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ケイコとキリエ

映画のパンフレットは買わない。

11年住んだ部屋から引越す時、大量のパンフレットが出てきた。
なかには観たことすら忘れた映画のものもあった。

パンフレットがあったことで思い出せるなら、それもまた良いじゃない、と誰かが言った。

けれども心に残っていない作品のパンフレットにさしたる意味は見出だせなかった。

映画を観たらパンフレットを買う…という行動は完全に惰性と化していた。

引っ越しにおいて映画のパンフレット以外にも大量のモノの対応に追われたわたしは、「思い出」に重きを置くことに切り替えることにした。

以来、映画のパンフレットは数えるほどしか買っていない。

そんなわたしが今年2023年に買ったパンフレットがふたつある。

ケイコ、目を澄ませて
キリエのうた

いずれも上映前に売店でコーヒーやドーナツを買った時にはパンフレットの存在自体を忘れていた。それくらい、遠ざかっていた。

終映後、売店に一直線に向かって、パンフレットを買った。

買わなくてはいけなかった。


ケイコは生まれつき耳が聴こえない。
耳が聴こえないプロボクサーだ。
彼女がトレーニング中に発する音は、リズミカルで心地が良い。
縄跳びを飛ぶステップ、ミットを打つグローブ、ランニングの足音。
耳が聴こえない彼女は美しい音を奏でる。

わかりやすく流行りの言葉を使えば、ASMRというやつだ。

この映画では音楽が流れない。劇伴がない。
ただ当たり前に日常で聴こえる音が総て。
どこかで聴いたはずの、聴き慣れたはずの、もはや意識することもない音たちが、酷く美しい。耳に心地よい。

そんな音の世界を知らずに生きるケイコは自分の心情を吐露することに否定的だ。
言葉にすれば楽になるよ…と言う弟に、それで解決になるのかと問い返す。

彼女のその考えと、聴こえないこと話せないこととの因果関係は語られない。

ケイコはただ、様々な思いを抱えてボクシングに打ち込む。

時にはそのボクシングにさえ悩みながら、生きる。


キリエは後天的な失声症だ。
東日本大震災に被災し、家族と共に声を失った。
そんな彼女は歌を歌う。

小学生の身で流浪を経験した彼女は名刺の住所にTravelingと記載する、シンガーソングライターだ。歌うのも、眠るのも路上。

癒えない傷を抱える彼女を取り巻く人々は優しくて弱くて狡くて、やはり優しい。

キリエに優しい人々は他の誰かには不誠実だ。

その優しさに包まれながら、キリエはその歌声で彼らを包み返す。

「最近感動したことはなんて言っても貴女の歌ですよ」優しくて弱くて狡くて優しい女は言う。

キリエの歌は心を揺さぶる。
癒やしのような歌は、一方でキリエの心の叫びのようにも聴こえる。

作中でキリエが自分自身の過去や心情を吐露することはない。

様々な想いを込めてただ歌う。


映画はその作品自体が価値の総てだと思う。

パンフレットや雑誌のインタビューでその価値が増減するなら、それは作品で表現するべきものに過不足があったのだとも思う。

一方で、そういった補足情報があることでさらに楽しみが深まることも理解している。それを享受することもある。

ただ、わたしが2作のパンフレットを買ったのはそういった理由かと言うと、違うように思う。

いずれの作品も、わかりやすい娯楽映画の作りはしていない。極端な笑いや恐怖や悲しみを提供するものではない。

ただ、ひとりの女性の生活を一部切り取っただけだ。

そこで起こるドラマも、少し特殊な境遇も、我々からしたら物語ではあるが、彼女たちの日常に過ぎない。

そこで生きるだけの女性の日常。
そんな映画にわたしは感想を紡ぐことができない。
ただ涙だけが零れた。悲しかったわけではない。

心を揺さぶられた………と言われればそうなのだと思う。

けれど一番適した言葉は、愛しかった、だと思う。

愛しくて愛しくて、わたしは、どうしようもなく彼女達と離れ難くて。

せめてその欠片が欲しかった。手元に残したかった。



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