちらっとだけ見た。何かを気にするみたいに。
「涼しいですわね」
僕は何を言ったらいいのかわからなくてただ抱きしめた。
「またいつもの急展開ですわ。言ってくださらないとわかりませんわ。どうせまた徹夜されたんでしょう。そして頭の中ぐるくると考え込まれたんでしょう?」
「そう」
「それはわたくしのことを思って眠れなかったのとは、違ったんですわよね?」
「…」
僕は黙るしかない。
「何か新しいことがわかりましたの?」
「何も」
相変わらず鈴美は玄関の下駄箱前から動かない。
「僕は鈴美のことのほうが何よりわからないよ」
「そうですの?」
「うん」
「ご飯は食べられました?」
「食べてない」
鈴美が驚くほどそわそわしている。こういう時、僕のほうがしっかりしていないとだめだなと思う。でも鈴美のほうが驚くほどしっかりしている。
「人間の基本は食う寝るですわ。しっかりお休みになられているのですから、どこかに食べに行きましょうか」
「鈴美」
「はい」
「うちでのんびりしていったらどうかな?」
正直、いつも僕が暮らす家に彼女がいるというのは嬉しいんだ。でもそんなに怯えられたら、なんだか悪い。
「泉水さん、大変なんですわ」
「何が?」
「さっき玄関の鍵をしめましたでしょ?それで」
「それで?」
鈴美は僕の目を覗き込む。どうしてそんな不安げな顔。「僕、鈴美に嫌なことばっかりしているのかな」
急に鈴美の目から涙があふれる。何かの緊張がふと解けるように「泉水さんのそういうとこは嫌いですわ」と言った。
鈴美を抱きしめるたび、肩に力が入っていた。ずっと何かに張り詰めていたんだろうな。
「ごめん、約束破って。ちょっと昨日バイトとか宿題とか、頑張りすぎたんだ」
鈴美の涙が止まらない。僕は自己嫌悪の多い悲観的思考の人間だという自覚があるが、それでもそんな僕でも時々鈴美がとてつもなく薄幸に見える時がある。持ってる苦労が違いすぎるんだ。皮肉かもしれないけど、僕の家は、世界にふたりきりだけになったみたいな空間で、はじめて鈴美のことが少しだけ見えたような気がした。
「それで?誰か他の男とデートするって言った」
「夏祭りに行きますわ。浴衣を着て」
「僕よりもそっちのほうがいいんじゃない」
「そうですわね。でもこの帽子は泉水さんのほうがよく似合っていますわよ」
「野球部なんだ?」
「そうですわ。よくわかりましたわね」
「じゃあこんなもん要らねえや」
僕は左手で帽子を外し、投げ捨てた。
「だめですわ。それが無いと泉水さんは生きていけませんわ」そう言って鈴美は帽子を拾い、ドクロマークを眺めて、それから、何も無い空を見ていた。こうやって僕はまた透明な存在に戻ったのだった。
第22話「悪魔」
博士というのは、良い成果を発表する研究者と、自分の利益のために頭を働かすような、たちが悪いのと、その二種類しかいない。たちが悪いやつのことを悪魔と呼ぶことにしよう。俺はそんな、たちの悪い悪魔のような博士、そんな悪魔に発明された悪魔である。
「僕の半分が死んだって具体的にはどういうこと?」
少年が博士から届いた手紙を読んで出た質問に、俺は優秀なアンドロイドとして答えた。
「そのままの意味だ。科学の世界では珍しいことじゃない」
「双子の片割れが実は居たとでも言うのか?それともクローンか何かか?」
「お前は実は透明人間の子どもだったんだ」
「嘘だ。僕は普通の人間だ」
「お父さんが普通の人間、お母さんが透明人間だったんだ。そしてお前は交通事故に遭い、その半分が死んで、透明人間の要素が身を助けた、というわけだ」
「普通の人間ならそのまま死んでたってこと?」
「そうだ」
「違うな。たぶん僕は一度死んでるんだ」
「どうしてそう思ったんだ?」
「天使をみたんだ。まだこっちに来るな、死ぬなって追い返されたような気がするんだよ」
「それはおかしいぞ。なぜなら俺は悪魔だからな」
「悪魔なの?」
「そうだ」
「でも優しいんだね」
「優しくなんかないさ。これは俺の任務だからさ」
「任務なんだ」
「そうだぞ」
「もしそれが全部本当だったとして僕のお母さんはどこにいるの?」
「透明人間の世界があるんだ。いつか行き方を教えよう」
少年はそれを聞いて少し嬉しそうに笑った。
「へえ、僕のお母さんに会えるんだ。確かに一度も写真を見せてくれなかったよ。写真が嫌いだったってごまかしてさ」
「そうだったんだな」
「それで?きみは一体なんなの?黒いキャップ帽から声がするけど」
「博士が発明した特殊装置さ。帽子を頭にかぶればお前は普通の人間に戻ることができるんだ。頭の先からつま先まで、全てが目に見えるようになる。透明人間の世界でなく、今まで通り暮らした世界で生きられるんだよ」
「なんだか、友だちがかけてる眼鏡とか、おじいちゃんがつけてた補聴器みたいだな。困ってたけどすごく快適になったって喜んでたんだ。そういう便利道具に似ているよ」
そう言って少年は立ち上がって鏡の前に立った。そして自分の姿が映らないことを思っていた通り嘆いた。そしてスポーツキャップを被るとその瞬間にその姿は鏡に映った。外す、取る、外す、取るを繰り返して、その不思議に気を取られていた。
「透明人間って服を着ていたら、服が浮くんじゃないの?」
「そのとおりだ。しかしお前はどういうわけか、幽霊みたいに通り抜けちまう。性質としては非常に幽霊に近いんだ。しかし幽霊ではないとわかり、怪異とも何か違うらしい。研究データベースによると人間と透明人間のハーフも少ないが、このように事故が原因で特別な形で透明人間の特徴が現れたケースは非常に珍しいということだ」
「じゃあ僕と同じように透明人間とハーフの人間はどこかにいるんだね」
「そうかもしれないな」
「正直、事故は怖かったんだ。車にひかれて死にそうになるなんて。それじゃあさ、透明になる前の体は一体どこに消えたのかな?」
「司法解剖されたあとに研究室が急いで情報ごと買い取ったんだ。メディアに流されることはまずないし、厳重な形で遺体はどこかに保存してあるはずだ」
「嫌な死に方だなあ。シホウカイボウって何があったか体のあちこち調べられたってことでしょ?」
「そうだな」
「やっぱり完全に僕の体は死んだんだね。臓器とかそういうのも停止してるし、もう動かないし、育たない。もしかしてこれって幽体離脱?とは違うのかな?」
こいつは随分と状況の飲み込みが早いもんだなと思いながら、俺は説明をした。
「透明人間ってのは、実はちゃんと骨や皮膚や臓器やなんかがあるんだぞ」
「だけど僕の体がふたつあるのはやっぱりおかしいよ」
「それは…俺もそう思うな。でも情報はそれ以上見つからないんだ。俺たちで解明していくしかない」
「そうなのか。困ったな」
俺は悪魔としてこいつにつかなきゃならない。しかし、幼いながらも素直に理解しようとしているのを聞くと、なんだか後ろめたい気持ちになるな。
「それで?お前の名前はなんていうんだ?ドクロ?」
「スカル、だ。こう見えて悪魔だ」
「僕はトオルだよ。よろしくね」
「トオル、お前はどうしたい?」
「それは具体的には何の話?」
「お前の情報ってのは金になる。しかも非常に価値が高い。透明人間界の医学者が欲しがる全てで溢れてるんだぞ。その中で無闇矢鱈に売るべきじゃないんだ。知られたくなきゃ、俺は今すぐ研究室との回線を切断することもできる。交渉だって、上手くどうとでもしてやるさ」
「味方をしてくれるつもりなんだね。ありがたいよ。でも、そうだなあ。残念ながら僕の遺体は人質みたくなってどこにあるかわからない。例えばさ、今僕がここでスカルっていう帽子をかぶったまま死んだら、遺体はあるのかな?とか、帽子をかぶってなかったらどうなるんだろうとか、考えてしまうとそっちの情報もやっぱり欲しいんだ。だから切ったら最新の情報が得られなくなる。そっちのほうがよっぽど怖いよ」
「わかった。それでいいんだな」
俺は素早く、情報管理局にトオルから研究情報提供の了承を得たことを発信した。
「スカルは透明人間なの?」
「いや、残念ながら違うぞ。透明人間を研究する普通の人間の博士が作り出した高性能アンドロイドだ」
「ロボットなんだ。じゃあ悪魔じゃないよ」
「俺は悪魔らしくいたいんだ」
「そうだね。死に損ないを救うのは、実はいつも悪魔なのかもしれない」
「詐欺みたいな、悪魔な手紙だったろう?でも博士は対等にしたかったんだろうよ。透明人間ではなく、同じ普通の人間としてお前にチャンスをやったんだと思うぞ」
「なんだか難しいや。でも、僕はまだ生きてるんだ。今はとりあえずそれだけでいいかな」
第23話「半透明」
エスカレーターっていうのは止まらないものですわよね。階段とは全然違いますわ。すごく楽をできる画期的な乗り物だと思いますわ。しかし電車に乗って私立の中高一貫校に通っていて、あるときの放課後、わたくしは気づきました。幼稚園から大学まで、ずっと同じ学校に通うというのを「エスカレーター式」と表現をすることがありますが、なぜ「階段」とは言わないのだろう。良く似ている「エレベーター」とも、言わないのはなぜだろう。とにかく、目に見えてオートマティック、だからでしょうか。乗っていれば勝手に動いてくれる。するとわたくしは自発的ではなく、乗っているだけで自動的に目的地に着くような楽をしているのでしょうか?
駅構内に向かうとちょうどよく電車が到着しました。わたくしはさっと乗り込み、ぼーっと外を眺めていました。昼間、まだ電車に帰りの社会人は少なくて、とても空いていました。しかしわたくしは、こういう時間の空いた電車内はとても苦手です。車両には誰もいないというように見えて、わたくしには恐ろしいほどにうじゃうじゃ、視えてはいけないものたちが視えるのです。ため息をついても、座っても、どうにも落ち着けません。
そんなとき、少し先に扉の前に寄りかかっている制服姿をみつけました。ノートをじっと睨んで、随分と考え事をしているようでした。美少年というわけでもないのでしょうが、全体的にとても綺麗な印象でした。電車がトンネルを通り抜け、夕陽の光が差し込み、わたくしはその残酷さに気づきました。彼も幽霊だったのでした。しかし目が離せない、黄金色に光る眩しさを透かして、まだ人間の繊細なかたちの、原形を留めている状態だからこそ、どうしてか美しいとすら思ってしまいました。まだ死んだことに気づいていないような曇りのない眼をしていらっしゃって、わたくしは視えなくていいものが視えて今までとても苦労しましたけれど、こういう霊が視えるというのなら不思議と嫌ではなくて。けれど周りにいるの幽霊と同じように歪んでしまう前に、思い残したことを終わらせて成仏してくださいませ。そんなふうに願いました。
「くしゅん!」
うっかり、くしゃみの音に反応してしまいました。そして幽霊がくしゃみをしたのははじめて聞きました。そしてその幽霊はわたくしの反応に気づいたようです。やってしまった。幽霊に対して、わたくしは気付いていないふりをしなくてはならない。それが鉄則なのです。絡まれてはならない。絡んではならない。絶対です。でないと大変なのですわ。
「えっ??」
あ、やばいですわ。気づかれてしまったかもしれませんわ。「視えるの?」
そう。こうやって「視えるの?ねえ、視えるの?」って、絡みついて追いかけてくることがあります。取り憑いてきたらとても面倒なのです。面倒ですからそんな時はまるごと無視をするのですわ。まるで何も無いもののように。
「もしかして、僕のこと、全部視えてるの?」
そう、霊感っていうのは強さがあるのです。火加減と似ています。ほんのりと感じる弱火の人はよくいますでしょうが、わたくしの場合は幽霊が形としてすべて視えてしまう、かなり強火なのですわ。わたくしはただ黙って彼の身体をすり抜けました。そうすれば自分が死んで幽霊になったことに気づくでしょうから。
「やっぱり視えるんだ!すごいね」
声が明るいなんて、そんな。こうすれば幽霊はいつも悲しげになりますのに。
「ちょっと待って」
肩を叩かれて無視をしましたら、わたくしの肩をどうやって叩いたのかわからなくてゾッとしました。振り返るのが怖い。
「うまく言えないんだけど、こう見えて僕は生きているんだ」
いいえ、あなたは死んでいらっしゃいますわ、と思いながら、わたくしは幽霊の足元を踏みましたわ。ん?
「ほらね。生きてる。残念ながら」
わたくしの足はローファーを踏みました。しかし、どうして?さっきはすり抜けましたわ。
「僕は透明人間と人間のハーフだそうです。帽子を被ると人間になれますが、外すと、この通り、幽霊のようになってしまいます」
そう言って彼は帽子を外して、すっと、わたくしをすり抜けました。その瞬間、まわりの幽霊が彼のまわりから消え去っていったのですわ。彼に怯えるように、近づかないほうがいいというふうに。わたくしはその状況ではじめて口を開きました。
「こんなことは…はじめてですわ」
「僕のほうが驚いているよ。まさか僕のことが視える人がいるなんて思いもしなかった」
「わたくし、最近死んだばかりの人間の幽霊だとばかり思いましたわ」
そう。わたくしは少し不自然に思ったことがあったのですわ。彼の体は他の幽霊と違って、もしくは死んだばかりのまだ原形が留めている幽霊と違って、身体のどこにも全く傷が無いのでしたわ。
「僕は幽霊を視たことがないんだけど、君は幽霊が視えているんだね」
…透明人間っていうのは幽霊が視えないんでしたの?
「周りの幽霊が怖がってあなたの周りから離れていきましたわ。未練があったり、何らかの事情で現世に残ってしまっている幽霊にとって、あなたみたいな存在は羨ましくて仕方ない反面、とても恐ろしいですのよ」
「僕は、透明人間界の人には透明人間では無いと言われたんだ。それなら幽霊に似てるのかなって思ったんだけど、そうか、僕は幽霊に嫌われる存在なんだね」
「そうですわね」
「ちなみにお祓いとかを専門としている人なの?」
「いいえ、ただの中学生ですわ」
「お嬢様って感じの制服だけど」
「そうですわ。その…あなたは?」
「ああ、僕は高校生だよ」
「高校?帽子をかぶっていて大丈夫ですの?」
「インターナショナルスクールなんだ。だから服装は自由で良いんだけど、室内で帽子をかぶったままっていうのは不自然だし、先生にも失礼だろ?だから研究所に腕時計を改造してもらって、それが帽子の代わりになるようにしてもらったんだ」
「腕時計?今は外してらっしゃいますが?」
「電車代くらいどうにか節約できないかなあと思って」
「無賃乗車ですの?」
「そうだよ。透明人間だからこそできる特権だよ。電車の中にずっと取り憑いて離れないでいる幽霊よりは迷惑になっていないでしょ?」
「…聞かなかったことにいたしますわ」
わたくしは最寄り駅が来たので降りる準備をしました。
「それではごきげんよう」
「僕もこの駅なんです」
こ…、困りましたわ。…わたくし、ちょっと逃げたいですわ。もしかして幽霊に取り憑かれるより、もっとよくない感じの手札を引いたのかもしれませんわ。どうしましょう。
「あの」
「はい?」
彼は困った顔をしながらこう言った。
「そうだ。よかったら透明人間に…なってみませんか?」
「え?」
わたくしはかばんを持っていなかったほうの右手を取られ、まだ開いてない状態のドアをすり抜け、扉の前に立って待っている人の群れをすり抜け、駅のホーム独特のちょっと汚れた空気にむせました。そして階段を下ってその中央までくると彼はすっと手を離しましたわ。ぽん、それはまるで魔法のように、階段の中央に突然現れたように見えたことでしょう。あまり混んでいない時間で誰もいなくて、本当に良かったですわ。
「どうでした?」
「どういう仕組みですの?」
「僕が帽子をかぶっている間に触れているものは帽子を外せば透明になります。だから君も透明になれるというわけです」
わたくしは先程、ノートをじっと睨んでいたことを思い出しましたわ。そして、手を離すとわたくしはこんなふうに元に戻りました。
「なるほど。あなたって本当に複雑なんですわね」
「唐突かもしれないんだけど君に頼みがあるんだ」
「嫌ですわ」
「え?」
「困りますわ」
「と、とりあえず話だけでも聞いてはもらえないかな?」
「ごめんなさい。とても急いでますの」
わたくしは改札口をとにかく走って出ていきました。
第24話「記憶」
能力っていうのは難しい。その能力を必要としている誰かをどこかで見つけることができれば、よりいっそう輝くかもしれない。でもそうでなければ発掘されないかもしれない。だから、能動というのはある程度大切である。
今日はとても良いお天気の休日だ。いつも私は思う、世界中で一番素直で明るいのは太陽だって。眩しすぎるくらい。
「なあ、矢尾弘」
「なんだ、君島直」
「お前よく私のこと覚えてるよな。私のこと好きなのか?」矢尾弘は眉を下げて
「なんでわかったんだ?」と言った。
「ん?」
「ン?」
私は考える。矢尾弘も何か考えているようだ。
「…なんだ、矢尾弘。お前は本当に商売上手だな」
「なんでそうなるんだよ」
矢尾弘は非常によく笑った。私には笑えないが。
「まあ、君島ほどおれんちの果物を消費する女はなかなかいないぞ。こんな良い客はなかなかいない。お前見てるとおれの姉貴の食いっぷりを思い出す」
矢尾弘は姉の大食いを見ているからか私の食い意地を引かないんだよな。それでいて、この店の果物はすごく美味いし、安いしで、ありがたい。
「なあ、話は変わるが、向こうの高級住宅街のお嬢っていったら、商店街のどこに足を運ぶと思うか?」
「駄菓子屋かあんみつ屋か、とにかく、八百屋じゃないことは確かだな」
「そうか?」
「君島なら、どこに足を運ぶんだ?」
「八百屋かな。いちごが食えるから」
「どんだけ食うんだよ」
私はいちごを1パック分あっという間に平らげたことを指摘されたが、「美味かったんだから仕方がないだろ」と答えた。
「ところでお前、棚引霞と付き合わないのか?」
「君島までなんでそんなことを聞くのか」
矢尾弘はそう言って、今日もぼーっとした顔をしていた。自転車の車輪の音が近くを通り過ぎた。私も自転車で来ればよかった、なんて思った。
さて、情報っていうのは非常に便利である。伝播し、広まる。大きな噂になれば周りの人々に多大な影響を与える。そして何より価値があり、お金になるのだ。矢尾弘は八百屋としてその点をしっかりと心得ているから、私はたまにこうやって利用する。そしてこの店の高級バナナの生産者、鈴木さんは尊敬に値する。
「それで、君島は?」
「何が?」
「好きなやつとかいねーの?」
「いねーな」
私はもぐもぐしながら答える。
「ふーん、そうか」
矢尾弘は面白そうに笑って言う。
「君島はほんと、美味そうに食うよな」
「美味そうじゃなくて美味いんだ」
「そりゃ良かった」
そう、矢尾弘は満足そうに答えた。そして私の顔をじーっと見つめるんだ。しかし、こいつ私を見過ぎだ。見るなら見るでなんか言えよ。そう思いながら目を逸らした。
「君島みたいなのがいるとさ…」なぜか知らんが、こいつ、目を逸らすと話し始めるんだよな。なんなんだろうか。
「おれ、八百屋やっててよかったなと思うよ、おれ」
おれ、が多いぞお前。詐欺か?
「そんな風に言われるとバイト代がひらひら飛んでっても気にならなくなるな」
矢尾弘はそれを聞いてなんだかぽかんとした顔をした。なんだその顔は?わかった、情報のためだ、ダメ押ししよう。「うちでバナナスプリット作るからバナナをもう一房買ってく」
「さくらんぼは?」
「いる」
「まいどあり。ちょうど旬だから良かったな」
「チョコレートとかアイスとかも置いてたら全部揃うのにな」
「便利屋じゃねえんだからな、八百屋だからな」と、矢尾弘は手書きでレシートを作成しながら、「いつかうち、時代や流行りに合わせてスーパーマーケットに出来っかもしれねえな。場所的にも、商店街の真ん中でぴったりだし」。
そう言ってそのレシートとお釣りを渡してくれた。
「矢尾という苗字の人間が、矢尾屋をやらないで、誰がやるんだよ」
「なんかそういう八百屋っぽい名前のスーパーが隣町にできたらしいんだな」
「へえ」
「そういや、君島がバイトしてるってのも、お菓子作れるのも、おれ、初耳なんだよな。お前、バイトならうちですりゃいいのに、果物にはすげえ詳しいしさ」
私はその矢尾弘の発言にうっかりお釣りを財布からパラパラと滑り落とした。
「大丈夫か?」と矢尾弘は矢尾弘の方へと転がっていった5円玉を一つ拾って私に渡した。
「あれ?さっきもらったお釣り、何円だったっけ?」
そう言いながらさっきもらったレシートを見つけてめくる。
「矢尾弘の字ってちょっと素朴だよな」
なんてからかいながら。
でも、私は知らないほうがよかったことをひとつ、聞いてしまった気がした。
「素朴だっていいじゃんか。侘び寂びって言うだろ」
「そうだな。テストの前日に神頼みにでも行くよ」
「君島は知りたがりだし察しが良すぎるけど、自分のことを聞かれたり探られるのを極端に嫌がるよな。おれは君島のこと、もっと知りたいんだけど」
「なあ、矢尾弘」
「なんだ、君島直」
「おまえ、一体どこまでを覚えてて何を忘れているんだ?」
矢尾弘は私の質問に顔色一つ変えずに、
「今、覚えてるものは覚えてて、忘れてるものは忘れてる。ただそれだけだ」と答えた。
続けるように、
「今おれ、君島の質問を答えた。だからさ、君島に質問をしたら答えてくれるよな?」と言った。
私はただ黙って、すると矢尾弘は私の頬に手を触れた。矢尾弘は本当に私の目をじっと見る。いつも私は目をそらすしかない。でも視線を感じても本当に見られてるか気になるからまた、こいつの目を見てしまう気がする。矢尾弘は次に目があった時、鼻に軽く拳を作って顔を隠した。
「なんだ?」
「いや、君島は本当におれの好みのタイプだなって」
「何を言っているんだ?女の子らしいところなんて一つもないだろ?」
「女の子にしか見えねえよ」
私は我に返り、短い髪を指を通して軽く撫でた。ソックタッチをしていない下がりきった長い靴下。なんだか自分の心が翳っていく感じがした。
「おれ、何度君島に会い直しても、変わらずお前のこと好きになる気がするんだよ」
そう、矢尾弘は恥ずかしそうに笑う。だけど、矢尾弘が私を好きになる理由がわからない。こいつの周りはきちんとした女が多すぎる。なぜハニートラップみたいな幼なじみが居ながらそれと恋愛しないのか。私みたいのは物珍しいんだろう。きっとただの練習台だ。私は矢尾弘の脚を蹴った。
「いて」
「お前にとってただ都合がいいだけだろ?」
「お前も都合がいいだろ?」
私は周りを見渡す。…まあ、そりゃあ、果物は好きだけどな。
「なあ矢尾弘、私、じつはな」
「なんだ?」
「高級バナナ生産者の鈴木さんが好きだ」
「それなら、おれも好きだよ。懇意にしている」
「なぜこの端正な顔立ちでアイドルじゃないんだろうか。もしくはモデルになれる。こんな逸材はなかなかいないぞ!」
私はバナナの入ったビニール袋に載った小さな顔写真を指さす。
「歴史マニアだからじゃねーか?」
「歴史が好きならクイズ番組やバラエティ番組に引っ張りだこなはずだろ?」
「ジオラマかなにかで城を作ってた気がする」
「なんの城を作ってんだ?」
「たしか、小田原城」
「無敵じゃねえか」
「難攻不落であって、無敵ではねーよ」
「誰だっけ落としたの」
「秀吉」
「サルめ。やりおったな」
「もしや、それでバナナを作ってるのかも」
「なるほど。寄せ付ける作戦か」
「ン?」
「ん?」
「寄せ付けちゃだめだろ」
私はふと腕時計を覗く。
「そういや午後は待ち合わせがあったんだ」
「そうだったのか」
矢尾弘は難しそうな顔をして目を細めた。
「すっかり忘れてた」
「昼飯を果物で補えんの、君島くらいだぞ」
「矢尾弘は昼飯、食べたか?」
「そうだな、おれも、腹減ってたの、忘れてたな」
私は情報屋である。依頼を受けた情報を調査し探り、得られ次第、私との記憶一切を消すことにしている。しかし矢尾弘だけは何度記憶を消しても私のことを覚えたままなのである。私は記憶を消すことはできても復元することはできない。だから矢尾弘には何かがある。そう思ってしまう。でもそれが何か具体的にわかったとして、一体どうなるかはわからない。何ができるのかも。しかし非常に気になるのは確かだ。まあ、何にせよ、何度も消してしまえばいいだけの話だ。
「なあ、君島直、ちょっといいか」
「なんだ、矢尾弘」
「おれ、君島直のことが好きだ」
「私なんかのどこが好きなんだ?」
「夢か現かわからないところ。罪深いよ。そういうの」
「よくわからないな」
私はフィンガースナップをする。3回。
次に会ったら、今度こそ、ただの目立たないクラスメイトだ。不遇なものだな、私の能力も。私は矢尾弘の脳から私の記憶を消し、帰路につくのだった。
第25話「チョキ」
じゃんけんで一番強いのはチョキだ。
その理由は簡単。武器になるからだ。
カメラを向けられたら笑顔とピースだ。
その理由は簡単。平和に見えるから。
俺は殺し屋である。銃も刃物も持たず、相手に警戒されることなく近づくことができる。身一つで闘える最強なのである。
今日も仕事をきっちり、難なく済ます。手を汚さず。ただ俺はにっこりと笑ってスナイパーのスコープに映るだけ。そして指で作ったハサミを開いて閉じるだけ。地獄に落ちたって構わない。なぜなら、俺にそんな能力を与えた神様が悪いんだから。
俺は報告書の提出のため、事務所に向かう途中のエレベーターホールから廊下を歩いていると、ナオとトオルの話し声が聞こえてきた。
「名前も住所もわかるにはわかったんだが、大きな問題があんだ」
「さすがナオとしか言いようがない情報量だよ?」
「お目々くりくりで、ふわふわで、すっごくかわいくてさ」
「それは一体どこのワンちゃんだよ?」
「お前が探せって言った霊感の強い女の子だよ。霊感がありそうには全然みえなかったけどな」
「そうだね。でも僕のことまで気づけるのは、なかなかいないから」
「そう。私のことも、気付いたんだよ。記憶も消せない感じだった」
「あの子、記憶を消すのも効果ないの?」
「相当な霊力レベルなんだろうな」
「何か理由がないか調べてみないと」
「どうにか味方につけないとな。絶対に敵に回しちゃいけないよ」
「それで、ナオ、今回の八百屋はどうだった?」
「記憶がちゃんと消えてるけど、記憶がないわけではない感じだったから、すべて消えるように強いのをかけてみた」
「それで?なんでそんな困った顔してるの?」
「何でもねえよ」
「僕…ナオのことは好きだけど…」
「なんで私が振られたみたいになってんだよ」
「え、なんとなく。ナオ、僕のこと好きじゃん」
トオルのやつ、またナオを困らせてるな。
「私は相手の記憶を消すなら消すなりに、その記憶を自分では覚えておきたい」
「そうすると相手のこと、好きになっちまうんだろ?」
「そんなわけじゃねえよ」
「お人好しで、惚れっぽいなんてさ。そんなんでやってけるの?」
「うるせ」
俺は事務所内に書類提出に来ただけで、一体何を聞き耳立てているんだ。ただ非常に入りにくい。それは確かだ。そして、ナオが男に告白されたらしい。まあ告白したくなる気持ちはわかる。
「消したくないなら、消さなきゃいいのに。今回の件は消さなくても問題なかったって自己判断も許せた事案だと思うけど」
よくわからないがこれはトオルが悪い。俺にはわかる。ナオとトオルが口論してる時、それは大体トオルが悪い。いや、そうでなくても、誰と口論してようがトオルが悪い。
そして扉を開く。
「おいトオル、何ナオを泣かせているんだ?」
「泣かせてないよ」
「いや、泣かせたね。俺にはわかる」
ナオの表情は複雑そうだった。
「例えばさ、チョキ。主人公だと思ってた男が突然死んでも物語が続いたりしたらどう思う?」
「それは主人公では、なかったんじゃないか」
「だよな。そういうことだよ泉水トオル」
記憶を消すなら、その記憶を自分では覚えておきたい、か。俺はナオのそういう優しさが暖かくて良いと思う。でも、俺は殺した人間のことなんて覚えていたくない。でもその記憶を消してくれだなんて、俺はナオには頼めない。頼んで消して楽になったところで俺の首に巻き付く死神や悪魔は消えないし、そんなナオの優しさを肯定したところで、俺は絶対にナオには好きだとは告げられない。どんなにナオがお人好しで惚れっぽくても、俺を好きになることはないだろう。
「恋愛小説や少女マンガって必ずどこかで記憶喪失っていうイベントがあるよな。どっちかが記憶喪失して、どっちかが必死に思い出させるっていうあれ。なんなのかな、定番なのかな」
トオルはナオの返答にそんなちゃちゃを入れた。
「そういや、回想シーンもよくあるなあ?」
「トオル、そんなこと言うなよ」
そしてなぜそんな少女マンガや恋愛小説に詳しいんだ?
「そうだな、私、はっきり言わせてもらうと、当て馬のほうがまだマシだった」
「一体どんな任務をしたんだ?」
ナオは作り笑いを浮かべながら、「いつもと同じような任務だよ。情報を聞き出したあと、口封じにその情報ごと記憶を消すだけ。チョキに比べたら、大した事ない仕事だよ」と謙虚に言った。
「ナオの仕事のほうが、賢くて正しくて好きだ。お前がいるから俺が人を殺し過ぎなくて済んでる」
ナオは無表情で事務所から出ていった。
「相変わらずフォローが下手くそだね、チョキ」
俺はトオルに向かって笑顔を作り、ピースをした。
見た目はただのカメラ目線だが、こう見えて殺し屋である。
「トオル、お前いつか絶対、殺してやる」
「チョキは本当におっかねえや。それで、好きな子の話に聞き耳立てちゃうスケベだね」
そう言ってトオルは帽子に手を添えながら、もう片方の手で俺の前にグーを作った。
「お前のかっわいーナオちゃんが盗られそうだから、これ以上はじまらないように制御してやってんだ。もっと感謝するべきだな」
「そんなこと、頼んでねえよ」
トオルは書類に軽く目を通してから箱に入れ、「それじゃあな」と俺を警戒をしながら事務所から出ていった。俺はナオとトオルの書いた今日の報告書をひっそり出してきて、こっそり読んだ。…べ、べつに、俺は、スケベじゃ、ねえからなあ!任務だ、これは任務、だから。
「あれ?チョキじゃん。どうしたの?僕も書類、出しに来たんだけど」
「え、な、なんでもねえよ」
第26話「窓辺」
数学の自習の教室はうるさい。レベル別に分かれたうちのハイレベルクラスのはずだが、数式に取り組んでるような静けさでは決してない。教師がいないだけでこうも変わるものだろうか?声が声を重ねてガヤガヤしている。でも昼飯を食べたあと、少し腹が落ち着いたような時間というのは体温がほんの少し高いような気がする。興奮状態というのに近い。そこに陽の光が注ぐ。カーテンが広がっては小さく戻って風のかたちを作る。光の明るさを柔らかくする。シルエットだとか、頭のかたちだとか。後ろの席にいれば綺麗だと感じるのは必然な気がしてしまう。時が止まったように、そして、ひなたぼっこをする近所の番犬みたいに、その心地よさに警戒しつつ、おれはうとうとともしていた。
「なあ、君島直」
「なんだ、矢尾弘」
これがおれらの、そもさん、せっぱ。でも、君島はおれだけじゃなく、どんな人間のこともフルネームで呼ぶ。でもこんなふうにフルネームを君島にちゃんと返してるのは、たぶん、おれだけだ。
「なんかモニョモニョしてるな」
「モニョモニョ?」
「声が眠たそう」
「うとうと?むにゃむにゃ?」
「それだ」
「眠らないよおれは」
「ほんとか?」
「クイズ!ダダン」
「一本でも」
「にんじん」
「二足でも」
「サンダル」
「桃栗三年」
「…柿八年」
「すもも、も、ももも」
「もものうち」
「もも、も、すもも、も」
「もものうち」
「しっぺデコピン」
「ババチョップ」
「往復ビンタ」
「ストレート」
振り向かないまま君島は淡々とおれに返答した。普通は眠気覚ましなら逆だと思うんだが、なぜかおれが出題している。「つうといえば…」
おれは「かあ」という返答を待っていると、君島はふと思い出したようにこっちへ振り返った。
「担々麺!!」
「え、担々麺?」
「話が変わるが眠気覚ましに聞きやがれ矢尾弘」
「おお、急に、なんだなんだ君島直」
「中華料理店ってたくさんありすぎて悩まないか?」
「まあそういえばそうだな。でも中華料理店って接客は最高だし、どこに入ってもそもそもめっちゃ美味い、だろ?」
「だからこそだよ。お前、究極の中華料理店を求めたくはならないか?」
「中華街に行けばいいじゃねーか」
「近所に美味しい店があったらいいなとは思わないのか!」
「まあ、思うよ」
君島は自習に戻っておれに背を向けたまま続けて話をした。
「さて、話を戻すぞ。順序があるんだ。まず、カレー屋がすぐ隣にある中華料理店を探すんだ。そこで、ぴったり隣じゃなきゃだめだ」
「そんなのあるか?」
「中華料理店自体がたくさんありすぎるからこそ、実はあるんだ。で、正面や斜めもセーフ。別の店挟んだらダメ!」「オセロみたいだな」
「まあそんなとこだ」
「あるんだろうなとしか言えねーけどなあ」
「さて、そこでツウなら注文するのが担々麺だ」
「なぜなんだ?シュウマイじゃだめなのか?」
「シュウマイも美味しいが、まずは、中華料理店で担々麺を注文するんだ。それで、黒ごまと白ごまが両方入ってること。もやしがてっぺんに乗ってること。山椒と胡椒が効きすぎていないこと。この条件を全て満たしていたら他の料理も最高に美味い、選ばれし最高の中華料理店というわけだ」
「そんなの『お前の好み』で選ばれたってだけだろ」
「いや、ちゃんと理由があるぞ。黒ごまと白ごまを両方入れるセンスと知識がある。もやしを最後に入れて温度管理をしている。山椒と胡椒が効かせすぎない繊細な味付けをしている、というわけなんだ」
「君島、もしかしてその条件が当てはまるのって一件だけだったりしないか?それを、よっぽど気に入った店を、褒め称えたいんだろ?」
「お、よくわかったな。しかし、たった一件だけというのは実は違うんだな。既にもう、同等の二件目が見つかっているんだ。だから私の仮説は間違いではなかったというわけなんだ」
「ふうん、そうなのか?」
「余談だが、私はそのうえで、担々麺の具の緑黄色野菜は『ほうれん草』が入っていたなら幸せだな。それについてはお前の言うように『自分の好み』の問題だな」
「おれが想像する担々麺は『水菜』が入ってっかな」
「お!たしかに水菜も美味いんだよな」
君島はおれと話をしながら自習をこなしているようだった。おれは君島の話を聞きながら、ノートの隅にメモを取っていた。
「なあ、君島直」
「なんだ、矢尾弘」
「放課後、担々麺、食いにいかねえか」
「残念だが部活だな」
「じゃあ、日曜日とかさ」
「あのな。極秘情報なんだぞ。最高の中華料理店っていうのは!そんな簡単に教えてやってたまるか」
条件は教えてくれてるから、調べる気があれば特定ができてしまうような気がするんだが?
「そうだな。じゃあおれが映画をおごるってのはどうだ?」
「なぜ映画になる?担々麺をおごれ」
君島はいつもものすごく察しが良いのに、こういうときだけは頑なに察しが悪い。わざとではなさそうだが天然というのとは違うんだろう。
「担々麺をおごったらおれの負けだ」
「映画をおごったら何が勝ちになるんだ?」
「そうだな。よくわからん」
「ちなみにだが、インドカレー屋の隣にあるラーメン屋も美味いんだ。そしてインドカレー屋は『イラシャイマセ』とか『ゼヒキテクダサイ』とか声を掛けて、町でティッシュ配りをしているような活発な店は最高に美味い」
「もう、何だかその定義、よくわからん」
そう言いながらもおれはメモを取った。
「本当はすごく話せるし慣れてるのにカタコトのほうが好印象になるじゃんか。それをわかってわざとやってるのは絶対にあざとい。計画的犯行だと思う」
うちの八百屋で野菜の配達をしている店は和食屋と洋食屋が圧倒的に多いんだよな。ラーメン屋、カレー屋、そして中華料理店。その人気のある店とその理由が明確に分かれば八百屋も参考にしたいし、交渉次第で野菜の配達周りができる機会や…何かしらもっと交流の場が得られるかもしれない。「それで?君島にとって最高の八百屋は?」
「それは、よくわからんな」
「なんでだよ」
「矢尾弘はその道のプロなんだろ?じゃあそれは私に聞くことではないだろ」
「それで?担々麺はどうなったんだよ!」
「大きな神社がある駅は栄えててそもそもお店が多いんだ。するとインドカレー屋と並んで中華料理店があっても不思議はない」
どうしよう。もうおれと君島直は話が通じていないらしい。でもそうか、神社が祭りをやる時期の町おこし、そういう店を商店街のイベントを自治会長に進言して広げる努力をするというのは完全にありだな。
「…わかった。なあ、クーポンっていうのはどうだ?」
「クーポン?」
「八百屋のクーポン1000円分」
「もうちょい」
「1200円分」
「乗った」
「競り上手いなあ。君島、うちのバイトやんない?」
「やんない」
おれはノートに定規で四角を書いた。それをハサミで切りとって、そのあと真ん中に点線を引いた。
「几帳面なのに相変わらず素朴な字だなあ。使用期限とかないの?」
「ないよ。いつでもどうぞ」
「これを使う時に担々麺の店を教えればいいってことでいいのか?」
「違う。おれは今日、担々麺が食べたいわけだ」
「わかった。じゃあ1500円分にしてくれるか?」
「だめだ」
「今日は用事ができたから休むと伝えることにするよ。そんで貸し借りは無しだ」
「ああ。わかった」
仕方が無いからおれは1200円分という数字を線で訂正して、1500円分に変えた。おれはつくづく、君島直みたいな女には弱いよ。
このあとおれは課題が終わった安堵か、気がついたら眠ってしまっていた。君島、起こしてくれればよかったのに。自習したかどうかノートは回収された。最高の中華料理店の探し方を記したまま提出してしまっていて、それは先生に見つかって、後日戻ってきたノートには付箋が貼られていた。栞のようにはノートからはみ出さず、どちらかというとコラムみたいな貼り方だ。そこに赤ペンで「先生も美味しいお店を探すとき参考にしてみる。それでこのページの切った部分は、なんのために切ったんだい?」。そしてノートの隅に書いていた小さな落書きまで見られたという様子は明らかだった。数学係が机の上にノートを配っていたけど、見られたのはたぶん、先生だけだ。
「ヒロム?どうしたの、ぼんやりして」
「ふぇっ、な、なんでもねえよ」
おれは驚いて声が裏返った。カスミは訝しげにおれを見て、「へんなの」と言った。
第27話「タランテラ」
おれらは学校の門を出た。かえりみち、今日もいつもとおんなじメンバーだ。ノブユキと、マチと、おれ。ノブユキとマチはいつもマジメすぎる。だからおれみたいなバカと、いっしょにいるほうが、きっとたのしいんだ。
「ジュンくん、まって。そとばきのくつ、かかとをふんでると、ころんじゃうよ?」
「だいじょうぶだって」
マチはいつもおれのことをすごく、しんぱいする。
「おれ、この学校のせいふくのくつ、ださくてきらい」
「ださいかな?」
「ださくはないけど、かたくるしいっていうのかな」
「シュンソクとか、学校にはいてきたいな」
「あの、はやく走れるやつ?」
「そうそう」
「ジュンはほんとに、この学校におじゅけん、したんだよね?」
「したよ。ノブユキはまた、あたまいいふりをしてんのか?」
「ぼくはあたまいいふりをしてるんじゃないよ。ほんとうにあたまがいいんだよ」
「そうか」
「ねえ、ジュンくん、小学生テストで、こくごとしゃかい、ひゃくてんまんてんだったってほんと?」
「なんだっけ?それ」
マチは、ノブユキとかおをみあわせる。
「おれ、つまんねえなっておもうんだ、学校のべんきょう。でもがんばらなかったら、まけたきがするんだよ」
「どうして?ぼくはべんきょう、すきだからわからないよ」
「うん。そういうノブユキやマチがいるから、おれもがんばらなくちゃいけないんだ」
「すきになるといいね、べんきょう」
「だから、おわったあとは、もっとバカやっていいとおもうんだよ。学校の外なんだからさ」
おれはもっと、きらくになりたい。
「バカってどんなふうにやるの?」
そうマチがふしぎそうにゆった。そして、おれはかんがえた。バカってどんなふうにやるのかなんて、はじめてきかれたし、かんがえたこともなかったからだ。
「うーん、そうだな」
かんがえながら、あたりを見回したあと、はっとおもいついた。それで、マチとノブユキを見たら、目をきらきらとさせていた。
「おまえら、バカになってみたかったのか?」
「うん!」
こういうのを、きとくなやつら、というのだろうか?
「じゃあ、まっすぐな木のぼうをさがして」
おれたちは、さくらなみきの下で、ほそいぼうをさがした。「こんなのでいいか?」
「ああ」
ノブユキもマチもすごくわくわくしてる。
「このぼうで、クモのす、見つけたらくるくるするんだ」
「それ、クモがいたら、おこられない?」
「クモがいないやつにするんだよ」
「るすのやつね」
「ぼくたち、あきすをやってんだな」
「うまいこというなよな」
ノブユキのほっぺがぷにっと上にあがってる。これはおもしろいものをはっけんしたときのかおだ。
「わたあめみたいになるんだな」
「そうだな」
「よこのせんは、なっとうみたくネバネバだけど、たてのせんは、そうでもない」
「なっとうも、クモのすも、たんぱくしつ?というやつだったとおもうよ」
「たんぱくしつ?」
「たべられるのかな?」
「クモのすは、たべられないとおもう」
「たとえば、ねんまつの大そうじのとき、クモのすを見つけてこんなふうにとったら、ぼくはヒーローになれるかな?」
「そうだな、なれるかも。でもそれは、バカじゃあ、ないかもな、やくにたって、ほめられてしまうから」
おれがそういったら、ノブユキはしゅんとした。
「バカになるってむずかしいんだね」
「そうじゃないぞ。ぜんぜん、かんたんだ」
「どうすればいいんだ?」
「おこられるようにやるんだよ」
「ぼく、おこられるのやだよ」
「ほめられたいからがんばってるノブユキはてんさいだ。だからあたまがいいんだ。さすがだ。でも、もしかするとノブユキのママはしんぱいしてるかもしれない」
「どうして?」
「いい子すぎると、きゅうに、ばくはつしないかどうか、しんぱいになる」
「ぼく、ばくだんじゃないよ」
「そういう、ばくだんをかかえてるひとも、いるんだ」
「へえ」
「おれのねえちゃんは、とくにそれだ」
「ジュンくんのおねえさんはどんなふうに、ばくはつ、するの?」
「おこったときのばんごはんは、ピーマンだらけだ」
「なんだ、けんかのあとの、子どもじみた、いやがらせか」
「ノブユキは子どもじみてなくて、おれ、しんぱいになるよ」
「それと、ぼくがバカをやるっていうのは、かんけいないようなきがするよ」
「おれらみたいな子どもっていうのは、ちょっとバカなほうがかわいがられるんだよ」
「どんなふうに?」
「小さなことでバカやって、小さくおこられるようにするんだよ。大きなことでおこられたら、そのほうがばくだんなんだ」
「たとえば、ママのとっておきのれいぞうこのプリンをパパがたべちゃったみたいなことなの?」
「マチ、それはパパがわるものだよ。それにそれはちょっとちがうよ」
「じゃあ、ジュンくんがゆってるのは、だれもかなしませないバカ、とゆーこと?」
「そゆこと」
「むずかしーなー」
「むずかしくないよ」
「むずかしーよ」
「ねえ、これ、どうがんばってクモのすをくるくるしても、わたあめにはならなそうだよ」
「そりゃそうだよ」
おれは、さいしょから、まちがっていたのかもしれないことにきずいた。もしかして「マチもノブユキも、『なんでそうなるんだろう?』って、かんがえすぎてるのかもしれない」
「そうだよ」
「だって、きになるもの」
「それをきにしないでみるっていうのもたいせつなんだよ」
「そうなの?」
「うん。だって、せつめいできないことってあるよ」
「あるかなあ」
「たとえば、なんで、たいようはそのまま見ちゃだめなんだろう、とか」
「それは目のおくがヤケドするからだよ」
「ほら。ノブユキはいつも、それがなんでか、ってきくと、しってる」
「わたしは、ものしりなほうが、おとくだとおもうけどな。テストに出てくることもあるし」
「そうそう。もんだい、よくさいごに『それはなぜか?』って、きいてくる。そしたら『〇〇だから』ってこたえるんだ」
「おれは、きかれてもいないときには、ぼーっとしていても、いいとおもうんだよ」
「ぼーっと?」
「ユーフォーがとんでるとか、うちゅうじんがいるとか?」「そう」
マチはひとつ、おもいついたようだった。
「じゃあ、くつを、はんたいこにして、はいてみるとか?」
「いいね」
まず、足をクロスしてあるいてみた。
「あるきにくいね」
「でも、なんかおもしろいね」
「すすまないね」
おれたちはくつをぬいで、はんたいこにはいてみた。
「あるきにくいね」
「でもこれなら、あるけるし、すすむ」
「このまま、ランドセルをまえにもって、クモのまねをやろう。クモのきもちがわかるかもしれない」
「そうしよう」
おれたちは、へんなあるきかたをしながら、ランドセルをおなかがわにもって、あるいた。しばらくすると、いちばんうしろをあるいていたマチが、はじめてきくはなうたを、うたいはじめた。
「なんてゆーきょく?」
「タランチュラ。ピアノきょーしつでならっているきょくなの」
「タランチュラはクモのひとつで、おそろしいみためをしているし、どくがあるけど、にんげんには、ぜんぜん、がいが、ないんだ」
ものしりたちはこんなとき、ちょっといーことゆー。
「いま、ちょーどぴったりだな」
そして、マチはまた、うたをうたいだし、みんなでまた、あるきだした。
「これはバカなのかな?」って、ノブユキはぎもんをもっていたけど、「よくわからないけど、たのしい」とマチがゆった。
「そうだな」
おれたち、クモは、三人でわらった。
「またあしたもかえりみち、バカなことしよう」
「うん」
「そうしよう」
しばらくまっすぐ、たのしくあるいた。
「うわあ!」
まんなかをあるいていたノブユキのびっくりしたこえに、おれたちはふりむいた。ノブユキはクモのすのからまったぼうをまだもったままあるいていて、クモがいっぴき、ノブユキのふくにとまったのだ。
「ごめんなさい」
みんなでひっしにのけるのをてつだった。
「かえるおうち、なくなったら、ぼくはこまるな」
「うん。そうだね」
「もう、クモのすをねらうのはやめよう」
「そうしよう」
おれたちはほんのすこししょぼんとして、なんだかノブユキとマチがゆっていたように、むずかしいきもちがした。
ノブユキが、今日、いっしょうけんめいつくったわたあめをかかげた。
「ぼくはこれをうちにもってかえってママをびっくりさせるんだ」
おれとマチは「やめときなよ」ってゆう。
「どうして!」
「だって、せつめいできないことってあるよ」
「そうだよ、ノブユキくん」
「わかったよ」
でもおれはすこしかんがえた。もしかしてノブユキ、小さなバカをやるほうほうを、ちょっぴりマスターしたんじゃないかって。
第28話「ほうれん草」
弟が学校で、父が配達で、アタシは大学がちょうど休みで、八百屋という地味でめんどくさい店の店番を頼まれてしまった。どうせ来るのは、主婦とかおじさんだし。つまんないなあ、でも、店番がいないわけにはいかないらしい。
「ねえ、おねえさん。『やおや』って、どうして『はっぴゃくや』って書くのかな?」
小学生の男の子が放課後なのか、少し大きめに見えるランドセルを背負って、下校していて、八百屋の前を通って疑問に思ったみたいだ。
「それはね、日本には昔から、八百万の神、っていうのが信じられてきてるんだけど知ってる?」
「日本にはたくさんのかみさまがいるってことでしょ?」
「そう。野菜がなんでもあるから八百屋なの」
「ふーんなるほどね。やさいのかみさまも、きっと、いっぱいいるんだね」
さすが、物わかりが早い。私の母校の小学生だな、なんて思った。
「ところでおねえさんってびじんだね」
「そう?」
「うん。とっても」
「ありがと」
「かれし、いるの?」
「いるのよ」
「そうかあ」
「どーして?」
「おれ、大きくなったら、おねえさんみたいなびじんとつきあいたいな」
「え、ほんとに?じゃあ、イケメンになってね」
「おれ、今、もうイケメンなほうだと、おもうんだけど」
「そうだな。どっちかってっと、かわいい」
「男にはかわいいってことばは、つかっちゃだめなんだぞ」
「そおなの?じゃあ、幼い」
「おさない、かけない、はしらない」
「小さい」
「おれ、小さくないよ。後ろから5番目だもん」
「なーんだ、1番後ろじゃ、ないんだ」
「うるせ、牛乳をむりしてのんでんだぞ、おれは」
「そーなんだ。ねえ、ほうれん草いっぱい食べると、元気になってがんばれるって知ってた?」
「へえ、そうなの?」
「そうなんだよ。特別に今日はあげるから、お母さんにお料理、してもらって」
「しらないひとにものをもらってもいいのかな。おこられないかな」
「お姉さんは知らないひとだったんだ?」
「いや、じつは、やおやに、きれいなおねえさんがいるのは、ちょっとまえから、ちょっとしってた」
「この綺麗なお姉さんは、矢尾静っていうのよ。君は?」
「きみじまじゅん」
「へえ、ジュンくんか。はい、ほうれん草」
「おれは、しゃかいに、ほうれん草っていうものがあるってきいたことあんだ。ひつような、るーるなんだって。でも、よくわかんなくて、シズカさん、おれにそれがないってことでほうれん草をくれるの?」
「違うのよ。『ポパイ』っていう、ヒーローの漫画があってね。ポパイはほうれん草を食べるととってもとっても強くなるんだよ」
「そうかあ」
「それに、ほうれん草って何に使っても美味しいってアタシは思うんだ」
「おねえさんのすきなやさいかあ」
「そうよ」
ジュンくんは満足そうにほうれん草を受け取って、にこにこ帰っていった。かわいいと言われるのを嫌がられたけど、その後ろ姿はとってもかわいい。手を振ってるのもかわいい。
あんな子がくるなら店番も悪くないな。そう思った。
第29話「せっかち」
今日の学校のテストは散々だった。それは内容の話ではない。僕はそれなりにたくさん勉強したし、良く出来たつもりだ。出来なかった部分にも見当がつくし、出来た部分だと、どれくらいのレベルと順位であるかも想像がつく。そんなことよりずっと気になっているのは、自分の時間の使い方についての問題だ。もっとしっかり計画した時間配分することを考えればよかった。もっとうまく有効活用ができたはずだ。
帰り道、近所の赤信号に対してイライラしてしまっていて、僕はそんなふうに自分がひどく焦り散らかしていることに気づいた。同じように近くで信号が変わるのを待っていたおじさんが先を急ぐように汗だくで駆けていった。その、ちょっとした格好悪さを見て、僕は適度に時間を掛けるという、良い意味での品の良さを、マイペースさを、必要であるはずの冷静ささえも、なんだか、心の余裕までを欠いているような、そんなことを思った。
世の中には、あまりにも「せっかち」が多い。自分がせっかちであるのに、人が自分のテンポと同じでないと、「のんびりしている」だとか「マイペースだ」っていう。それで、そんな人を見ていると、いじらしかったり、焦れたりして、イライラして怒るんだ。自分が正しいと思いこんで、人に対して強く当たる。今の僕は急ぎすぎていて、そんな嫌な奴になりそうだ。
歩く速度を落とす。ポケットに手を突っ込んで、ファッションモデルみたいに格好付けてゆっくりと歩いてみる。誰もいないと思っていたら横断歩道の向こうから女の子が歩いてきた。登下校で何度か見たことはあるような気がする子だ。僕は恥ずかしくなって、今までの普通の歩き方に、なんとなしに戻した。すれ違いにちらっと一瞬だけ彼女に目を向けると、その女の子の髪型から、歩き方、仕草、美意識。節々に余裕があるように感じられた。僕が即興で格好を付けたものとは何か自信の所在が違っていた。隣の高校の制服だった。僕が少し、心の何処かで学力の面で馬鹿にしていた高校だ。よく見てみるとこんな素敵な子がいたんだな。そう思った。
「ちょっとお兄様?ご飯ですわよ」
「はい」
「のんびりのんびりと2階からおりてきて何様ですわ」
「鈴美はどうやら、せっかち様のようです」
「せっかち様ではありませんわ」
公表された僕のテスト結果は想像通りだった。でも、学力よりもずっと大切なことが見つかったような気がして、自分に対して余裕を持って、学力もそうだけど、いろんなことを積み重ねたいと思った。
第30話「ハーモニー」
窓を開ける。春というには、やっぱりまだ冷たい風が吹いてくる。でもそれでいい。それだって、季節の一場面だ。
私は青い空が広がる外を向いて、あってもほとんど意味の無いような譜面台と、書き込みすぎて音符すらよくわからなくなっている楽譜を置いた。
空き教室を借りるとき、まさか自分の使っている教室になるなんて思わなかった。思い出してしまうじゃないか。クラスメイトとのこと。
あれは一体、どういう意味なんだろうか、とか、
あれは、たぶん言わないほうがよかった、とか。
気にしなくてもいいことなのか、
気にしたほうがいいことなのか。
そういう頭の中を占領してやまない、
考えていても解決しないぐるぐる。
何かを言葉にするっていうのは難しい。意図したように伝わるときもあれば、思い通りにはいかないこともある。言葉にしたほうがいいこともある。黙っていたほうがいいこともある。誤解を受けることもある。言葉足らずになることもある。どこまで話すべきで、どこまで話さないほうがいいのか、そういうことまでも判断があまりに難しい。どう足掻いてもだめという場合もある。どう頑張っても傷つけなくてはならないこともある。そこには教科書通りの模範解答というのも、きっとない。
でも、ときどき、あまり話したことがなかった人と会話をして、不意に「波長が合う時」があるんだ。それが、ちゃんと心からのものだと、なんだかあったかい気持ちになったりする。目に見えるものが、ただの飾りになる。そしてそれは性別や時間をも超越することがある。理屈じゃなくてなんとなくわかる。そんなときに出る言葉っていうのは、どんなものでも、すごく柔らかいものになる。それは心地良い風に、とてもよく似ている。
音楽は唯一、たった一瞬のうちに、偶然でも突然でもない、必然の奇跡を起こすことができるものだ。それはアンサンブルでも、バンドでも、オーケストラでも、おんなじように「ハーモニー」は起こせる。決してソロでは、奏でられない、そこにはかけがえのない奥深さがある。
そして「ハーモニー」は、準備ですべてが決まる。そこには年齢も地位も関係ない。練習が足りていない、努力がない、心が込もっていない、時間をかけてない、そんな場合には、偶然さえも起こせない。それは太陽の下を普通に歩きたいのと一緒だ。パジャマのまま、寝癖のあるまま、仕事に出かけるサラリーマンなんてのが居ないのとおんなじこと。
私は今日も練習をしている。
磨き上げて、どこまでも手入れした楽器。
鏡で姿勢確認。腹式呼吸。片足でとるリズム。
楽譜のつながる箇所を切り取って、
見やすい位置に貼り付けなおす。
必要な用語の翻訳を書き足す。
壁に貼られた二ヶ月以上も前の書き初めがひらりとする。あのときの私は、この曲は譜読みをしている段階だったな。まだ、別の曲をしていて、先生にきついことを言われて悩んだっけ。でももう、その意味がわかって、あんな自分には戻りたくない。そんなことを思い出す書き初めなんて、見たくもない。音楽のいいところは一度きりなところだ。リアルタイムなところだ。録音するとなると、それはそれで別な場所に気を張ることになる。だから、練習ができる時間がある。何回失敗しても、本番に成功させればいい。その、音楽の良さを私は大切にしたい。
ときどき、チャイムが鳴る。でも、私はこんな教室じゃなくて、ライトが眩しいステージで、Aの音で音程を合わせたあと、指揮棒が動くのを心待ちにしている。それが動き出すと、音が溢れ、私は音の粒になって、美しく大きな波に乗っかるんだ。そのために頑張るんだ。誰かを引っ張ったり、煽ったり、慰めたり、引っ張られたり、煽られたり。主旋律のくせに間違って覚えて平気で吹くやつを見つけて、ちょっと暴れていじって惑わせて、それはちょっとやりすぎって、先生に目で怒られたり。
私は力いっぱいに楽器を吹く。
その時間のためだけに、私は今、生きている。
よく知られているポップスだとか、知られていない曲だとか、あまり好きじゃないアーティストの曲だとか、知らない曲だとか、お気に入りの曲だとか、思い入れがある選曲だとか、私らしさがあるとかないとか。誰が聴いているか、誰も聴いてないかもしれないとか。そんな表面的なことは、譜読みの段階で音源を聴いたり、世界観を知るための前知識でしかない。その中身には、なんにも関係しない。
何もかも忘れる。自分のことも、人のことも。ただ時間が流れていく。夕方の空が綺麗でとても気になるときもあれば、気がつくと外が真っ暗になっていて、慌てて電気を点けるような時もある。でも、その掛けた時間が私を作る。同じ場所にいると飽きるから、学校中のあらゆる練習場所と景色を見る。そして私はそこで少しずつ少しずつ、成長していく。いいよ、それで。ぜんぜん、構わない。
ただ楽器を吹く。喉が乾くほど吹く。水筒を飲みきって、学校の水道のカルキの味は本当に不味い。でも飲まないほうが毒、みたいだ。
私もハーモニーの、その大切な一部になりたくて。
楽器を磨いて、自分の感性を、実力も、磨き続ける。
第4章(第31話〜第40話)
第31話「雨傘」
雨の日の話は、なぜか雨の日にしかされませんわよね。そして、雨の日の想像をするのは、晴れの日を想像するよりも、なんだかきっと難しいように思うのです。晴れたらいいねって、雨の日も晴れの日の話をするというのも不思議で。それから、雨の日が嫌いな人ってどうしてこうも多いのでしょう。イベントが中止になることがよく、あるからなのでしょうか。
わたくしは、雨水が街を洗っているようで、私の心も浄化されるようで、雨っていうのはとても好きなんですわ。しかし残念ながら、雨の良さをうまく伝えることは雨の日にしか、できないようにも感じるのです。
最近、お小遣いにしては、少々ご機嫌な値段の傘を専門店で買いましたの。子ども用のずっと使っていた傘が台風で壊れてしまったからですわ。でも正直、好都合だったのです。黄色一色の傘はとても目立ちましたから。小学生ならともかく、原色の傘はおしゃれ上級者向けですから。いつまで使い続けたらいいのだろうと、思っていましたから。そして、折り畳み傘だけでは、心許なかったものですから。
小花柄で、バルーンスカートみたいにすこし変わった丸い形に膨らんでいて、雨の日に差していたらきっと、ビニール傘の人は、「そういうのも素敵で良いなあ」って思うに、違いありませんわ。
ところが雨というのは意外とそんなに降らないもののようです。そして雨の日に限って出かける予定がなかったりするのですわ。出かける用があっても曇のち雨の場合、活躍するのは折り畳み傘。大きな傘は雨予報でも稀に外れることがあって、忘れたり、邪魔になってしまうのですわ。そして、都心に遊びに行くと、地下通路を歩いていて雨に気づかないなんてことも。そう、わたくしは、素敵な傘を買ってから、ずいぶん雨の日を待ち望んでいるようなんですわ。それに気づくことが出来るのって、上等な傘を買ったからですわね。そして、ちょうどよい雨の希少さを知っているということなんですわ。
その希少な雨の日には、いつもの道の違った側面が見られます。靴の裏だけが知っていたアスファルトの微妙な凹凸の差を、水が捉えて、それがわかりやすく目に映るのです。降水量が多くあると水溜りが鏡のようになるし、雨がやんで少し経つとカスミガラスのように反射して地面が全体的にキラキラとするのです。わたくしたちは、信号機の緑色がチカチカするのを、まるで間接照明のような広範囲に感じ取って立ち止まりました。
「鈴美、この傘は確かにすごくかわいい傘だと思うよ。でも二人で入るにはちょっと、小さすぎないかな」
「うるさいですわ。わたくしはこの傘がいいんです」
「この傘じゃびしょ濡れになるよ。俺、コンビニでビニール傘買ってくるから、それに一緒に入ったらいいじゃないか」
「せっかくの素敵な傘ですのに‥。あ!良いことを思いつきましたわ」
わたくしは泉水さんの帽子を外しました。
「こうすれば雨もすり抜けますわ」
「鈴美にとって、俺の能力は、単なるレインコートみたいなものらしいです」
「だけど、それはレインコート要らずですわ。便利ですわ」
「信号機も、何もかも、要らなくなるけどね」
「半分は人間であることまで、なくしてはいけませんわ」
「そうだね。だから、どうしてその傘にこだわるのかね」
「春の雨というのは、何かを、大切なことや、嫌なことや、いろんなことを、上手に隠しているようで、素敵なのですわよ」
「それは具体的に、どんなことなの?」
「傘というのは世界の一部を綺麗に切り取るものだということです」
「世界の一部?」
「例えば、折り畳み傘では難しいような強い雨の日は、幽霊なんて気にならなくなるんですのよ。雨音がうるさいせいで」
「へえ、そうなの?」
「ええ。幽霊も元々人間ですからね。気圧に弱いんですわ。でもこの傘を買ってから、そんなちょうどいい雨の日は数えるほどしかなかったですわね」
「逆にその傘が原因なんじゃない?晴れ女、みたいなさ、なかなか雨を降らせない効果があるとか」
「そんなわけあったら、あまりに、お可哀想すぎますわ。雨を凌ぐ目的のために作られた傘が、雨を降らせない効果があるだなんてそんな‥」
「鈴美が晴れ女とか?」
「もしかして、泉水さんこそ晴れ男かもしれませんわ」
「‥実はそうなのかも」
わたくしは傘を畳んだ。
「じゃあ、この雨もすぐ止みますわよ。きっと、程よい通り雨ということで、泉水トオルさんなのですわ」
「おれは透明人間なだけであって、残念ながら、天気を変えられる男じゃないと思うんだよ。鈴美、雨で風邪を引いたらいけないし」
そう言って泉水さんは急いで帽子をかぶって、傘をさしてくださいました。
「いいえ。すぐ、止みますわよ」
「なぜわかるんだ?」
「なんとなく、ですわ」
わたくしは、雨の日の足元に、ぼんやりと自分が反射するのが好きです。泉水さんがいて、お気に入りの傘があって。好きな人といる時間なんてあっという間だなって思いながら、わたくしのその予報が外れればいいですのにと思っているのです。胸の高鳴りに気づくと、泉水さんのジーンズの裾が、水溜りや雫の跳ね返りを受けて湿ってきて濃く変色していました。わたくしも、靴下が濡れています。雨の日が好きな私でも、唯一少し苦手なことです。
「泉水さんも傘の専門店に行ってみるといいですわ」
「そうしてみようかな」
「すごいんですわよ。最近は和傘や番傘がなかなか格好いいんですわよ。和洋折衷なモードな感じのものもおしゃれですし」
「一緒に入れるやつ探しに行こうか。おれ一人のときは、たぶん必要ないし」
「いいですわね」
第32話「靴箱」
「ちょっと?玄関の靴箱。私のスペースに靴。入れたの誰?」
「あ、ごめん。僕だ。だって、靴箱ぎゅうぎゅうだからさ」
まーたはじまった。いつものことだ。おれはため息をつく。そして、ぼーっとしていることにしている。
「マコトのが窮屈なのは、それだけ履かない靴があるからだよ。それってつまり、大切な靴がないということだ」
「そんなことないよ。全部、気に入っているやつだよ。一個一個の良さ、説明しようか?」
「いーや、聞かなくてもわかる。大して気に入ってないね」
「どうして決めつけるんだよ。聞けよ」
めんどうくさいなあと思いながらおれは、こう言った。
「ばかだね、兄ちゃんは。そんなことしたら姉ちゃんにおこられるに決まってるのに」
「なんで怒られるんだ?共同スペースじゃないか?」
「きょうどうスペースだからこそだよ」
「僕はナオのところがあいてるから、置いただけだよ」
「姉ちゃんのくつがあって、どこかに『よはく』があったら、それはやめるべき、こだわりのある『よはく』だよ」
「よくわかったな。ジュン。よく言った」
「ちがうよ姉ちゃん、姉ちゃんのそういうところがめんどうくさいって言ってるんだよ」
「よくわかったな。ジュン。よく言った」
「ちがうよ兄ちゃん、兄ちゃんのそういうところもめんどうくさいって言ってるんだよ」
「なんだ。ジュン、どちらの味方でもないのな」
「ほんとだよ。ジュン。味方してくれよ」
「おれは、どうでもいいと思ってるんだよ」
「ナオって本当にセンスが無いよな」
「マコトこそ、センスが無いよな」
「おしゃれってのは、いろいろなものを着こなしてこそ、おしゃれだよ」
「おしゃれってのは、自分らしいひとつにこだわっての、おしゃれだよ」
「なあ、ジュンはどう思う?」
「どう思うんだ?」
「おれは、どうでもいいと思ってるんだよ」
「おしゃれに興味がないなんてもったいないな」
「本当そうだな」
おれは、どうでもいいと思ってるんだよ。
そして、くつばこの話もなかったように、姉ちゃんも兄ちゃんも何だかあきらめたようだ。「いやジュンがいちばんおしゃれだぞ」と、こっそりきいていたお父さんが、こっそり、おれに言った。
第33話「宿題」
朝、下駄箱で靴を履き替えたところでタツミが声をかけてきた。
「キャベツ。今日の宿題やってきたか?」
「なんの?」
「数Ⅰだよ」
「あ、いつものだな。もちろんやってあるぞ」
「自分のがちゃんと合ってるのか、教科書の問題には答えがないから微妙でさ」
「確かに難しめの問題、あったな」
「先生に当てられて、間違ってたら悔しいだろ」
俺の名前は桐谷千裕(きりたに・ちひろ)。高校1年生にもなって、俺のあだ名はまだ「キャベツ」のままだ。変なあだ名なのに、もうずっとそう呼ばれ慣れてしっくりきすぎてしまっている。
「タツミってそういうとこ、真面目だよな」
「そうか?」
「キャベツだって真面目だろ」
宿題をやってあるって答えると、相手に写されるって普通は思うんだろうな。でも、タツミが俺にそう聞いてきても、タツミが宿題をやってなかったことは一度もないから、そんな警戒をする必要はない。それでいて、難しい問題に自信がないだなんて、俺を頼りにしてくれるわけだ。
「キャベツの見た目と中身のギャップは、おれ、凄まじいと思うんだよ」
「それ、要は、見た目が怖いって言いたいんだろ?」
「見た目が怖いけど、頭めっちゃ良いよな」
「俺が強いのは数学だけだぞ」
「いや、数学だけじゃなくて、なんでも強い」
「お前な、褒めてもなんも出ねえぞ」
俺達はそうなふうに話をしながら、教室までの階段を登った。そして俺は知っている。数Ⅰの時、いつもタツミが名前順で隣になる女子にめちゃくちゃデレデレしていることを。だから、先生に対してじゃなく、その女子の前で恥をかきたくねえんだな。そう思い出して、俺は少しにやけた。
「キャベツ。お前、やっぱり顔はとんでもなく怖えーよ」
「そうか?」
「なんかな、凄みがある」
「まあ、そうなんだろうな」
「そしていつも思うけど、本当に同級生なんだよな?」
「そうだぞ」
俺は席につくと、いつも通り手袋をはめた手のままで、カバンからノートとペンケースを出してきた。タツミはノートをすぐに持ってきて、俺のとノートを開いて並べ、数字を見比べて、答え合わせをした。
「助かったよ」
「頼ってくれるのは嬉しいが、俺のも完璧というわけではないからな。間違ってる可能性もある。もし間違ってたとしても、それは、お前と俺とで間違ったんだと思え。それで、そこはあとで一緒に復習をしよう」
「ああ、そう言ってくれると心強いよ」
正直なところ、こうやってタツミが頼ってくれるようになって俺の成績は上がった。自分だけが理解できればいいものではなく、人に教える難しさを知ったからだ。タツミにとっては女の子の前で格好をつけたいんだろうが、連鎖して俺も勉強にしっかりと励めるわけだから、それはまるで、得をしているようだなと思う。
第34話「魔女」
わたくしは、強子(キョウコ)さんという近所に住むおばあさまと仲良くなり、よくお話をしました。なんと90代でも病気をせずとても元気でおられましたわ。庭に綺麗な花が咲いており、それは見事なもので、咲かせるのが難しい薔薇の花までありました。
「そうだ、向こうのクレマチスにも、水をやらないとね。これが終わったらお茶をいれるから少し待っていてね」
「いいえ、お手伝いさせてください」
そしてわたくしにそんな知り合いがいたとするのなら、そのおばあさまにも霊感があるんじゃないかなんて、思われることでしょう。しかしそれは残念ながら全然違うのですわ。
「テッセンもあるなんて思いませんでしたわ」
「鈴美さんのお兄さんは鉄平さんとおっしゃったわね」
「そうです」
「鈴蘭はこっちにあるの」
「なんだか嬉しいですわ。不思議な気分です」
強子さんは魔女なのです。
水やりが終わると、部屋でお茶をいれてくれました。
「居ないと思うけどね、もしも私に会いにきてるやつがそこにいたとしても、成仏して生まれ変わってから会いに来ておくれと、言っておいてくれるかしら?私はかまってなんていられないのよ、みんなのぶん、精一杯生きなきゃなんないんだからね」
そう強子さんは言いました。わたくしは周りをぐるりと見渡します。そして、「居ません」ということを、強子さんにはっきりと告げました。
「本当?」
「はい。今ここに霊はひとりたりとも」
「それは…そうだったの」
強子さんは強がりながら、少しさびしそうなような、でも嬉しそうに笑いました。わたくしは飾ってある写真立てまで近づいて、さっと目を流し、そこに指を添えました。
「それは最近生まれたばかりのひ孫の写真。かわいいでしょ、手なんてこんなちいちゃくて…」
「この小さな赤ちゃんは、あなたのお知り合いの生まれ変わりですわね」
強子さんは驚いて目を見開きました。
「あんたそんなことまでわかるんかい?」
「はい。変ですか?」
「変だとは言わないよ。なぜわかるの」
「なんとなくですわ」
「なんとなくだなんて、それは、それは…だれの?」
「あなたの飼っていた黒猫の生まれ変わりですわ」
強子さんの顔色は急に悪くなりました。霊がひとりたりとも居ないことを告げた時の明るさとは真逆で、それはあまりに絶望的な表情をしていました。
「やはりそうでしたか。魔法をかけたんですわね」
「ああ。その代償に私は予定より少し早く死ぬことになるよ」
「お会いしたく、なかったんですか?」
「いや、そういうわけじゃない」
「少なくとも、どうしても会いたいお方では、なかったんですわね」
強子さんの目には涙が溢れて止まらなかった。
「そういうわけじゃない。なんとなくそんな予感がして。でも、まさかそんな…」
そして、鈴をつけた猫がやってきてにゃあと鳴きました。「この猫はたまちゃんと言うのよ」
白くて、とてもきれいな猫でした。わたくしは確かにそこに慰めようとする霊を見つけました。とても若くて、和服を着ていらっしゃる男性でした。ああ、そうか。もしかすると、強子さんが会いたい人はこのたまちゃんの中にいたのか。
「スーちゃんって言う名前だった。黒猫で。とってもお利口だった。まるで私の言葉がわかっているようで。私が魔法を使っても全然驚かないの。でもある日、なぜか外へ出ていって帰ってこないと思ったら車に轢かれて死んだみたいで。免許取り立ての若い女の子の車にね。スーちゃんが飛び出してったのは知ってるんだよ。でもその若い女の子がまさかうちの孫息子と結婚するだなんて思いもよらないじゃないか?そのうえ、ひ孫がスーちゃんの生まれ変わりだったなんてこと」
生きることより、死ぬほうが楽な世界。そんなことはたぶん、私には想像はできません。この世界は死ぬよりも、生きるほうが楽な世界ですから。いつの間に、それは良いことのようでありながら、楽園でもないらしいですわ。生活は安定しながら、情緒は不安定で。そして思っているより霊というのは思っているより優しい時がある。
強子さんは悲しそうに言いました。
「魔法にも種類があってね。私の得意な魔法は結界を張ることなんだよ。だから結界の中でスーちゃんが死んだから、死因がわかったというだけでね。それにもう寿命だったのはわかってたのさ。猫の習性で、飼い主の前から姿を消すってのはね」
「わたくしの生まれた家は、残念ながら、生まれ変わりを信じていないです。でも、わたくしにはそれが視えてしまいます。それで、そのおかげで、強子さんのお孫さんのことは生まれ変わったことを素敵だと思いました。そういうふうに素敵だと思ってはいけないですか?」
「素敵も何も、それってなんだか、神様の嫌がらせみたいじゃない。悲しまないかしら?」
「それは、どんなことを悲しむのでしょう?」
「自分が命を奪った猫が、自分のお腹に命を宿すなんて」
「ひどい生まれ方をしたように強子さんが感じたことで、強子さんにとってひどいもののように目立って見えてしまうというだけです。人間はみな、思っているより雑に生まれてくるものです」
「じゃあ、ひどい死に方をしたら?」
「ひどい死に方をしたことと引き換えに、来世へ前世の記憶が引き継がれる場合があると言われています。つまり、次に生まれてくるとき、前世の自分に守られることがあるわけです。もちろん体や顔や性別など、次に全く同じ人間になれることは絶対にありえません。それも正直なところ、私の一意見に過ぎませんが、記憶があるか無いかは別として、根っこの部分の『魂の色』だけは同じであるのが私にはわかったのでお伝えしたということですわ」
「そう」
「この赤ちゃんは表向きは何もいわくがありません。しかし、大事なところはそこではありません。スーちゃんはどうしても人間になりたかった。あなたの側にいたかった。だから、ちょうどよいところに居た車に轢かれた。それがそうしたことが原因となって叶ったなら、それは本望だったのではありませんか?結果、縁が出来てこの世に人間として産まれてくることができたのですから」
「私はどうしてもスーちゃんをかわいそうと思ってしまったわ。どうして私は結界を張りながら止められなかったんだろうって。魔法なんて、本当に役に立たないものだと思ったの」
「いつか、いつになるかわかりませんが。産まれてきた赤ちゃんが大きくなっていく時、少しずつわかっていくことがあると思いますよ。それまで、なにか大きな代償がかかる魔法を賭けず待ってみるといいかもしれません。少なくとも結界を張るという魔法は、それを秘密にしておくにはぴったりです。しかし、いつか全員にわかるときが来てしまうかもしれません。そんなとき、強子さんは逃げれば良いんです」
「どこへ?」
「天国へ」
強子さんは大笑いした。目に涙を浮かべながら。
「もしくは、けろりと生まれ変わるんですよ。スーちゃんのように」そして、たまちゃんのように。
強子さんは「そうすることにするよ」と言った。
「『事実は小説より奇なり』と申します。先程、強子さんは神様の嫌がらせなんておっしゃってましたが、わたくしは、ひとつ、強子さんの世界を続けるためのきっかけができたのではないかと思いましたわ」
「それはつまり、私が生きる意味が増えたということ?」
「そうですわ」
強子さんは、テーブルのお菓子をとって、アルミ箔を剥がして、美味しそうに頬張った。
「そうね。確かに長生きしてても、まだ良い味がしてるわ」
「チョコレートは賞味期限が長いですからね」
強子さんは少し遠くを見て、それからわたくしに質問をしました。
「一つだけ気がかりなことがあってね」
「そうなのですか?」
「聞いてくださる?」
「はい」
「スーちゃんはオス猫だったのだけど、産まれてきたのは女の子だったの。これって、大丈夫かしら」
「さあ、どうでしょう、わかりませんわ」
「気性の荒い猫だったからほんと心配だわ」
強子さんはそう言って、その顔は心配そうというよりも些か楽しげでありましたわ。
第35話「メモ」
スーパーマーケットで束のりんごを買った。見切り品の果物には当たり外れがある。りんごだとどこか瑞々しさがない。木目のボールにザバっと広げた。優柔不断な私は選べない。なんとなく取ったりんごを齧る。こういうとき、私は大体ハズレを引く。瑞々しくないハズレを引く。やっぱり専門店とは違うんだ。嫌だな。私は自分が女の子であることに気づいてしまう。
私はつい、うっかり出掛けてしまった。
「これ、ください」
「お目が高いっすね。それ今日入ったばっかですよ」
「いくらですか?」
「350円です」
「はい…」
私は五百円玉を渡した。
「150円のお釣りです」
私はこの場からはやく立ち去りたかった。だからお釣りをもらってすぐ、出ていこうと思って。でも八百屋をふと見たら、目があったら、気が付いてしまった。こいつ…忘れてない。私のこと忘れてないんだ。
「なあ、矢尾弘」
「なんだ、君島直」
「どうして覚えてるんだ」
「さあ、わからないよ」
「とぼけんな」
「うちの母さん、アルツハイマーで亡くなったんだ。物忘れをする苦しさを目の当たりにした。忘れたくないものを必死で書いてたよ。日記もノートもメモも写真も何もかもが宝物だって言ってた。記憶を辿る手段だったからな。母さんは『私が記憶をどんなに消しても、あんたが覚えてるのがずるい』って言ってた。おれはその気持ちが、君島に会ってはじめてわかった」
「私は覚えていたくて覚えてるわけじゃない」
「おれは覚えていたくて覚えてるんだよ。ここんとこ、毎日のようにキャベツを買いに来るやつがいる。目付きが悪くて、何日も睡眠不足そうなほど目の下のクマがすごい男」
私はすこし考えて黙った。そして、こう言った。
「そいつ、春キャベツが大好きなんだ。安くて美味しい野菜がある八百屋があると教えたから、来てみたんだと思う」
「八百屋には、すこしでも新鮮な野菜目当てでくる固定の主婦。それとシズカかカスミを目当てにくる客が多い。もしくは情報屋のおれに何かを聞く商店街の連中。そして親父の取引にくる定期便のお客。君島みたいに正直に果物目当てでくる常連客なんて、そんな、居ねえんだよ」
「矢尾弘は意外と寂しいんだな」
私は小さく言った。
「そうだよ」
と矢尾弘は意外にも頷いた。
「私は意外にも忙しいんだ。だから難しいんだ」
「ふーん、そうか。ちなみにキャベツを買いに来る男とはどんな関係なんだ?」
「アルバイトの仲間だ。誰より優秀でこなす仕事量が多い」「なんだかカタギじゃなさそうだけどな」
「目付きが悪いだけで悪いやつじゃない」
「好きなのか?」
「なんで」
「じゃあ、君島のこと好きなのかもな」
「私はよく思うんだ。私が女だから、男と友達になることはできないんだろ?友達として、仲良くしちゃいけないんだろ?性別ってのは随分不条理なものだな。女は弱くて守らなきゃならねえとか、男は強いとか。そんなの記憶を消してしまえば私にとっちゃなんでもねえ」
矢尾弘は少し考えてから大きく目を開いた。細くて切れ長の目が少しでも大きく開くと、不思議な感じがした。
「そんな強がるのやめろよ」
矢尾弘には珍しく怒ったように声が強かった。
「女に夢見たらとんだ痛い目も見るぜ。よく知ってんだろ棚引霞も矢尾静のことも。それで私ならどんなふうなんだ?って、試してんじゃねえよ」
「試してねえよ」
私はなんでこんなこと口走ったんだろうかと思った。今、一体何を言いたかったのかわからなくて。
「君島は男に生まれたかったか?」
「男に生まれてたほうが良かっただろうなと思うことはよくある。でもそんなん神様が決めることだろ。矢尾弘には一回も話したことなかったけどな、私は双子だ。双子の弟がいる。ついでに末っ子も弟だ」
「そうだったのか。つまり、君島には二人弟が居て、一人は自分の双子の弟で、一人は弟というわけだな」
「そう」
「そうなのか」
矢尾弘は緑のエプロンからメモを取り出そうとする。
「そんなもの書いてどうするんだ?」
「念のため書いておく」
「なぜ」
「気を抜いたらまた記憶を奪われてしまう」
「大丈夫だ。消さない。しばらくは」
「その調子じゃ、確実にいつか消されるね」
そう言って矢尾弘はメモを取り続けていた。
「それで、名前は?」
「えー」
「名前は?」
「双子の弟がマコト。末っ子がジュン」
「漢字は?」
「真面目の真。準備の準」
「それで、君島は、直すの直」
「そうだな」
「奪うじゃなくて…直す」
「うるせ」
「みんな漢字一字なのか」
「まあな」
「続けて」
「と、とにかく、弟を見てるとさ。弟が女で、私が男だったら、もっとうまくやれてたんじゃないかって思うんだよ。性格もあいつのほうがずっと大人しいし」
「たしかに大人しそうには見えた」
「いや、キャベツの男は違うやつだぞ」
「え。じゃああいつは誰だ?」
「だから言ったろ?アルバイトの仲間だって」
「じゃあ今度君島の弟を連れてきてくれ。会ってみたい」
「やだよ」
「双子って言うんだからよく似てるのか?」
「似てるよ」
「会ってみたい」
「やだよ」
「どうして?」
「あいつは…私が消した記憶を元に戻しちゃうから」
「おい、すぐにでもここへ連れてこい」
「嫌だ。絶対に、嫌だ」
第36話「居眠り」
春眠暁を覚えず。よく寝たなあと僕は起きる。ふあああ。手をぐっと横に伸ばす。
「おい。君島真、授業中に堂々と寝るなんてだめだぞ。あとで職員室に来なさい」
「すみません。成長期です。とても眠いんです」
僕は黒板の字をざっと眺めた。
「あ、森先生!これ僕、知ってます!この小説は読んでいて記憶にあります。最初から最後の最後まで読んではじめて理解ができる綺麗な内容となっています。文章を中途半端に抜き出して出題されても、正直まったく意味がないです」
「意味はなくても、大学入試で出題された問題なんだから解くべきだ」
「この作者のこの作品は最初から最後まで緻密に計算され尽くした文章です。森先生も一度は読んだことありますよね」
「ああ、もちろんな」
「読んだことがあるなら、なぜこの問題を授業で取り上げるんです?この出題の仕方は不自然であるし、とても意味がありません。森先生の取捨選択に呆れます」
「なんだと」
「でも、映画より小説を先に知るのがおすすめですから、森先生のセンスは捨てたもんじゃありませんね」
「お前は、褒めてるのか、貶してるのかわからんな」
「この小説は一見ただの恋愛小説に見えながら、ミステリー的な要素もある作品になっています。この小説のなかで、出てくる小説もピタリとしている。それを開いて、はじめてすべてがつながるんですから」
「『失われた時を求めて』」
「そうです。マルセル・プルースト」
「お前記憶力がいいのは確かだが、おれとしては、お前が授業中に眠らない時を求めているんだが」
「すみません」
「最初から起きていて、そのうえで今の演説だったら、君島には拍手をしたんだがね」
「人は頭を使ったぶんは眠らなくてはなりません」
「だからっておれの授業中に寝ないでくれ」
「すみません」
キーンコーンカーンコーンとチャイムが鳴る。
「まったく、困ったもんだ。君島はテストの点数は格別に良いんだが、なぜ授業をまともに受けないんだ」
「春はとても眠いんです」
「春のせいにするな」
「春眠暁を覚えず、処処啼鳥を聞く」
「知っとるわ」
「うちの学校は森の中だからか、よく鳥が鳴いてます」
「はいはい、そうだな」
「森先生は僕の話をきくといつも興味深そうです」
「呆れてるんだぞ」
「でも、さっきの小説をまさか読んでいたとは思わなかったでしょう?」
「あの小説では、同じ名前の男女と、瓜二つの女性が出てくるし、それが醍醐味だが。おれはお前に双子のお姉さんが本当に居るのかと思うとぞっとするね。お前はこの世に二人も要らないと、おれは思うんだよ」
「ありがとうございます」
「褒めてないぞ」
「森先生の名前は森一朗だから唯一の存在なんでしょうね」
「褒めてないからって無理に褒めるな」
「双子の姉は顔は似ていますが性格は思い切り反対ですよ」
「そうなのか。それは良かったな。ところで、お前は一体いつ勉強をしたり本を読んだりしているんだ」
「普通ですよ」
「普通じゃないだろ。みんな不思議がっとる」
「みんなってだれですか?」
「クラスのみんなだ。先生も不思議だ」
「僕は記憶力がすごくいいんです。それだけです」
「どうしてそうどこでもぐったりできるんだ」
「ぐったりしてます?」
「お前はここが職員室だということを忘れとらんかね」
「はい。覚えてます」
「覚えてるか聞いてるんじゃない。その態度をどうにかしろと言っているんだ」
「はあ」
「おれはお前が着ている制服をパジャマかと見間違うほど、お前はあまりにぐったりしているぞ。しかもその向こうにはお前の家の寝室が見えそうだ」
「そうですか。不思議ですね。僕には見えません」
「お前は比喩もわからんのか」
「僕はただ成長期で眠いだけです」
「お前はいつも眠っているのに、覚えているな」
「春眠暁を覚えずです」
「お願いだから暁を覚えてくれ」
第37話「氷と比熱」
出かける時に、水筒のために麦茶をつくるのを忘れていたことに気がついた。レモンの輪切りをすこし多めに、そこに水と氷を入れた。それでレモン水の出来上がり。きっと今日は疲れるから、あとでアタシはレモン水っていう、いつもとちょっと違う贅沢ができる。そう思った。
コンビニで働くと、人って様々だなと思う。同じ人は一人たりとも存在しない。
そして、アタシはアタシの普通さに気づき、アタシの悪いところもたまに見えるんだ。誰かと自分を比較しようとするとね、それは、自分で自分を、自分を自分で…、自分で傷つけているの。それで、自分でそれを苦しんでいるの。誰も悪くないのに、自分が悪いの。
わかってる。アタシってのは壊滅的な性格だ。まず、けだるげで、その上何も考えていないような顔をした人が好き。そして、何か言われたら仕方ねえやでやっと動くようなダメなヤツがいいんだ。そういう「ぶっきらぼう」というのが、なんだか隙があるように見えてたぶん好きなんだと思う。アタシはそういうのに突進する。イノシシみたいにね。でも、そういうのに当てはまってるヤツがいたとしても、大概が頑固で自己中。隙なんて全然存在してなかったの。
頑固も自己中もぶっきらぼうも、女や男や年齢や体型や、そんなふうに固定されてその人について回るような形容詞じゃないんだよ。曖昧で証明ができない形容詞。そういうのって要は、心が冷たい状態のことなんだ。身なりにも大して気を配らないでいて、呆れるほどのいつの時代の流行かわからないようなボロを着ていたり、もしくは高いプライドのせいでブランド物だらけの塊になっていたりしていてね。そういうのは両極端だなって思うんだ。おしゃれはいい加減でも、やり過ぎててもだめ。自分の世界を持ってなかったり楽しく生きていないのじゃあだめなんだ。全然何事にも上手く順応できてないし、変化がとても嫌いだし、何かが変化すると周知があっても聞いてないし、自分で何かを読みもしないし、人に何も聞きもしない。それのせいで全部がズレてひっどいことになっても鈍感で。そして人よりすこしテンポが遅れて何かに気づくんだ。そして翌日になってやっとこさ謝ってくる。遅いからアタシはなんのことを謝ってきてるんだろうって思う。でも一生懸命謝るって感じじゃあなくてね、後ろめたいけど自分が悪いってわけじゃあ全くありませんからって、そんなことが顔に書いてある感じで呑気でいるんだ。本心じゃないんだろうね。なのに謝ってるから、それは周りにもバレてるよ。そんな態度じゃ、明日地球が終わっても多分別に平気なんだろうな。むしろなぜ自分は生まれ、今なんのために生きているんだろうかっていう無駄な宇宙をぐるぐるしていそう。宇宙なんて、答えが決まってる。だから考えても意味がないの。
アタシはそういう人を迷惑でしかないほど煽って掻き回すの。「あんた、ほんとばかだね。ちょっとは何か真剣に考えたらどうなの」ってね。そんなの傍から見たらアタシのほうがひどいよね。普通なら嫌なものを見たけど、関わるべきではないって。時間の無駄だって。「あいつは単なるかわいそうなやつなんだ。放って置け。もしくはそれに、さらに土足で踏み込むつもりなのか」って。だから、そんなアタシのことを見て、やめときなよってアタシのことを庇ってくれる人がいたりする。時間が経てばいつかそいつはちゃんと気づくだろうって、アタシが出る幕じゃないって。でもアタシは最終的に、そいつが「馬鹿にしてんの?ふざけんな」 と喧嘩を売ってくる積極性が出てくるまで粘るつもりなんだよ。ちゃんとわかってる。それまで、からかって、貶して、そんで。でもアタシってさ、それ、なにがしたいんだろ?性格悪いやつを矯正できるようなほどアタシは性格良くないし、馬鹿な弟をかわいがるように煽ってるのとは絶対に違うし、教授になれるようなほど人に物事を教えることが上手なわけでもないし。もしかしてアタシはそいつの悪役になりきってんの?悪役になりたい願望なんてないけど。なんなの?それって、なんか新手のいじめっぽいじゃん?ただ相手には迷惑なだけじゃん。
でも、アタシは、すっごい気にかけてるよ。大丈夫かなって、ずっと気になるの。心配なの。気になってしょうがないの。それは決して恋とは違うし、庇護欲というのでもないよ。だからなんて言う言葉をつけるべきかわからない。意味がわからないよ。
アタシはたぶん、そいつの冷たくなった心を、氷のように固まった心を、どうにかしてでも溶かしたいんだ。そして、温度のあるはずの箱の中を知りたいんだ。鍵を開けたいんだ。それはパンドラの箱かもしれない。いろんなものがごちゃごちゃ。悪いものも混じってるかも。でもそれでもいい。心が冷たいままより、そういうの開いたほうがずっといい。良い方向に変わる事のきっかけを、なんでもいいから引き出したい。ねえ、大丈夫。あなたの周りは、あなたが思ってるよりずっと、あったかいよ。あなたの心が、今、氷の状態だから、まわりが怖がって、それで氷が届くんだよ。ちゃんと、あなたがあったかい心を持ってるのを、アタシが証明したげるから。あなたのあったかい気持ち、心の余裕、取り戻せるから、取り戻したいんだよ。それをあとでアタシのおかげとかそういう風に思ったりなんか絶対しないから。消え入りそうな0を、1に戻すっていうだけなんだよ。そう、そしてそれを戻すのって、とても、苦しいんだよ。思ってるより長くて辛いのを知ってるよ。だってあんたの本来のあるべき姿でしょ。だけど、それが、信じられないくらいあなたは疲弊してる。全部信じられなくなってしまっているの。ねえ、それは自分がなくなったわけじゃないし、これからきっとまたいいことがあるんだ。いいことは、ちいさくてもね、おおきくなくてもいいの。排他的にならないで。人はあなたが思ってるよりずっと寛容だし、今ならまだ0にせず、1に戻せる。放っておいてはだめなの。間に合わなくなる前に、伝えなきゃ。伝えると、伝わると、あったかい気持ちになるんだよ。
でも、正直に素直に綺麗な言葉だけの良い人になんかなりたくない。それは相手にとっては偽善なのかもしれない。相手はまだ閉じこもっていたくて、タイミングもよくなくて、アタシの言うことなんか求めてなかったのかもしれないけど。綺麗事とか正論とか、そんなんじゃない。でもこんなセリフなんて信じてもらえないだろうし、口で言葉に出すべきじゃないから、ちょっとトゲみたいな言葉に換えて、アタシはそんなやつを突っ付くの。心の奥底にあるものを煽るんだ。「氷の中に心を閉じ込めてしまわないで」
そんな気持ちで。お酒用の氷を少しずつ削り取っていくみたいに。たまにハンマーで叩くのは大きく削り取るのはその氷であって、あなたの心を傷つけるってわけじゃないよ。途中でアタシは一体、これ、何をしているんだろうって。でも、変化が目に見えなくたって、それはすこし時差があるだけ。待ってたら、ちゃんと状態変化が起こる。なんとなくそこに手応えを感じながら。雪が溶けて、私は春を知る。水は土に染まり、花や木や葉やなにかの生命線になる。
だから、「心をどうか、ずっとあたたかく居て」。
第38話「かるた」
「百人一首」という言葉を聞くと、たいてい最初はみな名前を不思議がります。僕も小学生のとき、百人一首に出会って、不思議でした。百人なのに首が一個しかないみたいな、そんな名前です。
最近、「盆栽」が海外で人気だそうで、では同じ日本の文化である「百人一首」のことも知ってほしい、なんて僕は思うんです。平仮名を覚えていて、漢字を習いたてで、結構良いところまでしっかり勉強している、日本に興味があって、頭のすごく良い人の場合には特に、はじめてそれを聞いたら、とてもびっくりしそうだなと思います。例えば、冥界の番犬である「ケルベロス」か何かを思い浮かべるのではないかと思います。(ちなみに僕の家の近くには犬が三匹います。怖くなくて、とてもかわいいです。しかし、知らない人とバイクが苦手でよく吠えていますから、そこに、はじめましての人が現れたことがすぐわかります。番犬の役割には、なっていると思います。)
そんなのは単なる冗談です。こんなこと言ってたら、そんなのぜんぜん面白くないぞって、かるた会の人に、特に面白いか面白くないかに厳しい関西出身の坂井先生に怒られそうです。でも、ぜひもっと、「百人一首」っていう唯一の世界があることを知ってほしいと僕は思うんです。
僕は自分の記憶力に、とても自信があります。しかし、いくら記憶が良いからといっても、とても難しいことがあります。それは「競技かるた」です。例えば、早寝早起きして、しっかりとよく眠れたら頭がすっきりしています。そんな状態を僕は、空腹時によく似ているなと思います。「競技かるた」をすると、最初は記憶容量があるはずの僕の頭の中が、同じことを繰り返すうちに、一体どの札が読まれてどの札を取っていないのかがわからなくなっていくのです。こんがらがって、意味がわからなくなっていきます。しかし、僕はこれは頭を使うことで起こる良い頭痛だと思っていて、食べすぎた時の苦しい気持ち悪さとはどこか違っています。僕がそんな風に考えすぎたときに起こる頭痛が好きだなんて言ったら、変なやつだと言われそうです。だから僕はそんなこといつも口では言わないけれど、だからこそ、「競技かるた」という世界が一番、楽しくてたまらない。
そんな頭痛が訪れた時、僕は頭の中で考えないことにするんです。そこにある手札は、相手の持つ手札は、ただの札じゃない。目の前にある、緑の枠に白地に黒字で書かれた平仮名の下の句は、一枚一枚色がついて見えてきます。これは春、こっちは夏、これは恋の歌、これは坊主の歌。これは平安時代。あちこち移動させても、移動しても、向きが逆さまでも。それは千年前、国に認められた学者に百点満点と認められた、そんな誰かから誰かへのラブレターであって、単なる「かるた」じゃないことを知ります。一つ一つが似ているようで違う情景の華やかさや暗さや、作者の性格、作者から見た相手の性格。そのすべてが短く一つにまとまっている作品なのです。そのうえで、札の並べ方や置き方や、過敏に札に反応する手の動き。そこで対戦相手の好きな札の傾向や性格がわかっていきます。読み手の声色も、最初の出だしから、季節や感情が華やかに乗っています。
そして何より、僕の記憶の良さに嘘をついたりしなくて済む。謙虚でいなくてもいいという、とても良い世界。僕の記憶力がどれだけいい加減であるのか。どこまで在るのか、もしくは無いのか、目に映るように実力がはっきりする。悔しいときがある。嬉しい時がある。そんな限界が見える世界。それが僕のいるべき場所、いるべき世界なんだと思うんです。
「おい、マコト。何してんだ」
「はい。ちょっと精神統一をしてました」
難波津に咲くやこの花冬ごもり
今を春べと咲くやこの花
ほら、僕の世界がまた、はじまります。
第39話「神話」
トオルはため息をついた。こういうときは大抵、自分の存在意義について考え始めてるだけであって、大したことは考えていない。俺は悪魔なのに、トオルといると悪魔らしくなれないような気がしてしまう。俺はトオルのメンタルケアをする担当医ではない。しかし、ため息をつかれたら聞くしかあるまい。
「…どうした?トオル」
「僕は思うんだよ。僕は透明人間でもなければ、幽霊でもないらしい。だとしたら一体何なんだろう」
「いつも言ってるが、お前は半分透明人間、半分人間。それだけだ」
「そうだね」
やはり予想した通りだった。そういうところ相変わらずだな。
「冥界の王ハデスが僕を生かしてくれたのかな?もしくはペルセポネかもしれない。それとも、プロメテウス?ゼウス?」
「ギリシャ神話で考えたって意味があるのか?」
「わからないよ」
「ここは古代ギリシャじゃない。現代の日本だ」
「そうだよ」
「生きているうちは、生きている世界のことしか知り得ない」
「そうだけど考えてみたくなったんだ」
「例え話か」
「そうだね」
「ペルセポネがハデスに頼み込んで魂を冥界からこの世に送り戻し、プロメテウスがゼウスにお前の死体が腐らないように頼んだ。そんなところか」
「だとしたら感謝しなくちゃね。ペルセポネとプロメテウスに」
「ああ」
良かった。これで俺はトオルが何者かなんてことをもう考えなくて済む。
「ところでペルセポネはどう思ってるんだろうねハデスのこと。僕はハデスみたいに理不尽が多くてもそれを受け入れられるような立派な大人にはなれそうにないや。鈴美のことを考えると思うんだ。もし、もしだよ。冬の間にしか会えないなんてことが万が一にでも起きたら、寂しくて苦しくて、仕方がない」
「好きなんだな」
「僕は確かに、鈴美みたいな女の子が現れて驚いたんだよ。だけど、実は、僕のことが見えるのは、思ってるより世の中に他にも居るには居るみたいなんだ。見て見ぬふりをしたり、言わないだけでね。だからそんな目を見つけるとね、運命なんてのは、この世には一個もない気がしてくるんだ」
そういや、すこし前の学校の帰りに、鈴美のようにトオルのことを見ることができている女の子にふと出会ったとラクから報告を受けたか。
「そうか。でもなトオル。神様の世界は、契約の世界だ。一度決まったことは取り戻せない。それが何百年も何千年も、永遠のようにずっと続いていく。なぜなら、年を取らないし死なないからだ。だからこそ先手必勝なんだ」
「変えられないの?」
「変えられないさ。だから、しっかりと好きな女の子を手に入れてるんだ。俺はそんなハデスを弱いとは思わないし、その結果が冬の間だけでも、かわいい女神が隣りにいるんだぜ。ハデスはきっとそれを待ってるし喜んでる。ペルセポネもハデスがメンテーに浮気した時に怒っていた。それはきっと、ふたりとも好き同士でうまくいってる証拠なんだ」
「幸せってわかんないな。僕にはまだ難しい」
「それに比べて、オルフェウスはどんなに綺麗な竪琴を奏でようが、エウリディケが帰ってこないことを嘆くだけなんだ。あれは美談にされやすい。でも確かに男っていう生き物は『見るなと言われると見てしまう生き物』らしい」
「確かにスカルが良い悪魔だから、僕は変態にならずに済んでいるんだよ」
「そうだな『良い悪魔』っていうのは、正直、悪魔としてはあまり嬉しくは無いがな」
「僕は一度も考えなかったわけじゃないんだ。透明人間になったなら、女子更衣室だとか女湯を覗けるかもしれないだとか。でもスカルやラクが必要なせいで僕は一度も覗いていないよ。本当だよ」
「見てくりゃあいいじゃねえか。どうせ大したことないぜ。銭湯のばあさんの裸なんか見たって」
「わからないじゃないか。あわよくば、綺麗なお姉さんが一人や二人いるかもしれない。湯上がり美人とかね」
「それでどうするんだ?」
「何も出来ないよ。ほとんど幽霊だからね。たぶん見てるだけになる」
「そんなことして何が楽しいんだ。きゃー、へんたい!って言われるあの甲高い声が良いんじゃないか。お約束がないとつまらないぞ」
「そ…そうだね」
「やってみるか?」
「え?」
「鈴美に」
「鈴美は警戒心が強すぎるからすぐに気づいてしまうよ」
「それだからお前はだめなんだ。やってみてもいないのにすぐに諦める。お前はオルフェウスにもなりきれん」
「確かに僕は見るなって言われたら見たくなるよ」
「それって俺たちよりもずっと鈴美が一番よく知ってるだろ」
トオルは考えたようで、すこし遅れて理解した。
「そうだね。それが鈴美の良さで、悪い所でもある」
「それで?鈴美みたいにお前のことが見える女の子がもう一人居たんだろ?どんな子だったんだ?」
「鈴美と同じ学校の制服を着てた」
「また何か、能力がありそうか?」
「わからないけど、すごい可愛かった」
俺はお前がただの馬鹿だったことを今思い出したぞ。
第40話「霞的」
桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿。わたしは桜の花びらを小さなお皿に入れて仏壇に添えた。
布団から出るのも、学校へ行くのも、友達といるのも、嫌なことがあるのも、それはわたしがそこに居るということ。わたしが居なければわたしには何も起こらない。そんないろんなことのストレスで体調が悪いって言ってたった一日くらい休んでしまえばいいだけ。でもわたしは休まない。行きたくない時もあるけどちゃんと出かける。だって何も起こらないってことは、いいことも起こらないってことだから。
わたしの友達は、男子はいつかわたしのことを好きになってしまうんだろうなと思う。そして女子はそのせいでわたしを嫌いになる。ずっとそうだった。わたしはそれでも全然構わなかった。だってわたしは、わたしには、絶対にわたしに振り向かないヒロムがいた。全部それでおさまっていた。でも、どうして?
わたしは、ヒロムのことはよくわかるけど、何よりも自分のことがよくわかっていないんだ。そしてヒロムは全部はぐらかす。よけてるみたいに。そして、ヒロムと自分の名前を思い出すの。ヒロムが弓矢なら、霞を嫌うだろうって。だから思い切って、放課後に聞いてみた。
「ヒロムの名前って由来があるよね?」
「あるよ」
「どんな由来?」
「シズカがつけたらしい」
「そうなの?」
「ヘラクレスなんだそうだ」
「ギリシャ神話の英雄ってのはわかる」
「そう。それで姉貴が目をつけたのが、オルセー美術館にあるアントワーヌ・ブールデルの作った銅像。上野にレプリカがあって、シルエットがめちゃくちゃ格好いいんだ。それを弓道が好きな親父に見せた。親父のそのつもりが、おれ結果的に埴輪に似てるっていうんだから、名前負けしてて困ったもんだよな」
「わたしはね、ぴったりだと思うの」
「そう?」
「うん。でも弓の名手なら霞を嫌うだろうね」
「なんで嫌うんだよ」
「だって、霞って、ほとんど霧のことでしょ?弓の名手にとっては邪魔になるものじゃない?」
ヒロムはクエスチョンマークを頭に浮かべたような、そんな悩ましい顔をしていた。そして、言った。
「カスミの父さんと、うちの親父は、弓道をやってたんだ」
「そうだったの」
「でなきゃ、ヘラクレスの話なんて親父に持ち込まねえだろうし」
ヒロムは照れたようにそこで止めた。わたしはそれでもよくわからなくて、「つまり、どういうこと?」と聞いた。
「的だよ」
「的?」
ヒロムは八百屋の壁に貼ってある三つの円を指さした。
「的にもいくつか種類があるけど、
これを『霞的(かすみまと)』っていうんだ」
「なんでこんなとこに貼ってあるの?」
「親父が貼った。ずっと貼ってある」
「へえ。わたしの名前の由来、『的』だったの?」
わたしは弓や矢のことばかり考えていた。だって、ヒロムがそういう名前だったから。
「思ってたより、安直なのかも」
「そうか?弓道で使われる道具はそう多くない。一生懸命にやってると、しっかりと打ち込んでると、もう『的』のことしか見えないし考えなくなる。弓や矢じゃなくてな」
「そっか。ちゃんと本気でやってたんだ。うちのお父さん」
「今更知ったのか」
「だってもう、そんなの教えてもらう前に、とっくに居ないんだもん」
知らなかったな。そんなの。八百屋の野菜が季節ごとに変わる。変わらないのは、そこに貼られた的や弓や矢。ずっと見てきたのに、馴染みすぎていて気づかなかった。なんで置いてるのかも考えたことなかった。
「すぐそこにある八幡神社。勝負運の神様。弓矢の神様。おれの祖先は、商売繁盛よりどうやら、そっちを大事にしたいらしい」
「でも八百じゃ、八万には到底かなわないわよ」
そう言って、わたしは800とノートに書く。
「ああ。二桁も足りない」
そう言って、ヒロムはゼロを2つ足した。
わたしはヒロムと大笑いした。面白くないけどなんだか面白くて。何を話してたのか、何で悩んでいたのか、もう何もわけがわからなくなって。
第5章(第41話〜第50話)
第41話「ホットケーキミックス」
ホットケーキの上でバターがじんわりと溶けた。角が丸くなって、生地の上で染み込んでいく。アタシはそこにたっぷりのはちみつをかけて、頬張る。ほっぺたが落ちるほど美味しい。ヒロムがちょっと高級なホットケーキミックスを使ったなってのは、すぐにわかった。そこに角砂糖を四つ入れた甘くて美味しいお気に入りのミルクティーを胃袋に流し込む。甘いもののパラダイス。こんな幸せってのもなかなかない。
しかしお皿の上も、コップの中もすぐに空っぽ。ホットケーキはこんな簡単にすぐになくなってしまう。別に儚いわけではない。今、口の中は味が広がっててまだ幸せ。でもあっという間だった。それは、私は悪くない。美味しいのが悪い。
「わかるか、ヒロム。世の中には必ず魔法が解ける瞬間ってのがある」
「どんな魔法?」
「時間で解ける魔法」
「そう言われておれが思いつくのはシンデレラ」
「そんな素敵ファンタジーには、残念ながら、アタシは生きてない」
「じゃあ、それは魔法とは違うんじゃないか?」
「お砂糖が紅茶に溶ける。氷が融ける。口の中でチョコレートが溶ける。チーズが溶ける」
「固体から液体に変わるってこと?」
「そう。さらに液体から気体になって、臨界点」
「シズカは考えていることが難しすぎてよく分かんねえな」
「チョコレートが常温でも美味しいのは5月まで。6月以降になると冷蔵庫に入れなくちゃいけない」
「現実的なお姫様だな」
「お姫様って年齢でもない。だから、あたしのことは女王陛下とお呼び」
「シズカの両親は一体どんな人だったんだろうな?」
「きっと、ろくでもないわよ。いつか迎えに来るなんて言って、ずっと待ってても来ないんだから」
「いつか迎えに来る?」
「そういうこと言うの。何度も何度も、同じ夢ばかり見るのよ」
弟は考えたように遠くを見つめた。そして、思い出したことがあるようにハッとした。
「実は、小学生時代の同級生で服飾関係の高等専門学校に通ってる友達がいてさ、シズカの名前が入ってた服を見てもらったんだ」
「へえ、そうなの?どうだった?」
「そしたらさ、何年か前にその学校を卒業した先輩たちのいるグループが起業したばかりのブランドの名前とぴったり同じらしい。だとすると、やっぱりおかしいんだ。シズカが2歳であの服を着てるのは…」
「ほら、こんなにすぐに見つかった。時間で解ける魔法」
「おれは真面目に話してる」
「真面目に考えても、なんにも意味がない」
「なんで?」
「これは答えがない問題だから解けない。時間が解けるまでは解けない。そんなものは意味がない」
弟はやっぱり遠くを見つめた。アタシは続けて言う。
「時は不可逆。不可逆的なものを見つめるのは、難しいの」
「考えても意味がないなんて、難しいだなんて、シズカから出てくる言葉だとは思えないな」
「考えて意味があることだけ、考えることにしてるの」
弟は少し考え込んだ。そして口を開く。
「シズカがさっき美味そうに食ったホットケーキ。あれは俺が作った」
「そうね。とっても美味しかったわ」
「ホットケーキミックスはスーパーで買った。ついでに、はちみつも、バターも、卵も、牛乳も」
「何の話?」
「おれはさ、手がかりがあるなら、その近くにいたい。そう思う人間だ。ホットケーキミックスは八百屋には無い。だからスーパーに行って買うしかない。どのスーパーも青果売り場からはじまる。それは確かに敵だ。しかし嫌だなんて思わない。当たり前だから構わない。よく見て学ぶ。最近の野菜を入れるために作られてる袋がどれだけ鮮度を保つようになったのか知ってるか?」
「知らないけど…要は、アタシの経歴ならその洋服のブランドが当たり前に欲しがる人材になるだろうってこと?」
「シズカが未来の人間だろうが、理由があって未来に戻れねえんだろうが、なんも関係ねんだよ。未来に生まれる予定の自分を消さないように生きるしかないんだ」
壊れやすい不安を持ちながら、ある時その不安を放り投げてしまうような強さも兼ね備えてる。
「そうね」
「そして、そうじゃないと俺が生まれてこない」
「そういえばそうね」
「一つの選択肢に過ぎないから他にもそういうのを探してみればいい。手探りでもいい。パズルのピースを集めればいい。すでに集まってるピースも使える」
「ヒロムは優しくて強いね」
「そうか?」
第42話「透明」
僕はある日、透明人間界へ日帰り旅行に行った。透明人間界に連絡を取って、許可をもらって。とある特定の電車の終点まで乗ってその駅で降りると、空き地のように見えるが実は透明人間界行きの電車が走っている駅があるのだと教えてもらった。僕は透明のままでいて、スカルには行き先を伝えて、鞄の中に居てもらった。
そこには僕のように、透明人間界行きの電車を待っている透明人間がいた。それが僕の目には見えていた。それは僕だけでなく普通の人にも見えていた。服を着ていて、肌にファンデーションを塗って色を付けた、そんな人たちだった。ただの空き地に立っていた。よく見ないとぜんぜんその不自然さがわからない。完璧に繊細に用意されたような出で立ち。普通の人間よりも、幾許かおしゃれだったりする。なんだかただならぬオーラまである。
電車が来ると、大きな風がビュンと吹いた。例えるなら、その電車はすべて外側がスケルトンになったような、そんな見た目をしていた。あれを鈴美が見たらどう映るだろう。僕とは違う風に色づいて目に見えるのだろうか?
電車はスケルトンなのに僕らを一瞬のように隠した。覆い隠すように隠した。電車の2両目には案内を約束していた透明人間がいて、僕を見て声をかけてくれた。
「こんにちわ。泉水トオルくんだね?俺は本多鑑(ほんだ・かん)っていうよ」
「わざわざ僕のためにありがとうございます」
「実はちょうど次の予定が人間界から透明人間界に戻らなくてはならなくて被っていたので、こっちとしては都合が良くて『ついで』だったんだ。無理を言って君に会いたいと希望して指定したのは俺の方だよ」
そう言いながらお兄さんは化粧を落としていました。化粧が落ちていくと何もないみたいになる。透明人間ってこんな感じなんだなと思いました。
「お兄さんはきれいな顔だから化粧を落とすのがもったいない気がします」
「でしょ?俺はスタイルも良いからファッションモデルをやってるんだ。肌の色も髪の色も自在に変えられる」
「便利ですね」
「信頼が置けるヘアメイクさんだけに俺が透明人間であることを知らせてあってね。髪の色を何度変えても傷まないしハゲないから不思議がられる」
「あと、ほくろもない」
「それは好きな所にたまにメイクで書いたりする」
「羨ましいです」
「だから透明人間界に居るほうが心が窮屈になる時がある」
「そうなんですか?」
「そう。ただ、メンテナンスに時間が掛かりすぎて大変で。これ、全部を塗ってるなんて君、信じられる?」
「信じられないです。服の中や目はどうしてるんです?」
「俺の場合にはね、そういう専門のサロンに毎日のように通ってる。コンタクトとか、ヘアカラーとかお金をかけて。なのにお風呂に入ったらほとんど全部流れてしまう。だから君みたいに帽子だけですぐに変わるってのは、ほんと羨ましい」
僕はそれを聞いて思った。もしかすると僕の母もそんなふうに人間界に居たことがあるんじゃないかって。もしくはまだそうやって生きて居るんじゃないかって。
「透明人間の世界っていうのはとてもオシャレなんだ」
「やっぱりそうなんですか?」
「顔も肌も目に見えないから、服装にすべてをかける。服が歩いているんだから、ダサかったり体にピッタリ合ってなかったりするだけで格好悪い。百聞は一見に如かず。すぐにわかっちゃう。その人がオシャレに興味があるのか違うかどうか。君は結構オシャレを楽しむ方だよね?」
「はい。自信はないけれど」
「きっと、自信がつくと思うよ」
玄関口の駅へ降りると、そこはカラフルだった。思った以上にずっとカラフルだった。
「今年の日本の透明人間界の流行は、『クロップド丈』で。いかにお腹を出すかが流行ってて。トップスとボトムスの間がいかに広くあくかで競っていて。透明人間の良いところは、洋服を着てても着てなくても透明だから見えない。だけどそれをうまく使っていかに実用的で、かつ風邪を引かずオシャレに見せるかってのが大事なんだ」
文字通り服が歩いていた。スーツが歩いていたり帽子が宙に浮いているようだった。
「ただし公衆の面前で裸のままになったり下着だけで歩けば強力なセンサーが反応して警報がなり、そして逮捕される」
「なるほど。それは人間と同じなんですね」
「透明人間らしさが強調されるアイテムをいかに着こなすか。それがカギ。だから、スーツを格好良く着たいやつは必死でジムで鍛えているし、靴下屋や日傘屋が街に余るほどいっぱいあって。変わっているのはしょっちゅう口紅セールってのがあること。発色の良い口紅をべったり塗ってもいい。寧ろ目立たせるのが目的っていうのが人間界と違うところかもしれないね」
「じゃあ、男装とか女装とかしててもわかりませんね」
「それは違う。自分の元々ある生まれつきのパーツでどれだけ自由に自己表現ができるかっていうのが透明人間のすべきおしゃれ。声が男なのに女の子の格好をしていたら誤解を招く。そういうのは無しって言うのが一応ルールではある」
「そうなんですね」
「でも、女の子はスカートもパンツも履いていいってのは人間とおんなじ」
「それはそうなんですね」
「人間が生まれ故郷を特別に好きなのと同じように、みんな、透明人間が人間より素晴らしいと思ってる。だから透明であることを誇りに思ってるってことなんだ。俺もこんなおしゃれな街で育ったからこそ今モデルやれてると思うんだ」「それは間違いないと思います」
「帽子と腕時計、実はそういうのって特に透明人間界の得意分野なんだ」
「言われてみれば確かに」
「俺は、透明人間も人間もどっちも楽しみたい。君みたいなハーフってのは羨ましいよ」
僕は、はじめて僕の能力に対して褒められた気がしたけど、それはなんというか、難しい気持ちがした。
「僕はお兄さんのような透明を経験したことがありません。それができないのは…」
お兄さんには申し訳ない気持ちで言ったのに、その反応は違っていた。
「普通の透明人間になりたいなら、君、スカルを着けたままなら、透明パウダーを塗れば透明になれるよ?」
「そんなものがあるんですか?」
「だってここは透明人間界だし、それにそういう用意がなきゃ、ここに君を連れてきたりできないもの」
僕はトイレで帽子を被って透明パウダーを全身に塗った。なんだか男なのに化粧してるみたいでちょっと違和感があった。でもまあ新鮮な気持ちで面白いからいいか。
「おい、トオル、なんであいつと一緒にいるんだ。あれは研究所のカンだ。ヤツほど怖い者はこの世にいねえ」
「お兄さんは案内役をしてくれるんですよ」
「お兄さんって…あいつお前より20は年上だぞ」
「若いほうだよ」
「なんでよりにもよってカンなんだ!」
「モデルだって聞いたけど」
「ああ、あいつはファッション系科学者なんだ」
「どういうこと?」
「マッドサイエンティストの類だ」
「そんなふうには見えなかったよ」
「とにかく聞いてみろ」
「何を」
「目的を」
「わかったよ」
僕はスカルには黙っててもらいながら聞いた。
「お兄さんは一体なんのために僕に会いたかったんですか?」
「アイテムが一つさえあれば消えたり見えたりできるなんて、イリュージョンショーができそうだなと思って。良ければアルバイトしに来ないかな」
「ごめんなさい。さすがに僕はあなたのようなモデルにはなれません。そんな大役は厳しいです」
「そうか残念だ」
「やっぱり、僕の能力を調べたりするのが一番手っ取り早そうですか?」
「端的に言えばそうなる。けど、健康診断するのと変わらないから安心して」
僕はなるほどと思った。スカルの言うのが正しそうだ。
「ちなみにお兄さんはスカルやラクを作った博士って誰かご存知ですか?」
「うん。よーく知ってるよ」
「僕はずっと、まずその人に会ってお礼を言いたくて…」
「それ、俺だよ」
「え?」
「俺、こう見えて透明人間研究所の研究者なんだ」
第43話「カン」
今回は俺、帽子のスカルだ。
前回までのあらすじ。トオルがどうしても透明人間界に行ってみたくなって、透明人間界に連絡して許可をもらったら、俺を作ったマッドサイエンティストの本多鑑(ほんだ・かん)が案内人としてやってきた。まるで、「感謝しろよ、研究所に協力してくれないとどうなるかわかるよね?」という脅しみたいに。まさか、そんなやり方でトオルに近づいてくるとは…。
「久しぶりだねスカル。珍しく随分大人しいからどうしたかなと思ってたんだけど、元気そうで何より。逃げちゃったかなと思って心配したよ。まあその時にはトオルくんに新しいアイテムを作ろうと思ってるんだ。スカルより高性能で格好いいのを!」
「トオル、お前はカンのように欲深い男ではないよな。カンにアイテムを増やせってねだったりしないよな?」
「うん。僕は十分に間に合ってる。でも面白そうだよ。スカルやラクがどうやって出来たのか知りたいな」
「…俺はトオルのそう無垢なままなところが心底嫌だ」
まるで工場見学に行く小学生の動機じゃねえか。何されるかわかったもんじゃねえのに。
「それで?カンはトオルを今日にでも研究所に連れてく気か?」
「今日は日帰りの約束だからね。でも、俺はその好機は逃したくなかったのさ。正直今にでも連れていきたいけどそこまでの準備はまだできていない。君がその気ならいつでも調整するつもりだよ」
「…トオル、騙されるな。カンはこう見えてもマッドサイエンティストだからな」
「スカル、そんなこと言わないでよ。そうだ、最近新作の帽子が発表されてね。それがまた、格好いいんだよ。帽子屋に行ってさ、良ければ君が気に入った新しい帽子の悪魔を作ろうか?」
この野郎…ふざけんな。
「僕はスカルのこと結構好きです。気に入っています。だからいらないです」
「そうかあ、良かったねスカル。命拾いして」
「人間界にいるときは僕の命です」
「そうだね」
「えっと…スカルにはちょっと悪いけど一個だけ作って欲しいかもしれないなと思ってるお願いがあります」
「なになに?」
「お風呂で髪の毛とか体を洗いながらでも使えるアイテムがあったらいいなあなんて思うことが…実はあります」
「今までどうしてたの?」
「腕時計のラクをつけて、その上にビニール手袋つけて入ってます。それでも僕はどうにかなるにはなるんですが…」
「うーん、思った以上にそれは何かしらアイテムが必要だと思うし、そして意外にも難しい注文だ。スカル?何が良いかアイデアを出さないと新しい帽子を作っちゃうからね」
「…え、俺?じゃあシャンプーハットとか?」
「それではナンセンスだ」
「ビニール製のリストバンドとか」
「相変わらずスカルはダサいな。見た目だけはいいのに」
くそお、カンのやつ。トオルのやつも、結局アイテムをねだりやがった!条件は、できれば小型で、格好良くて、使いやすくて、水に濡れても平気なもの。そんなのあるか?錆びてもいいならピアス、指輪、…でも、そうしたら俺の地位がかなり危うくなる。すでに腕時計ですら俺より場所を選ばなくて使いやすいのに。
「確かに格好良くないしおしゃれでもないし、ナンセンスかもしれないけど、僕はシャンプーハットだと嬉しいです。喋らないアイテムでいいです。だって用途はお風呂に入るためだけですから」
「聞いたかスカル。トオルくんはなんて良い子なんだ」
「俺はカンのことは大嫌いだが、トオルのことは絶対に嫌いになれない」
カンは目を細めて俺を見た。
「俺もスカルのことは大嫌いだけど、トオルくんのことは嫌いになれないよ!さて、次の問題はいかにシャンプーハットというダサダサアイテムを格好良くするかだけど」
「鈴美が気に入りそうなものにしろよ」
「誰だよ、鈴美って…」
「トオルの彼女だよ」
「え?どんな子?かわいい?写真は?」
「霊感が強いんだ。俺なしでトオルが見える」
「ちょっとスカル!それは言わないでよ」
「ええ!それはすごいよ!すごい発見だ!その子も連れてきてよ!」
「それは…僕が嫌です」
「じゃあ、トオルくんは来てくれるね?」
「…はい」
こうやって言質を取る悪魔だ。俺なんかよりカンのほうがずっと悪魔だ。
「じゃあ緑にして河童みたいなデザインにするね」
「なんでだよ」
「なんか面白いじゃん?霊感が強いなら河童にはよく会ってるだろうし」
「からかってんのか?」
「うん」
「僕は今日、なんでスカルがいつも良い悪魔なのかわかった気がします」
「へえ、スカルって良い悪魔なの?知らなかった。でもそれって悪魔じゃないんじゃない?」
「そうだ。カン、お前こそ悪魔だな」
「俺は正真正銘の透明人間だよ。悪魔じゃない」
後日、郵便でトオルの元に届いたのは、なんの変哲もない緑色のシャンプーハットだった。俺はそれでひと安心したが、そこには封筒が入っていた。研究所に3日ほど滞在してほしいことが書かれていた。問題は前よりも深刻化していて、近づいているような気がしてならない。カンのように俺がよく知っていて対処できる相手のほうがまだマシなのか。それとも知らないほうがとぼけられるか。研究所との回線で生かされてる以上、俺が裏切れば、俺は消えることになる。カンの行動は考えれば予想できたのに、俺はたいそうなこと言いながらも無力だ。
「僕、思うんだけどね。研究所に命を助けられた。それにスカルに出会えたのは研究所のおかげなんだ。だから研究所には逆らえないよ」
「いいか、トオル。逆らえる部分があって、逆らえない部分があるんだ。それをしっかり分けるんだよ。すべての条件を受け入れなくちゃならないほど最悪な状況は回避したい。これは嫌だ、これは受け入れるっていうのは言って良いんだ。そうやって俺はたたかうんだ。たたかわず最初から最悪な状況でも従うだなんて、そんな馬鹿なことは俺がいる前では絶対に言うな。もちろん一人になってもそうするべきなんだ。助けられた以前からお前は生きていたわけだ。だからそもそも自分を大切にしなくてはいけないんだ」
「わかったよ。でも、鈴美のことを言うのは無しだよ」
「カンは、かなりの人たらしだ。巻き込まれちゃどうしようもねえ。しかしあの性格であの自由さじゃあ、まともに一途に人を愛せねえ。そしてあっちもこっちも誑し込む。だから本物の恋人はいねえ。せいぜい、即席の恋人くらいなもんだ。それに対してお前は鈴美だけに一途だろ?だから、そういうのは結構効くんだ。そして確実に鈴美にも食いつくだろうと俺はわかっててやった」
「でも僕は思ったよ。透明人間に貢献するためだけには、あまりにも一途だなって。それがいかに透明人間のためでも、ファッションモデルも研究者も両方こなすのは普通できない」
「お前にとっちゃ、カンの第一印象は悪くなかったようだが、俺にはあいつがとんでもねえ悪魔にしか見えねえ。だから俺はこうやってお前に警告しておくし、警戒を怠るな」
「わかった」
「ねえスカル!」
「ん?」
「このシャンプーハット被るとなんか光るよ!」
「え?」
「停電しても安心だね。そしてスイッチを押すとキュッてなって固定する。すごい発明だ」
「…アホなのか?」
トオルは透明人間から人間になれる新しいアイテムに、シャンプーハットをゲットした。生活が快適になったらしい。
第44話「神社」
朝起きて顔を洗う。今日もおれは早起きだ。そしてなんとなく近所の神社へ行った。毎度おれがいれるのは5円玉。しっかりとお辞儀をした。境内では青柳辰巳(あおやぎ・たつみ)が箒で掃除をしていた。
「タツミか。早いな」
「いつもこんなもんです。今日は久しぶりに朝練がなくて。でも起きないでいられなくて」
「そうか」
「先輩。今日も神頼みしたんですか?」
「いいじゃんか。神様にしか頼めないようなことでも、頼まないよりは頼んでみるもんだと思うんだよ、おれは」
「いつも同じお願いですか?」
「うん」
「それは恋愛か何かですか?」
「うん」
「そしたらうちじゃないですよ」
「でも土地神様ではあるだろ?」
「他にも先輩が願いそうな家内安全とか商売繁盛もうちじゃないです」
確かにここは八幡神社。勝負運、厄除け、安産祈願の神様を祀る神社だ。
「わかってるよ。でも、おれの名前は弓矢だから」
「その弓矢で女の子を泣かすんですか?」
「なんでだよ」
「だっていつもカスミ先輩を泣かすばっかりしてるって」
「うるさいな」
「いいなあ。俺もあんなに好かれてみたいですよ。いつも名前呼ばれて追っかけられて、かわいいじゃないですか」
「お前何か勘違いしてんだよ。自分のことを好きでいてくれる人を好きになるのが、付き合うのが、そう簡単なことだと思うなよ」
「だってあのカスミ先輩ですもん。俺だったら即OKしちゃうのにどうして?と思いますよ」
「面白いか」
「はい。羨ましいです。そしてよく俺思うんですけど、先輩に用があって近づくと大体近くにいる女の子に凄まれるんですよね。しかも結構かわいい子ばっかり。なんで先輩はそんなモテるんですか」
「え、俺ってそんなモテてんの?」
「羨ましいのは高嶺の花に好かれてるってことじゃないですかね。カスミ先輩とか君島直先輩とか。そしてお姉さんまで美人だなんて」
「君島直に、おれ、好かれてんの?」
「え、だって明らかに好きじゃないですか?」
「ど…どういう」
「よく見てますよ先輩のこと」
「それたぶん違う」
「え、そうなんですか?」
たぶん、それおれが記憶があるかどうか確認してるだけだな。訝しげに。
「まあいいんだよ。こっちの話は」
「とにかく、なぜ先輩はなんの変哲もなさそうなのに周りには美人が多いのか知りたいです」
「それ、嫌味か」
「嫌味です」
「美人が好きなのか」
「はい。俺は特に池澤鈴美が好きです」
「どっかで聞いたことがある名前だな」
いけざわ…って。誰だっけ?
「生徒会役員をしています」
「そうか。それでか」
「はい。そしてとても美人さんです。俺ちょっと安心しました。まだ美人キラーの先輩に取られてなくて」
「あのなタツミ。美人さんは大抵、性格が悪いぞ。そして振り回される。ぶん殴られる。理不尽な目に遭いやすい。覚えとけ」
特にシズカ。カスミ。ああいうのにおれは迷惑してる。
「そうですか。でも、いいんじゃないですか?美人さんなんだから」
おれはそれをきいて、すぐにテツの顔が浮かんだ。そうか、池澤鉄平だったな。確か。テツのフルネーム。
「お前、まじで馬鹿か。そしていつか身を滅ぼすぞ」
カスミに振り回されるテツのように。
「それで一体何をそれ以上恋愛関係で願うことがあるんです?」
「こう見えておれは一途なの」
「先輩。男というのは、綺麗な女の子に囲まれたいものです」
「おれは好き好んで女に囲まれてるわけじゃねえの」
「俺は好き好んで女に囲まれたいです」
「話が通じねえやつはおれ嫌いなの」
「でも池澤鈴美に好かれてみたいです」
「じゃあお前も神頼みしてみれば」
「だからうちは恋愛の神社ではないんですってば」
「おれは運命に従うまで。だからいいの」
「なんか急に格好いいこと言いますね。俺のほうが顔は良いと思うんですけどね。やっぱ背丈かな…身長あると格好良く見えるのかな。顔はそうでもなくても」
「うるせえ」
「牛乳買いに行こう」
「野菜食うと身長伸びるぞ」
「え、それまじですか?営業でしょ」
「ほうれん草と小松菜はカルシウムが豊富だぞ」
「まじっぽい」
「お前…さっきから馬鹿っぽい」
「身長伸びますよーに!」
「こいつの馬鹿が、治りますように」
第45話「ミックス」
春になるとタンポポが咲く。セイヨウタンポポはカントウタンポポにはなれなくて見分けがつきやすい。それで、ときどき、わたしは雑種も見つけることがある。そういう雑種のことをカントウモドキって言うことがあるんだって。わたしは出かける時の通り道、近所に住む犬のビンタに会った。ご主人と朝の散歩をしていた。とても尻尾を振って、楽しそうに見えた。ビンタは、チャウチャウと柴犬のハーフで、ふさふさふわふわな毛並みで、ピンと立てた耳と凛々しい顔をしている。そして、何よりも、その出で立ちは雑種というふうではない。「ミックス」という、なんだか高級感がある形容で、それはそれは「良いとこ取り」なものなんだ。
わたしは中学一年生になる前に、はじめて髪の色を染めた。それをもったいないように感じると美容師さんは言ってくれた。でも、わたしはずっと、黒髪になることを憧れていたんだ。だからとても嬉しかった。いちばんに見てもらいたい男の子に、髪の毛を綺麗にサラサラに梳かして、いちばんに見せに行った。家族よりも、誰よりも早く。
「ヒロム、見てみて!」
「お前、その髪、どうしたんだよ」
「染めてもらったんだよ」
「どうして?」
「どうしても黒髪になりたかったから。中学生デビューだよ」わたしは、その反応の悪さに違和感を感じていた。どんな髪型にしてもらっても、美容院に行ったあとヒロムに見てもらいに行ったら新しい髪型を褒めてくれた。「まあ、似合ってるんじゃね」ってぶっきらぼうに褒めてくれた。でも、このときは違っていた。悲しいほどに違っていた。
「生まれてくるとき、人にはそれぞれに特徴があるんだ。おれは、八百屋に生まれた。それを、おれは誇りに思っている。八百屋を継ぐかどうかはともかく、それはおれの一部だから大切にしたい。カスミの髪の色は、そういう、大切にしたい自分の一部じゃ、なかったのか?」
こういう時のヒロムって頭がかたい。
「例えばヒロムを知らない人がヒロムに出会っても、第一印象はきっと八百屋とは想像がつかなくて普通の日本の男の子だよ。でもわたしは元の髪の色のままじゃ普通の日本の女の子ではないんだよ」
「それはわからなくもないよ。でも、普通の女の子っていうのは黒髪なのか?」
「知らない。でも、わたしのコンプレックスだと、思う。このせいで苦労することは何より多いし。それはきっとヒロムにはわかりっこないよ」
「そうか。おれには、わかりそうにないことなのか」
「わたしは日本に生まれた。日本語しか知らない。そして日本で生きていく。カスミっていう古風な名前は、きっとそういうための名前なの」
「おれは反対だな。おれは、おれのままで生きていきたい。それにおれは、お前の元の髪の色が好きだった。とても綺麗な色だった。誰とも違う特徴だった。おれは今、いつもと違うカスミを見て、より、そんなふうに思う」
「黒髪、似合ってないんだ」
「似合ってないわけじゃない。そんなことじゃなくてさ」
「わたし、もう、気にしたくないの。隠したいの。ヒロムみたいには、誇りに思ってないの」
「これからもずっと、そうするつもりなのか?」
「うん」
ヒロムは何かを、考えているようだった。そしてそれで、わたしはヒロムが涙を浮かべているのをはじめてみた。
「どうして泣くの?」
「泣いてねーよ」
ヒロムはそう言って強がった。
「髪の色は、わたしとヒロムだけのひみつにするの」
「小学生の頃の奴らは?」
「わたしのこと、宇宙人だって言ってたから、みんな嫌い」
「みんな、じゃ、なかったとおもうけどな。子どもだったから見た目に気を取られただけで」
ヒロムはすこし黙って、考えながら話していた。
「小学校三年生のときの担任の佐藤先生。はげてきてたろ?」
「うん」
「何年かずっと、気にしてたみたいだけど、去年から思い切ってスキンヘッドにしてたよな。その代わり、ちょっと高級そうな眼鏡をかけはじめた」
「たしかに、そうだったね」
「頭の形が良いのがわかったり、明るくなったよな」
そして、しばらくして、こう言った。
「おれも髪の毛、染めようかな」
わたしはびっくりして「どうして?」と言った。
「イメチェンだよ」
「イメチェン?」
「カスミだって、イメチェンなんだろ?」
「そうだけど」
「おれが髪の色を染めたら周りからヤンキーだって悪く言われるかもしれない。でも、カスミが黒髪にしてもヤンキーとは言われない。それに、元の色に戻っても悪く言われない。それって、なんでかちょっとずるいような気がする。うらやましいような気がする」
「わたしはヒロムの髪の色が変わったら困る」
「おれも、カスミの髪の色が変わったから困ってるんだよ」
「そっか」
わたしはヒロムがそんなこと言うと思わなくて、どう言葉にしたらいいのかわからなかった。だけどヒロムが言っていることは正しくて、そして何より、わたしの思いを汲んでいないわけではなくて、それがどうしようもなく、そっちのほうがずるい。
「わたし、ヒロムが黒髪だから、真似して黒髪にしたの。だから、ヒロムは黒髪のままでいてほしい」
「そうか」
「いいとこ取りのミックスなの」
黒髪にしたことよりも、ヒロムがわたしのことをそんな風に考えてくれたことが何より嬉しかった。ヒロムは嘘をつかないけど、わたしはそれをわかっていながら、ヒロムだけを信じることはできないから、自分を守るために黒髪にしているんだって、思うことにした。それはわたしにとって強く嫌だったはずのものを、ヒロムはすこし、軽いものにしてくれたように思った。
第46話「ラブレター」
帰りの下駄箱に駄目押しでテツからの手紙が入っていた。誰に頼んだのか知らないけど。わたしはそれを見て不思議に思った。
「ヒロム」
「なに?」
「あんたでしょ?これ、頼まれたの」
「なんの話?」
ヒロムはとぼけてるけど、たぶんそうだ。わかりやすいヒロムと、それを察してしまうわたし。嫌だなあ。なんだか虚しい。
「おれさ、運命には抗えないと思うわけ」
「運命って何よ」
「神様が出会わせるのって、縁っていうのは、運命で決まってると思うんだよな。それで、おれ、思ったんだよ。テツは運命で、おれは単なる…おまけだと思うよ」
いつも話すときみたいの温度で軽くて、ヒロムは淡々と話してる。でも、だめだ。わかってる。今、泣くときじゃない。でも、なんだろう。悲しい。いつもヒロムからの言葉は全然痛くない。今のも痛くない。痛くないはずなのに、どうしてこんな悲しい気持ちになるんだろう。涙が止まらなかった。涙が止まらなくて、どうしようもなくて。
「わたし…」
夢で見たことあるような、ないようなそんなデジャブ。このあとテツがやってきてわたしを慰める。そんなの要らないのに。わたしは運命というものがあるのなら変えてやる。
「ヒロム!わたし、ヒロムのことが好き!」
手紙を破るどころか、それも面倒くさくて投げ捨てた。
「知ってる」
ヒロムがそう言った。
下校中のみんながたぶん、見てた。わたしの顔を気にしないひどい泣き顔を。
「運命なんてどうでもいいの好きなものは好きなの」
「そうか」
「うん」
第47話「好きな人」
池澤はとても難しい顔をしていた。何か悩みでもあるのだろうか。僕は聞いてみた。
「池澤、一体、どうしたんだ」
「スーとお呼びくださいまし」
「スー、一体、どうしたんだ?」
「お兄様が振られましたわ」
「それはいつものことじゃないのか?前にもなんだかんだ言っていたろ?」
「それが、そのお相手に進展があったようですわ。好きな人に告白してやっと思いが通じたとかなんとか…」
「ねえ、それってもしかして…カスミのこと?」
「十和子先輩のお知り合いでしたの?」
「うん。同じクラスだし元々同じ中学出身だし」
池澤と松前が話し出すと僕は大抵入ることができない。おしゃべりな女子会の出来上がりだ。
「会長はどう思われますの?」
「え?」
いきなり恋バナをふられても僕は困る。
「な、何を?」
「好きな人に好きな人が居たら」
「ん?」
「ちなみに会長は好きな人、いるんですか?」
松前がそう言って、生徒会室は静まり返る。池澤は僕に目配せする。
「…いる」
「へえ!」
松前がなんだか楽しそうだ。「それって同級生ですか?」
「いや…」
「好きな人に好きな人はいそうですか?」
「楽しんでないか?」
「楽しんでますよ」
「十和子先輩はどうなんですの?」
「え、今は居ないかなあ」
「そうなんですの?良かったですわね、会長」
「…ああ」
「世の中、友達のままでいたほうがいいこともありますわ。離れることになって急にそれが恋だと気づいて付き合うとか、遅いし、馬鹿馬鹿しいですもの。そんなのただの吊り橋ですわ。なのに男ときたらそんなことにも気づかないんですもの」
「ちなみに池澤は、彼氏に告白されたのか?」
「わたくしから告白しましたわ。男っていうのは基本、待ってばかりですわ。そんなプライド捨てておしまい…ですわ」
僕が松前に告白するとしたら、それは卒業前になるかもしれないと考えていたことが、どうやら池澤にはバレているらしい。
「女の子にモテる男というのは『いざとなれば頼りになる男』ですわね。次にモテるのが『押しの強い男』ですわ。ちなみにわたくしのお兄様は『押しの強い男』ですわね。そして恐らく『いざとなれば頼りになる男』に負けたのですわ」
僕はちょっと池澤のその強すぎる言葉に負けてしまいそうだ。
「わたくし、思うのですわ。会長は『押しの強い男』ではなく、『いざとなれば頼りになる男』ですわよ」
「え?」
「私もそう思います!」
松前も池澤も僕のことをじっと見ていた。
「え?」
…照れるじゃないか。
「かばんの中に取っておいたお菓子を会長にあげます」
「わたくしも」
雲行きが怪しくなってきた。
「それ、ただ単にお腹が空いて『みんなでおやつタイム』にしたいだけじゃないか?」
「そうですわ」
清々しいな、こいつら。
松前からは、きんつばだと?池澤は、鈴カステラだ。なんだ、女子高生にしては渋くないか?俺、隠してあるグミを出そうと思ったのに。
「わたくし思うのです。十和子先輩の苗字、松前は、『待つ前』であると!」
「だじゃれ?」
「そうですわ!」
「じゃ、待つ前に聞きます。会長は私のこと好きですか?」
ちょっと待て、ここは居酒屋じゃねえぞ。なに酔ってんだ。
「…ちょっとトイレに行ってくる」
ドアを開けるとそこには、壁に張り付いた真島がいた。
「何をしてるんだ」
「会長こそ。逃げるんすか?」
第48話「忍者」
俺は真島樹(ましま・いつき)。忍者の末裔の家系だ。俺は隠れて生きている。なぜなら、忍者だからだ。しかし、松前は何でもできる。美人で勉強も運動もなんだって出来て、性格も良い。そういうのずるい。俺に無いものを全部持ってる。何か一つでも欠けてるはず。そんな風に思って見ていた。でも気がついた。よく、なにもないところで転ぶ。そして、本当は何でもかんでも頼まれることに対して困っている。
「手伝ってくれてありがとう。大助かりだよ、真島くん」
「なんで気づいたの?」
「わかるよ」
「こんなに、なんで頼まれたの?」
「だって断れなくて」
俺は忍者だから、居ないことになりがちだ。でも松前は気づいてくれる。ガラガララッと教室の扉が音と立てて響く。慌ただしいと言えばそれはいつもお嬢様言葉を使うあの子だ。
「十和子先輩!樹先輩!五時からは、生徒会役員の大仕事がありましてよ。間に合わせにわたくしもお手伝いいたしますわ」
スーも俺に気づいてくれる。
「なんでスーにも気づかれたんだろ。隠れていたのに」
「だって、そりゃね、真島くん。手を動かしていたらわかるよ。自分がやった量もわかってるのに、気がついたら後に片付けるはずの仕事が減っていたら。そんなの気づくに決まってるでしょ?正直ね、大助かりよ」
松前はそう言って、なんか俺、照れた。
「そうですわ。そして、ただ隠れてひっそりと話を聞いているなんて、樹先輩は✕✕✕ですわ!✕✕✕ですわよ」
相変わらず、すげえこと平気で言うなあ。ちょっと傷つくよ。
「それにね、会長も気づいてたみたいなの。こんなぴったりな人材はなかなかいないってこと」
俺は会長にスカウトされて生徒会に入ることになった。普通なら生徒会役員選挙に参加して投票の多い者が所属するものであるが、そうしないでも生徒会役員にふさわしいと推薦され、なぜか、言われるままにそうなってしまったのである。
「俺、忍者の末裔としてはとても苦しい気持ちなんだけど。入学から卒業まで、面倒な事には極力関わらずに最期まで帰宅部で通して、家で修行するつもりだったのに。なんで分かるんだよ」
「そういや、昨年まで心霊現象があった中央階段の件は結局どうなったんですの?あれは、樹先輩ではなかったんですわよね?」
「あれは本物の幽霊だったんだよ。真島くんが取り憑かれちゃって怯えてたんだよ。それを私が見つけてね」
「へえ。それはまた相変わらず、ポンコツ、ですわね」
「お祓いをしてもらってそのあと会長が片付けてくれたの」
松前はいつもいつも、会長が、会長がって言う。スーはそれを楽しんでる。スーは「いつになったら付き合うんだろうな、この二人」って思いながら楽しんでるに決まってる。でも正直、俺は悔しい。そして、なんとスーはそれまでわかっていながら、俺を煽るのだ。
「そういえば樹先輩はわたくしの彼氏にちょっとだけ似てますわ」
「へえ、そうなの?」
「樹先輩よりずっと完璧に隠れることができましてよ」
「えー、それは忍者として心外だな。どんな風に隠れるんだ?」
「うーんと、そうですわね。例えるなら、キツネが葉っぱを使って一瞬で消えるみたいな…」
「変化(へんげ)ができるってこと?」
「まあそんな感じですわ」
「それはすごい。俺なんて全然だめなのに」
「そうですわね。ポンコツですわね」
俺はすごい言われように苦しむ。
そして、五時になると会長がやってきた。
こっから、俺の仕事は別行動だ。
「真島。計画書、渡した通り頼んだぞ」
「分かったよ。しゃあねえな、やってやるよ」
俺は思う。正直、会長は憎むべき相手なのに、一番良いやつで、嫌いじゃねえ。そして、一番俺を信用していて、かわいがってくれる先輩でもある。
スススと松前が近づく。
「会長!あのですね、この点についてはどう思われますか?」
「松前、それはだな」
…やっぱり俺、会長のこと嫌いかもしれねえ。
第49話「きなこもち」
私はこう言った。「『偶然』っていうのは全部『わざと』起きる。神様は全部知ってて、私たちがそれを知らないだけ」。すると、カンちゃんは「そんなの、女の子が言うことじゃない。それにそんなことは本に書いてない」って言った。「じゃあ、私が書いてあげる」って。それで書くことにした。カンちゃんは全部答えを欲しがる。正解はなんだろうって考える。ほんとにそれって、理系あるあるだ。それに、たどり着かなきゃだめ?だけど私は決められない。だからカンちゃんが決めてくれて助かる。それでいいの。ほんの少しの微熱。冷蔵庫のミネラルウォーターで溶かして。
女の子の世界っていうのはすべて「曖昧なもの」で出来ている。解決策は要らない。曖昧なことばっかりを詰め込んだ箱なの。安心と永遠と理想が欲しい割になぜか、宇宙みたいに基準がなくてふわふわした不安なファンタジーに恋してる。だから、それはつまり、「全部わざと起きる」「コペンハーゲン解釈で正解」なの。それ以上明確なものにしたらつまらなくなってしまう。そんな、ケ・セラ・セラ。
私はきなこもちを食べた。スーパーで買ってきたきなこもちを食べた。並行世界の私はきなこもちを食べなかったかもしれない。そもそも、スーパーのパンとか和菓子とか売り場で隣りにあったおはぎを買ったってよかったし、三色団子だって良いなって思った。でも、カンちゃんはきなこもちがいちばん好き。だから私はきなこもちを買ってきたような気がする。カンちゃんが帰ってきたら、きなこもちを買ってきたよって渡すんだ。実は三個入りだったの。私が買ってきたからいいじゃんって思って一個つまみ食いしたの。でも、あと一個ずつを一緒に食べるんだ。黒蜜をかけて。きっと、カンちゃんと一緒に食べたほうが美味しいから。カンちゃん。いつ帰ってくるかな。また研究に没頭してるかな。また浮気してるかな。もう何でもいいや。
私は、きなこもちを保冷バッグに入れた。自転車にまたがって坂を登る。もし、研究室に籠もってるなら差し入れの配達というやつだ。もし研究室に居なかったらサクちゃんにあげよう。その時はカンちゃんが浮気症な愚痴を聞いてもらうんだ。だけど、それでも私はカンちゃんが研究室に居て一生懸命だと信じてこの坂を登るの。
第50話「分岐点」
おれは思う。変わらないものなどないと。そして、これからを考えたとき、おれが大切な人たちはこの街には残らないのだろうと思う。
最近のシズカは楽しそうで、大学教授の知り合いの研究室に行ったっきり、あまり帰って来なくなった。あちこち転々とするのはいつもと変わらないが、心持ち様子が違っている。カスミも進路が固まってやりたいことに向き合いたいらしい。
そんな近況におれはたいそう悩む。自分に向いていることを探して、1からはじめようと新しい道を切り拓いていく奴らに比べて、敷かれたレールを選ぶおれはちっぽけな気がしてくる。比較するなとかそういうんじゃない。いつもは迷惑なほど絡んでくる人間がいなくなると寂しい錯覚に陥って、おれは人や物のせいにしているんだな。本当は嫉妬してるんだ。だけど、それはどうにもならない。
カスミと付き合いはじめて、おれはずっと気がついていて見なかったふりをしていた真相を知っていくような気がしてならない。シズカが未来から過去へとやってきたことの意味と、カスミの存在と、それはどこか繋がってしまうようなこの違和感がいつもおれを離れない。姉弟のはずのシズカとおれは全然似ていない。しかし、カスミとシズカは時々同じ人間かと錯覚することがある。
「なに、ヒロム」
「たまにカスミはシズカに似てる瞬間があるよな」
「それ、実はよく言われるの。ヒロムには初めて言われたな」
「よく?言われるの?」
「うん。よく『姉妹だと思ってた』って言われることがあるよ。名前もなんか音が似ているし。わたしとしては嬉しいんだ。シズカさんは美人だから」
なんでだろう。性格は全然違っているのに、似ている気がしてしまう。近すぎて気付けなかったことに、おれは今気づいてしまいそうなそんな違和感。カスミと付き合うと多分そういうのが暴かれていく。もやもやした感情に、鮮明になってしまう世界に、その先にある未来がぼやける。
「おれさ、運命ってのはあると思うんだよ」
「そうなの?」
その運命があったらおれはカスミとは一緒にいないだろう。でも、
「パラレルワールドってのは、あんのかな?だったらおれ、行ってみてぇかも」
「どうしたの?急に」
「右と左、どっちに進む?」
カスミは少し悩むようにして、言った。
「ヒロムが前に言っていた『運命には抗えない』ってやつ?」
「そんなとこ」
「シズカさんが過去に来ることがない未来ってこと?」
「そうするとおれが生まれてこない」
「それはわたしが困る。だって今のわたしもいないってことでしょ」
「パラレルワールドにはカスミはいるよ」
「でもやっぱお父さんも死んじゃってるわけだ」
「それもわからない」
「自分のせいにし切れないことっていうのはさ、なんだか難しいよね。でも、わたしが思うヒロムの好きなところは『人のことを自分のことのように考えられるところ』だと思うの。だけど時には自分のことも大切に考えたらいいんだよ。誰もヒロムのやりたいことを否定したりしないよ。だっていつも自分のことのように考えてくれるから、わたしだってヒロムに大事なことは相談されたいし、考えたいんだよ」
「そうだな。それには一理ある」
考える、そして、向き合うっていうのは、我を忘れることだ。自分の存在が消えそうなくらい、一つのことに集中して、自分が何者であったかなんてどうでもよくなることだ。しかし物事には何事も分岐点というものがある。そんな地点に立つと不安になる。男たるものとはいえ、おれにはそんなきっぱり決断できない。おれのたったの一手で、過去も未来も変わってしまう。おれの好きな街が変わってしまう。確かに世の中には変わらないものなどない。でも、変えてしまっていいのか?
「カスミは進路を決めたって言ってた。おれに相談はなかった」
「ヒロムと同じだよ。お父さんのやってたことをやるの。ヒロムと違って本人に教えてはもらえないけど、背中を追えば何か見えてくるかもしれないから。相談しなくても、ヒロム、それならやってみたらって言いそうだなと思ったの」
過去に執着してるおれが悪いのかと思っていた。でも、自分の起源を大事にして何が悪いんだろう。おれは長年ずっと一緒にいるからか、いつの間にか心の中にカスミもシズカも生きてんだ。
「じゃあその道で、この街には帰ってくるわけ?」
「うん。そのつもり。待っててね」
「わかった」
第2部(第1話〜第50話)
第1章(第1話〜第10話)
第1話「寝起き」
「おい、今川。起きろ」
「ふぁあい、君島先生…」
「俺の授業中に眠るんじゃない。その上欠伸までするな」
「だって君島先生の声って心地良いんですもん。あ、君島先生、今日も相変わらずかっこいいですね。好きです」
「あのな…お前、歴史の…俺の授業中だぞ」
いつも通り君島先生に怒られた私は、今川ここの(いまがわ・ここの)。中学生3年生。好きな人は君島先生です。
「先生の好みのタイプってどんなですか?」
「サラサラで黒髪でスタイル抜群な年上の女」
私は髪の毛くるくるで茶髪でショートヘアです。
「具体的に芸能人でいうと誰ですか?」
「柴咲コウ…とか」
「ちなみに先生、彼女いますか?」
「います」
私は撃沈したので、今度は寝たふりをした。
「寝るな」
「先生ったらあ、もお、ひどいわっ!」と隣の席の馬場冬至くんが裏声で言った。クラス中がそれにつられて笑う。
寝ぼけながらも先生の授業があっという間に終わり、鐘が鳴るともう給食の時間になっていた。
「大丈夫なの?」
「何が?」
「ご飯食べたらまた眠くなっちゃうんじゃないの?」
安奈(あんな)ちゃんはいつも通り私を心配してくれているらしい。
「眠くなるのは、なぜか、君島先生の授業のときだけなんだよなあ」
「君島先生みたいなわかりやすい神授業をする先生の前で堂々と眠るなんてすごいし、寝起きにニコニコしたり告白したり質問攻めできるの、こっこくらいよ」
「そうかなあ」
「天文学的確率よ」
「へえ、運命ってこと?」
「褒めてないからね」
「でもまあ、こっこの寝起きが良いってことだけは良かったんじゃないのかな?」
穂香(ほのか)ちゃんは優しくそう言う。
「そうね寝起きが悪かったら…もっときっと最悪だものね」「それはいえてる」と隣の席の馬場くんが笑いながら言った。
「こんなバカ女が主人公の始まり方ってある?」
「あるんじゃないの?バカな主人公ってよくあんじゃん」
「誰が読みたいのよ。今どきならもっと魅力的な主人公でしょ?こう、ドカーンとしてるのよね。キャラクターデザインも魅力的だし」
「そうね。こっこのキャラは古いのよ。それに先生が生徒に手を出すわけないでしょ?そんなあらゆるタブーばっか連載する少女漫画だらけだった平成初期はもう20年も前なのよ」
「でもさ、あの頃の作品っていいよね。主人公じゃなくて脇役がひときわ輝いてて」
「そうね。脇役が大人気キャラになりがちよね。主人公がほんとポンコツだから」
安奈ちゃんも、馬場くんも、真紀(まき)ちゃんも、ひどい。
「…私のことバカっていいたいわけ?」
「だってただのバカじゃん」
「うっ…でも、例えばさ、穂香ちゃんの好きな人気アイドルの小林くんって25歳でしょ?君島先生と年齢変わらないじゃん」
「だからって現実の学校の先生好きになるのはだめでしょ」 「そうそう、先生困ってたよ」
「困ってたってゆーか、怒ってたよ」
「『俺の授業で寝るたあいい度胸だなぁ』って牙むいてたよね」
「きば…」
「君島先生がそこそこ格好いいのは認めるよ、でもさ」
「小林くんより格好いいよ」
「それはない」
「私はテツ様も良いかなあ」
ほのちゃんは相変わらず面食いだ。
「ああ、テツ様いいよね。格好いい」
「わからないわ。どこがいいの?ただアラフォーのオッサンが格好つけてるだけじゃない」
「安奈ちゃんがそんなにテツ様が嫌いだとは知らなかったよ」
「君島先生って下の名前何だっけ?」
「君島準」
「ジュン様!ぴったり」
「やばいね。重症だ」
「とにかくね、ジュン様の授業中見る夢は良いんだよね」
「こっこ、それ遠回しに先生の授業つまんないって言ってない?」
「言ってないよ。なんか、誘(いざな)われるっていうのかな」
「イザナワレル?」
「そう。なんか、眠気を誘(さそ)うというか、こう、うまく言えないけど」
「君島先生の授業、面白いのにね」
「そうそう、わかりやすいよ」
「遠回しに失礼なことしてるって言いたいわけ?」
「そう」
わかってないなあ。みんな。君島先生の良さを。
「なんだ。アイドルみたいな感じで君島先生が好きなわけ?」
馬場くんが言う。「そうだよ」と私は答える。
「ふうん。恋愛対象なのかと思ってた」
「そういうのとはたぶん、違うかも」
「さっき、いなされたから?」
「ま、そうね」
「じゃあ言うけど、今川は寝顔がかわいいよ」
「だから起こしてくれなかったの?」
「そう」
第2話「バカな性格」
おれは職員室で次の授業の準備をしていた。
「ジュン様!」
「誰がジュン様じゃ?俺の授業でいつも居眠りしやがって」
「あのね。会いたかったんだ。長い夢だった気がするの。長い歴史の旅行して戻ってきたみたいな気分なの」
「えっと…?どういうことだ?なんの話だ?」
今川ここのっていうバカな宇宙人は、本当に奇妙な女生徒だ。なぜ女子中学生が10も離れた男性教師に平気で抱きつけるんだ?法に関わるロリコンを疑われるからやめろ。俺は普通にサラサラの黒髪ワンレンロングの年上のお姉さんがタイプなの。こんなくせ毛で茶髪のショートヘアのチビ、興味ねえの。
「あのな、意味がわからん。説明しろ。そして、ここは職員室だ。離れろ」
周りの教師が今川を見て笑う。なぜそう微笑ましそうに笑うのだ。だめだろ普通に。
「お前、テストは大丈夫なのか?」
「大丈夫じゃない!」
「それで来たのか」
「違うよ。聞きたいことがあって」
「わからないとこがあって、きたのか?」
「どうしよう。寝てたから全部わからないよ!」
「それは大変だ。しかし、せいぜいがんばりたまえ。じゃあおれは次の授業の準備があるから」
「ひどいよ、せんせえ!」
「ひどいのは居眠りしたお前だろ!」
悲しそうな顔で今川はおれを見る。おれは悪くない。授業中眠るのが悪い。
「あ、そういえば先生って、ピーマンが嫌いなんだね。入ってたね今日の給食の青椒肉絲に…」
お前、どうしてそれを。
「あと、ぬいぐるみが手を振ってたよ」
「…ぬいぐるみが手を振る?そんなことあるわけねえだろ」
「えへへ、夢を見たよ、いっぱい。先生の声ってなんでか絵で浮かぶの。あとはその名前を知るだけで大丈夫。いつもありがとう!」
今川はおれにそう言って踵を返すとさっきの態度はなかったように、寧ろそこには凛とした女性が居るような、そんな雰囲気が歩いていった。俺はなんだか唖然として、一瞬時間が停まったような感覚に陥った。
あいつが夢を見ながら授業が受けられているとしたらそれはなぜか。夢を見ることに関して心当たりはあるが、問題は今川ここの。あいつだけがそうなってることだ。
「今川さん、あの性格で勉強できますもんね。模試で志望校に余裕で合格できる学力だっていうのにまだなんだか楽しそうに勉強熱心なんですよ。この前なんか数学では満点取られましたよ。結構な難問を入れたはずなのに。なんだか不思議な子ですよね」
確かに今川の成績は良い。あのバカな性格で打ち消されて忘れがちだが、学年でも上位なのである。なぜだ。意味がわからん。まるで俺の兄ちゃんみたいで…「なんか腹立つ」。
「抱きつかれて腹立つのですか?」
「ああ。すっげえ、むかつく。バカはバカでいたほうがかわいいと思う。教え甲斐がない。むかつく」
「むかつくとか言いながら、ニヤけてませんか?」
「いや。そんなことでニヤけるか馬鹿野郎」
「ともかく、君島先生から見た今川さんは、バカで、かわいくて、勉強ができて、教え甲斐があると」
「違う」
「そう言ってるように聞こえますけど」
「断じて違う」
「あの…君島先生。質問があって来たんですけど」
「あ、ああ、なんだ?馬場か。珍しいな」
「あの…あんまり今川をいじめないでください。あいつは今川氏真じゃあ、ねえんですから」
「馬場は武田氏の家臣だろ」
「君島は宇都宮氏の家臣ですよね」
「おー、よく知ってるな。お前、俺に歴史の授業の質問があって来たんだよな?」
「そうっすよ」
「お前、火事場泥棒は、しないんだよな」
「しませんよ」
「じゃあ聞くけど、それなら宝物を火にくべてしまっても問題はないよな?」
馬場はそれを聞くと少し返す言葉に悩み、考えこんだようだった。
「氏真は戦国大名としては確かに弱かったかもしれないが、乱世を生き残るためになら何でもやった。あいつにもそういうド根性みたいなもんがあるよ。俺を牽制をする暇があるなら、もっとちゃんと違うとこで戦えよ」
「言われなくても、そうしてますよ」
そうやって鼻を膨らませ口をとがらせ、しかし俺を睨んだような目はなんだかちょっと切なげだった。おじさんな年齢に近づいてきた俺は、俺はこいつらの青春のダシか?と、なんだかつまらなく思った。
第3話「ごほうび」
君島先生から私に話があるらしい。私は呼び出されてワクワクしながら社会科の準備室に向かう。
「せんせー!!話ってなんですかあ?」
「よく聞け。今川ここのつ」
「ここの、です」
「お願いだから俺の授業で居眠りをするな」
「どうしてですか?先生はわかってるでしょ?普通の居眠りじゃないって。だから誰も傷つかない…私もそのほうがいいんです。だから、どうしてですか?」
私は悲しい気持ちで先生に聞く。
「お前のように居眠りしてても成績が良いバカがいると、周りにも居眠りするヤツが出てくるかもしれないじゃないか」「そんなこと誰も真似しませんよ。受験生ですし、バカじゃあるまいし」
「お前がそのバカだから言ってるんだ」
「はい」
「居眠りしていい点取ったら、必死こいて勉強してるやつに申し訳なくならないか?」
「なります。そのとおりです」
先生はやっぱり困ってる。それがなぜかわかってる。私が夢を見ると先生の頭の中を覗いちゃうからだ。そしてそれを先生はわかってるからだ。
「恥ずかしいんですか?」
「え?」
「頭の中を覗かれるのが」
「いや、違う。そうじゃなくて」
違うなら、なんなんだろう。
「私、好きですよ。先生の頭の中にある夢の世界」
確かに黒髪サラサラワンレンロングのおっぱいおっきいお姉さんがいっぱい出てくるけど。
「とにかく、俺の授業で居眠りをせず、それでも満点取れたらご褒美をやる」
「ごほうび!!?」
突然、ごほうびだなんて…なんだろ。
「どんな、ごほうびですか?」
「大したもんじゃないけど、隠しといたほうが効き目がありそうだなと思うんだよな」
「それはそうだと思います!」
今、私、めっちゃ鼻息荒いかな。
「どうした?」
「なんか、嬉しくて」
「この箱に入ってる。それくらい曖昧な方が、今川なら出来るだろ?」
「はい!」
「他の生徒には秘密な」
「…どーせ、消しゴムとかですよ」
「消しゴムのほうが良かったか?」
「いえ!」
「まあ、ちょっと、いや、かなり、贔屓してあるけど」
「ほんとですか?」
「うん」
「あ、先生。今、私のことちょろいと思ったでしょ」
「お前は俺の授業が好き過ぎる時点でちょろいんだよ」
「先生の言葉はいつも、素っ気ないダークチョコみたいなんだよ。でも頭の中は、はちゃめちゃなカラフルなゼリービーンズみたいな世界なの」
「そんな?」
「そう、まるで『ザ・乙女チック』というやつなのです」
「お前のほうが、乙女チックだと思うけど」
第4話「本当の気持ち」
俺は馬場冬至(ばば・とうじ)。大家族8人兄弟の二番目に生まれた。放って置かれて育った。その割にはしっかり者だと思う。兄弟の中では一番の嫌われ者だと、自分でよくわかっている。
俺の家は散らかり放題だ。何がどこにあるか分からなくなり、名前を大きく書いても勝手に使われ、自分のお小遣いで買ってきた食べ物でも勝手に食べられ、犯人は見つからず謝罪がないまま行方不明だ。借りパクされたものは二度と戻ってくることは無いだろう。そんなカオスである。しかしある時俺は、最大の武器を身に着けた。それは整理整頓である。俺はアルバイトをして専用の簡易的な机と棚を買い、場所を作り、収納した。今はもう他の兄弟はそれを「冬至の私物」「冬至専用の場所」ということを知ると誰も触らなくなる。片付ける習慣の無い男集団にとって、綺麗に整えられた場所というのは不可侵領域になるらしい。まあ、家族にとって俺は怖いのだろうが、俺としては常に快適なので文句はない。そんな家庭環境で育つと、俺は世の中自分だけが頼りで、自分が何もしなければ何も起こらないし、自分が何か行動を起こせば何かがある。そんな感じだと思っていた。まあ、8割くらいは今もそう思っている。他人なんて信用できないし頼りたいと思えない。そんな暗さが俺にはずっとあるのだ。
だから、今川みたいな明るさは眩しくて仕方ない。前向きでいつも楽しそうに、そういう何か恐ろしいものに縛られて曲がって生きていない。だから、俺の場合の今川への気持ちは生半可なものじゃないんだよな。多分俺の持ってる今川への好きは、普通の感覚じゃない。執着心や束縛や、嫉妬や、隠しておきたい何か、感情の渦、それがうじゃうじゃしている。そういう気持ち悪い方向へ向いてしまっていて、だからこそ、表面は綺麗にして見えないように隠さなきゃならない。そして俺は隠すけど、今川のは隠して欲しくなくて、気持ち悪いくらい今川を見る。小さな変化を見逃したくない。ああ、なんて俺は重くて暗いんだろう。いろいろ聞きたいことはあるが一個に絞ろう。でないと逆に警戒される。
「今川が君島先生の授業で居眠りをしなかったなんて、珍しいね」
「先生と約束したの」
「どんな約束?」
「居眠りしないって」
「へえ…そーなんだ」
俺はヘラヘラと作り笑顔で笑う。俺は今川が無条件で約束なんてするとは思えない。君島は今川を何かの餌で釣ろうとしてるんだろうな。
「約束も何も、居眠りしないのが当たり前なんだけどね」
安奈はいつも今川をつつく。
「相変わらず安奈ちゃんは厳しいね」
そうやって、つつかれても今川は平気でぽんと言葉を返す。「居眠りしてるようなこっこに、歴史のテストの点数、負けたのが悔しかったのよ」
「そうだったんだ」
「安奈ちゃん、私のことライバル視してたの?」
「そりゃそうよ。勝負するなら勝ちたいもの」
「勝負とか、そんなこと考えたこともなかったよ」
「それは、私のこと『相手にもならないって思ってる』って言ってるのと同じことでいい?」
「違うよ」
「そのボケた性格、ほんとどうにかしてよね」
安奈にはいつも最後の決着みたいな言葉で言いくるめられると今川は途端に黙る。そして、今川はただ蚊に刺されて捕まえられず飛んでいったあとみたいに、別のことを考えて紛らわす。
「…うへへ」
「なんかよだれ垂れてるよ」
「また妄想マイワールドにトリップしたのね」
「…うへへ」
「現実逃避に能天気ね」
「頭悪そうな顔して頭良いのがムカつくわ」
俺はいつも不思議に思う。こいつら、今川を悪く言い過ぎじゃないか?一体、今川の何を見て友達やってんだよ?
「正確には、頭の悪い性格だけど、成績だけは良い」
「そう、それよそれ」
厳密には、頭の頗る良い、とぼけ上手。
「でも…今川はかわいいからそれで全部チャラ」
「馬場くん!」
「何?」
「いつもそうやって、こっこを口説こうとするときって…いつもタイミング悪くて…ほら、もう爆睡してる」
「あはは、タイミングってのは難しいよね」
わざと眠ったか。
「あんた、よくこんな変人が好きよね」
「ほんとね」
「苦労するでしょ?」
「うん。こんな良い寝顔してさ、どうせ君島先生の夢でも見てんだな。俺なんて全くでてこないんだろうね」
今川の生態が掴めないのは、10秒も経たずに眠れることだ。「昨日夜ふかししたから寝る」と言っていたかと思うとすぐ熟睡している。俺はいまだに、君島の授業のときの今川の寝顔が、このいつもの寝顔とはなんだか全然違うほど穏やかで気持ちよさそうなことに苛立っている。俺の知らない今川を、たとえ学校の先生でも、君島が知っていそうなのが許せない。
あいつ、火事場泥棒と言ったか?俺のことを?そうだな。俺はまるで戦国時代の家臣だよな。今川を守るためならなんだってできそうな気がするんだ。
「付き合いたいって言ってみたら?」
急に安奈はいつも今川に話しかける時のように強気な口調で俺に言った。
「なんで?」
「だって、好きなんでしょ。今、そんな顔してんじゃない」
「そんな顔って、どんな顔だよ」
さっきまで散々今川のことを悪く言っていた女子が俺を見てニヤニヤしている。なんなんだ。俺はちょっとムッとした。「馬場くんって自分ではクールなつもりかもしれないけど、結構隠せてないよ。こっこが好きなこと」
「隠してないし、今川は気づいて、とっくにわかってると思うけど」
「こっこみたいなおバカには、真っ直ぐしか伝わらないし通じないと思うけどね。君島先生はそういう意味では真っ直ぐだから」
「君島のどこが真っ直ぐなわけ?」
「俺はこんなに歴史が好きなんだ。だからお前らに教えてるんだぞ。ほーら面白いだろおって、ほら、誰かさんによく似てる」
「似てるか?」
「こっこが君島先生が好きなのは『共感』で好きなんだよ。でも、馬場くんがこっこのこと好きなのは自分と『正反対』だから好きなんじゃないかな?」
「そう」
「でしょ」
それは確かに納得できる気がする。でも、
「曲がったままじゃ嫌かな?俺の今川への気持ちはさ、絡まったりいろいろごちゃごちゃしてるんだ。たぶん、そのままぶつけるには気持ちが重すぎるんだろうなって思うんだ」
俺はなんだか不意に本質を突かれたからかムキになって、結構強い本音を口に出してしまったことに気づいて後悔した。なぜ、今、俺、こいつらに、こんなこと、喋った?
「すごいね。なんかこう愛してんだね。そんで葛藤してるんだね」
「今の言葉をそのまま言えば良いじゃんか」
「え?」
「すごくよくわかった。めちゃくちゃ好きだけど付き合うには自分の気持ちが強すぎるから傷つけたり上手く出来なくてだめになりそうってことでしょ?それって、こっこのことすっごい大事にしてるってことじゃん」
思っていたのと違う反応で、俺はなんだか不安なようなほっとしたような、複雑な気持ちでいた。
「今の真っ直ぐで、珍しくぜんぜん曲がってなかった。私達はね、ちょっと性格に曲がってるところがあるからこそ、こっこの言う真っ直ぐな言葉ってのが響くんだよ。だけど真っ直ぐなこっこには曲げ方っていうのはわからない。それは問題だよ」
「そうだね。そういう意味ではこっこも馬場くんもなんだか頑固だよね」
「本当の気持ちそのままを言っても、たぶんこっこは傷つかない。どんなものでもとりあえずは受け止めると思う。だって、こっこは真っ直ぐだから。眠気が起きた時についつい寝ちゃうバカだからね」
「俺のこと嫌わないかな」
「私達の知ってるこっこは絶対に嫌わないよ」
「そうかな。そうだといいな」
「『愛は小出しにせよ』って言うじゃない?ちょっとずつ言ったらいいんだよ。それからさ、中途半端に口説きはじめたりするんじゃなくて、朝学校来て最初に『おはよう。今日もかわいいな』が喜ぶんじゃないかな」
「え、それ、俺、うざがられない?」
「うざがられてるなら、もうすでにうざいって言われてるんじゃない?」
「そうなのか?」
想像してみた。
朝、学校にきて今川から「おはよう馬場くん!」はあり得るし、現実的だ。しかし俺から「おはよう今川!今日もかわいいな」はあまりに不自然じゃないか?
どうやらみんな同じように想像したらしい。
「ほら、俺にそれは無理だろ?」
「こいつ今叩き起こす?実践あるのみだよ」
「え?やだよ」
「やってみよう」
「うん。やってみるべきだよ」
「キャラじゃないよ」
「いや、そんなことない」
「面白がってないか?」
「いーや、真面目に言ってる」
俺は今、動揺している。深呼吸をしよう。冷静になれ。そう思いながら、俺は準備を整える。
「おい、何をしている」
「だって邪魔者は消えたほうがいいでしょ?」
「さあ退散だ」
女子たちが教室を出て行った。眠ってる今川だけがここにいる。でも、いや、だって、ほら、さっき、言ってたろ?安奈が今川を叩き起こすって、言ってたろ?俺、無理だよ今川を起こすなんて、そんなことできない。やっぱり俺、動揺してる。今川の寝顔、見慣れてるはずなのに目の前にいるのは、女の子、なんだよなあ。迂闊には触れられない。まつ毛が長くて、体が小さくて。安奈はどうやって起こしてた?君島はどうやって起こしてた?思い出せない。そんなこと今まで考えたこともなかった。傷つけたくないとか、嫌われたくないとか、そういう前に俺はどうしたいんだろう。
考える。
今、俺が自分のためだけを考えるなら無理に今川を叩き起こしたくはないなあ。今川が疲れて寝てるなら起きるまで俺は待つ。もし最終下校時刻になっても寝てるなら俺は今川を背中に乗っけて家まで送るよ。俺ほんとに今川への気持ちが重いよな。自分でも引いてるよ。
「私また寝ちゃってた?」
「うん。なんか夢、見た?」
「見た。指からビーム出る夢」
「なんだそれ。効果は?」
「ビームがあたった人の動きが止まる」
「しょぼい」
「しょぼくないよ」
「だるまさんが転んだ、みたいな感じじゃ、しょぼくね?」「違うよ。くしゃみの途中とかでも止まるんだよ。間抜けな顔や不細工な顔が見れるよ」
「スローモーションってやつ?」
「そんな感じ」
「それって、どんな顔?」
今川は微妙な顔芸を披露した。
「こんな感じかな」
「もっと、こんなじゃないかな?」
「ええー?じゃあこんな」
「そうそうそんなかんじ」
いつの間にか俺達はにらめっこみたいになって、二人で顔を見合わせて笑った。
「今川」
「ん?なに?」
「俺さ…お前のそういうとこ好きだ」
「どういうとこ?」
「バカなとこ」
「それって褒めてないじゃん。バカにしてるじゃん」
「だって、バカじゃん」
第5話「時間」
「閉店ギリッギリのお時間ですよ。お兄さん」
「うっせ、今日は残業だったんだよ」
「口が悪いですよお客さん、ガッコーの先生のくせに」
「ストレス溜まんだよ。良い人やってっと」
俺は最寄り駅で買い物をして帰る。いつもの商店街の八百屋だ。
「ジュンはほんと、ほうれん草が好きなあ」
「ほうれん草なんかほんとはどうでもいいよ。八百屋のオッサンのこともどうでもいいけど」
本当は俺がシズカさんに会いたいだけ。ここはシズカさんの実家だから。
「シズカなら当分は帰って来ねえぞ。そんで、シズカはその八百屋のオッサンのさらに5歳も年上なわけだけど…」
「うるさいなヒロム」
「会わないほうが良いと思うけど?時ほど残酷なものってねえから。あいつがどんなに美人でも、老けるもんは老けるの」
「初恋ってのはさ、忘れられないものだよな。いいじゃねえか、減るもんじゃないんだし」
「君の場合が異常なの。忘れなさい」
そもそも、双子の兄弟と俺との年齢が12歳も離れてたことも要因だったと思う。年上が好きなのは断じて俺のせいじゃねえ。綺麗なお姉さんがこんなとこで店番してただけだ。色っぽくて綺麗で、美しいって言葉の意味がわかるようなそんなお姉さんだった。本を読んでても、笑っていても、手を振ってても、いろんな仕草が思い出せる。…でも確かに俺は不意に自分と重ね合わせてしまう。今川を重ね合わせて見ると、なんだかイライラする。俺が無謀だっていうのを、同じように感じてイライラする。今川と俺の年の差は10歳、俺とシズカさんの年の差は17歳。数字で考えりゃ今川のほうが遥かにマシに聞こえてくる。早く大人になりたくてシズカさんに追いつきたくて、けど俺がどう頑張っても、どう足掻いても、ヒロムの言葉が繰り返される。「時ほど残酷なものってねえから」…うるっせ黙れ。残酷?そんなはずあるか。俺はやっと、やっと大人になれたのに。
「おい、テディ。帰ったぞ」
「遅いなあ。また残業?」
「ああ、でも好きな仕事だからな。あと、八百屋にも寄ってきた」
「ほうれん草…好きだね」
「好きじゃねえよ」
「シズカに会いに行ったんだね」
「うん。…いなかったけど」
「たまには昔みたいに『ただいまー!テディ!帰ってきたよー!どこにいるの?俺と遊ぼう!』って言ってくれよ」
「もう俺はお前と遊ぶようなかっわいーガキじゃねえの」
テディは悲しい顔で「そうだよね」と言った。
「あのな。歴史の授業中に居眠りをする女の子がいて、俺の能力に気づいたらしい。テディ、どうしたら良いと思う?」
「どうしたらって、それはどうもできないよ」
「じゃあ、故意に悪夢を見せてやるってのはどうだ?」
「悪い夢ってのは厳密には無いんだよ。判断するのは見てるほうだもん」
「言われてみれば確かに」
「夢の中っていうのは広いんだ。ジュンの能力に気づくってことは、わざわざ探しにきてるようなものなんだ。それってかなりのフッ軽なんだよ。普通気づけないし、気づくとしたらよっぽどのことだよ。そんなの追い払おうったって追い払えない。たいがい、そういう人間は悪いやつじゃないよ。たぶん、すっごく根が真面目なんだよ」
「真面目に夢を見てる、というのか」
「そうだよ。夢を単なる夢だと思わない人間ってことだよ。人間が見る夢は何かの警告があったり、過去を思い出させたり、いろんな作用をするけれど、それを怖がらず夢の中できちんと知りたい見たいって望んでるんだから、ジュンの夢操りはきちんと見せてあげないといけない。ちなみにその子、夢を見たあとどんな風だった?」
「授業中夢を見ながら、俺の授業を理解しているらしい。寝起きが良いし、記憶もある」
「そうなんだ。それはすごいね」
「つまり…『何かある』ってことだ」
「そうだろうね。欲しがって、それを受け取ろうともしてるわけだもんね」
「正直、『能力』ってのは人間それぞれに少なくとも一個ずつ、あると思うんだ。先天的でも後天的でも、何かしらあって当然だし。でも能力が高ければ高いほどいいとか、低ければ悪いってもんでもない。目立ち過ぎるのも、目立たな過ぎるのも、学校の教師としてはそれが世の中には知られないほうがいいことがあったり、知ってなきゃ損することがあったり、どっちにせよ、今のままじゃ相応しくないことを教えたい」
「出る杭は打たれるってこと?」
「そう。思っているより社会は厳しい。自分の能力を見せるべきなのはどこかっていうのは、信じる人間は、上手に選ばないといけない」
「僕は思うけど、その子、ジュンに出会ってよかったね。ジュンは信じられるし、優しい」
ジュンは一度大きく深呼吸して、自信が無さそうに、しかし何かを決断したように言った。
「俺にひとつ、考えがある」
「なに?」
「俺はもう子供じゃないから、ぬいぐるみっていうのは手放すべきだと思うんだ。テディが喋るぬいぐるみでそれは、俺にとって特別なものだったから大人になっても一緒にいるわけだけど…テディは、そいつに会ってみたくはないか?」
「会ってみたいよ」
「まだ中学生だから、遊んでくれると思うぞ」
「そうだね。でも、ジュンは寂しくならないの?」
「…寂しくなる。でも、そのほうがいいかもしれない。俺は十分なほどテディに助けられた」
「そうだね」
「来年、俺は別の学校へ異動になる。あいつも卒業して高校へ行くだろう。ちょうどそのタイミングが良いかもしれない」
「わかった。そしたら僕は、その子に届いてから何日かは普通の子供用の人形のフリをしたほうがいいね」
「悪いがそうしてくれ」
「新しいリボンを買ってきてくれる?あと、泡風呂もしてね。僕が中古だからって嫌がられないように。おめかしはしたいよ」
「テディはレトロなぬいぐるみだよ」
「そうかな?そう思う?」
「たぶんこれって、俺の使命だと思うんだ。俺がシズカさんからもらったテディを俺から今川にやるのが一番いいと思う」
俺が6歳のとき、テディをシズカさんからもらった。当時シズカさんは既に23歳だった。今の俺は25歳。
俺はテディになりてえよ。今までのすべてを見てきたぬいぐるみになりてえ。老けない、死なない。年の差なんて関係なく誰でも好きになって良いぬいぐるみになりたい。
第6話「夫婦と兄妹」
出来ないことがあった。それを相談するとき母はこう言った。
「やりたいと思うことにしっかり向き合えば、必ず出来るわ。逃げた瞬間に消えると思いなさい。決して逃げない投げ出さない止まらない。わかった?」
欲しいものを買うかどうか悩んでいたとき、母はこう言った。
「確かに欲しいものというのは、簡単には手に入らないかもしれないわ。でもそうやって諦めてしまうのは、格好悪いのではなくって?欲しいものは、欲しがらなければならない。そういうものだと思うの」
女であることは、わがままなこと。そうこの母から教わった。正直、私には全然理解出来ない。地味に無難に生きていくほうがきっと私には性に合ってるけど。でも母は格好いい。母は全然老けない。ピンクのふわふわな洋服も着るし、カジュアルな格好でショートパンツも履く。最新のトレンドを知るためにスマホで雑誌読んだり、SNSしたり、もう、常に若い。
「ガリちゃん、それ、地味じゃない?もっと着飾ったらどうなの?」
「お母さんが派手過ぎなんだよ。もうそれってギャルだよ」
「朝井主任、お車のご用意ができました。こちらへ」
「随分、遅いわね。待ちくたびれたわ。ガリちゃん、明日の予定の資料見せて」
「はい」
何不自由なく、贅沢な暮らしと豪華な家で育った。私はそんな母の娘として生まれたことに胡座はかきたくない。でも、ちょっといくらなんでも見た目が若くたって遊び過ぎなんじゃないかな?そんな母には欠点が一個だけある。男の趣味が悪いことだ。
「南子(なこ)さん、お願いだよ。許して」
「嫌」
「もう二度と浮気しないよ」
「ねえ。カンちゃん」
「ん?」
「その言葉、何度目かわかってる?」
「えーっと…何度目だっけ?いちにーさん…」
カンちゃんは指折りかぞえる。
「今月は5回目」
「カンちゃん、誰のおかげで若くいられてるのかわかってるよね?」
「わかってますよ。不老不死の南子様がいるからです」
「今年で何歳になんだっけ?」
「えっと今年は何年だっけ?」
本多さんはそろばんを打って計算していた。
「あ、今年なんと74歳です。びっくりだ」
「普通に考えたら何してる年齢?」
「おじいさんしてる年齢です」
「それで?なんでまた若い子と浮気したわけ?」
「どうしてだろ?見た目は若いままだし、中身も若いままだし、その上元気ハツラツだから」
「ふざけんじゃないわよ。それで?」
「それで、まーた俺騙されちゃったの」
「透明人間だってことはバレなかったんでしょうね?」
「たぶんね」
カンちゃんは私の実の父らしいんだけど威厳がない。そして、なぜだか私の苗字は本多ではなく朝井である。
「浮気性をなおさないから結婚してあげなかったの」
「へえ、そうなんだ」
「事実婚っていうやつなのよ」
「へえ、そういうのがあるんだね」
でも、私はちょっとだけ知ってることがある。母は研究所の元所長の娘で、カンちゃんはその研究員。博士なのだ。その上、私にはお兄ちゃんもいる。お兄ちゃんはこう言う。
「お母さんはああ言ってるけど、お母さんのほうが財力も教育力もずる賢さもあったってだけだから」
「カンちゃんの浮気は?」
「まあ、お母さんを不安にさせとくための嘘とか、冗談とか本当に浮気とかそんな感じだよ。大人の駆け引きってやつ」
「へえ、なんだかややこしくて難しいね」
「トムとジェリーなんだよ。喧嘩するほど仲が良いって状況で続いてるバカップル」
「トムとジェリーはお友達でしょ?」
「例えだからね。お母さんとカンちゃんは夫婦だし、僕たちのお父さんとお母さんだし」
「ねえ、私、さっき、カンちゃんの年齢を初めて知ったけど、お母さんの本当の年齢を知らないんだけど」
「世の中には知らないほうが幸せなこともあるよ」
「そうなの?」
「桃太郎は桃から生まれてないかもしれないよ。でも、それは詳しくは知らないほうがいいってことだよ」
「ふうん、そうなの。世の中ってのは不思議なのね」
第7話「ナルシスト」
人と人が話をしているのを聞くことがある、聞こえることがある。そういうとき俺が思うのは、話をごちゃごちゃにしてわからなくしてしまうやつがいて、話を全部取ってすりかえてしまうようなやつがいて、話を聞こうとせず自分のことだけ聞いてほしいだけのやつもいる。物事を解決するためだけに要点だけ話そうとするやつもいる。そういうやつらのことを俺は「つまみ食い」っていうんだ。決してそれは、調整するための「味見」じゃない。それで時々、相手の話の先を予測しながらちゃちゃを入れたり、相手に多く喋らせようとするのが上手な聞き上手がいたりもする。それって簡単には説明できないことだからうまく言えなくて、これだけではわかりにくいかもしれないんだけど。聞き上手であることが正解というわけでもないし、要点だけ話そうとすることが悪いというわけでもない。だから本当に話の上手な人というのはいるのだろうかというのは、何もかも、それはすべてにおいて疑問だ。
とかく女の子の声というのは聞き取りやすい。綺麗な音で、鳥のさえずりのようにどこかキラキラしている。
「昨日読んだ本に書いてあったんだ。お金持ちっていうのはたくさん稼いでる人のことじゃなくて、お金を持ち続けるのが上手な人のことなんだって」
「お金持ちになりたいの?」
「そう自分の力でね」
「どんな手段でお金を稼ぐの?」
「長期的に考えたらまず良い大学に行けるように勉強する。短期的に考えたら今のアルバイトをちょっと増やすかなあ」
「最近、カメラを買い替えたからお金がないの。なんで今、椎香にバレてたんだろ?」
「え?だから来月の夏美のシフト、あんなに多かったの?」
「だからさ、今日話すのマックにしよ」
「いーじゃんマック。全然いーよ。なんか期間限定の美味しいやつ出てたよね」
「サムライマック?」
「それそれ」
「ええ、すぐ決心を揺るがさないでよ。いつもとおんなじようにお金使っちゃいそうじゃん」
「バイトで稼いでるんだし、いいじゃん」
俺はポケットから手鏡を出して、開いた。俺は確かに美少年で、それが自分でもよくわかっている。だから俺はよく「ナルシスト」って言われてる。語源はギリシャ神話で、美少年ナルシスは泉に映る自分の姿に恋焦がれて死んだ。そこから来ている。でもナルシストっていうものにも、ちゃんとした定義はあるよ。最近使われるみたいに悪い意味なだけではいけない。本物のナルシストっていうのは、悪い方向に言われる隙も、良い方向に言われる準備も、突然の対応も、なんでも完璧に出来ている上で、自分のことが大好きな人間のことを言うんだ。まさに俺みたいなね。俺は別に自分の姿に恋焦がれたり死んだりなんてしないんだ。とにかく女の子にチヤホヤされたい。俺は完璧だという確認が終わったので、手鏡を元通りポケットに仕舞った。そして昇降口の下駄箱から話が聞こえたかわいい女の子二人組に声をかけた。
「おはよう。しいちゃん。今日もかわいいね」
「いけくん。おはよう。今日もかっこいいね」
「いけくん。目線、こっちに」
「しょうがないなあ。なっちゃん。格好良く撮ってね」
俺はポーズをとる。俺ほどカメラの前で余裕なやつは、きっといないよね。なんせ俺ほど格好良い男なんてそうそういないんだからね。
「いけくん、いいよ。最高だよ」
「それほどでも」
俺はにこっと笑う。なっちゃんもしいちゃんも、なんだか俺の笑顔を見てクラっとする。
「いけくん。今のもう一回やって!撮り損ねた」
「ごめん。何を?」
「さっきのほほえみ」
「え?俺、今、ほほえんだかな?」
こうやって、わざととぼけるのがいいんだろう。イケメンの笑顔は君の特権ってことで。俺って罪な男だな‥。そうしてものすごく冷ややかな目線が後ろから感じられた。
「ガリちゃん。おはよう」
「あんたってすごい気持ち悪い感じの女たらしだわ」
「そう言うのは、ガリちゃんだけだよ。ガリ勉ちゃん」
「うるさいわね」
「わかってないなあ。俺みたいに綺麗な顔に生まれたからにはそれを活かさなくっちゃ勿体ないんだよ。それに需要がちゃんとあるって俺はわかっててやってる。この美しい美貌だって、いつまで輝き続けるかわからないんだから」
「あなたは『幸が薄くない』タイプの『発光』してるのね」
「そう発光ダイオード」
「あの、意味…わかってるかしら?」
「ハッコウといえばね、ついに僕のファンクラブで写真集が『発行』されるらしいんだ。ガリちゃんも買ってね」
「いらないわそんなの」
「冷たいんだから」
「どうしてそんな自分のファンクラブに対して寛容なの?さすがね」
「それって、褒めてないよね」
「褒めてないわよ。でも否定すると…池沢くんの話っていつも否定するほど続いていくのよね」
「適当な『さしすせそ』使うの辞めてよね」
「なんの『さしすせそ』?お醤油?」
「ガリちゃんの強がり」
「あなたのほうがずっと強がりだわ」
こんなふうに俺のナルシストを真っ向から否定する女の子は、ガリちゃんだけだ。俺はガリちゃんの前でだけ堂々と靴箱をあけると、いろんな手紙やらあれこれがどっさり入っていた。それで、ガリちゃんは眉を下げて、ついうっかり「うわ‥」と言った。いつものことだけど俺は用意していたエコバッグにサッと詰めこんだ。「さーてとっ」と俺は上履きを履いた。
「大変ね」
「もらえるものはもらっておかないとね。俺はこれをもらうために努力してたってわけではないけど、努力が報われた形がこうだったってことだもの。がんばってても、もらえないやつもいるもんね」
「じゃあそれは池沢くんにとって良かったことなのね」
「女の子ってのはみんなかわいいんだ。生まれてきたことを誇るべきだ」
「ふーん…そうね」
「それは俺が格好良く生まれてきたのを否定しないのと同じことなんだ」
「それは意味がわからないわ」
「そんな瓶底なんてかけてるからわからないんだよ」
「眼鏡は私の生命線よ」
「なにそれ格好いい。俺も言ってみたい」
「あのね、格好付けて言ってはいないわよ」
「あのさ。ガリちゃんもかわいいよ」
「それはお世辞ね」
「なんでそう思うの?」
「あのね、私をその、あなたの言う不特定多数のかわいい女の子とやらには、加えないでくれる?」
「加えないよ。ガリちゃんはガリちゃんハウスの住人だもの。そこらの女子とはわけが違うよ」
「それは他の女の子にも同じこと言ってそうね。定型文が決まっているかのようで、とっっっても、うざいわ」
「やだなあ、俺はこの世界から女の子がいなくなってしまったら生きられないんだよ」
「あなた、前世はイタリア人だったわけ?」
「あはは、そうかもしれないね!」
「いいわね、そんな朝から元気にナンパで」
「ガリちゃんはまた夜ふかししたの?」
「どーして?」
「目の下、クマあるよ」
「うるさいわね。いいじゃないの。勉強してたのよ」
第8話「友達」
人間誰しも主人公(ヒーロー)になり得るし、悪者(ヴィラン)にもなり得る。視点を変えれば悪者でなくなることまである。頭が良すぎても、頭が悪すぎても、幸せな人は居ないそうだ。賢く正しく生きていても仕方がない。気が付きすぎても疲れる。幸せは自分で決めるもの。言われてみれば確かにいじめや喧嘩の激しいのは進学校か馬鹿校かどちらかの二極化がある気がする。人間は評価されることに慣れると、極端に良くても極端に悪くてもそれは自分にとっての軋轢、ストレスになるものなのだろう。
オレは地毛で生えてくる髪の毛が茶髪で、ヤンキーだと言われる。頭が良いことを自分でわかっていてどんな本を読んでもすぐ理解してしまいつまらない。これは言葉で説明するならなんていうんだろう。ニュートラル?
オレは一人で生きることに慣れすぎている。基本的に何でもできる。正直必要なものは何も無い。身一つで生きていける気がしてしまうほどに、何でもやれる。中学生の時に養父が亡くなって、実の母とはじめて会ったが自分と似過ぎている所を感じた。そして、なぜオレは親が居ながらも養子に出されたのか理解できた。母もひとりで生きていくことに慣れすぎている。だからオレも一人暮らしをはじめることにした。確かにオレは一人が好き。でも、だからこそ寂しさに弱い。愛を欲していながら、愛を突き放す。そんな矛盾だらけ。逆張りだらけ。オレって一体なんだ?
「ふるみん今日は珍しく彼女のあの子連れてないけど、別れたの?」
「そう。オレってある程度一人の時間がないとだめでさ」
「確かにあの子いつもべったりだったもんね」
「オレには、彼女に一緒にいて欲しい時と一緒にいて欲しくない時があんだよ」
オレは池沢とするめいかを食べながら話をしていた。
「俺にはわかんないなあ、一人の女の子だけと付き合うメリットが。たくさんの女の子に構ってもらえるのって最高じゃん。とにかく俺は『いけくんかっこいい!』って言われ続けるのは楽しいし、だけど、それはふるみんとは違って一人の時間はそんなになくても平気なタイプかな。正直いつでもウェルカム!って感じなんだよなあ」
「池沢はどうしていつもこつもそう大勢の前で目立てるんだよ?」
「基本的に女の子の前でってだけね。だって俺はいつでも学校の王子様だもん☆」
「わかんねえ」
池沢はオレとは全然違うタイプの男だ。だからこそなんだか不思議に思う。目立つ、うるさい、面倒そう。そんなオレの苦手三拍子なはずなのになぜか話す時には距離感がちょうどいい。
「ふるみんはキリッとした大人っぽい顔してんじゃん?俺、童顔だから羨ましいよ」
こいつは女のようにいつもこつも鏡ばかり気にしている。そして人の顔を褒めて高評価する。そして、女の子からの目線を過剰に気にする。そんなことより、今食べているチーズ鱈のカロリーを気にしたらどうだろう?
「実はね、ふるみん。俺、昨日、男に告白されたんだけど信じられる?」
「そうなのか?」
まあ確かに女々しいとこあるもんな。
「女の子なら俺のファンクラブ会員にならない?って誘うんだけど、男はそうはいかなくて、どうしたもんかね」
呼び出されて告白されて、女の子に対してそういう対応するのはいいのか?女の子って嫌がらないかそういうの。
「俺はファンクラブに男はおよびじゃないの。汗臭いし泥臭いし。俺は女の子が大っ好きなわけ。だから男を寄せ付けたくないから男らしくなりたいなあと思ってるんだけどさ、でもムキムキではない華奢な感じでいたいのね。なぜなら俺は白馬に跨るような王子様なんだから」
うん。やっぱりこいつ、めんどくせえ。
「要は池沢の恋愛対象は異性で、自分が王子様でいる現状にそこそこ満足してるわけだ。でも今のそのままで生きてると男に告白されることが起こってしまったと。それが嫌だったってことだよな?」
「そお…でもさ、確かに正直嫌だったけど、見る目はあるんだなと思うんだよ。この俺を好きになるなんてさ。嬉しいじゃん?でも、受け入れるのはできないよね。嫌なもんは嫌だからさ、できれば二度とないようにしたいんだ」
「二度目が起こったって、そのまんまでも、いいんじゃねえか?そうそう起きないだろうし」
「そお?」
「池沢はたくさんの女の子に好かれたいモテたいってために努力して、『乙女なところのある男にも好かれた』ってレアケースがたった一回あったってだけだろ?」
「違うんだよ。男の娘じゃなくて、『恐竜に好かれた』んだよ」
「恐竜?」
「5組のでっかいやつ」
「へえ…」
オレはそれ以上聞くのがなんだか面倒になってやめた。とにかく緑茶をごくごくと飲む。
「ね?理解できないでしょ?」
「ああ、理解…できねえな」
オレは池沢とともに頭の中ぐるりと宇宙が広がった。宇宙には柿の種が浮かんでいた。たぶん、池沢は外見に囚われ過ぎている。だからこそ、外見に目が眩むやつがチヤホヤする。いや、意外と内面までしっかり見てるやつもいるのかもしれないけど。
「最近、LGBTとか言うじゃんか。それ自体は自由な思想だし、生きやすい人がきっと増えて悪いこととは思わない。寧ろ好感も持てる部分があったりもする。でも、それって当事者になると何かしら難しいところがあるなと思うわけ。一筋縄ではいかないことというかさ。例えば俺はピンクの服を着たっていいと思うわけよ、女の子にチヤホヤしてもらえるなら。でもたぶんふるみんはピンクは着ないよね」
「着ないな。おそらく、一生着ない」
「『かわいいもの』は女の子のためにある。そう思う男って多いと思うんだよね。男は『かっこいい』って言われたいじゃんか。『かわいい』って言われるのは、不本意だよね」
「そうだな」
「俺は内面も外見も『男』でいるつもりなんだけどね。自分ではね。でも恐竜みたいに極端に『ザ・男』から見た俺は中性的に見えたのかな?特に見た目については、きっとそういうことだよね」
「確かに、外見と内面の齟齬っていうのは、結構よくあるんじゃねえかなと思うわ。見た目女子高生だけど中身がおっさんだったりするじゃん」
「ああそれは、まさしく、おっさんの酒のつまみみたいなお菓子の詰め合わせを差し入れに持ってきたがりちゃんのことですね」
「文句があるなら食うな」
「いや定番こそ最高だし、美味いよ」
「なんでずっと黙って聞いて入ってこなかったの?」
「電話が済んで戻ってきてみたらなんだかすごく難しそうな話題だったから入りにくかったのよ」
「ちなみに最近彼女と別れたばかりの男の家に上がった気持ちを5文字で教えてください」
「『私は友達よ』」
「さすが優等生の模範解答。あったまいーね」
「それに、ここには池澤くんもいるもの」
「まさしく彼女はおっさんです」
「それは日本語なの?ところで友達じゃなかったらなんだっていうの?」
「異性間に友情があると信じて疑わない女」
「なにそれ、じゃあ、ただのクラスメイトってことにするの?」
「うーん、それも距離が急にすごく遠くなった気がして寂しい」
「なんなのよ。私が女であることが悪いみたいじゃない」
「まあそれは悪いことじゃない」
「うん。ぜんぜん悪くない」
「どういうことよ。意味がわからないわ」
そして、がりちゃんは思い立ったように池沢の顔をじっと見た。
「ふむ…」
「え、なに?」
「確かにその顔にフルメイクと女装なんて施されたもんなら正直ボロ負けしちゃうかもしれないわね」
そう悔しがっていた。
「そうだよな。俺の顔、母さん似なんだよなあ…」
なんだか逆に池沢も悔しがっていた。
オレはその様子を見ながら、ちょっと笑ってしまった。どことなく安心をしていたからだ。
「何がおかしいの?ふるみん」
「なんでもねえ」
「なんで笑ってるのかしら?由々しき問題だというのに」
「もうそろそろ帰ったほうがよくねえか?親御さん心配するだろ?」
そしてオレは翌朝、スマホを見ていたら、深夜に池沢から「ガリちゃんがじっと俺の顔とか目を見てきてたよ。そんな不意打ちを食らったよ。思い出したらなんか眠れないよ助けて」というLINEが送られてきていたことに気づいた。
第9話「コンパス」
池沢くんの苗字は、本当は「池澤」と書くらしい。でも池沢くんはいつも「池沢」と、いつも簡略させて書く。
「池沢くん。この書類は正式な書類だから、旧字体の『澤』になおして欲しいって先生から言われたの。登録は『澤』だからパソコンの名簿がエラーを起こすんだって」
「学級委員長も大変だね。ガリちゃん。そんな小さなことを任されるなんて」
「そうなのよ」
「いつから機械がそんな筆跡鑑定みたいなこと、できるようになったの?」
私は少し考える。たぶん、機械学習、画像認識。CNNだったような気がする。
「知らないわよ。そんなこと詳しくは。先生に聞いたら?」「先生は俺のこと嫌いだし、俺も先生のこと嫌いだよ」
「だから私が任されるなんてまったく面倒だわ」
「八方美人」
「違うわよ。八面玲瓏と言ってちょうだい」
「どう違うの」
「ぜんぜん違うわ」
「俺の名前ってさ、バランス悪くない?『澤』だけがすごく目立つんだよ」
池沢くんは、ノートに名前を書いた。
「ほら。『沢』のほうが、『澤』より画数が少なくて楽。しかも、全体的なバランスが良くなって格好良く見えない?」「それは習字の書きやすさの違い?それなら画数が多いほうがバランスが取りやすくなるわよ」
「ガリちゃんはこういうのが、わかんないんだよな」
「おしゃれっていうのはね、洋服とか、見た目ですればいい。それは楽しんでいい。でも、名前は生まれてはじめてもらったプレゼントだから大切にしなきゃだめ」
「それって苗字も?」
「尺取り虫よりも四つ葉のクローバーのほうがかわいいわよ」
「尺取り虫だってかわいくない?」
「成長したら蛾(ガ)になるわ」
「俺のこと、我(ガ)が強いって言いたいの?」
「そう。私の名前はバカボンの歌みたいだけど文句はないわ」
「西から昇ったおひさまが東へ沈む」
池沢くんはいつもなら爆笑に爆笑を重ねて、大馬鹿にしてきそうなのに、真面目な顔をしていた。
「私の名前がアガリって読むのは、沖縄の方言なの。東は太陽が地平線から上がるから『アガリ』、西は太陽が地平線に入るから『イリ』。元々、西の語源は『去にし』。『去にし方』って書いて『古(いにしえ)』。でも、沖縄では『にし』は北のことなの」
「ややこしい」
「昔、鹿児島の桜島、姶良カルデラが噴火した時、その祖先は沖縄へと避難したらしいの」
「いつの話?」
「旧石器時代」
「ずいぶん古いなあ。それ、昔ってレベルじゃないよ」
「でも、だから『北』が『にし』なの。沖縄から見て、桜島は遠く昔の祖先のいた場所だから」
「古代ローマのポンペイみたいだね」
「そうかもしれないわね。ちょっとだけ似てる。ちなみにね、『アジア』って地域の由来はギリシャ語で『日の出』のことなの。それで、世界中の中でも日の出の時間が早いほうなのよ」
ガリちゃんはスマホで世界地図を検索して見せてくれた。「世界一時間が早い国キリバスがここで、日本がここでしょ?キリバスは日本より3時間だけ時間が早いの。実はニューヨークは日本より13時間も遅い。確かに流行はニューヨークのほうが早いのかもしれないけど」
「なんとなくわかった。でも、ややこしい。なんか時差って難しいね」
「円高と円安みたいよね」
「ともかく、ガリちゃんは東で、ふるみんが北ってことは?俺だけ仲間外れ?」
「池沢くんは…そうね、『うしとら』かな」
「うしとら?って、どこの方角?」
「北東のこと」
「それって、『鬼門』じゃないか」
「そうよ。よくすぐにわかったわね」
「ガリちゃんはよく俺のこと、バカにする」
「私にとって、池沢くんはあらゆる災の種なの」
「やっぱりいつもガリちゃんは俺を褒めない。むしろ俺のことめっちゃ嫌ってるんじゃないの?」
「でも、仲間外れにされるよりはいいでしょ?」
「そうだけど、なんか納得いかない」
「東南角地なんてなかなかいい物件はそうそう無いわよ」
「俺がないものねだりしてるっていうの?」
「じゃあ四つの幸せと書いて、全方角を制すれば?」
「…わかったよ。ここに書きゃあ、良いんだろ。書きゃあ」
「ここと、ここも直してね」
「ガリちゃんはきっと事務職に向いてるね」
「なぜそう思うの?」
「虫が嫌いだから。小さいことを気にするから」
「尺取り法より二分探索法のほうが私は好きっていうだけなの」
「俺、よく思うんだけどさ。時々ガリちゃんは一体何語を使ってるの?」
「プログラミングの授業でこれから習うわよ」
「そんなのも予習してあるわけ?」
「そうよ」
「わけわかんねえ」
第10話「トマト」
キキーッと音がする。ガシャンと留め具がおりる。そんな自転車の止まった音。
「こんなに自転車ばかりに乗る仕事に就くなんて思ってなかったわ」
「まあ、順当だろ」
俺は店頭にトマトを並べていた。トマトは一般的には野菜に分類される。しかし、植物学的には果物である。ミニトマトは2つくっついて成ったまま収穫されることがあり、そういうのはヘタが1個で実が2つ。見た目は少し、さくらんぼにも似ているな。
「男女間の友情ってあり得ると思う?」
「さあ、どーだか」
「正直にどうぞ」
「おれはあり得ると思う」
カスミという存在を否定したくないから。
「わたしはあり得ないと思う」
なんだよそれ。
おれたちはまるで昔に戻ったように話をしていた。声だけで誰かわかって、何かをしながらでも会話ができるのは他にはいないなと思う。ただ、なんか今回、議題が難しい。おれにトゲが刺さり過ぎる。
「同世代はともかく、世代が違えば恋愛対象でなくたって友達になれるだろ?それだって男女間の友情には含まれる」 「例えばね、鶴の恩返しみたいに実は美女の正体が鶴かもしれないし、浦島太郎みたいに玉手箱を開けたらおじいさんになっちゃうかもしれない」
「見た目と中身のギャップか」
「事実は小説より奇なりって、具体的に言うともっとごちゃっとしていて曖昧なものってことなんじゃないかなと思うんだ」
「解決したとて、もやもやするってことか」
「そう。例えば中身がどんなに悪い結果だとしても良い結果だとしても、皆同じ封筒で配られる模試の結果みたいなもの。給与明細みたいなもの。時にそれが不公平だったり、理不尽だったり、残酷だったりする。見た目って人を惑わして狂わせるんだよね。だけど均一になって中身だけが問われるようになるとそれはなんだか少し物足りない。きっとそれで、人間は何度も何度も犠牲になっていったんじゃないかな」
「まあそれは普遍的事実な気がしてくるな。しかし、世にいうイケメンで高身長の旦那がいるカスミはどうなんだよ」「そんなところで男を選ばない女だって知ってるくせに」「変わったなあカスミは」
「ヒロムは今も昔も変わらないね」
「そうか?」
「心の中って、実は男も女も大した違いはないんじゃないかな。性別なりの尊厳とかいうけど、強くいたいと思えば強くなれるだろうし、考え方感じ方次第な気がしてる」
「環境も家族も変わり続けて、変わらなくてはいけない場所にいると人は変わるもの。だから、ほらね。やっぱりおれ、いつもカスミから置いてけぼり」
「私は変わらないヒロムが好きだから変わるの」
「ほんとおれ、思うよ。カスミの言う『好き』は軽い」
「テツのが重すぎるのよ」
「でもカスミはそれに負けて、それを選んだ。なのに男女間の友情はあり得ないって言う」
「わたし、ヒロムにずっと聞きたかったんだけど…」
「なに?」
「古海(ふるみ)教授って、大学教授だよね?」
「そうだよ」
「良平(りょうへい)の友達に古海英矢(ふるみ・ひでや)くんって子がいるんだけど」
「そうだね」
カスミはそのあと口を開けて何かを言おうとしたが、やっぱり辞めたという感じで黙っていた。
「なに?」
「わたしびっくりしたの。昔のヒロムにそっくりだったから、つい、なんというか」
「いや、似てねえよ。どこがおれに似てるんだ」
「顔じゃなくて、動きとか声とかそういうの」
「いや、だって、おれ、関係ねーじゃん、それ」
おれはカスミの顔を見た。照れたように頭を抱える。でも泣きそうな目をしてる。おれも焦った。なぜわかるんだ?
「あの子見てると私の気持ち、ぐちゃぐちゃになる。昔の私が顔を出す感じ。つい目が追ってしまう。わかってるよ、ヒロムじゃないのは。でも隠しきれてないものは、なんとなくわかっちゃうの」
カスミはいつまでおれのことを好きでいてくれるんだろう。おれではない誰かと結婚して、子どもが生まれて、それを育っていって。仕方ないか、カスミはこの世の男すべてを味方にしてしまうんだから。
「確かにあいつはシズカとおれの子だ。義理でもおれらは姉弟だから世間体が悪いからシズカの懇意にしてる大学教授に養子に出したんだ」
カスミは少しの間、黙っていた。溢れる涙をそのままにおれを抱きしめた。
「そっか。よかったね」
「どうして、何が?」
カスミはさっき封筒の中身が残酷だったり、理不尽だったり、そんな話をしていた。今の何が、よかったね、なんだ?「それが『ヒロムの選んだ道』だったんだ」
「だってそれじゃカスミは何も報われないだろ」
「報われないのは心の奥底ではずっとわかってた。だってそうじゃない?」
「でもおれ、良平や安奈(あんな)を見てるともやもやする」
「わたしも、古海英矢にもやもやしてた。話してくれたから晴れたの」
「晴れたって、おれはやっぱりカスミを傷つけてる」
「良いんだよ。わたしはやっと納得ができたんだもの。だって多分そのもやもやしたものは『後悔』じゃないとわかるから。戒めとして『選んだ道で見つけた選ばなかった道を思い出させる欠片』であるってだけなの。その結果がどうであれ、どうせヒロムの代わりなんていないしこれからも現れないもの」
「『友情』じゃないならこれはなんなの?」
カスミは少し黙って、言いかけた言葉を引っ込めた。
「…『幼馴染』よ。だってずっとそうだったしこれからもそうなの」
「そうか。正直それを聞いてテツはどう思うだろう?」
「大丈夫よ。最初からそうだもの」
「最初から…なんだって?」
「最初から『好きな男がいるわたし』を好きになったんだから、テツはたぶん、そういう性癖なの」
「テツの尊厳、破壊してないか?」
「そうかしら?でも、そのほうが燃えるのは確実ね。そうじゃなくなったら、他の『好きな男がいる女』に浮気するかも」
「女ってこえーな」
「大人の駆け引きってやつよ」
「おれはそのダシか」
「そうね、良い出汁が出るわね」
カスミは良い出汁が出そうなごぼうを見つけて、俺に代金を支払った。
「きんぴらにするの」
おれはミニトマトをおまけに付けた。そして、カスミの料理が最悪なことを久しぶりに思い出した。
「良平に作ってもらえよ」
「わかってるわよ!ばーか!」
カスミはくるっと外を向いて、八百屋をあとにしようとしていた。おれはそれを引き止めた。
「おれはさ」
「なに」
「運命には抗えないよ、抗いたくても」
「ヒロムが言っちゃだめじゃない?それ」
「そうだな」
「わたしのほうがずっと運命に抗えないよ」
「まあ、ややこしいよな」
「フルーツミックスだよ。まぜこぜなの」
おれは大きめの紙コップにフルーツミックスを注いで蓋とストローをして渡した。
「ああ、もっと単純なことだったらよかったのにな」
「そうだね。まるで、ミステリー小説みたい」
「カスミはそういうジャンルには向いていたな」
「そうだね。まさか、ミステリー小説にはまって、古本屋に通うことになるとは思わなかった」
「見つかったんだろ?親父の欠片」
「ヒロムもね…あのねヒロム、好きだよ」
「お前の『好き』はやっぱりいつも軽いんだ」
「軽くないから軽く言うんだよ」
見つかっていく。
前を向くほど過去が見えてくる。
振り返るほど未来が見えてくる。
トマトの花言葉は「完成美」
第2章(第11話〜第20話)
第11話「ゴミ箱の靴」
「私の靴が無いんだけど、どこにあるか知らないかしら?」
「ああ、もしかしてこれじゃない?」
「なんでこんな所に」
「なんか随分慣れてんね」
「何が?」
「そういうこと」
「そうね…まあ、いじめっていうのはなぜだか両極端なのよ」
「極端?」
「頭の悪い人が頭の良い人をいじめるか、頭の悪い人が頭の悪い人をいじめるか、頭が良いと勘違いしている中途半端に頭の良い頭の悪い人が頭の悪い人をいじめるか。大事に至ってしまうのはそういう3パターンしか存在しない。なぜだと思う?」
「レッテルを貼られてるからか。それに頭の良い人が頭の良い人に敵対するなら、ライバル関係になるほうがまだ得策だしな」
「そうね。対等な関係ならライバルになるより味方や仲間になり得る可能性まである。共感があったら腹が立たないもの」
「たしかに、腹が立ってるからいじめるわけだもんね。で、がりちゃんに喧嘩売ると面倒そうだね」
「そうね」
「それで?」
「いじめられてるほうは全てを抵抗するの。いじめてる相手と向き合わないのよ。だから酷いことになる。『なんで私をいじめるの?』って聞いてみれば良い。理由なんてなくていじめてることなんかほとんど無いわよ。何かしら理由があるわけ。いじめてるほうにも何か問題があるはずよ。親から虐待まがいなことを少しでも受けて育ったらいじめをするなんてことはありがち」
「想像はできるよな。いじめをする子の方に目を向ける教師ってのは、たしかに少ない。いじめができる子はつまり、いじめ方を知ってるってわけだからな。いじめられたことがなければ、いじめられない」
「不良だとか、天才だとか、そういう形容されることってプレッシャーやストレスだと思うのね。いい意味でも悪い意味でも。自分の生きたいように生きれば良いのに、レッテルを貼られた瞬間にまるでケージの中に入れられて身動きが取れないみたいになる。子どもって親の所有物みたいなもので、学生や未成年だとみんなが同じなのに、ちょっとでも自由そうに見える人が急に羨ましく見えたりするの。不思議よね。普通であることは実は幸せなのね。そういう世界とは無縁に生きられてるってことだから」
「格好いいとか、背が高いとか、そういうものも?」
「そうね」
「がりちゃんは頭が良くて、美人で、背が高いもんな」
「だからわざとダサい髪型して、眼鏡を掛けてるのよ」
「池澤と一緒に楽しそうに歩いてればそれだけでもいじめられるわけか?」
「…それは残念ながら違うわね。池澤くんの周りの女の子ってなぜだかこういうベタな手は使わないのよ。軽くて明るい女の子しか近づかないから。結構真っ向にハッキリ言うわけよ。清々しいほどに」
「なんて?」
「がりちゃんっていけくんの男友達みたいなもんでしょ?」
「うわ」
「全く、そのとおりだわ」
「ツッコミたいことあるけどそれより」
「だからね」
「え、じゃあ」
「言い難いけど…古海くん、だわ」
「オレかあ。そうなあ、心当たりは若干あるわ。なんかごめんな」
「いいの。大したことは無いからね」
「オレさあ、池澤と隣に並んで歩いてると楽なんだ。だからなんか、がりちゃんの言ってることわかるなあ。ベタな手を使われたら、大げさに『ひっどいことするなあ。センスがないよね』って言うだろ?オレはうまくそれができていない気がする」
「今、犯人が影でコソコソ見ていたとしたら、大成功ね」
「がりちゃんは正直、池澤のこと好き?」
「なんでそんなこと聞くのよ」
「なんとなく聞いときたいなって思った」
「そうね。ずっと友達で居たいわね」
「がりちゃんはそれでいいの?」
「どういう意味?」
「女の子一人がさ、男二人連れてたら、友達って言ったって何かしら誤解は受けやすい」
「良いんじゃない?誤解されても。そもそも何に誤解をするの?私は友達として池澤くんと古海くんと話をするのが好きなの。だから一緒にいる。それで良いんじゃないかしら。そこに恋愛が絡んでくるかどうかは今は関係ない。性別なんか超越してる存在だと思ってるわ。それってそういうのを語るのすら野暮だわ。たまに馬場くんや湯根くんがやってきたり、いろいろする。勝手に想像するのは全然関係がない外野だけ。じゃあ私たちは好きにすれば良いと思うの。靴がゴミ箱に入ってたって、そんなの屁でもないわ」
「すごいね。言い切った」
「私は好きなことは好き。嫌いなことは嫌い。行動と言葉が一致してる人が好き。ただそれだけ」
「オレは生き方を間違えてるのかな?」
「どうしてそう思うの?」
「オレ、がりちゃんと一緒にいて、オレの知らないところでがりちゃんがそうやって傷つくのはなんか嫌だな」
「いじめられるのは慣れてるから平気よ。どうせ犯人は頭の悪い人だもの」
「頭が悪いやつにオレが好かれてるわけだろ?それってオレの生き方がまちがってるからそういうことが起きてるんじゃねえかと思うんだけど」
「じゃあ、具体的にどんな生き方が間違ってるわけ?」
「そうだな…わかんねえな」
「私は思うんだ。ものすごく綺麗な曲をつくるシンガーソングライターが居たとするわね。その曲を聴くと癒されるからとそこに人が集まるかもしれない。生き方そのものは全然悪くないわ。寧ろそれに救われる人が沢山いる。感謝されることになる。でも癒しを与えてくれるシンガーソングライターの周りに集まる人は癒し系とはかけ離れている人なのだと思うの。特に熱狂的なファンの場合にはそうでしょうね。何か心に闇を抱えたことがある人だったり、浄化されたいからそこにたどり着いたのね。ただ問題はシンガーソングライターを悪く言う人が一人でも居たのなら、そこに対して牙を剥く人がその群衆の中にいることはすぐにでも想定できてしまう」
「なるほどな」
「求めるっていうのは実は間逆なのよ。正反対なの。不足を埋めようとするってことは、過度な人のことが憧れに見えて気になるもので、だけどそれが幸せであるとは限らない。それが実はとんでもない間違いだってことは、気づきにくいのね」
「確かに正反対だと相性が悪い。気づきや発見は多いけど喧嘩するし。似た者同士のほうがうまくいくのかもな」
「王子様と付き合うより友達以上の人と付き合うほうが現実的だもの」
「それで?池澤は王子様でなおかつ友達以上なわけ?」
「友達よ」
「あ、そう?そんで、ゴミ箱にがりちゃんの靴を入れた女はオレのこと王子様だと思ってるってわけ?」
「そうね。そうなんじゃないかしら?」
「そうでもおかしくねえくらいオレって格好いいかな?」
「…さあ。どうでもいいわね」
「がりちゃんにそういうことすんのは問題だから許せねえけどさ。がりちゃんがそう想定するのって、そういうことだろ?」
「『そういうことになるくらい古海くんは魅力的よ』とでも言えばいいのかしら?」
「あ、でもさ、がりちゃんもそれだけ魅力的だからだろ?」
「…あのねえ?怒るわよ」
「なんでそれで怒る?」
「言葉にならないことが言葉にできてしまうことは逆に問題なの。男って、もっと、ぶっきらぼうでも良いんじゃないかしら。だからそういうことが起きるのよ。だって、口説けるでしょ?そんな手で」
「そうだな」
「とっておき、隠しておくべきよ。好きな子のために」
「なるほど。そうだな、じゃあ、とりあえず、がりちゃんにはもう隠さなくてもいいな」
「なあに、それ。そういえば、私の靴ってたしかにもうボロボロなの。だけど、同じように捨てることになって燃えるゴミで燃やされるとしても綺麗に捨てたいと思うの。それってわがままかしらね」
「大事にしたから、大事に捨てたいんだろ?そういうのはわかるかも。コンビニのおにぎりの袋だって、綺麗に捨てるやつもいる。紙コップ一個だって畳んで捨てる奴もいるよな。グシャグシャじゃなくてさ。自分を大事にしてくれる物は大事にしたい。そういう品性がさ…」
「ほらそうやって言葉にできてしまう。だからモテて、いけすかないのよ」
「いけすかないってなんか面白え言葉だな」
「面白くないわよ」
第12話「筆跡」
急に実の母親が訪ねてきた。慌てた様子もなくかなり冷静だ。でも、なんとなく分かる。実はこの人はそれなりに慌てているなと。
「英矢、あんたさ」
「何ですか?」
「この字、見てくれる?」
「いいですけど…」
2005年の消印の絵はがき。2010年の年賀状。2020年のかもめ~る。全て宛名は矢尾静。オレの実の母親。手紙には差出人の名前がない。だけど筆跡は全てとてもよく似ていて。字を書いたのは同じ人。そしてオレは気付いた。これは池澤の字だな。でも、なんで?それだとおかしい。時期がおかしい。
「あんた、見たことある字?」
「なんでですか?」
「テツのところの子でしょ!?」
「だから、なんでですかってオレは聞いてんすよ?」
「聞いてみたかっただけよ!」
「なんか怒ってます?」
「違うわ」
「なんで怒ってんですか?」
「あんた、朝井さんって友達いるよね?」
「ああ、がりちゃん?」
「あんた、その二人と関わんの辞めな」
「どうして?」
「ろくなことにならないからよ。いつか思いっきり傷つけられるわ。血も涙もないくらいにね」
「オレには傷つけるような友達には思えないんですが」
「アタシを過去に捨てたんだから、良い人なわけないのよ」
「もし、その仮説が正しいなら、オレはなんでここに居るんでしょう?それは何かの縁ですか?やっぱり」
「アタシは自分から孤独でいるの。わかってる。だけど、悲しいな。なんで実の子を孤独にさせてるんだろう。でもわからないのよ。アタシには、親としての愛が、わからない。それを親のせいにしたいのね。それが悪いのよ。親が悪いってわけじゃないのは、わかってる。あなたの友達を悪く言いたくもない。でもね、英矢が一番傷つきそうで怖いの」
「オレはこんな綺麗なお姉さんが実の母親だと知って、嬉しかったですけどね。年相応に老けないのは、ある意味問題だとも思うけど、精神年齢もどうやら幼いみたいでいらっしゃるからほんと、大変ですね」
「そうね、あんたが父親に似ててよかったわ。父親みたいに友達が多くて、よかったわ。ほんとに」
「オレの父親は結局、いつまでたっても教えてくれないんですね」
「だって、それがアタシと同じ報いなのよ」
「そーですか。それで?八百屋の店主によると、あなた未婚だそうですが?役所にもそういう手続きをしないとか、どんな鬼畜ですか?」
「あのね?」
「女の人ってのは難しいですね。人の気持ちや優しさを踏みにじる。したたか過ぎるのも厄介ですよ。本当にそれがしたたかと言うかどうかは不明ですが?まったく頑固が過ぎる」
オレはそれなりに傷ついた。そして、確かに母親の言う通りに関わるのをいつか辞めなくてはならないことを考えた。でも、そんなにすぐは難しい。できない。でも、そうしたくない。それに、オレは明日からどんな顔をしてあいつらと仲良くできるんだろう。頭の中をぐるぐると回る。意味のない悩みが蔓延して、でも、わかるんだ。言われてみればオレの中にはあいつらの血が流れていることには納得できてしまう。手紙をもらうことは多くてもあまり器用に手紙を書いたりはしない池澤の未来に生まれてくる娘に対する思いは、悲しいほどわかるんだ。一方的に何か伝えるとすれば何があり、何がいいのだろうか考え過ぎた末、そういうやるせない思いに追い詰められて何も書けなかったあいつの気持ちが、わかってしまうことが悔しくて、今目の前にいるその当人である母親の気持ちもわかりそうで、オレは一体どうしてここに居て、未来の池澤はどうしてそんなことになってしまったのか、知りたくて、でもオレの前にいるのはそうなる前の池澤で、知れなくて。何か言ってもそれは自分の存在を消してしまうことに繋がるかもしれなくて、何をしたらいいのか分からなくてオレは悔しい。辛い。苦しい。なんて言えばいいんだろうこの気持ちは。がりちゃんはオレに、言葉に出来ないことが世の中にはあることの美徳を言っていたけど、それって一番救いようが無いんだ。やりきれない思いをどこにぶつけたらいい?オレはどうしたらいい?
第13話「タイプ」
泉水椎香は彼氏がコロコロ変わる。私は後学のために椎香の話を聞いていた。
「別に深くないけど深いこと言うとさあ、私の好きになる男の趣味が悪くてさ、いつも同じようなタイプなわけ」
「どんなタイプ?」
「見た目はぜんぜん違うのよ、でも、中身がね、気い利くけど繊細過ぎるタイプってかさあ」
椎香はため息をついた。
「それって、考え抜いて行動に起こす慎重なタイプってこと?」
「そう」
「でも、必ず行動に意味があるってことじゃん。それってすごく良くない?」
「ううん、それが落とし穴なわけ」
「どうして?」
「全然、前に進まない」
「じれったい感じ?」
「そう。いつも私から。それじゃ悔しいから、全然違うタイプに行ってみようとすると、普通になんか友達で居たい人だなって思うんだよね。人として好きだけど恋愛には違うかなって分かっちゃう。それで大抵相手もそう思ってる場合が多いの」
「どうしてそう思うの?本当は相手は付き合ってもいいかなって思ってるかもよ?」
「私がね、デートじゃなくて、単に遊びに出掛けてる感じに思えちゃうから、全然ドキドキしないんだよねえ」
「そうなんだ」
「それに、相手だけが私を恋愛対象としてる場合には、周りが酷いことに遭わされるか、私が酷い目に遭わされるか」
「例えば?」
「そうね、仮にBくんとするわね」
なるほど、長くなりそうなのね。複雑なのね?そして思った。「Aくんじゃないのね?Bくんなのね」
「Aって感じでは全然ないの。バカのB」
「そう…」
随分辛辣なんだな。
「中学の時のことだけど、私はBくんに告白されて、私はBくんのこと好きになれなかったから振ったんだ。そしたら私の部活の異性の友達と話していたらBくんは嫌味を言ったのね。Bくんはその後他の女の子と付き合うんだけどその女の子から私が嫌がらせをされるのね?最終的に私が一番仲の良い女の子の友達をBくんが陰でいじめみたいなことをしたのよ。それでその大好きな友達が私と話してくれなくなったことがあった。そういうことがあったことも友達の口ではなく他の子から聞いたの。それって、全部、私がBくんと付き合わなかったのが悪かったのかな?」
「わたし、椎香の男の趣味が悪いかどうかはわからないけど、付き合わないほうがいい男を見る目はあると思うわ」
「そーね、ありがとう」
「少なくとも、よっぽど椎香のこと好きだったんだね」
「違うと思う」
椎香は即答した。
「どーして?」
私は疑問に思って質問した。
「私に元気や楽しさをくれる人じゃないんだもの。どんな手を使ってもって、そんなの自分のことしか考えてないじゃん。確か英表の参考書に載ってた『私が好きなら、私の犬も好きになって』って諺があんだよね。私のことが好きなら、私の先輩も私の友達も悪く言わない人がいい。少なくとも私は傷つけたら許さない」
「そうだね。そういう陰湿な形で周りが酷い目に遭わされるなんて耐えられないもの。じゃあ、例えばもう一度告白されていたらどうしてた?」
「付き合っても、すぐ別れたと思う。だけど、もう一度告白するような性格なら陰湿なことは最初からしてないだろーね」
「そーね」
「本当を言うとね、見方を変えればいじめとは言わないやり方だと思うし、私がそう陰湿と誇張したくなるだけかもしれない。Bくんが付き合った彼女は誰かから噂で私の名前を聞いて、嫉妬したんだと思うんだよ。それで私とうまく話せなくなってしまった。ただ、それだけなのかも」
「うん。そーかもね」
「夏美はどー思う?好きだーって追いかけ回されるのと、好きだーって追いかけ回すの。どっちのが幸せなんだろ?」
「わたしは将来カメラマンになりたい人間だから追いかけ回すほうが向いてると思うけど、椎香ほど追いかけ回されたことがないから、どちらがいいかは正直今はわかりかねる」
「Bくんのは追いかけ回されてはいないんだけど」
「そう聞こえるけど?」
「中学の3年間をかいつまんでまとめたらそうなる感じ。ストーカーとか言われるの絶対に嫌そうな見栄っ張りだったから追いかけ回すことはない奴だと思う。そういう見え透いたくそみたいなプライドが嫌いだった」
「そうなんだ。ああ、わかった。あれでしょ?付き合ってるの秘密にしたがるタイプだ」
「そうそれ」
「もしくは大きく自慢したがるか」
「そう。極端なのがね、ほんと、良くないんだよねえ」
「でもカメラマンとしちゃあどっちでも商売繁盛ですぜえ」
「うわ、悪い顔してるう」
そしてわたしは椎香にずっと聞きたかったことを思い出した。
「そういえば椎香ってたまに消えるけどなんで?わたしがカメラ持って追いかけ回してるとたまに消えない?」
「消えるって?私が?」
「うん。シュッて消える」
「シュッ?」
「どうにかそれをカメラにおさめられないかずっと考えてるんだけど未だに撮れたことない」
「え?私、消えないよ」
「いや消えるね、一瞬だけどシュッて。それ、わたしにとっては他にない魅力だと思うけど」
「…ところで椎香はどうなのよ?」
「わたしは消えないよ。残念ながらね」
「いやいや、違くて、好きなタイプとかの話ね」
「そうね…今のところ、わたし、村上夏美史上最高の被写体はいけくんかな」
「よーく飽きないね」
「そりゃま、そーだね。秘密のアルバムがあるからね」
「秘密のアルバム?」
わたしはちょっと恥ずかしい思いがあるんだけど、椎香の打ち明けた話のぶん、聞いてもらえるのではないかと思って見せることにした。いけくんの『逆フォトジェニック写真』とか『変顔写真』とか。
「あまりにも映えないし、需要は無さそうね」
「わたしだけの秘密の需要だったのよ。勇気を出して椎香に見せたの」
「そう」
「うん」
「…朝起きて寝坊して急いで玄関を出て、目やにがついたままな気がして電車に揺られて、最寄りの駅のトイレの洗面所に駆け込んで顔を洗ってメイクして、それまでもうずっと生きた心地がしないのと同じ」
「それは、いけくんの気持ちを代弁したのね」
「晩ごはん食べてるとき正面に座ってるお父さんの鼻毛が出てるの見つけて、やだあ気になるー、ちょっとお!ご飯まともに味しないじゃんと思う、みたいなもの」
「それは、椎香の気持ちよね」
「夏美の気持ちはわからないわ」
「わたしはね、イケメンがイケメンじゃない瞬間があると、ああこれはちゃんと現実に存在する人なんだなあって安心するのよ」
「ごめん、わからないよ。私はこの『ザ・ブロマイド』っていう感じの完璧ないけくんのほうが、写真として良いと思ってるんだけど」
「そうよ。わたしの腕も上がってきたからね。普段は格好良いいけくんをファインダーにおさめることを目指して撮っているわけよ。それを狙ってる。だけど変顔が撮れるときがある、逆張り奇跡の一枚ってのができることがあるってことを椎香に言ったら絶対に引かれると思ったから黙ってた。だからずっと秘密のアルバムにしてたのよ。そして椎香に引かれたのはともかくとして、ナルシストのいけくんには絶対にこんなの見せられない。絶対に内緒にしていなきゃいけない。こんなの撮れちゃってごめんね。でも、それだって愛すべきいけくんの一面であり、いけくんの姿なのよ。そういうのをわたしだけが見れるってのが、わたしはとても楽しかったわけ。写真、頑張ってやっててよかった。そんなふうに、全部ひっくるめてロマンが詰まっているというわけよ」
「それって、私には、聞いててなんのロマンもクソもないような気がするけどね」
「椎香は企画担当だけど、写真はわたしがやってる。だから『わかりかねる』って、それはわかる。わたしはね、やってみたら、そういうのが結果、ロマンだったの」
「つまり『飽和』してるってことだ。プロの領域に達してきてるけど、飽きてる部分もあるから、それ以上も要しないし、それ以下になると途端につまらなくなる」
「そうね。被写体に完璧を求めるのがすべてじゃ、ないと思うの。自然をいかに撮るかが重要で、いけくんのそういう現実を求めてる自分もいる。そうなると思うのがさ、やっぱりあの三人一緒にいるとき、いい顔するなあと思うんだよね。楽しいんだろうね」
「だからって夏美がガリちゃんになれるわけじゃないよ」
「そうだよ。そんなのわかってるよ」
「隠し撮りするの?」
「そんな面倒なことしないよ。堂々と三人居る時の三人を撮る」
「それ、楽しいの?嫉妬したりしない?」
「ガリちゃん、写真に慣れてないから、カチコチでかわいい。いけくんそれを茶化す。眠そうなふるみんは普段そのまんま」
「ちょっとなにそれ想像できて面白い」
「思うんだけどさ、こういう、いけくんが珍しく不細工に映ってしまった写真こそ、ガリちゃんに見せたら興味深そうに見てくれそうだなって思うの。だって、ガリちゃんはいけくんのそういうところが好き。じゃない?」
「人間らしさ?」
「そう」
「それは一理ある。でもいいの?自分だけの秘密だったんじゃないの?」
「椎香にもこうやって打ち明けたし、ガリちゃんだけは私と同じ気持ちでしょ。仲間ができたらわたしは嬉しい」
「いいんじゃない?」
「でしょ」
「一人で行ける?」
「なんでよ」
「ガリちゃんはとっつきにくいところがあるから」
「あの子は、一人じゃないのに、一人でいる。そういうタイプの子なのよ」
「そうね」
「だからわたしも一人で行くわ」
「いけくんが『何してるのー?』って来たらどうするの?」
「一枚見せたらショックで飛んで逃げていくわね」
「なるほどいけくんのそういうとこが愛すべき馬鹿なんだね」
「すると翌日、確実にナルシシズムに磨きをかけてくるに違いない。自分の格好良く見える角度とか、制服のアイロン掛けとか、髪型とか、プライドを全面に輝かせてくる」
「良いプライドね。もし純白のスーツでバラくわえて学校に来ちゃったらどうする?」
「それはそれで良いんじゃない?でも、白馬がいけくんに乗られるの嫌がって、地面に振り落とされそう」
「夏美はわかってて結局いけくんを煽るんかい」
「楽しいでしょ?」
「うん」
「実はずっと考えてたの。そういうところもいけくんの魅力だって。だからやってみたい。協力してくれる?」
「うん。だって、めちゃくちゃ面白そう。いけくんをいかに慌てふためきさせられるか考えたら」
「さすが『いとこ』ね。血は争えない!」
「私は夏美ほど全てを愛せるタイプの子を知らないわ」
「なあにそれ?」
「ううん、何でもない」
第14話「日記」
私は寝る前に今日も日記をつけていた。今日の日記をつける前に、私は過去に人に嫌われてるなと感じた時に書いた日記を読み返した。
そして今日の分を今日のページに書くことにした。
第15話「変わらない未来、変わる未来」
「八百屋のおっさん。今日もまけてよ」
「どれ?」
八百屋のおっさんのおれは、野菜を生で食おうとする少年の手を止めた。
「ばか、それはやめとけ」
「え、インゲン豆って生で食えねえの?」
「食えるか!」
おれは説教をする。
「お前、時々びっくりすることをするよな。どんな育ち方をしたんだ?」
「じゃあ、八百屋のおじさんが育ててくれりゃあ良かったんじゃね?実の父親なんだからさ」
古海英矢を育った古海教授は世界を転々としていたそうだ。ヨーロッパでもアメリカでもない。なんだかニッチな感じの国々にあちこち行っていたようだ。確か、エジプトとかインドとかパキスタン方面だったか。それにしても今日の英矢はおかしい。こんな能天気な性格だったか?
「オレさ、シズカさんがオレの実の母親だったことが嬉しかったんだよな。オレ、本当の両親に会えるなんて思っていなかったから。だけど、友達のことも好きなんだ。もしその友達がシズカさんの両親でも。だけどシズカさんは関わるなって言うんだ。オレはどうしたらいい?」
なるほど、そこまで知っちまったのか。しかもシズカからという一番最悪な状況で。そして、随分と下手な演技で明るく取り繕ってたわけか?その表情は笑いとも苦しみとも真顔でもない、なんと表現したらいいのか難しい顔をしていた。
「英矢はさ、そう人の言葉のなんでもかんでもに囚われたり真に受けたりするな。言葉だけを捉えても意味がないだろ」「どういうこと?」
「シズカは天邪鬼だ。あんなの相手にしてたらあっという間に日が暮れる。おれみたいにシズカという宇宙人の生態に気がついたときには何十年も経ってしまってるよ。あいつの場合、大抵言ってることとやってることが反対なんだ。矛盾してるようで皮肉みたいでさ」
おれは突然思いついたように特製のフルーツミックスジュースを一杯紙コップに注いで渡した。それを英矢はごくごくと飲む。
「は?なにこれ、うっま!」
「八百屋の品物ってのは年中変わる。環境と天候を読んでセリを勝ち取って上手くやらなきゃならねえ。変化に即座に対応しなくちゃならないのが八百屋って仕事だ。よく考えてみろ。誰が一番、この混ぜこぜでうまく説明が出来ない家族の全てと、素直な気持ちだけで関われるのかを」
「…オレだな」
「そうだ。お前しかいないんだ。お前だけは全員とどう関わっても気まずい思いをすることはない。先祖の全て、もちろんこれからの子孫の全て、分け隔てなく愛されることができる。お前の血で、つまり、お前の素でだ。飾る必要もなければ、気を使いすぎる必要なんかないんだ。そんな羨ましいことはどこにもないとオレは思う。シズカがお前にどんな悪い口を叩いたってその事実は変わることがない。寧ろそうやってお前を煽ることでその事実に気づかせようとしたんじゃねえか?ってくらい、考えてみたらどうなんだ?」
それをきいて、英矢は少し黙って考えたようだった。たぶんおれの言うだけじゃ説得力に欠けるんだということは分かっている。シズカの両親がまだ若い頃だから、シズカがああだから、おれにしか説得が出来ないことをおれは悔やむ。
「オレ、そんな話を聞けば聞くほどタイムマシンなんてこの世には要らないものなんだと思うんだ。『オレ達の混ぜこぜで複雑な家族』にとってみんなが『タイムマシンってのはこの世の諸悪の根源を詰め込んだみたいなもの』と思って生きてきた瞬間が在ると思うんだよ。少なくとも何度も不遇を感じたと思う。そこで偶然オレだけがそのタイムマシンのおかげでかなり得をしてしまう立場にあるわけだ。でも、オレはそれを得だと思わないし、それを得だと思ってはいけないと思ってる。そういう難しいものは受け取りづらいんだよ」
おれはそれを聞いて、ラブレターを破るカスミを思い出した。カスミに相談に乗ってもらいたいと思ったけど、そうはいかない部分がでてくるなと気づいて諦めた。なるほど英矢もそういういろんなことを思ったよりずっと考えてからオレにだけ話していそうだ。
「果物や野菜ってのが、品種改良してうまくいく確率なんて知ったこっちゃねえよな。野菜を育てて綺麗なものだけを厳選して出荷してるだなんて誰が知るだろう。今、世界中に人間が全部で何人いるのかなんて知らねえが、みんな生存競争で勝ち抜いてきた先祖のおかげだって事実を忘れがちだと思う。そのせいか、自信の無い若者がいっぱいだ」
「少なくともオレは感謝してる」
「普通の家庭じゃなくてもか?」
「割と普通だよ。世界的に見たら」
「そうか」
世界的って…インドやパキスタンが出てきたらおれはわからなくて困るんだが。まあいいか。続けよう。
「おれは思う。写真が貴重だったころ、家族で集まれば当たり前に決まった場所に集まって写真を撮るし、写真を増やして配りたいと思うとすぐ現像して送り合うし、写真のアルバムも綺麗に本棚に立ててみんなで見ていた。寝る前に昔はこうだったんだなと眺めることもあった。あいつの若い頃はこうだったんだああだったんだと、その時代に生きた人物から思い出話を聞かされたりする。それに聞きたい知りたいと持ってって聞きにいくこともあった。写真の実物から時代や匂いやそういう趣を感じ取ることができる。今、スマホを一人一台持って、写真が当たり前に撮れてすぐに整理することができてしまうと、みんなで集まって撮るという口実ができなくなった。写真を撮った思い出の場所も生まれなければ、配りたい貰いたい人もいないとやり取りが起きない。写真のアルバムも本棚にないし、回覧板のようにはならないわけだ」「そうだな。昔はそうだったんだよな。今もそうするよっていう人もいそうだし、そういう文化が根強く残ってる国もありそうだけど」
「おれはね、公衆電話を探したり、電話を借りるために八百屋に来てついでに野菜買っていってもらったり、そうやって人との関わりが当たり前にあって、人に連絡を取ろうとしていた時代を知ってることを誇りに思ってんだな」
「なんかわかる気がしてきた。確かにオレも未来は見てみてえ。技術が進化していくとすげえって思うし、今より便利な世界が広がっているに違いないと思うとワクワクする。でも電話を借りて、野菜を買うのは、おれは一石二鳥な気がする」
「おれだって、タイムマシンがあるんなら乗りてえし、どこでもドアがあるんなら使いてえと思う。でも、どんな便利なものがこれから先も出来ていったって、人間性ってもんを失ったらいけないと思うんだ。人間が機械に嫉妬したり、未来人に嫉妬したり、最近多いけど老人が若者に嫉妬して物事を引き継がせずにずるずると引きずるだろ?それでいろんなことが、うまい表現がおれ言えないんだけど、過疎化した地域みたいにどんどん風化していくんだ。そんなの馬鹿げてる。技術や機械や医療やいろんなものが発展していくけれど、それと同じように時代に合わせて変わり続けなくては残るものも残らない。人間も時代に合わせて変わらなければいけない」
「便利を知れば知るほど、不便の素敵に気づくのか」
「そう。人生長く生きれば生きるほどそうなるんじゃねえかな」
「それは…そうかもな」
「なんの因果か知らねえが、シズカという未来人が過去にやってきたおかげでおれはここに生まれることができて、生きているんだ」
「そっちが先だったのか?」
「そうだよ。じゃないとおれが生まれなかった」
「そうなんだな」
「だからおれは、シズカがどんなに酷い女でも、絶対に嫌いになれねんだ」
「シズカさんって酷いんだ。嫌いたい時があるほど?」
「そうだな。だけど、根っこから悪いヤツじゃないことくらいはわかんだろ?」
「まあ」
「おれは八百屋を続けなくてはならないと思っている。だからシズカは、お前が男だからおれから隠そうとしたんだろうが、おれはお前に八百屋を継がす気は無え。なんでも好きなことをやれ。とにかく。お前とこの時代にこうやって会えてることを嬉しく思う。お前がシズカと会えて、シズカの両親と出会えて嬉しかったように」
「そうやって真正面から言われるのは恥ずいな」
「真剣だよ。おれらは特に。だから、お前も真剣にならなきゃだめなんだ。真剣になれば気づくよ。運命に」
「運命?」
「そう。そう簡単には抗えない。残酷かもしれないし、素敵かもしれないし、だけどどんなことをしたって、どんな行動に出たって、運命だけはどう頑張っても変わらない」
「それってなんだか、人間誰しも死ぬ、みたいだな。そんな普遍的なの?」
「ま、そうかもしれないし、わからない」
「なんだよそれ」
「たぶん、どんなふうに行動しても、『変わらない未来』と『変わる未来』が同居してるんだ。それを見分けることが出来るようになるところから始める必要がある。『変わらない未来』は動かせないけれど、『変わる未来』は自分が望めば簡単に変えることができる。良い方向に変わりたければ、とにかく『変わる未来』を動かすんだ。人間は死ぬけれど、『人の死が関わらないで変わらない未来』なら、うまく変えていくこともできるのかもしれない」
「テセウスの船みたいな話?」
「そう。おれは同じ船だとは思わないよ。八百屋も初代とおれとじゃ、全然違っていただろう。恐れ多いんだ。写真を見たけど改装する前よりも前は平屋だったし、記録を読んだけど、『何かを新しくはじめようとする人というものは嫌われやすい』とか、弱音も書いてあった。『大人は本当に意地汚い』とか『老人は若者に頗る厳しい』とか『優しく見えるやつは大抵俺を下に見ている』とか。普遍なんだなそういうことはと思ったな」
「ともかく、オレの乗組員はいっぱいいるな」
「ああ。でも、問題はおれが知ってる未来人はシズカだけだってことだ。他にも居る可能性はちょっと否定できない」
「それはオレもちょっと考えてた」
第16話「背中」
「…はあ」
「きょーちゃん、どうした?」
「よく四コマ漫画であるよな。町中で、友達に似た背中を見つけた。声をかけても気づかないようだから追っかけて肩を叩いた。その背中は振り返った。しかしそれは、全然違う別の人間の顔だった」
「ああ、あるな。ウケる」
「客観的に、もう全然関係ない人から見れば面白いんだろうが、おれの場合は面白くねえんだ。それが日常茶飯事なんだからな」
オレは今川けふ(きょう)と帰り道を歩いて話をしていた。ひらがなで『けふ』と書いて『きょう』と読む、古典が由来の珍しい名前で、みんな『きょーちゃん』というあだ名で呼んでいる。
「学校の廊下でギャルの集まりが左右背後からキャッキャウフフと駆けて近づいてくるとしよう。普通の男なら、そんなことなかなか無いだろうし、嬉しい気持ちにもなるだろう。しかーし、おれはそれがたまらなく恐ろしい。なぜなら…おれは、池澤じゃ、ねえ!!」
声を荒げて叫ぶ。オレは耐えきれずについ笑ってしまった。「確かにお前の背中、言われてみれば池澤にそっくりだ」
「池澤だと思って駆けてきた女の子の顔ときたら、100点満点のカワイイを詰めこんだ笑顔を用意してるわけさ。でもおれが池澤じゃないのに気づくと、『あっ、いけくんじゃないじゃん。いけくんみたいなイケメンじゃないし、全然違うそのへんの陰キャのモブじゃん…』みたいなさあ、そりゃ残念な顔するわけなんだよ」
「再現してみて」
「こんな顔」
「げんなり」
「そう。もしくは、ムッとした顔する。おめえのために可愛くしたんじゃねえし、みたいなさ」
「ああ、それは悲しいな」
「別におれは池澤みたいな美少年じゃねえし、普通の顔だし、女の子なんて侍らせられないし。だけどさあ、ひどくね?つらくね?おれなんか雰囲気で感じるんだよ。悪いのは背中が似てるだけでさ、でもそのせいでおれも女の子たちも、なんか気まずい空気が流れてさ」
「それならオレだってたまにあるよ?」
「古海にも?ホントか?どっちかっていうとさ、お前も池澤ほどじゃなくてもモテんだろ?」
「それがさ…。うっわ、めっちゃ可愛い子いる。何?目え合った?オレ?オレだよな?何?え?オレ?ほんとに?夢じゃね?それで『いけくんに、これえ、渡してもらえませんかあ?』とか言われたもんならさ…。脇腹刺されたみたいに、うっ…ってなるよ。自分で渡せよお!そして池澤あ!おまえ!羨ましいっ!ずるい!それで、オレが池澤にそれを渡しに行くとさ、『あ、ほんとう?あの子ね。へえ、そうなんだあ。俺のファンクラブに入ってくれるかなあ』みたいな、ぼんやりでさ」
「イケメンの人生はイージーモードかよ」
「ムカつくよな。ほんとに」
「古海、お願いがある」
「なんだ?」
「もう背中で池澤と間違われるのはごめんなんだ。どうにか解決策は何かねえかな?」
「そうだなあ…『おれは池澤じゃない!』と書いた紙を背中に貼っておくとか?」
翌日、きょーちゃんは学校で『おれは池澤じゃない!』という紙を背中に貼って、池澤に見せた。
「きょーちゃん、なにそれー」
「池澤はこれをどう思う?」
「面白い!」
「面白くないよ。おれの背中は池澤にそっくりらしい。そのせいで酷い目に遭ってるんだ」
「へえ。じゃあ俺もやろっかな!」
池澤は『俺がいけくんだ!』という紙を背中に貼った。女の子たちが「キャーキャー」と言い、池澤はまるでどこかの殿様みたいに周りが女の子でいっぱいだった。「これ、意味あると思うか?」ときょーちゃんは言った。「いや」とオレは返した。
「なんか逆に虚しくなった。女の子に『あ、いけくんじゃないじゃん』と思われる方がマシに思えてきた」
「だろうな」
「あの取り巻き全員がおれの背中に引っ掛かってから、それに凝りて池澤かどうかをきちんと確かめるようになるまで待つしかねえか」
「大変そうだな」
「ああ。大変だおれは」
オレたちは途方に暮れた。
「…はあ」
きょーちゃんはまた、ため息をついた。
「…はあ」
オレもため息が出た。池澤は女の子には優しいけど男には容赦ないんだよな。
「おれ疑問に思うんだけどさ、がりちゃんはどうなん?」
「え?なんで、がりちゃん?」
「がりちゃんってかわいいのに池澤に靡かないよな」
「そ、そういえばそう、だな」
「池澤に靡かない女の子に池澤はどうしてんだろうなって」
「…さあ?」
「え、だって、そう思うだろ?普通。でも、お前、何が、『さあ?』だよ?いつものように一緒に居てさ、答えられるだろ?」
「…さあ、オレにはさっぱり」
「なにニヤニヤしてんだよ」
「べつに、なんでもねえよ」
第17話「料理」
俺の夢は一流シェフになること。美味しい料理を振る舞って人を幸せにしたい。高校に入って、料理部が無いことを知った俺は作りたいと思った。たった一週間に一度の活動でも俺の本当にやりたいことを魅せられるのなら。
「いけくんって、格好いいけどそれだけじゃないのよ。料理も上手なんだって!だから次から次へといけくんを見るために部員が増えていくんだ」
外見については確かによく褒められる。それを嬉しくは思う。女の子に囲まれるのも、ちやほやされるのも好きだ。だけど俺は料理を食べてもらいたい。調理系の高専に進学すればよかったかと正直思うことはあるが、普通の高校で勉強したいとも思った。いつも料理部で活動してると思う。「ここはファンクラブじゃない」と。そして俺はそう言いたくなる。だけどそうはいかない。
「いけくーん、卵の殻入っちゃった。てへ」
てへ…じゃないよねえ。
「いけくん、これ、なんで焦げちゃったのかな?」
「それは火加減が強すぎたんだよ。弱火でね」
「へえ、そおなんだあ」
俺は女の子は好きだ…けど、料理に専念したい時とかわいい女の子ってのはどうやら相性が悪いらしい。たぶん仕事とかになるとそういうことなんだろうな。俺、仕事と恋愛はべつにすべきな気がしている。
「あれ?今日は料理部じゃなかったん?」
「辞めた!耐えられないんだもん」
「部長だったのに?」
「そう」
「池澤くんもそういうことあるのね」
「うん」
ぐうぅという音がした。
「がりちゃん、お腹すいたの?」
「うん」
「ふるみんの家で、なんか作ろうか?」
「なんでオレん家?」
「どうせキッチンピッカピカでしょ?」
「…まあ、いいけど」
「フレンチトーストとかどう?」
「いいわね。私、フレンチトースト大好きなの!」
「アイス乗せたことある?メープルシロップは?」
「そんな豪華なの作ってくれるの?」
「スーパーに寄ろうか」
「オレ…昨日片付けずに眠っちゃったから、先帰って掃除機かけたりしてるわ。材料はそっちで頼む」
「おっけー」
「あ…オレ、いっぱい食うから、材料5人分くらい多めに買っといてくれる?」
「え、ふるみん、そんなに食べんの???太るよ」
「いいから」
「わかったけど」
第18話「フレンチトースト」
オレは家に帰ると、急いでシズカさんに電話をした。
「なに?急に」
「フレンチトースト、食べませんか?」
「どこの?」
「出前でも良いかなと思って。オレ用意するんで。とりあえず、来れる時、何時になっても構わないんで、すぐうちに来てください」
「わかったけど…なんなの、急に」
八百屋のおっさんによると、べつに鉢合わせても大丈夫だろうということだった。オレの母だと言って会わせるべきか、会わせず奥の部屋で食べてもらうか。そもそもシズカさんは来るだろうか。念のため八百屋のおっさんにも電話をした。「オレなら会わせる。会わせたいと思う。でもシズカ、前が見えないくらいに泣きそうだ。たぶん、フレンチトースト食わせるだけでも泣くだろうな」
「うん」
「アイス乗せ、メープルシロップかけるんだろ?ってことは、ちょっと待ってろ。差し入れを持ってくから」
玄関のインターホンが鳴った。誰が来てもオレは大丈夫だったけど、一番早かったのは意外にもシズカさんだった。そのあとすぐ八百屋が来た。
「ちょっとなんでヒロムがここにきてんのよ」
「差し入れ」
「なんの?」
「いいから。お前はそこに大人しく座ってろ」
「なによ?なんなの?」
「八百屋のおっさんはいいの?」
「オレは邪魔だろ?」
「そんなことない。居たほうがいいかも」
「仕事、そのまま置いて来ちまったから」
「嘘だろ」
「ああ、嘘だよ。でもおれは帰る」
なんでかなあ。なんでこう、この夫婦は素直になれないんだろうか。オレが考え込んでるうちに、すぐに池澤とがりちゃんがうちにきた。
ピンポーン
「お邪魔しまーす」
二人の声を聞くと、シズカさんはドタドタと音を立ててどこかに隠れるように向かったようだった。
「そういや、さっき、八百屋のおじちゃんとすれ違ったよ」「ああ、それ?フルーツを頼んでたから」
「そっか。盛り合わせできて、いいね」
「パイナップル、でっかいわよ。これ」
池澤もがりちゃんもすごく楽しそうにテーブルやキッチンに材料を並べていく。
「ふるみんが5人分食べるとか言うから二斤も多く買ってきたんだあ。ほんと、底なしの大食らいなんだから」
「ごめんなさい。お手洗いをお借りするわね?」
「あ、うん」
オレはシズカさんが大丈夫だろうか心配になったが、がりちゃんはトイレに行ってすぐに戻ってきた。
「実は今、オレの母さんが来てるんだ」
「そうなの?」
「うん。人見知りだから、別の部屋に居るんだけど。でも母の分もいいかな?」
「もちろん」
オレはコーヒーを淹れる係をやった。それ以外はほとんど池澤が楽しそうに手際よく作っていた。がりちゃんは不器用そうにそれを手伝っていた。
オレは別の部屋の隅で居心地悪そうにうずくまっているシズカさんを見つけると、折りたたみテーブルを広げた。そしてオレは、池澤が作ったまるでカフェで出てきそうなほど綺麗に盛ると、オレは池澤達に「先に食べてて」と言った。シズカさんの目の前に運んだ。
「美味しそう」
「うん。きっと美味しいよ」
ナイフとフォークでそれはそれは綺麗に食べる。涙が溢れる。シズカさんはそれを拭こうともせず、ただぺろりと平らげた。
「めちゃくちゃ美味しかった。おかわり」
悔しそうにお皿を突き出す。
「池澤に言ってよ。美味しすぎて泣いたなんて知ったら、これ以上にないくらいに喜ぶだろうから」
「わかったわよ」
シズカさんは渋々、オレについてきた。
「お、美味しかったわ。おかわりいただけるかしら?」
がりちゃんとシズカさんの声が綺麗にハモった。池澤はクククと笑った。そして満足そうに、「わかった。ちょっと待ってて」と言った。
「それにしてもふるみんのお母さん、ずいぶん若くて綺麗な人なんだねえ。俺の母ちゃんとは大違いだよ」
「あ、朝井です。お邪魔しています。えっと、古海英矢くんとはクラスメイトでその…いつもお世話になっています」
「いえ、こちらこそ美味しいフレンチトーストをありがとう。こんなに美味しいフレンチトーストを食べたのははじめてだわ」
シズカさんは、いつもはとても強気でよく喋る。でも二人の前ではあまりにも静かだ。池澤は頭の上にはてなマークを浮かべている。なぜわかるかというと、頭がずっとパンをフライパンで焼いている背中から見て右に傾いているからだ。オレは内心ヒヤヒヤしていた。池澤が一番、そういうのに敏感で察しが良すぎるところがあるからだ。しかしそれも杞憂で、すぐヘニャヘニャし始めた。よほど料理を褒められたのが嬉しかったのか、よほど目の前にいる女性が好みだからなのか、オレの冷蔵庫を引っ掻き回して晩御飯も作り始めた。昨日オレはきちんと買い物に行っておいたばかりで良かったなと本当に思った。明日の昼の弁当はコンビニで買うことになりそうだが、良かった。
「がりちゃんも池澤も親御さんに連絡しとけよ。心配するぞ」
「そうね」
「わあ、すっごい、ご馳走だあ!」
オレは、一人暮らしであることを忘れたいと思うくらい、この時間がずっと続けばいいのにと思った。とても幸せな空間で、ここに居ることを嬉しく思った。
「ふるみんもお母さんもほんとよく食べますね。そっくり」
「だって、とても美味しいんだもん」
第19話「遥かなる影」
洋楽の和訳をする宿題で私は、カーペンターズの「クローストゥーユー」の和訳をすることにした。そして、すぐに思い出したのは池澤くんのことだった。どんなに勉強が好きでも、私には英語の才能は無いんだ。英語をきいてもすぐ理解はできない。だから何度も繰り返し聴いて耳を慣らして、やっとわかる。だけど、ずっと聴きたくて何度も聴いていた理由がわかってしまった。夏の夜空の下で星を眺めていると、聴きたくなる。歌いたくなる。歌わないけどね。
振られるってわかってて告白しなくちゃって思うのは、すごくすごく切なくて寂しい。だけど伝えなくちゃって思うのは一体何でだろ。言葉で意識したことなくて、誰にも言ってなくて。もしかしたら、そういう気持ちを言ってしまったら悲しくなってしまうだけなら言わなくていいのに、伝えなくちゃって思ってしまう。
万が一、ありえないけど付き合う?なんて聞かれたら困ってしまう。だって私が池澤と付き合うなんて想像も出来ないし、付き合いたいってわけでも、多分ないから。それでもなぜだか、言いたい気持ちでいっぱいになる。叫んでしまいたいような、そんな気持ち。
言ってしまうなら今だ。多分今しかない。なんでだかそう思える。今しかないんだ。ほかにもう、言える場所なんてないんだ。だから、今、言ってしまおう。だめもとだ。
「あーあ…私やっぱあんたのこと、好きだ」
言っちゃった。あーあ、なんて言葉に出して。告白したのなんて初めてで、自分から先に好きになったのは初めてで、「うん。知ってる。俺もね、好き」
こいつは何につけても女ったらしだ。
「嘘なんて、つかなくていいのに」
「嘘じゃないよ。がりちゃんのこと好きだよ。でもね、俺には元カノがいてさ、俺、その子のことで頭いっぱいなんだ。未練タラタラでさ。それでも俺はやっぱりがりちゃんとふるみんも大好きなんだ。多分一生友達としてずっと好き」
「馬鹿みたい。一生なんて大袈裟な」
「がりちゃんは、俺にとって、女の子のなかで一番大切な友達だよ?だって、俺のこと、ちゃんと見てて、俺の嫌な部分を分かってもまっすぐに信じてくれるのはがりちゃんだけだもん」
お世辞だとしても嬉しいの。だから腹が立つの。
「顔真っ赤だけど、そんなに緊張したの?」
「き、緊張してない!!」
なによ!
「すごく嫌な思い、してるかもしれないけど、俺はがりちゃんと友達でいたいんだ。楽しかったなって、大人になって笑い合えるような友達がいい。例えば付き合って上手くいかなくて別れたりとかそういうことになるのすら俺は怖いんだ」「わかんないじゃない。まだ付き合ってすらないのに」
「俺は友達でいるほうが良いと思う」
無理よそんなの。私は池澤なんてやっぱりほかの誰も見えないくらい、好きになってるもの。そういうこと言われてなんか、ちょっと嬉しい気持ちの馬鹿な私がいるもの。
「たとえばさ、兄妹とかだったら、楽しかっただろうな」「うーん。あんたみたいな兄貴は絶対やだけどね」
「じゃあやっぱり友達でよかったな」
そう普通に言えるところが、あんたの嫌なところで、いい所なのよ。ばか。
「どうしたの?って泣いてる?」
「泣いてないわよ!」
「イラつくこと言ってたら俺のこと引っぱたいていいよ。それくらいの罪はあるでしょ?」
「違う!」
「じゃあなに?」
「別になんもないのよ!」
私はどうしてこいつのことなんて好きになったんだ? 今まで言葉にしないで、自分が勘違いと思い続けて、いざ、言葉にしたら、涙が出てきた。
「ねえ、池澤くん。私、あんたに告白してよかった」
「うん。絶対にがりちゃんは言わないと思ってた。でも俺、嘘ばっかつくけど、さっきのは本当だよ?」
叶わない恋なんていらないって思ってた。だって悲しむだけじゃない。泣いて、泣きじゃくって、また新しい恋をして、また、振られるかもしれないって生きてくなんて、辛いだけだって。馬鹿みたいだって。そんなことなら恋なんてしたくない!なんて。でも、こいつは、そういうふうになんて、思わせてはくれない。
「ねえ、池澤くん。私もうちょっとだけ、片思いしてていい?まだもう少し、あんたのことを好きだって思っててもいい?」
「なっ…なにそれ。あはははは、面白い事言うね!今の録音したかった、もう一回言ってよ」
「はぁあ?いやよ」
「俺だって振られたけど好きな子のことはあきらめらんないよ?でも、確信でがりちゃんが俺のこと好きって言うんなら、多分からかっちゃうかもしんないけど。それでもいーの?」
「…なにそれ!嫌な予感しかしないわ」
「だってつまりそれは、そういうことでしょ?」
振られたって終わりじゃない。世界はまだ続いてる。なんだ。簡単なことだった。
「男女の友情を信じて疑わない女」
「なに?急だね」
「確か池澤くんは前にそう言っていたけれど」
「え?あ、うん。言ったね」
「それを私が疑いだしたらこうなっちゃう」
「…そうだね」
「私、友達でいることを辞めたくないけど、池澤くんにそう言われた以上、それだけでは妥協しているような気がしてしまうの。なんだか納得いかなくて嫌だわ」
「随分真面目だね」
「ええ。私はいつも真面目よ」
「俺はとにかくがりちゃんの味方で居たいんだよ。どんなことも。何か悩みがあるなら相談に乗りたいし、頑張れない時は手伝いたいんだ。そういうのってたぶん、正直『好き』に含むんだと思う。だけど『恋人になりたいという意味の好き』とは何かちょっと違っているような気がするんだ。だってがりちゃんもそう思ったんでしょ?付き合いたいってわけじゃないって」
「うん。だって、古海くんがいるから」
「俺もそう」
「3人が一番好き」
「答えなんて最初から決まってたんだからそれでいいじゃん」
「そうね」
私ね、池沢の味方だよ?なんて、あんたみたいに素直に言えたらどれだけいいだろう。どれだけかわいい女になれるだろう。でも、多分言えないのが私だ。言えちゃうのが池澤だ。ずるいな。ずるい。いいな。うらやましい。そうか、私はだから池澤が好きになったんだ。自分にないものを、欲しいものを、多分一生にも手に入れられないものをたくさん、たくさん当たり前のように持って、大したことのないガラクタでも宝石のように自慢してみせるからだ。あーあ。ずるいな。ずるい。でも、なんでかな。笑えてくる。自然と笑えてくる。おかしく思えてくる。こいつ馬鹿なんだなって。不思議な気持ち。ずっと悪魔だと思ってたこいつの化けの皮の中身がちょっとだけみえた気がする。けど、やっぱり池澤は池澤だ。
私がこいつに告白出来たのって、すぐ答えを出してくると分かってたからだ。好きでいていいよ、そう言ってくれる奴なんて普通いない。友達として一生好きだなんて普通言えない。一生のうち誰かと一緒にどれだけいられるのだろう。どれだけ一緒にいたいと思うのかな?
思い出になったら変えられないことがあるかもしれない。言えなかったこと、言いたかったことを後悔したくないんだ。さっき言ってよかったって思ったのはいけざわの答えが貰えたからってだけじゃなくて、ちゃんと伝わったかどうかに意味があって、池澤くんにとって古海くんと私と3人の帰り道が一生のうちの大切な思い出になるくらいに好きだって言いたかったんだと思う。そんなの私も同じだ。この日常が終わらないで欲しい。だから、池澤くんは私を友達としての好きなんだ。池澤くんは人の心を読もうとするみたいに、人の気持ちを分かろうとする。私が池澤のことを好きだというのはたしかに本当のことだけれど、私さえ分からなかった伝えたかったことを池澤はすぐに察してしまうのだからそういうのってすごい。
この世界は、思っていたより複雑で、単純で。ひとの心は海の底。うんと深くて目には見えない。もっとわかりたい。わかりたいな。
「手をつないでもいい?」
「どうして?」
「なんかそんな気分なの」
「がりちゃんってそんなかわいいこと言える子だっけ?」
そう言いながら池澤くんはすぐ手を繋いでくれた。
「私、左利きだから、何が起こっても大丈夫でおすすめよ」私は左手で拳を作る。
「それは俺が頼りないってこと?」
「違うわ。池澤くんと私がいれば百人力ってことよ」
「さすが強気だね」
「強気よ!」
「そうなんだよな。ふるみんもがりちゃんも左利きで、なぜか俺だけ右利きなの。世の中に多いのは右利きなのになぜなんだか」
「それはきっと私と古海くんが天才だからよ。池澤くんは凡才なの」
「そんなあ。失礼だな。俺の料理の腕は凡才だって言うの?」
「そんなことはないわ。美味しかったわ。今度はラーメンが食べたいわ。味噌ラーメン」
「味噌ラーメンかあ。いいね」
「コーンとメンマと」
「チャーシューともやし、それからわかめ」
この日の帰り道だけ、私と池澤くんは手を繋いで帰った。
第20話「効果」
今朝の池澤とがりちゃんの距離感がおかしいと思った。がりちゃんがすっきりした顔でつやつやしてるが、池澤はなんだかどんよりしている。池澤に問い詰めたらこうだ。
「昨日、がりちゃんに告白されたんだ」
「え?それで?」
「がりちゃんって勝手にもう振られるだろうという空気を作っちゃってるし、付き合おうと思ったわけじゃないらしいから、結果的にずっと友達ということになった」
「良いのか、それで?」
「良いんじゃない?と、最初は思ったよ。俺としても都合が良いんじゃないかって思ったよ。けど実はそれってすごく良くないんだ。頭の良い人のやり方なんだよ。さすが、がりちゃんだなって思ってしまった」
「具体的にどう頭が良いって思ったんだ?」
「俺達みたいにある程度ずっと一緒にいるとさ、もう友達としての好きなのは当たり前なんだよね。だからその先は恋愛にしても何にしても告白とかはね、『先に伝えちゃったもの勝ち』なんだよね。そこでがりちゃんは思いの外早く先手を打って告白しに来ちゃったわけ。それで俺ががりちゃんを振ったら、俺に罪悪感が残っちゃうでしょ?次またそういう付き合うとか付き合わないとかいう機会が得られるとしたら、何かのイベントで都合良くとは絶対にいかない。それだけお互いが慎重になるんだ。俺ががりちゃんに告白をするか、がりちゃんにもう一度俺に告白したいと思わせなきゃなんないってわけ」
「そんな面倒なことになるくらいなら、『すぐにでも付き合おう』とでも言えばよかったのに」
「そうはいかないよ。無理に付き合ったって意味ないじゃん。がりちゃんに俺と付き合う気はないんだからさ」
「でも、どうすんだよ?」
「わかってるよ。俺が悪いのは。格好をつけることに慣れすぎて、女の子を振り回すことに慣れすぎて、いざという時も格好つけちゃったし、見栄を張っちゃったし、他の女の子と同じように振り回そうとしちゃったわけだ。それで考え抜いて用意して告白してくれたがりちゃんに結局は振り回されることになったってわけだよ」
「自業自得だな」
「そうだよ。わかってるよ。もうとっくに反省はしたの。それもぐるぐると」
「そうか。確かになんだか疲れた顔してるな」
「女の子に囲まれてたら嫌われるかな?」
「なに?今更?」
「いや、急にめちゃくちゃ、がりちゃんのこと意識しちゃうっていうか。だって俺の周りにいる女の子ってみんな同じ顔してるっていうか」
「同じ顔はしてないだろ」
「同じ顔に見えるんだよ」
「池澤って口癖のように、『女の子って皆可愛いよね』って言ってたろ?まるで『うる星やつら』の諸星あたるのように、あいつもこいつもそいつも口説いちゃってさあ」
「そんなことはないよ。俺は基本的には俺からはいかないもの。『来るもの拒まず去るもの追わず』っていうスタンスだよ」
「いつも通り『来るものを拒まず去るもの追わず』をしようとしたら、まんまとがりちゃんの策略に引っ掛かったってか?」
「そうだよ」
「来るものが最初から拒まれていて、去るのかと思ったら去らなかったわけだろ?」
「そうだよ。なんなの?俺わけわかんなくて困るんだけど?ほんと、なんなの」
「とにかくお前が馬鹿なのは、よーくわかった」
「うるせ!」
「あ!がりちゃん!」
「え?」
「嘘だよーん」
「…ふるみん!」
とにかく、池澤にとってがりちゃんからの告白はかなり効いてるってことはオレよーくわかった。
第3章(第21話〜第30話)
第21話「サイエンス・フィクション」
私はいろんな写真を見せてもらっていた。机の上にたくさんのアルバムを広げて見ている。泉水椎香さんは新聞部、村上夏美さんは写真部をやっていて、その部室の場所はそれぞれ隣り合わせにあり、二人は池澤くんのファンクラブの会長でもあるのだ。
「いけくんったらなんか変なこと言うのよ。ファンクラブなんかもう解散だあ、とかなんとか」
「それは、どうしちゃったのかしらね」
そういえば今日は珍しく手鏡で自分の顔を見てうっとりなんてしてなかったわね。いつもは本当にそうやって自分に夢中でいるのに。
「…たぶん、『テツ病』というやつよ」
「なにそれ、貧血?」
「うちのお母さんによるとね、人は恋をすると自分のアイデンティティがなんだったのかがわからなくなるんだって。『テツが『幼馴染』という言葉に過剰に反応するのと同じようなもの』ってことで『テツ病』なんだって」
「要は『恋は盲目』ってこと?」
「大変ね」
私は池澤くんの言っていた元カノっていうのはどんな子なんだろうなと考えてしまった。考えたくなかったけど、考えてしまった。
「ところでテツって誰だっけ?」
「うちのお母さんのお兄さん。つまり私の叔父さんで、…いけくんのお父さんでもあったわ」
「ひどくややこしいわね」
私は近くにあったメモにちいさく書いてみた。
「…もしかして椎香さんって池澤くんといとこなの?」
「そうよ。知らなかった?」
「知らなかったわ」
「それにしても椎香のお母さんってなんかいつもすごいこと言うよね」
「そう。何言ってんのか全然わかんないときもあるけど、哲学みたいな深いところをついてるときがあって考えさせられる」
本当に哲学みたいだな。恋をするとなんだか自分がなんなのか分からなくなったり、自分のやるべきことが急に見えてきたりする。それはその通りだなと思う。
「ところで、がりちゃん。欲しいのあった?」
「いっぱいあるわ。悩んじゃう。それじゃあ、これとこれを」
「そんな一枚とか二枚とかじゃなくて、何枚でも好きに持ってっていいよ!」
「本当に?」
「だって写真ってのは撮れば撮るほどこれからも増えていくものだし。わたしは何度も何度もやっていって、練習しているようなものだから」
「嬉しいわ」
本当に嬉しいなあ。学校で友達といる時の写真、もらえるなんて思ってもみなかったから。
「そういえば先週の『金曜ロードショー』見た?」
「見たわ!」
「私は録画してあるけど、まだ見てないの。ごめんね」
「じゃあネタバレはしないでおくね」
「うん。ありがと。見たら言うね」
椎香さんは少し悲しそうに下を向いて、そして思いついたように言った。
「そういえば、がりちゃんは、動画とかドラマを見る時って『一気見派』?それとも『リアルタイム派』?」
「そうねえ、漫画や小説は『一気読み』したいけど、ドラマや映画は『リアルタイム』で楽しみたいかなあ」
「そうかあ、私はぜーんぶ『一気見派』」
と椎香さんは言う。
「わたしは、基本的には全部『リアルタイム派』だけど、写真を撮りたいイベントとかと予定が重なったら録画するときもあるかな。漫画や雑誌や小説も流行っているものはすぐ読みたくなるから、言われてみればほとんどのものが『リアルタイム』になるわね」
と夏美さんは言う。
「便利だよね。観たい時に観たいものを楽しめるのも」
「そういえば私、『一気見派』だけど、季節のものは『リアルタイム』が好きだな。『夏はジブリ』とか『冬はホームアローン』とか。それからオリンピックもそうよね。みんなで観たいわ」
「車で聴くラジオも、この曲素敵!何て歌手の何て題名だろうかって偶然を楽しむことがあるわよね」
「たしかにそうね」
「でもやっぱり何よりネタバレは辛いかな。ネットを見ていたらチラッとまだ見ていないことのネタバレを知ってしまったりするけど、辞めてよねって正直思う時がある」
「そうだね」
「だけど早すぎて追いつけない時もあったりする」
「あるある」
「近々起こることの『予言』みたいなのもあるじゃない?でも正直なところ、信じたくないわよね。特に嫌なことは」
「そうね。これから起こることなんて知らないほうがワクワクするし楽しいもの」
「それに当たってない予言なんてこの世にたんまりとあるわけだし」
私は思いだす。
「ノストラダムス?」
「そう。でも『終末理論』なんてのは『一生懸命に生きようとするのを諦めて病んだ人が望んで見ちゃう夢』だわ」
まったく、そのとおりだわ。
「『未来人』とかいうのもなんだか胡散臭いじゃない?」
私は思いだす。
「ジョン・タイター?」
「がりちゃんたら、『SF』が好きなのね」
「ふっふっふ、そうね。バレてしまったわ。だけど、私は楽しめる範囲で楽しむのが好きだわ」
「そうね。『ジョン・タイター』の答え合わせなんかしちゃ、外れたもののほうが多いものね」
「2036年なんて意外とすぐそこよ」
「私は運命があるのなら素敵なものであると信じたいし、夢を見るなら良い夢が見たいわ」
「それが一番ね」
「そして、何があっても私達は生きていかなきゃいけないんだわ」
「なんだか、何かに吹っ切れたあとみたいね?」
「そうなのよ。でもいいのよ」
「わたしは常に今を切り取って『写真』が撮りたいんだわ」と夏美さんが言った。
「私は最初から最後までの全部を理解して、それをもとに何か『文章』を書いたり、読んだりして、物事を考えたいと思うんだわ」と椎香さんは言った。
「私は、たぶん、単純に『科学』というものが何よりも好きなんだわ。そして、科学を理解したいと思うのだわ。当てずっぽうみたいな曖昧で不可解な予言はあてにしてないけど、データさえしっかりとしていればある程度までは正確に物事を推測したり、予測することが出来るのじゃないかと思っているわ」
「わたしたちが3人揃うのってなんだか変ね」
「どうして?」
「椎香は文系、がりちゃんは理系、わたしは体育会系ってことよ」
「カメラマンって体育会系なの?」
「わたしは比較的走り回ってるほうだと思うのね」
「たしかに言われてみればそうね」
「属性が違っているはずなのに、なんだか楽しいわ」
「だけど皆違っているから、視点を変えて物事を考えられるし、いろんな意見があると知れて面白いんだわ」
第22話「イリュージョン」
夏休みは暇だ。いや、本当は暇ではない。勉強をしようと思えばできるし、遊ぼうと思えば遊べる、休もうと思えば休める。そんな結構シビアな季節だ。家で昼ご飯を食べる。リビングのテレビをつけるとマジシャンがショーをしていた。面白く無かったのでチャンネルを変えるとテレビショッピングで、脅威の洗浄力があるらしいという洗剤の紹介をしていた。まっさらのシャツが汚れていて、それをピカピカに洗って見せている。
「見てください!まるで新品同様に綺麗に消えましたね」
私は食後の薬を飲んだ。うっかり間違えてコンタクトの洗浄剤も一緒に飲んでしまった。仕方無く大量の水を飲んで自分に誤魔化した。
私の母は見えないものが見える目を持っている。霊が視えるらしい。私の父は人の前から姿を消すことができる。透明人間なのだそうだ。私の両親から学べることは、見ざる言わざる聞かざる。そんな風にこの世界に必要不可欠な「三猿」である。だけど、私は信じている。見えないものが時々見えることがあることを、姿が消えても実は存在がどこかに隠れていることがあることを。密かに信じている。
「おーい椎香」
ぴょんぴょんと帽子がひとりでに跳ねてこちらにやってくる。
「スカル、どうしたの?」
「最近、トオルが出かける時におれを外に連れてってくれないんだ。ラクばっかり着けてくんだよ。退屈だからさ、お前、これから友達のところに出掛けるんだろ?ファッションの一部だって全然構わないからさ、おれを帽子として使ってみてくれよ」
「え?うん。いいよ。お父さんには内緒ね?」
私はカジュアルなコーデを組んで鏡の前に立つ。そしてスカルを被った。こんなに暑い日にはちょうどぴったりだななんて思って嬉しくなった。そして鏡を見る。
「は?」
鏡の中の私はなんと姿が消えてしまっていたのだった。
「ちょっとスカル!これ!どういうことよ?」
「わからない。おれもびっくりだ!」
自分の部屋の鏡だけかもしれないと、私は玄関の前の鏡と洗面台の鏡も確認しに行った。
「私が居なくなっちゃってるじゃないの!?消しゴムマジックじゃないんだから!」
私はスカルを外して他のキャップを被る。やっぱりスカルじゃないと姿が消えない。お父さんが透明人間だと聞いてもそんなに意識したことがなかったけど、自分がいざそういうことがあると、スカルってこんなにすごいアイテムだったんだと気づいた。
「トオルはおれを被ると姿が見えるようになる。しかし椎香はおれを被ると姿が消えるようになるらしい。おれもそんなこと全く想定できなかったぞ」
そして、スカルは言う。
「お前、もしかして、シャンプーハットもそうなるのか?」
私は恐る恐るお風呂場のシャンプーハットを被ってみた。
「これでも消えるみたい!」
ずっと置いてあるカッパみたいな色のシャンプーハットがお父さんの命綱だなんて全然知らなかった。
「ということは、もしかして今日お父さんの着けていった腕時計を私が着けた場合も消えるってこと?」
「恐らくそうなるのだろうな」
私は少し不思議な気持ちになった。正直なところ、この世から消えたいだなんて思わない。必要とされたい。要らない人間だなんて思われたくない。だけど霊感が強いお母さんを羨ましく思っていたし、透明人間であるお父さんがいて、いざ自分にそんな能力があったことを知ると、複雑な気持ちだ。ワクワクする気持ちもあるけれど、正直無くても生きていくことはできる。そんな気がしてしまう私の超常現象。
私は退屈そうなスカルが可哀想だけど、このまま被って外に出るわけにもいかないので仕方なくリュックの荷物の中に入れた。ついでにシャンプーハットも入れた。
「お前、教科書ピッカピカだな。勉強してないだろ?」
「うるさいわね。今日はがりちゃんに化学基礎を教えてもらうのよ」
第23話「勉強会」
今日は昼過ぎに駅前でがりちゃんと待ち合わせをして、がりちゃんのお家にお邪魔する。
「立派なおうちなのね」
家なのかどうかがわからない形状をしている。病院や学校やそういうものに近いとても大きな建物だ。スカルはリュックサックから飛び出してヒソヒソと私に言った。
「ここは…研究所じゃあねえかあ!」
明らかに嫌そうな声だ。
「研究所?」
「そうよ。私の家は研究所なのだけれど、どうしてわかったのかしら」
「…化学基礎を教えてもらうにはあまりに本格的過ぎやしない?」
「そんなことないわ。基礎はとても大切よ」
「そんなまるで建設用語の意味の基礎みたいに…」
「それに私も椎香さんの得意な古典と日本史を教えてもらうんだわ」
私は目に見える全てが科学研究所でしかない広い施設の中を申し訳なく思いながら、がりちゃんの後ろをついて行った。
「お邪魔します」
「そう言うには玄関らしくなくてごめんね」
「大丈夫だけど、改めてすごいわ。ここに住んでいるだなんて」
「ここが私の部屋よ」
なんの変哲も無い小さな扉を開くとそこにあったのはこたつテーブルと四畳半の和室だった。
「和室って落ち着くでしょ?」
「ええ、さっきとは全く別の場所に来たみたい。ここでこそ『お邪魔します』って感じだわ」
「そうね。どうぞ上がって」
それはまるで研究所の一部分だけが過去に戻ったような、どこでもドアで未来からのび太くんの部屋へ戻って来たような、そんな昭和を閉じ込めたような部屋だった。靴を脱いで畳の縁を避けた。だるまや招き猫や、そういう渋い趣味のようだ。しかし何故だろうか、本当にそれはとても落ち着けた。スカルはその帽子のフロントにあるほんの少し眉に見えるか見えないかという繊細な白い刺繍糸の眉を歪ませた。
「おい、お前の透明がバレたらとんでもないことになるぞ気をつけろ」
「え、それはどうして?」
「おれはこの研究所で生まれたんだ」
小声で震えそうにスカルは言う。すると、「そうなの?」と、がりちゃんが私の帽子が喋っているのを見つけてしまい、スカルの様子を覗き込む。そして躊躇なく帽子の内側を見た。
「ぎゃあああ」
「ナンバリングは96、名称はスカルザキャップ…。なるほど、カンちゃんが作ったアイテムなのね。大丈夫。内緒にしたげる」
スカルは「嘘だ!絶対にあいつに知らせるつもりだろう?」と言った。
「いいえ。約束するわ。その代わりと言っちゃなんだけど、スカルがどんなことができるアイテムなのか知りたいわ」
「…元は透明人間界にある透明人間御用達の『マッド・ハッター』という帽子屋にあった何の機能もないただの帽子だ」
「ポロ・ラルフローレン製なのね。透明人間界でもポロ・ラルフローレンはあるのね」
「たしかに言われてみればそうよね。格好つけちゃって」
「とにかく、透明人間と人間のハーフである泉水トオルを可視化出来るようにとカンに改造された」
「それで、それをどうして椎香さんが持っているの?」
「退屈そうだったから父から内緒で借りてみたの。それでね、こうなったの」
私はがりちゃんの目の前で帽子を被った。
「椎香さん!?」
そして、帽子を外した。がりちゃんはホッとしたような顔をして私を見た。
「これ、どういうことだと思う?」
「椎香さんのお父様のものってことよね?」
「そう」
「…遺伝かしら?」
「そうなるわよね」
今度はがりちゃんがスカルを被ってみた。
「不思議ね。椎香さんは消えるのに私だと消えないのね」「そりゃそうだと思うわ。がりちゃんは透明人間じゃないでしょ?」
「いいえ、実は私も透明人間と人間のハーフなの。だけどややこしいわね。椎香さんは透明人間と人間のハーフのさらにハーフだから、つまりはクオーターということになる」
「待って。がりちゃんも透明人間と人間のハーフなの?」
「そうよ」
私はわけがわからなくなって頭を抱えた。そしてシャンプーハットのことを思い出してそれをがりちゃんに渡してみた。
「黄緑色なのね」
「ああ、それはトオルが風呂に入る時だけ使ってんだ」とスカルは説明をしていた。風呂に入る時だけ使われるシャンプーハットに比べて、お父さんが毎日使っているのは腕時計のラクだ。スカルは「でも確かに最近はあまり使われていないのはシャンプーハットよりもおれだな」と自虐して、どこかふてくされていた。私はもうここまでくるとUFOでも何でも信じられるような気がしてきた。がりちゃんは嬉しそうに押入れを開くと、そこから何かを持ってきた。
「ちょうど最近オークションで手に入れた信楽焼の河童の置物があるの」
確かに偶然にしてはそのシャンプーハットによく似たヒラヒラをつけている。そしてがりちゃんは嬉しそうにシャンプーハットを被った。私はそのがりちゃんの様子をぜひとも夏美に撮ってもらいたかったなと思ったけれど、今ここに居ないから私が撮ることにした。がりちゃんに河童と同じポーズをするように促す。
「がりちゃん、いいよ。こっち見てね。はいチーズ」
私はパシャリと写真を撮った。私の写真は上手では無いだろうが、がりちゃんはなかなかかわいく撮れている。
「そのシャンプーハットはやらないからな」とスカルは言う。すると、がりちゃんは「え?くれるのかと思ったわ」と残念そうに言った。
「この部屋といい、あんたの趣味は見かけによらず渋いんだな。もしかして趣味は盆栽か?」
「盆栽はまだやったことがないわ。見るのはとっても好きだし、確かに家に欲しいのだけどお小遣いでは全然足りなくて」
「あんた、金閣より銀閣が好きなタイプだろ?」
「そんなのは当たり前のことだわ」
スカルは50年代のロカビリースタイルが好きだからか、なんだかんだがりちゃんの趣味を興味深く思っているようだった。がりちゃんは、部屋の隅にある小さな冷蔵庫から水まんじゅうを出してくれた。スカルもお菓子を食べるんじゃないかと思ったようでスカルのぶんも前に置いてくれたが、「ありがたいけど、おれはこの通りただの帽子だからな」とスカルは言った。
第24話「神様に伝えること」
わたしの幼馴染であるヒロムの話をしよう。ヒロムと居ると、世の中の嫌なことが吹っ飛んでいるようだった。わたしはヒロムのそんなところを「魔除け」と呼んでいた。
「やあ、お巡りさん」
「こんにちわ、青柳さん」
わたしは神社の親父さんとヒロムのことについて詳しいことを聞く待ち合わせをしていた。青柳さんは先にいて、喫茶店の端の席に座って、ミルクとお砂糖をたっぷり入れたコーヒーをすでに注文して飲んでいたようだ。
「お待たせしてすみません」
「いや、忙しいのにお呼び立てしたのはこちらだからね」
「ヒロムのことについてですよね」
「そうなんだ。あいつには内緒でお願いするよ」
わたしは一番ポピュラーなブレンドコーヒーを注文した。
「うちの神社と八百屋の関係はそりゃあ長い長い付き合いだ。ここの土地神だからあいつがあの神社に来るってのも当然と言えば当然だろう。だが、それでもなかなか、ああいう人間はいないんだよ。あの子が神社に来るたびに全体の空気が入れ替わるように変わるんだ。神様からの歓迎のされ方がなんだか他の人と全然違ってる」
「いわゆる、神様からの人払いというやつですか?」
「人払いっていうと、なんか悪いイメージに思うでしょ?」
「はい」
「それって、実は二種類あってね、『神様が望んで人払いをする時』と、『参拝する人自身が望んで人払いしたい時』があるんだ」
「なるほど」
「だけど大概、神様は後者みたいなことをする傲慢な人を嫌ってるから、本当に神様が人払いしてでも呼びたい参拝客をその時間にどんどん寄せ付けちゃうってわけ。だからそういう時にはいつの間にか列ができるんだよ」
「そうなんですか?」
「お仏壇ならわかるよ?自分の祖先や亡くなった人に伝えたいことがあったら手を合わせる。祖先は誰よりも大切に家族であるその人を見守ってくれるから、なんだって聞こうと思うし、般若心経みたいな長い呪文だって唱えたら先祖にはご馳走になって、喜ぶことだろう?しかし、神社はお寺でも仏壇でもないんだ。自分は神様にお話することがたくさんあるんだからって自分が神様でもないのに自分から周りの人払いをしようなんて、そういうのってちょっとあまりにも周りに迷惑でしょ?」
「そうですね」
「神様って、参拝が短くても長くてもなんでも、その人が神域に入った時点である程度は、何を考えてここにきたのか、何が欲しいのか、わかってるものなんだよ。なぜなら、神様だから。人間ではないから。たくさんの人がいても、理解できるっていうか…」
「聖徳太子がたくさんの人の声を聞き分けられたっていう伝説があるのと似てますね」
「そう。そんな感じだよ。確か聖徳太子が祀られている神社もあるよ」
「そうなんですか?」
「どう言えばいいのか難しいんだけど、いわゆる人間よりも圧倒的に優れた存在だから、少なくとも人間より神様が下の存在だなんて思ってる人間なんてのはそもそも無礼だと思ってる」
「そうですね。神様の能力とその立場を考えたらそうです」
「どんな金額を入れたってみんなに同じように対応する。一円でも一万円でもそれは同じ。お賽銭は神様へのお供え物に過ぎないから。神様は金額よりもずっと、その人の行動や伝えようとしてくれた内容を考えるんだ」
私はヒロムがお釣りでわざわざいつも分けてくれた5円玉を思い出した。初詣のとき、握りしめていた21円を思い出した。
「少なくともヒロムは、お正月以外はいつもお賽銭は5円玉でした」
「たぶんだけど、あの八百屋からきた5円玉がお賽銭箱に入ること、いまだによくあるんじゃないかな」
「まあ、そうでしょうね。どうにかしてでもお会計のあと渡すお釣りに5円玉入れようとするスタイル取ってますから。ピッタリの金額渡してくるお客さんがいて、そういうお客さんにお釣りが渡せないことがあると、なんかすねてるくらいですもん。あいつ」
窓辺で風が吹いた。木がざわめくように音を立てた。それが喫茶店の中に聞こえるほど。だけど強く叩くような感じではなく、なんだかやさしいものに感じた。
「ヒロムくんはね、神様にただ挨拶をするみたいにやってきて、なのにそれがまるで普通というみたいにきれいな所作で参拝する。目立たず騒がず誰にも迷惑をかけず、そこにいる誰かに大きな刺激を与えることなど一切ない。でもその地味なお参りを定期的にやっているからか、神様は来てくれるってことを知っている。ヒロムくんのことを信頼しきってるんだと思うよ。ヒロムくんはたぶん神様に伝えたことをその後しっかり努力してる。お願いじゃないんだ。何かの誓いを立ててるんだよね。だからね、うちの神社に定期的にお参りに来る人ってのはたくさんいても、明らかに神様にあんなに好かれているのはヒロムくんだけじゃないかなって思うよ。欲しいものを願ったり、ねだったり、自分は特別だなんて思ったり、そういうことじゃないんだろうね。とにかく小さなことをいかに積み重ねるかだよ」
「そうですね」
わたしだけがヒロムのことをわかってるだとか、わたしばかりがヒロムのことを好きだと思っていた。でも違った。
「ヒロムは自分のことより、人のことばっかり考えていて、自分のことだけにはすっごい鈍感だから、神様が味方しているのかもしれないですね。なんか、悔しいな。神様はたくさんヒロムにできることがあって、わたしは何もできなかった。好きな気持ちを押し付けてた。それでわたしもヒロムのご加護と言うか恩恵を受けていたのですね」
「それはちょっと違うと思うけど?」
青柳さんは、驚いたように言う。そのいつもは細い目を見開いて、いつもの優しい口調とは少し違っていて、反論しなきゃだめだというように強気に言ってくれた。
「ヒロムくんは、カスミちゃんのことが好きだから、シズカちゃんを好きだし、カスミちゃんは、ヒロムくんのことが好きだからテツくんのことが好きになったんだと思うよ?」
「それは、どういうことですか?」
「難しいね。うまく言葉にするのが。簡単じゃないよ。だけど、これって正直、外野のおれが言うべきことかどうかもわからないんだけど。神様はずっとカスミちゃんに嫉妬してたんじゃないかと思う。どんなに神様がヒロムくんのために守っても、カスミちゃんのせいで全部が霞んじゃうんだ」
「そんな」
「そのうえ、シズカちゃんのせいで、静かにまでなる」
「名前のせいだって言うんですか?」
「『名は体を現す』って言うだろ?」
「そうですけど…じゃあテツは?」
わたしは頭の中で考える。鉄ってなんだっけ?金属?
「テツの名前の漢字を考えたらわかんない?」
テツ?私は、テツの名前を手のひらに書いた。
「いや、そういうのって単なる偶然だと思います。鉄道会社だって『失う』だと縁起が悪いから、わざわざ『矢』に直してるとこがあるくらいですし…」
『失う』だとしても、『矢』だとしても、意味は同じになってしまう。嫌だ。なんで?逃げ場がない。
「ヒロムはその名を見てすぐに思いついたんじゃないかと思う。いつものようにそうやってきたから。感銘を受けたと思う」
「そんな漢字とかじゃ、なくて…わたしは」
考えたこともなかった。当たり前のように、わたしたちはずっと鉄平をテツって呼び続けて。いつの間にか、テツはテツだった。どうしてだろう。なんでそんなことに今更気づいてしまうの?もっと早かったら、何か違ってた?ヒロムは「運命には抗えない」と言った。わたしは運命に抗おうとした。だけどその先に運命を見てしまったのだ。
「わたしが神様から、ヒロムを奪ってたからですか?」
「神様ってそんな極悪じゃないよ。カスミちゃんのことを嫌ったりもしてないと思うよ。だって、ヒロムくんがカスミちゃんと一緒に居ることを望んで、それを選んでいたわけだから」
「でも、わたし、そんなつもりなんて気付けなかった。ヒロムのこと鈍感だってずっと。でも、そんなの、わたしのほうがずっと鈍感…」
涙をこらえて窓の外の空を見る。鳥が優雅に飛んでいる。
「神域で行儀の悪いことするななんて言うけど、神域とかそうじゃないとかいう境界線に関係なく、悪いことをするもんじゃない。そうだろ?」
「そうですね」
「でも、この世には『正しい』ってことの、見本はなかなか無いから難しい。『正しい見本』を作ったって、どちらにも破られる。この世にはもっと正しい奴がいるし、悪い奴にはもっと悪い奴がいる。なんでかこの世は平和じゃないよね。そういう意味では平等なんて、正義なんて、どこにもない」
その言葉にわたしはなんだか、不思議な心地がした。なんだかそれを聞いて、心が軽くなったような気さえするのだ。
「そうなんですよね。悪いことは起こりやすいから想像しやすい。なかなか起きない幸福なことを想像するのは難しい」
「じゃあ、カスミちゃんって妄想する?」
「妄想?」
「『妄想』って言うと、悪いイメージ浮かぶでしょ?いかがわしいこととか、悪いことを企んだりとか。でも、それたまに『瞑想』が含まれてる時もあるんだよね」
「たとえばどんなことですか?」
「ディズニーランドに行って、プーさんのハニーハントに乗りたいって思うじゃん。それで、その途中にプーさんが風船で浮かんでるのを一目見たい。それがおれの願いだとするね」
「青柳さんからは想像できなかったですが、なんだかかわいい願いですね」
「そうでしょ?だけど、でも、そんなのディズニーランドに行きさえすればすぐに叶いそうでしょ?」
「それはまあ、そうですね」
「でもディズニーランドに行きたいよって神頼みするだけなら、そこまで行かなければ到底、そんなの叶うはずもない。少なくとも妄想して具体的にしていったほうが、叶う方法が見つかりやすくなると思わない?」
「それはつまり…でもやっぱりわたしの鈍感が悪いです」
「わかんないよ。それももしかしたら、ヒロムくんを守るために神様がわざと隠したのかもしれないし。もしくは神様がカスミちゃんとヒロムくんの縁を切らないためにそうさせた可能性だってあるかもしれないし。だから難しいんだよ過去のことは。過去っていうのは、目に見えない力ってのが働いてても、そんなの誰も知らないから消えて見えなくなる。なかったかのように、あっという間にね。だから、感謝する必要があるのさ。『あのとき、もしかしたら偶然、何かに助けられたかもしれない、神様ありがとう。助かりました』って、神社に伝えたいことがあっても、おれは伝えるべきことってのは、実はそれぐらい簡単で良いと思うんだ。次の欲望なんて神様は正直なところそんなに求めてないんじゃないかな。感謝されるから、感謝されたいことをまたやってみたくなるというか。まあ、おれはただの人間であって、神様にはなれないから、神様の使いとして、なんとなくここで感じ取っていることでしかないし、憶測の域を出ないけど。神様っていうのは願いを叶えるためにそこにいるんじゃなくて、夢そのものを守るためにそこにいるんじゃないかな」
「ヒロムには、ずっと何か、夢があるのですか?」
「おれは、最初から気づいてる。だけど、言わない」
「なんでですか?」
「だって、そのほうが面白いから」
第25話「口笛吹きと犬」
私の趣味は音楽である。聴くのも、演奏するのも好きである。しかし、楽器を持たずして適当に音楽を演奏しようとすれば、簡単なものは鼻歌か口笛かの二択だろう。またさらにレベルの高いものがあるとすれば、それはボイスパーカッションになるのだろうか。
私は休みの日、のんびりした午後には口笛を吹いている。「口笛を吹いて働こう」という曲があるように、口笛を吹いて用事を楽しく取り掛かり済ませようとすることがある。そうするとこれが結構捗るのだ。換気をして、机の上を綺麗にして拭く。ゴミを拾う。掃除機をかける。面倒な書類を片付ける。口笛を吹きながら元気にそんなことをやっていた。日が落ちてきて明かりをつける。カーテンを閉めようと窓辺に向かう。そんなとき、窓の向こうに夕方の犬の散歩が見えた。こちらを向いて座っていて、そこから動こうとしないのだ。「ちょっと?散歩に行くよ」と飼い主さんにリードを引っ張られている。そして私はそれを見かけてすぐ口笛を吹くのを一時中断する。
ある日、近所に小さな犬がやってきたのは3年くらい前だったか。大型犬であるから、いつの間にか今やとてもとても大きくなった。犬の名前を仮に「ポチくん」ということにしておこう。ポチくんはとても人懐っこいが、しばらく会わないことがあると次に会った時にはそれが誰であっても忘れてしまい「はじめまして?ちがう?あれ?あなたはだれだっけ?」という顔をするタイプの、知り合いが多い犬である。だから、私の顔を見ても私だってことに気が付かないことがあるんだ。近所に住んでいるのに。だけど口笛を聴くのはとても好きみたいだし、口笛を吹いている人が近所にいるということはずっと知っているらしい。
音楽の耳の良さと、聴覚の耳の良さは似て非なるものである。しかし稀に両方を持つ天才が時々この世にはいるものだ。私の聴覚は残念ながら生まれつきあまり良い方ではない。しかし、特別悪過ぎるというわけでもない。音楽をやってきたことで代わりに音楽の耳というのは育ててきた。そこで、犬は音にとても敏感だ。私にその耳の良さを分けて欲しいほどだ。人間の4倍も聴覚がいいので、いろんな音を器用に聞き分けることができるそうである。特に口笛の周波数の場合には比較的他の音よりも高い音域になるので反応しやすいのだそうだ。
私はフルートとピッコロを吹いていた経験があるので口笛の腕前にはとても自信がある。実は、自分でそれを録音をしてみた時に、歌を歌う時よりも口笛を奏でているときのほうが圧倒的に上手に音を取れることが発覚したほどである。家族は私が口笛を吹いて何か作業をしていることがあまりにも日常なので、誰もそれを褒めてくれることはない。しかしそうやってポチくんが私の口笛に止まって聴こうとしてくれたのを目撃すると、なんだかとても嬉しいものだなと思う。だけどポチくんに口笛が聴こえるのは生まれつきのものなのだから、私は調子に乗ったりせずに程よくしたい。ポチくんが散歩じゃない時間に、ポチくんが喜んでくれそうな曲を考えて吹いてみようと思う。
第26話「バタフライ・エフェクト」
女の子というのは気まぐれな生き物なんだ。蝶々と同じみたいに、ひらひらと舞う。あっちに行ってみたり、こっちに行ってみたり、挑戦して、失敗したり成功したりを繰り返しながら。そんな冒険を色々しながら自分探しを繰り返すんだ。ずっとそういう変身をしていきたいんだ。私は制服のスカートをいつもより少しだけ短くして履いた。
例えばね、髪の毛の長い女の子は、手入れに時間もお金もたっぷり掛けていながら、面倒くさくなって短くしてしまいたくなる。そんな気まぐれと毎日闘ってるんだ。だけどそれは、髪の毛の短い女の子はそうじゃないってわけではないんだよ。短くたって手が掛かるのは同じ。ロングヘアとはまた違う手間が掛かる。結びにくい長さだとか、外巻き仕様にするとか、内巻き仕様にするだとか。前髪を作るとか、前髪を伸ばしてみるだとか。
私も自分に似合う髪型を探すためにいろんな髪型をやってきた。一番長い時には腰まで長いロング、一番短い時にはベリーショートにしたことがある。今までに自分も気に入っていたし、似合うって言ってもらえた髪型がいくつかあって、それに戻してみようかなという気持ちもありながら、年齢を重ねていくうちに似合う髪型が違ってくるのかなと思ったりもしている。
変わりたいとき、女の子は気まぐれに髪の毛が切りたくなる。だけど、それは失恋じゃないよ、なんて言っても、男の子ってのはそういうのを一番に考えてしまうし、気にしてる。だから似合ってたとしても何も言わないんだよな。何も言えないのかもしれないけど。女の子も何かと恋愛の動きがあったことを知っていると嫌味っぽく褒めてくるからあまり気分は良くない。知らなくて念のため何も言わなかったりすることもある。でも、何があっても、何もなくても、なんだか女の子の髪の毛ってものは随分切りにくいものだなと思う。だって、似合っていても似合っていなくてもまるで髪の毛を切ったことがだめだったみたいになる。一番良い考え方があるんだ。それは、女の子が髪型を変えたときって、「心を新しくしたくなったから髪型を変えた」ってことだと思うんだ。
夏美さんは人の変化に敏感でありながらも、受け入れてくれる包容力のある子だと思う。すぐに写真におさめてくれようとする。まるでカットモデルをしたような感じに撮ってくれる。そして、「美容師さんが手鏡で見せてくれたぐらいじゃわかんないでしょ」と後ろ髪がどうなってるか撮ってすぐにスマホに送って見せてくれる。「良い腕の美容師さんだね」と褒めてくれた。私はこんな気の利いたことができるカメラマンはなかなか居ないなと思う。それからおしゃれが大好きな椎香さん。美容院は椎香さんにとって髪を切る所ではなくて自分をアップデートする場所らしい。美容師さんにたくさんの美容アイテムを教えてもらったりだとか、流行りのものについての会話を交わすのだそうだ。雑誌を見たりもするらしい。私は美容院に行った時は夕方でなんだか眠くてぼーっとしていて、雑誌を読むことも美容師さんと話をすることもしなかったから、提供できる情報は無くてごめんねと椎香さんに言った。だけど次に美容院に行くことがあったらそういうこともしてみたいななんて思う。
第27話「複雑」
がりちゃんが髪の毛を切った。それも結構バッサリ。だからなんだか随分変わったように感じた。池澤はそれを見た後、非常に悩ましい顔をしていた。
「俺への当てつけかもしれないよ。だけど、悔しいけど似合ってる。なんで俺がボブが好きだってことを知ってたんだろう。複雑だよ。なんというか、複雑だよ。ちょっとふるみん、どうしたら良いと思う?」
そんなことを強がって言っている。いや、オレはよく知っている。こいつはショートだろうがロングだろうが、何でも女の子なら誰でもかわいくて好きだろう?つまりがりちゃんが女の子である以上、がりちゃんがどんな髪型でも好きだろう?いや、そんなのは池澤が変わる前の話だ。オレは自分のことじゃないなら面倒事にできるけど、未来の自分がいなくなってしまいはしないかと内心ヒヤヒヤしていたから、池澤の気持ちが変わらないことには安心していた。がりちゃんのほうはというと、こうだ。
「まあ、確かに池澤くんには告白したし、振られたといえば振られたんだけど。でも、それが失恋かどうかと言われるとわからないし。それで『髪の毛切ってくるけどいい?』って池澤くんに聞くのもなんか不自然だなと思ったの。だって、私が単に髪の毛を切りたかっただけなんだもの。それとこれとは全く別なの」
「でも、オレが池澤だとしたら驚くよ。自分のせい?って思ったりもする。もしそうならと悩み込んだら結果的には傷つくかな」
「そんなに傷つくの?」
「まあそういうのは男にしかわかんないかもしれないな」
「へえ。複雑なのね」
自分がやったことに対して、随分他人事だなと思いながらオレはがりちゃんに聞いた。
「だって、がりちゃんの髪、結構長かったろ?」
「まあ、長かったといえば、長かったけど」
「随分あっさりしてるなあと思って」
「ねえ、古海くん。ダーウィンの言葉知ってる?」
「ダーウィンって、進化論の」
「そう。『最も強い者が生き残るのでも、最も賢い者が生き伸びるのでもない。唯一生き残ることができるのは変化できる者である』ってやつ」
オレはちょうど最近、隠しトラック『三人のおじさん』を聴いていたので、それを思い出した。確か、素早いおじさんはレーサーになってチーターになるんだ。
「私みたいに、『頭が良くなりたい』って勉強しているとね、賢くなれるし、次第に強くもなれていく気がするのよ。だけど変化が出来ているかどうかっていうとね。それはよくわからないのよ」
「目に見える変化が突然にしてみたくなったってこと?」
「そう」
がりちゃんというあだ名は、東(あがり)という名前だけでなく、ガリ勉というところにも掛かっているらしい。だけどこの頃、がりちゃんはスカートが短くなったり、持ち物が前に比べて女子高生らしくなった。優等生というレッテルを剥がしたいらしい。しかし、勉強が好きなのだけは変わらないらしい。
「一体それは何のために変わりたいの?」
「そうだな。自分のため」
本当にそうかあ?みたいな顔をオレがしていると、がりちゃんは続けた。
「決して池澤くんのためなんかじゃないのよ」
こんな風に後付けみたいに池澤を出してくるそれが事を怪しくしているのが、がりちゃんにはどうやらわからないらしい。
「そうなの?オレはてっきり、池澤のために変わりたいと思ったんじゃないかなと思っていたんだけど」
「池澤くんのために何をするって言うの?」
「可愛くなりたいとか?」
「池澤くんのために?」
「違うの?」
がりちゃんは、意地を張ったような感じでムッとしている。「もちろん池澤くんや古海くんがいたら、それは男の子だから、『私は女の子で居たい』とは確かに思うんだ。でもね、女の子って、『自分に自信が無いときに、可愛くなりたいって思う』のよね。それは決して誰かのためじゃない。自分のためなんだわ」
「ふーん。本当に?」
「古海くんだって、髪の毛を切ることもあるでしょ?だけどそれは定期的に揃えに行くくらいで、そりゃ女の子とは切る長さが全然違うかもしれない。だけど例えばね、思い切って坊主にしたとする。それって、男子の場合には『失恋したから坊主にした』とか、絶対に思われることはないでしょ?それってずるくないかしら?女の子が似合う髪型をしていてそれを褒めるのはわかるわ。でも、女の子が髪の毛を切っちゃいけない決まりでもあるの?」
「いわゆる『セクハラ』って言いたいの?」
「ハッキリと言ってしまえばそうなるわね。『髪の毛を切ったから失恋だと決めつけるのは失礼に当たる』なんて、ファッション業界の中で裁判沙汰にすれば、簡単に『セクハラ』にまで持っていける気がするわね」
「いや、『失恋が関係無いわけでも無い』にギリギリおさまってしまうことがあるから、今でもそう言い切れないんじゃないかな。色気がある話に含まれるからファッション業界でも暗黙のルールなんだよ、きっと」
「私は古海くんのそういうところが嫌いよ。だって、結局『私が髪の毛を切ったのは池澤くんの失恋が絡んでる』ってことになってしまったわけでしょ?どうしてそんな頑固なわけ?」
「池澤によると、がりちゃんが勝手に告白してきて、勝手に振られたって聞いたけど?」
「だって、古海くん。私が池澤くんと付き合っているの想像できる?」
「オレは想像できるけど?」
「私には想像もできないの」
「オレにはなんだか、今までのすべてがディスコミュニケーションによるすれ違いに思うけど」
「ディスコ?」
「がりちゃん、こういうとき、とぼけるなよ」
がりちゃんは少し考えたように遠くを見ていた。
「そうね。会話ってつまりは対話でしょ?だけど、髪の毛ってそうじゃないのよ。『不可逆』で『一方通行のもの』なの。例えば、そうね。時間とか、お金とか。季節とか、食べ物とか。愛情とか、思いとか。電車とか、雨とか。そういうのに似ている。だからなんだか何かの表現的になってしまうんだと思うの。特にそれを受け取った側は難しいのよ。うまく返せないから。戻らないからこそ、時間が戻せないことに、何かの後悔に悔やむ。でもそうね。私が悪いと言っている理由がなんだか少し分かった気がするわ。じゃあ、池澤くんに対して、私が『私が悪かった』とでも言えばいいのかしら?」
「そうだな。オレとしては、がりちゃんの髪型がどんなに似合っていたとしても、池澤がどんなに強がってその髪型が好きだと言っても、うまく言えないんだけど、複雑な感情が邪魔をしている限りは純粋な気持ちで『似合うね』とは言えないかな。『がりちゃんが悪い』とも言い切れない。でも、『池澤が悪い』とは絶対にならない」
「それを狙ったって言ったら、引かれるかしら」
「狙ったの?」
「だって、罪悪感があったんでしょ?私が勝手に告白して勝手に振ったのに、それを池澤くんは自分のせいで私が髪の毛を切ったんだって勝手に思うんだ。それはなぜ?私はたぶん、心の奥底でね、ちょっと、なんだか池澤くんをからかってみたかったのよ。どんな反応をするか知りたかったの。私が変わりたかったから、この曖昧な関係を変えたかったから、池澤くんの心を確実に動かすにはね、ちょうど良かったの。全部これでチャラになるでしょ?」
「がりちゃんはそれでいいの?」
「私は挑戦したの。変わりたくて、一歩踏み出した。池澤くんが、思っていたよりずっとちゃんとしていたのよ。だって、あの池澤くんよ?女の子にちやほやされていればそれで幸せだって言う、呑気な池澤くんよ?ないない。絶対にないって思ってたの。だからちょっと、つまんでみたり、放り投げてみたのよ。そしたら藪から蛇出たのよ」
「藪から蛇ではないでしょ?結果的にはがりちゃんにとって良い方向に進んだのだから。池澤にとっては藪から棒だよ」「…そうかもね」
オレは池澤が前に、「一人の女の子と付き合うメリットがわからない」なんて言っていたのを思い出した。「来るもの拒まず」みたいなことも言っていたような気がする。でも今の池澤はそんなことを言い出しそうにはないほど、その気にさせようと思えばなりそうだなと思う。確かに思っていたより遥かにがりちゃんへの反応はずっとちゃんとしていた。
「プレゼントをするなら、人、一人に、その人のためだけに何かをあげたいと思って必死になって考えるのが、オレは結構好きなんだ。でも時々、先生が黒板の前で話をしている時に、オレならもっとみんなの前でこう説明できるなとか、もっとオレならわかりやすく話ができそうだなと思う時があるんだ。実際にやってみるとなかなかそれが難しいってわかるんだけどね」
「それは、どういうこと?」
オレは実はずっと、学校の先生になりたいんだということは考えていた。先生でないなら、何かを説明する人になりたいんだと思う。確かがりちゃんはお医者さんになりたいらしい。そのために勉強を頑張っているんだそうだ。
「たくさんの人と関わる時と、誰か一人のためだけに何かをする時は違っている。髪型はどちらかというとたくさんの人と関わるためにあるものだから、もしその髪型をした理由が誰か一人のせいになりそうな時には、いろんなことを考えさせてしまう。それなりに配慮が必要だってことだよ」
「それは、その通りね。でもそれだからこそ、私は思うのよ。男子の場合にはそういうことは関係ない事が多いのに女の子だけがそう恋愛に関係してしまうだなんてずるいわ。女の子として生きるのって、いちいちめんどうくさくて大変だなあって思うのよ」
「でもその良さも、わかった?」
「ちょっとだけね」
がりちゃんはそう言って、なんだか照れ笑いしていた。
「だけどね、古海くん。きいてくれる?美容院に行くでしょ?いろいろ悩んだ時に、美容師さんに、『あなたの頭の形はこの髪型だとよくお似合いになりますよ』って言われたら、そうしてみたら本当に似合うのかなって思って試してみたくなってしまうわけなの」
「おしゃれに目覚めたんだ」
「いいえ、違うわ。だって、私はずっとおしゃれするのは好きだもの。今にはじまったことではないのよ」
でも、やっぱりがりちゃんは、なんだか少し変わったなとオレは思った。がりちゃんが変わりたかったように、がりちゃんの思う良い方向に少しずつ変わっているのなら、オレはそれでいいのかなと思った。だってがりちゃんの言うように結局は取り返しがつかないんだから。池澤が自分のせいだって考え込むのは一瞬で、がりちゃん自身は、自分のためだ、自分のせいだって言うのだから、女の子ってのは結局そういう意味ではずるいじゃないか。オレはそう思って、そのついでに髪の毛を切りたくなってきた。
「罪な女だ」
「どんな罪?」
「池澤を振り回した罪。オレまで被害被ってるのわかる?」
「でも、女の子の事情ってのもわかった?」
「女の子の単なる気まぐれでこんなに振り回されてたなんて知るのもオレは勘弁だよ。池澤にあの複雑な気持ちを抱えさせたままでいいわけ?」
「いいのよ。だって、それほど池澤くんのことが好きだったって自分の気持ちに気づいたら、なんだか私のほうがずーっと複雑なんだもの」
オレはなんだか頭が痛くなってきた。結局は、「なんでこいつら付き合わないんだろう」って複雑な話題に落ち着いてしまう。そしてそれは答えがない。それってもしかして、オレがここにいるせいなのか?そんなふうに思えてきてしまう。
「古海くんは優しい」
「何が優しいの?」
「だって、古海くんが居なかったら、私は池澤くんがどんな風に思っているかなんて、想像できなかったの。話してくれたらよくわかったわ。私が何をしてしまったのかが」
そう言ってがりちゃんは自分の髪の毛先をくすぐるように触っていた。
「だけど後悔はないの。おかげでそういうことを知ることができたのよ」
オレは、未来人らしい。がりちゃんと池澤が、何かが原因でシズカさんを過去に置き去りにしたせいで、オレは未来人らしい。だけどがりちゃんが、オレがいなかったらって言ってくれるなら、オレがここに居てもいいのかもしれない。
「じゃあさ、がりちゃん、オレと付き合ってみる?」
「え?どうして?」
「いや、なんとなく言ってみただけ」
「冗談はやめてよね。びっくりするから」
オレはなんだか考えてしまう。シズカさんの両親ががりちゃんと池澤だって知らなかったら、がりちゃんのことを恋愛で好きになってたっておかしくないなって思ってしまう。
「オレはね、たぶん、がりちゃんのことはずっと好きなんだ」
がりちゃんは目を見開く。そしてオレの肩をバンバンと強く叩いた。
「古海くんが『池澤くん化』してどうするのよ。変なものでも食べたのね?吐き出しなさいよ」
「なんだか、心配されてる」
「そうよ。池澤2号が誕生してしまったら、この世の女の子がみんな大変なことになってしまうわ」
お前が言うな。オレはそう思って、苦笑いした。
第28話「靴」
シンデレラの靴が片方脱げたのは、わざとじゃなくて偶然だ。実際、階段で転んで膝を擦りむいたことがあると、私はそう思う。それで感じられる素敵が、こんなにたくさん童話の中に隠れているなんて知らなかったのだ。
私が階段で怪我をした日は成人式の時だった。例年行われる会場が改装中だったので急遽隣駅にあるホールで行われた。そのホールへの階段は普通に歩くのでもとても長いものだった。私は友達と待ち合わせをしたが、いろいろなことの準備がずれこんでしまい、開会のギリギリになりそうだったために、みんなですこし道を急いだのである。そこで慣れない着物と下駄で走った。急な階段の部分で躓いた。妹が私のあとこの振り袖を着ることになるので、「私、たぶんこれ、転ぶ」と気づいた時、咄嗟に着物が破けたりすることは無いようにしなくてはと、片足だけで階段を踏み外すようにして転んだ。石段で擦ったので傷は深いもので、膝からスネにかけて一直線に引っ掻いたような跡ができ、傷口が何もしないまま空気にさらされているとひんやりして痛いという状態になった。
その時思ったことは、私は人生の節目の行事にとても弱い傾向にあることを思い出した。二分の一成人式には高熱を出して結局休むことになってしまったので参加できなかった。成人式には階段で怪我をした。何かのイベントのとき、プレッシャーに弱い。鼻血をだしやすい。みんなの晴れの日を私は縁起の悪い嫌なものにしたくないから出来るだけ隠れて我慢をすることになるのだった。
成人式には昔の友達がたくさんいたはずだ。小学校の時の友達、中学の時の友達、高校の友達もいた。私は会が終わると歩けそうにない足を止めて、会場から一番に出て、出ていく人を眺めていた。見た目がガラリと変わってしまってわからない人もいるのだろうか。昔の友だちで見た目だけでもその人だとわかる友達もいた。私は12歳のときから身長がほとんど変わらない。見た目もそこまで変わらないことだろう。だからもっといろんな人と話をしたかった。元々はそのつもりだった。楽しみで仕方がないものだった。ただ、脚の傷を隠して笑い続けるのは私にはあまりに厳しかった。
そんなときに私が思いだしたのは、シンデレラの話だった。全く違うものだ。共通点はただ階段で転んだだけだ。
シンデレラは本当は、大切な靴をちゃんと両足分揃えて家に持って帰りたかったのではないかと思う。なぜなら、継母と二人の姉に内緒で来たことを完璧に隠したかっただろうから。そして、シンデレラは慣れないドレスや新しい靴を履いて出かけた舞踏会の自分を本当の自分ではないと思ってるだろうから、それが夢ではないという証拠があることが嬉しかったと思う。
私は23階のビルの階段を1階まで駆け降りたことがあるが、段差が規則的で一定であるために転ぶことはなかった。登りの階段で怪我をする可能性は高いが、下りの階段では重力が一歩先に安定するので怪我をすることはほとんど無い。しかしあまりに急いでいると靴が脱げることは、下りの階段のほうが可能性が高い。下りの階段で怪我をする場合は大抵靴のせいか、階段の段差が急に変わることに足が気づけなかった場合だ。私は、足元をより注意する必要があると思うのは下りの方だと思うが、登りは急がずゆっくりで良いと思う。私のようについうっかり何かに気を取られていると怪我をすることがあるから。
帰りの道ではもちろん転ばなかった。私はたぶん、あまり長生きしないのかもしれないとその時に思った。当時の20歳での成人式で、既に折り返し地点に近いのかもしれないと感じてしまうことが、なんだか残酷に思った。もし、それ以上に長く生きられたとしてもそんなに長生きすることはないのだろうか。
ネガティブではなく考えたいので、こういう考え方も出来ると思いたい。「ジャネーの法則」だ。主観的に記憶される年月の長さは年少者にはより長く、年長者にはより短く感じられるというもののことである。しかし、時間を大切にする者の前では時間は平等である。私が成人式で感じたことは、そっちのほうを伝えようとしてくれたのであればいいのだが。
ともかく私が、子どもの頃の過去に囚われないために、これからの人生を生きるために、その時転んだのだ。そうだとしたら、その時転ばなければ今の私は無かったと思う。
人生が長ければ長いほど良いってものでもないのかもしれない。だけど、長いほど出来ることが増えるのは確かだ。それに、人生は短いかもしれないから大切に生きようとする方が、たぶん後悔しないで一生懸命に生きられる。未来はわからないけど、偶然があったら偶然を喜んで、前向きに生きていたら、フェアリーゴッドマザーが偶然をぽんぽんくれることになるのかもしれない。
履き慣れた素敵な靴を履こう。汚れたら、靴を洗ったり、磨いたりしよう。古過ぎる靴は買い替えたっていいかもしれない。新しい靴で靴擦れが起きたら、新しい一歩を踏み出したことの証明だ。工夫ができる方法を教えてくれるサインでもある。脚に合わせて靴紐をしっかり結んで置いたり、緩めたり、かかとパットやインソールを詰めればあなたにピッタリの靴になる。あなたを素敵な場所に連れて行ってくれるように靴を綺麗にして、自分にピッタリの素敵なものにしよう。
第29話「ミツバ」
俺はマコトと晩飯を食べに行く約束をしていた。駅の改札前で待ち合わせだ。そろそろ、その時刻になるだろうか。腕時計の針を眺める。
「やあ、ジュンくん」
「…うわあ!」
俺は心臓が止まりそうなほどにびっくりして、危うくひっくり返るところだった。
「ひ、さ…しぶりだな。マコト」
「さすが、ジュンくんは時間通りだね」
「どこでもドアのように、そっから急に出てくるなんてずるいぞ」
「いかにしてびっくりさせようか、先に来て考えていたんだよ」
「そんな、びっくり箱みたいなことをして、もし俺の心臓が止まったら、どうしてくれるんだよ」
「ジュンくんが今、死んでしまったら大変だよ。僕がわざわざここに来た意味がなくなってしまうじゃないか」
「自分の心配かよ」
俺はマコトの顔がついたびっくり箱を想像した。バネがびよよ~んと伸びている。呆れるほどどうやったのか、笑かすのような変な顔を作っている。そして、びっくりさせたらそれで満足していつもの眠い顔に戻る。そして大欠伸をするんだな。
「ふぁあ。昨日は夜更かししたもんだから眠くて。でもさあ、ジュンくんは、『僕は未来人なんだ』なんて言ったって、残念ながらびっくりしないでしょ」
「そりゃ俺はお前が未来人だと知っているから驚かねえよ」
例えばマコトが『僕は未来人なんだ』なんて、誰かに言ったら、どんな人もとりあえず唐突すぎてびっくりはするだろう。なんてわかりやすい嘘をつくんだって。そもそもそれを真実だとは、誰も信じないだろう。そうならナオが記憶を消す必要すらないんだな。そんな悲しいことを何度経験したんだろう。俺は少しマコトのことがなんだか遠く見えてきた。
「最近ね、実は調子に乗っている馬鹿がいるから、どうしたらいいのかずっと考えてたんだ」
会って早々、随分物騒な話をされている気がする。渋谷の雑踏でギャルが歩きながら友達と電話で話していたのが聞こえてきた時みたいな話だ。「元カレがさーあ、突然連絡してきたわけぇ。しかも、今のカレとのデート中に。今更過ぎぃ。超無理ぃ」みたいな。とんでもなくなんだか難しい話をなぜだか軽いノリでしている人を見かけた感じに似ている。
「なんだか随分軽いことのように言うんだな」と俺は言った。「変な奴にでも出くわしたか?」
その謎の自称経験豊富ギャルみたいな。
「そうなんだよ。ちょっと参っててね」
「とりあえず、検索してみたら?」
「そうだね。『調子に乗っている人 対処法』っと…」
そうやってマコトは調べると文献を目でササッと読んでいた。
「ふむふむ、なるほど」
悔しいが、マコトの持ち物を見ると、未来はとても発展していくらしい。もしかして、俺にそれを見せびらかしにきたか?
「僕は時空警察(タイムパトロール)をやっていると思うんだけど、細かい手引までは、全然任務に指示が無いんだ。だから逐一考えるよ。それに、自分のことは、この先どうなるのかなんて任務に一切書かれてない。それだけはどの時代に行っても自由度がある。それ含め元々変えられないシナリオにも既に織り込み済みかもしれないんだから、何もかもどうにか抗ってみたくもなるものだよ」
「抗ったことさえ、決まってたことの可能性があるっていうのか?」
「わからない。でもそうだとしたら、人生全然つまらないでしょ?僕はそれをさらにややこしくしてやろうって思うよ」
「楽しんでないか?」
「とても楽しいよ」
「危険にさらされる時はないのか?」
「もちろんあるよ。でも、なぜか任務の書かれた書類には、その危険がどんなものか具体的には書かれてない」
「ずるいな」
「ほんとだよ。変えることが許されないはずなのに、僕がそこにいる現実は変えることができているわけだから、こんがらがってきてわからなくなるね」
「そうだよな。未来に行ったり、過去に行ったり、それはマコトから見た時と相手から見たときじゃ、視点が変われば意味も変わる」
俺はマコトについて行きながら歩いたが、目的地になかなかたどり着かないので「それで?どこの店に飯を食いに行くって?」と訊ねた。「マコトに任せてあっただろ?」
「そうだな。実はジュンには隠し事があるんだ」
「なんだって?」
「予約したのはピーマン料理専門店」
「…はあ。調子に乗ってたん、俺だったかよ。わりいな」
「ジュンは年上好き?」
「違うよ」
「じゃあ、年下好き?」
「違うよ。俺は普通だよ」
「ふーん、じゃあ、今の彼女は何歳なんだ?」
「俺と年齢は近いほうよ」
「なんだ、普通かあ。つまんないなあ。てっきり年の差があるほうがタイプなのかと思ってたからさ。年下の可愛い子がいるんだったら今のままの姿で未来に連れてってあげて同級生にしてあげようと思ったのに。あ、でもそうしたら、年の差がなくなっちゃうから、それじゃだめか」
「…とんでもないジョークを言うのは勘弁してくれよ」
何の試練かは知らんが。
「そうだったそうだった。僕もジュンくんも歴史改変はご法度だよね」
それで俺は調子に乗っていたことはなんだ?と思い起こす。何か恥ずかしいことがあっても、マコトにそれをどこかで見られてしまってる可能性があると考えると、なんだか俺は何も出来なくなってしまいそうだ。なんだ、俺、マコトの言葉が曖昧であるほどに効いてる気がして悔しい。そりゃ、からかってきてるってだけだろう。なのに、なんだかつい、余計な想像もしてしまった気がする。
「まあ、別に、調子に乗っているのがジュンってわけでは全然ないんだけど」
「なんだよ。俺かと思って考えこんじまったじゃねえか」
「僕のほうが調子に乗ってしまってるというか」
「お前本人だったかよ」
「え、そんなにムキになるなんて、何か悪いことしたのか?」
「してねえよ」
「したんだな」
「しねえよ」
「なんかさ。どうしても心配してしまうんだ。ジュンのことは」
俺は、ただ試し打ちだけにする会話にしては俺の胸の内を刺しすぎじゃないだろうかと思いながら、少しだけ返し打ちをした。
「所詮、俺は釘だもんな」
そう言うと、マコトは遠くを見つめ、少し悲しそうな顔をした。
「俺にとっては、大事な目印だ。自分を見失わないための」
「マコトは、俺を弟扱いするなよ。時空警察(タイムパトロール)がなかったら、お前のほうが弟だったはずなんだぞ」
マコトは困った顔をしながら、笑った。
「なかったらどうだったかなんて、僕には考えられないよ。ジュンはずっと僕のそばにいた。兄ちゃんだったし、弟だった」
「俺だってマコトのことは兄ちゃんだと思うし、弟だとも思ってるよ。ただ…記憶を司る能力を持つと苦労、するん、だ…よな?」
俺は自分が何を言ってるのかわからなくなってきた。マコトに喧嘩を売ってもどうやら意味がないらしい。
「だけど、僕は記憶を思い出させてやれるよ」
「そうだな」
「それに、ナオはずっと可愛い。大人になっても、未来も」
「それは俺もそう思う」
「ジュンはどんな時代に会っても安心するよ」
さっきは散々な言われようだったのに、なんだかそれを含めて、俺の心は浄化されてく気さえしていた。
「素直なだけが良い奴ってわけじゃ、ないからな」
「ああ、わかってるよ」
わかってねえだろ全然。このやろう。
「それで?未来は…どうだった?」
「ジュンは最近どうだった?」
「代わり映えしないよ」
「そりゃあ、こっちだって代わり映えするわけがないよ。過去や未来を変えないためにしか僕たちは動いてない。動けない」
「俺の夢操りの能力じゃ、特に大したことは何もできないと思うよ。兄ちゃんの能力ありきだからあれこれできるんじゃないの?」
マコトは俺がそう言うと、子どもの頃のように俺の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「そんな事言うなよ。必要になったときには来てもらうよ」
「俺が必要になることなんてそうそうないよ」
「おれの見立てだと、そう遠くないうちに連れて行く」
そうやって、マコトは手帳を開けて見てから、すぐ閉じた。
「ああ。ぜんぜん、遠くない」
マコトは嬉しそうに笑う。俺はすぐだと言われないことに、少し寂しいような不思議な気がしていた。
「そうか。テディがうちに居るうちはいいけど、それ以降は厳しいかな」
「テディを…手放すつもりなのか?」
「ああ、そのつもりだ。譲る、と言ったほうが正しいか」
「それで時空間の基盤がずれなきゃいいけど」
「テディがあの家の時空間を守ってるっていうのか?」
「そりゃそうだよ。でも、なるほどな。俺がその先の改札を降りれないのはそれで、だったか」
俺はテディを手放すことがどんな影響を与えるのか、わからないでいた。だけどマコトの言ったことで、今までテディがどんな効果をしていたのか少しだけわかった気がした。
「それで?マコトは今、現時点では何歳なんだ?」
「21歳のはずだけど、時空間飛びすぎて自分の本当の年齢がだんだん分かんなくなってきたよ。さっきまで高校生の格好をしていたな」
「20代で高校生は無理ないか?」
「うるさいな。目立たないようにいつも寝てるよ」
マコトは目立つとか関係なくいつも寝てるだろ。いつも眠たい顔で大欠伸してるだろ。
「それで、元の時間に戻ってこれたってわけか」
「うん。でもね、すぐ別の用事に行かなきゃなんない」
「ちなみに、その『さっきまで』は、何してたんだ?」
「そりゃ、さっきまでかわいい5歳のジュンくんに会ってたよ。『兄ちゃんどこ行くの?早く帰ってきてね。今日はばあちゃんが、お夕飯に親子丼を作ってくれるよ。ミツバを乗せてくれるらしいよ』って言ってた。だからおれは親子丼を食いに20年前の今日に戻る」
「それにしても、君島家が時空間移動に寛容な家庭だからって、ちょっとそれでは調子に乗り過ぎていやしないか?」
「いーや、あのかわいい5歳のジュンくんがそう言うんだから、僕はどうやってでもミツバの乗った親子丼を食いに行くんだ。だって待ってんだぞ。5歳のかわいいジュンくんが。そして想像してみろ。僕が帰ってこなかったら、『兄ちゃんだけ帰ってこなかったなあ』って寂しそうな顔をするんだぞ?お前、それが耐えられるというのか?」
5歳のジュンくんは、そんな必死になるほどかわいいかよ。
「だから、それ、20年前の俺だから。それにお前だって赤ちゃんだけど、そこに居るんだろ?」
「ああ、赤ちゃんの頃の僕とナオもいる。僕が親子丼を食いに帰ってきたの覚えてるだろ。友達連れて」
「そういや、なんだか、難しそうな顔をした友達を連れてきていたような。それで名前が同じジュンだったような」
「だからそれお前だからな」
「嘘だろ?」
俺は思い出す。高校生のはずの兄ちゃんの友達にしてはスーツを着ていたな。まるで今俺が着ているような格好だ。
「確かによく考えたら俺だ」
「だろ?その後は?」
「晩御飯食べた後はデザートを食べた。お風呂から上がっても、みんなで野球の中継見ながら、翌日が休日だったから、夜更かししても良いよって母さんに言われて、すごく楽しかった思い出。気がついたらソファで眠ってたな」
「それを多分、これから起こさないように僕が運ぶ」
「いや、それは絶対俺だね」
「自分を自分で運んで、5歳のジュンくんが未来の自分だと気がついたらどうすんだよ?」
「いや、やっぱ、たぶん、結局父さんだったな」
「なんでそう思うんだ?」
「なんとなく、そんな気がする」
「それで?今の父さんと母さんは?」
「変わりないよ。みんな、元気だよ」
「そうか。そっちにも会いに行こう。近いうちに」
「うん」
「それも決まったら連絡する」
「頼むよ」
「ほら、ジュン。もう過去を変えるわけには行かないだろ。未来を迎えに行かなきゃなんないんだから」
「やっぱ嫌だよ。それなりに勇気がいるよ。俺乗り物酔いしやすいし」
「電車でもか?」
「愚問だよ」
「タイムマシンは酔いにくいほうだよ」
「嘘だ」
「ほら行くぞ」
俺は急に明日の予定を思い出した。
「おいマコト…明日、ちゃんとここには、この時代には、戻してくれるんだろうな」
「当たり前だろ。おれを誰だと思ってる」
「お前は5歳のときの俺と同じで明日は休みかもしれないけど、俺はまだ明日の授業の準備があるんだぞ」
「わかったよ。わかったから。行くぞ」
第30話「女の子の強さ」
社会科の授業が終わった。隣の席の馬場くんは、今日も私を見つめてくる。私は君島先生をじっと見ているふりをする。君島先生と目が合う。君島先生は馬場くんをちらっと見てから、口をとがらせた。私は「あ」と口を開ける。そして、私はすぐ口元を結んだ。
「あのね。馬場くん」
「なに?」
「てれるからそんなに見ないでよ」
「え?いや、全然、てれてないよね?」
馬場くんは驚いたような声で、君島先生を見る。君島先生は馬場くんに向かってアカンベーした。馬場くんは咄嗟に私の腕を掴む。
「ど、どういうこと?」
驚いたように真っ直ぐな目で、じっとこちらを見つめる。
「君島先生ったら、変なこと言うんだあ。馬場くんと私のほうがお似合いだってさ」
「変なこと?」
私が目を合わさないように必死になりながら避ける。でも、馬場くんは無理にでも私に目を合わせてきた。その瞬間に私と馬場くんは、別のどこかに移動してしまったのだった。
「え?」
一瞬のことで私は何が何だかよくわからないまま、馬場くんは思っているより冷静な様子だった。
「ここは、一体どこ?」
「たぶん、ノートの中だよ」
「ノート?」
「馬場くんと私は今、教室でぐっすり眠っているの。その代わり、君島先生の授業の歴史ノートの中に入っちゃったんだよ」
「どうして?」
「私は行ったことがあって知っている場所に瞬間移動することができるんだあ」
「なるほど?今の状況がその通りだから、納得しがたいけど、なぜだか納得ができるよ。でも、だとしたら、どうしてノートに入れるんだ?」
馬場くんの鋭さに、私はたまげながら、慌てて言う。
「それは、今まで『現実の瞬間移動』しか出来なかったのに、夜更かしした日の君島先生の授業に限ってうっかり眠っちゃって、寝てる時には眠っている自分はその場に置き去りになって、そのときから『意識だけの瞬間移動』が出来てしまった…というか。それは、多分、君島先生が何か特殊なことが出来るからかもしれないなって思うけどね」
「意識だけの瞬間移動?」
「そうだよ」
「でも今、目の前にいる今川は、ただの意識か?」
馬場くんは私の頭の上に手をポンと置いた。確かに、意識というだけにしては馬場くんも私もちゃんと実物のように見えるし、触れることができる。
「でも、奇遇だな。俺は時間を止めることができる」
「時間を止められるの?」
「そう」
私は馬場くんの家が商店街の時計屋さんだということをいつだったか聞いたことを思い出した。8人兄弟だと言っていたことも思い出した。
「それは一体、どうやって?」
馬場くんは人差し指を立てた。水の波紋が広がるように、なるほど時間が止まったという静寂を感じた。その静寂を歩きながら馬場くんは続ける。
「不思議だな、ノートの中の時間は止まらないらしい。現実の今川と俺は、たぶん眠ってないよ。教室で驚いた顔をしたままで止まっているんじゃないかな。クラスのみんなもこれで止まったままなはずだよ」
「じゃあ私達は一体、いつの時間にいるのかな?」
「止まった時間の中の、今川の想像する歴史の世界にいるということだと思う」
「でもそうだとしたら、今日君島先生の話していたのは、本能寺の変だったよね」
「それは大変だ」
「でも、どうやって戻ろうか?」
馬場くんは人差し指を何度も振っていた。
「やっぱり、この場所の中では時間が止められないらしい」
「私もね、自分が眠ってるのかと思って何度も起こしてみてるんだけど、起きないの」
「今川」
「何?」
「もしかして、俺たち、小説の登場人物だったりしないか?」
「え?そんなこと、あるわけがないよ?私には声や顔や体や、そういうことが全部あるよ。だから、その説明がつかないじゃん」
「いや、声や顔や体は、神様が作ったものだ。与えられたものであって、自分の意志というのは、そこには一切ない」
「じゃあ、何をもって、それが私だということになるの?」
「今川はさっき、言ったじゃないか。意識だって」
「意識?」
「そう」
「もし、俺たちを作り出した作者がどこかにいたとしても、作り出されたということは、生まれたということは、何か存在意義や意味があるんだ。声も顔も体も、性別も、それは確かに自分のものだけど、誰かに作られた、与えられたものというだけ。向き合う必要があるのは、自分の考えや想像。机を綺麗にしようとする気持ちとか、おしゃれな服を着ようという気持ちとか、髪の毛を綺麗にしたいという意識とか、そういうものが自分を作るものであって、最初からある素材は与えられたものでしかないということが意志であり意識だ」
「難しいこと言うなあ」
「難しいよそりゃ」
「もっとわかりやすい例えはないの?」
「そうだなあ。俺は今川のことが好きだ」
「そんなこと急に言わないでよ」
「…でもそれは、うまく説明することができないよ。なんだか愛おしい気持ちになるというか、漠然と見ていたくなる。近くに居たくなる。それだけだよ」
「見た目とか声とかそういうことが好きと言われる方がよっぽど嬉しい気がするよ」
「どうして?」
「だって、そのほうがわかりやすいんだもの」
「わかりやすいことを言うやつは本物の愛というやつじゃないよ。わかりにくい愛を持たなきゃ。今川が君島先生のことを好きなのだって、わかりにくいことで好きなんだろ?だから俺がこんなに手を焼いているんだよ」
「そうかな」
「そうだよ」
「夢みたいなこと言うんだね」
「どういうこと?」
「掴み所がないよ。取っ手のないコップみたいだな」
「取っ手のないコップのほうがちょうどいいときもある」「じゃあ、私は君島先生のことが好きであるほうがちょうどいいのかもしれない。馬場くんの気持ちを考えなくたってよくなるから」
「どうして?」
「だって、そういうことでしょ?」
「俺は決してこのままで居たいってわけじゃない」
「じゃあ、なんでそんなことを言うの?」
「嫌いなところまでも愛おしくなれるかどうかが大事なんだよ。人はそれなりにいろんなことがある。悪い形容詞と良い形容詞のどちらも持っているものだよ。どちらか一方だけなんてことは無いよ。だけど、悪い形容詞だって良い形容詞に反転させることもできる。良い形容詞だって視点が違えば悪い形容詞に変わることがある。俺にとって、今川のことは好きだけど、君島先生のことを好きな今川はちょっと嫌いな部分だったんだ。でも向き合ってみたんだ。君島先生のことを知ると、今川が大事にしてることがなんだか見えてくる気がするんだ」
「君島先生のこと、好きになった?」
「いや、好きじゃないよ。好きじゃないけど、今川が君島先生を好きな理由はわかるなって思った」
「なんだあ。それじゃあ、全然だめだよ」
「どうして?」
「だって、君島先生のことが好きな私のことは好きじゃないから、それはつまり、私のことは好きじゃないことになるでしょ」
「ちがうよ。そうじゃないよ。それではだめなんだよ。男として悔しい」
「ふうん、へんなの。そういうとこばっかりが強いだけの男の人って多いよね。そういうのを私は馬鹿だなあとしか思ってないよ」
「何が馬鹿だって言うんだ?」
「だって、私はせっかく馬場くんの言う『意識』とか『わかりにくい愛』という言葉をなるほどなって思って認めていた気がするのに、君島先生に対する対抗心や嫉妬やそういうものを剥き出しにしてしまったのが見えた瞬間に、それは全て、無かったことになる気がするんだ。せっかく見えてきた才能や良いところで評価していたことがあっても、何も認められなくなっちゃうよ。だって、嫉妬や対抗心で人を傷つけることが平気で出来る人間を誰が好きになれるって言うの?」
「俺はどんなことをしたって今川のことを手に入れたいほど今川が好きなんだよ」
「それって、私のこと全然好きじゃないよ。自分のことが好きなんだよ。私が君島先生に向ける愛が羨ましく見えるってだけじゃん。隣の芝生が青く見えただけじゃん。だから攻撃できちゃうんだね」
「男はたたかわなきゃいけない時がある」
「たたかって勝てる相手かな?たたかって勝つ必要のある相手かな?たたかう必要のある相手かな?今まで戦争はずっとそうやって起こってきたんだよ?そして独裁政権同士がぶつかり合うと一番悲惨なことになる」
「俺は勝ちたいと思うんだ」
「違うよ。『勝ちたい』って思うんじゃないよ。『負けない』って思うほうが強くいられるんだよ」
「どうして?」
「『勝ちたい』って気持ちでいるときは攻撃的なんだよ。だけど、『負けない』って思ってみたらどうなる?」
「例えば?」
「私は小説の登場人物かもしれないのよ。だけど、私って実はもっとわがままなの。だから、言いたいこと言わせてよ。私って実はこんなことも考えてるの。私、小説の中で、本当は馬鹿な女の子って思われたくないの。だからもっと暴れさせて。枠の中でもいいから、もっと輝かせてよ。もっと私の出番をちょうだい。ねえ、私をこの世界に作っておいて、それを全部どっかに閉じ込めてしまうつもり?ふざけないで」
「それが『負けない』ってことなの?」
「そうだよ。君島先生は授業でこう言ってた。動くためにある絵があり、動かないための絵がある。動くためにある絵は閉じ込めると動きたがって、動かないためにある絵は動かすと良くないことが起こる。最後の晩餐は壁画としてあるから残った。芦屋のひまわりは固定されたから焼失した。エジプトのミイラは動く度、世界が動いてしまう。そりゃ、だめでしょ。人のお墓を動かすって考えたら不吉にもほどがある」
「まあ、確かに」
ありがたいことに私のノートに描いたことが、目の前に現れてくれた。芦屋のひまわりの背景は青色だったなあとなんとなく思ったら、レプリカは大塚国際美術館に観に行ったはずだけど。
「美術館に移動した?良かった。本能寺の変の火事を免れた」
芦屋のひまわりは下を向いて咲いていた。ネイビーブルーの美しさがひまわりと補色で美しく対比していたのだった。
「私がもしも小説の中の登場人物なら、それは動くためにいる人間でしょ?それは馬場くんだってそうでしょ?」
「うん」
「『君島先生に勝ちたい』って思うんじゃなくて、『君島先生に負けないくらい、私に好きになってもらいたい』。そう思ってたら、いつの間にか、そうなってるかもしれない」
「なんで?」
「願うことに意味があるから。私、馬場くんが素直に話すところあまり見たことない気がするの。でも、悪い人じゃないのはなんとなくわかるのよ。実は、ちょっと、お気に入りなほうなの。だけど、やっぱり私のことは女の子にしか見えなかった。そうでしょ?」
「うん」
「女の子のほうが弱いと思ってたの?」
「うん」
「弱いものに見えるものほど、実はとっても強いのよ。女の子って、男の子よりもずっと強い部分があるんだ。体は弱いのかもしれないけど、心を強く持たないと生きるのが大変なの。だって、『勝ちたい強さ』ってのを持ってはいけないって教えてもらうのが子どもの時なのよ。『大人の男性には力が敵わないから逃げなさい』って言われるの」
「女の子のほうがずっと『負けない強さ』を知ってるのか」
「そうなの。だから『勝ちたい強さ』を持って戦ってくる男がいたら、どんなにイケメンでも、どんなに美しい心を持っていても、どんなに人気者でも、どんなに素敵な才能があっても、そういう一面が見えただけで、そいつのことをすぐ大嫌いになるのよ。それはどんな女の子でも、そういうことがあると、あなたのこと大嫌いになる」
「俺のことも大嫌いになる?」
「一回だけ許してあげる。大したことではないからね。だけど、二度とそういうたたかい方をしちゃだめだよ?」
「なんで許してくれるの?」
「今、この状況じゃ、私も困ってる。そんな状況を、乗り越えなきゃならないとき、乗り越えたい何かがある存在が私一人だけじゃないことは救いだわ。それに、そのままにしておくわけにはいかないでしょ?」
「うん」
「どうせ君島先生が助けに来る」
「どうしてそう思うの?」
「だって私は君島先生のことをすごく信頼してるもの」
「そんなに好き?」
「好き。だけど、それが恋愛としての好きなのかどうかは、正直わからないの」
「そうか。じゃあ、それはきっと負けないよ。俺は今川のことが好きなところだけは、君島先生に負けてないと思うから」
「じゃあ、私が君島先生のことを好きなことより、負けてないと思う?」
「それはどうかな。俺は負けないつもりだけど」
「じゃあ、もう一度だけ信じてみようかな」
「どうしてそう思ったわけ?」
「馬場くんは私のことを見た目でも、声でもなく、性別でもなく、年齢でもなく、好きだと言ってくれる人なんでしょ?」
「そうだね」
「私も、見た目でも、声でもなく、性別でもなく、年齢でもなく、馬場くんのことを好きになったら、それは素敵なことだなって思うの」
「そうだね」
「見た目や声なんてものは、後付けになるんだよ。だけど、へえ、そんな声をしていたの?そんな見た目をしていたの?そしたら、それすらもいつの間にか愛おしいものに変わっていく。だって、好きな気持ちは変わらないもの。似ている声を見かけたら、似ている人を見かけたら、ちょっと嬉しくなるくらいにね」
「そんなふうに君島先生のこと考えてるんだったら、俺なんか見えてないの、当たり前過ぎて悲しくなるな。今川は素直に言い過ぎだよ」
「ずっとたたかってきたんでしょ。怖いものをいっぱい見たのね。男ばっかの世界で育つと、周りが『勝ちたい強さ』を持つ人たちばかりで溢れていて、それが当たり前の世界にずっと居たんだよ、きっと。それで、『負けない強さ』を持つ人たちの存在すら、ずっと知らなかったんだよ。私は馬場くんは『負けない強さ』を持つ人たちの世界にいるほうが向いてると思うの。そのほうが格好良いし。女の子に嫌われない。寧ろ、良い男だって言われてモテる。もしとても素敵な奥さんができてもうまくやれるよ。ね?それってとってもお得でしょ?」
「そしたら俺のこと好きになる?」
「それは馬場くん次第だよ。見た目でもなく、声でもなく、性別でもなく、年齢でもなく。それを全て脱いだ時に、人間は人間ではなくなるのかもしれない。さっき馬場くんが言ってた『意識』になる」
「心理学では『唯心論』と言ったかな」
「そうとも言うかもしれないね。そしたら、男女間にだって友情はあることの証明になる」
「俺は恋人になりたいんだけど?」
「恋は友情の先にある」
「ふうん、そうか、頑張ってみるよ」
第4章(第31話〜第40話)
第31話「ピオーネ」
ぶどうにはピオーネという一種がある。その意味は、イタリア語で開拓者。開拓とは、辞書によると、荒野を開いて田畑とすること。転じて、新分野をきり開くこと。
時に自分の性別に悩むことがある。今まで私に喜びをもたらしてくれたことは全て、私が女の子だったからかもしれないのだ。確かに、今、使っているものも、着ている服も、生きてきた場所も。育った場所も。そのすべてが私が女性に生まれたからこそ、買えたもの、もらえたもの、食べられたもの、見れた世界。性別の枠内に収まるものの中で生きてきてしまったんだな。そうでなければ今の私はここにはいない。そこからはみ出したいなんて思うことは、ここに生まれることを許してくれた人たちに失礼になることかもしれない。今までの私がいなければ、そんな事すらも考えることにならなかったかもしれないんだなと思った。
そこで私は一度、世界に一人きりになって生きてみるというのもいいのかもしれない。何かわかるかもしれないと思って、一人暮らしをはじめてみたことがあったのだった。
誰でもそうかもしれないが、一人暮らしをすると、生活だけでいっぱいいっぱいになる。仕事をして、帰り道にスーパーに寄って、ご飯を作って、明日の準備して、シャワーを浴びて、寝る。そういう生活だ。朝になると洗濯物を干してすぐ仕事に行く。その繰り返しをするんだ。
ある日の朝、コーヒーを飲みながらテレビをつけるなり、美味しいラーメン屋の特集がされているのが流れてきた。
「ラーメン屋さんかあ、いいなあ。たまには行きたいな」
そんなふうに、なんとなく思ったのだった。
ラーメン屋さんって、女一人じゃ入りにくい。特に町中華は、男の人がたくさんひしめき合っているから、入りにくい。そして、なぜかわざわざ目立つところに座らされる。それに、食べきれない量を出されたら、残さず食べなくてはと思い、胃が荒れて大変なことになる。
私はそんなネガティブワード満載を失礼にも携えて、それなのにどうしても、なんだかラーメンの気分だったので、仕事帰りにラーメン屋さんに行ってみた。ずっと興味のあったお店であるものの、なかなか行けたことがなかったお店だった。食券機で定番だと思われる左斜め一番上のボタンを押す。空いている席が、偶然なのか、やっぱりまた店の出入り口の扉の前の席に座ることになって、ちょっとなあと複雑に思いながら。セルフで水を汲んで、上着を畳んでカバンを置くと、座ってのんびりスマホを眺めて、ラーメンが来るのを待っていた。
「はい、おまちどう。醤油ラーメンね」
私はその出来立てを両手で受け取る。ほかほかした湯気と、キラキラしたスープと、そのスープに透ける黄色いツルッとした細麺。絵に描いたような醤油ラーメンだ。なんという輝き具合なんだ。そうだよ私はずっとこういうラーメンが食べたかったんだよ。これは家じゃ作れないし、なんだか生き返るような気持ちがするんだよ。
れんげでスープをすくって飲む。
…うま!これは染み渡る。
扉が開く。鈴が鳴る。そうやって夕飯時、何組かのお客さんが入ってきて、やはり町中華のお店はひしめき合うのだった。
そして、その後に来たのは常連さんなのか、店主に「今日は女の子が来てるの?珍しいね」と声をかけた。「そうなんだよ」と店主は返事をした。
「今日は何にするんだい?」
「そりゃ、『いつもの』だよ」
「『醤油ラーメン』だね。そのあと、替え玉を追加するやつだね」
「うん。よろしくね」
やっぱり食券機の一番上は、お店の看板メニューなんだなあ。
私は、考えすぎてたのかもしれないな。女の子が別に一人でラーメン屋さんに入ったっていいんだ。ただ、それでも、お店の外から見える位置に座ってると、なんだか招き猫になってしまったような不思議な気持ちが、やっぱりちょっとだけ、するのだけど。こんな風に女の子であることとその存在を否定されないことに、悪い気は全然しないんだ。なぜだか人の温かみにちょっと嬉しくなってくるほど。
私は頑張って食べる。でも、やっぱりこの量は多すぎて食べきれない。持久走で、もう走れないのに走ってる時、無理をする時の、あの、なんともいえない胸辺りのもやもやした気持ちだ。お店の中にはメニューの書かれた文字と値段がたくさん並んでいる。それが食べ切れないと、チャーハンや餃子や天津丼やレバニラ炒めや、そういうものには、何もたどり着くことはできないよ?と煽られているような気分だ。単品を頼んだだけなのに、それだけでもう苦しいなんて。私はこんなに胃が小さいほうだったっけ?お金を払ったのだから、食べ物を残してしまってもいいのかもしれない。ああ、残すなんて、もったいないな。こんなに美味しいのに、もったいないな。美味しくいただいたけど食べきれなかったので、すみませんという気持ちがあれば問題ないのかも。
そんな葛藤の末、私は「ごちそうさまでした。美味しかったです」と、ちゃんと店主に言おうと決めた。そんなとき、さっきの店主とすぐ目が合った。料理を作ってる途中だというのに、お客さんがいっぱいいるのに、目が合った。そして、満足そうにこちらに微笑むのだ。プロの料理人ってすごいなあと思うのはそういうことがぜんぶ、伝わってしまってるというところだ。さっき、美味しかったから、思わず私がニッコリ満足そうにしてしまったのが、お店の人にどうやら見られていたらしい。バレてしまってたらしい。照れるじゃないか。それも全て、お見通しですかい?私は「ごちそうさまでした」と言って会釈をして、店をあとにした。
残してしまったお詫びにまた来よう。他の料理も食べてみたい。そう、それでよかったんだ。罪悪感なんて持たなくていいんだ。とても優しい店主さんだったな。今度行くならもっとお腹を空かせておこう。だけど、持ち帰りも出来ますって書いてあったな。そうすることにして、餃子とチャーハンにしよう。でも、お店のあの雰囲気の中で食べるのもよかったんだよなあ。
美味しいものの力がどんな素晴らしいものなのかがわかった。そういうとき、美味しいものを探しにもっと、冒険しに行かなきゃいけないと思うんだ。スーパーにだって美味しいものはある。料理をすれば美味しいものだって作れる。旅行に行って美味しいものが見つかったりする。そんな幸せって他に何があるのだろうか?でも、そうか、食べ物はそうやって、私の世界を救うことになるんじゃない?だって、美味しいものを食べると、こんな幸せな気持ちになれるのだから。
開拓していこう、美味しいものを。こんなに美味しいものが、この世にこんなにいっぱいあるんだなあって。食べ物には、そんな風に、命の輝きがあるんだって。いっぱい美味しいものに出会ってやろうじゃない。
続く
あとがきに代えて
「あまり積極的に動くな。ミステリアスな人になれ」って、星座占いで読んだ。そんなの無理だよ。私の性格的にそんなの難しい。積極的に動きたくてしょうがない。私がわかりやすすぎることは、素直なことは、無意識にそうなってしまうほどのものだからなおらない。だけどそれは、「そうするな」って言われてみてはじめて、それが私の生き方なんだなって、よくわかった。
だけど、このところ、いつも考えてしまう。今、かえってそれが悪い方に目立っているのだなと。誰かを傷つけることが起こってしまうのだと。
だから絵を描いたら、文章を書いたら、人を悲しませたり、傷つけることはないだろうかって思って、つい悩んでしまう。それが、何もかも、すごく怖くなりました。怖くて怖くてたまらないのです。文章を書くのも、絵を描くのも、全部怖くなるほど、最近あった出来事がとてもとてもつらいものだった。悲しかった。
助けていただいたり、励ましていただいたりする。素敵なことも、ありがたいことにたくさんあった。でも、その素敵なことを、素直に純粋な気持ちで受け取れないで、頑固に一人で閉じこもる自分がいた。それでせっかくしてもらった素敵なことに対して、感謝するどころか傷つけてしまったことがあると思う。今、自分に余裕がないときで、だけどそれは理由にならない。優しい気持ちで一生懸命に私を助けようとしてくれているのに、とても失礼な態度をとったんだと思う。本当にごめんなさい。
私は人に頼ることが下手なんだ。人を助けたいと思うのに、助けてもらうのを拒むだなんて。それは間違ってる。
優しい気持ちを私はいっぱいもらった。
たくさんの人に支えられてきた。
だから、いっぱい感謝しなきゃいけないんだ。
ありがとう。
助けてくれて、ありがとう。
見守ってくれて、ありがとう。
これまで読んでくれて、ありがとう。
ここまで読んでくれて、ありがとう。
今、お菓子の絵を準備中です。頑張っているけど、久しぶりだから、こんなもんかと思うかも。思ってたんと違うかも。でも良ければ、そちらも見てくださいね。
小説は随分、想定してなかった方向に進みました。自分でもびっくり。だから、もう一度、いったんこれからの構成を練り直しです。すぐになるかどうかは、今はわかりません。いつかまた、はじまるときは、何かしら、どうにか告知します。その時はどうぞ、よろしくお願いします。
サポートいただけると今後の活動に大変助かります。どうぞよろしくお願いいたします。