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震災から10年。東日本大地震を振り返ってみた。〜②日本沈没が本当に起きるとは思わなかった〜

(前回の記事を見て下さったみなさま、ありがとうございます)

前回の記事で、私は震災の時に毛染めをしていたことを報告した。

私の地元は車がないとやっていけない社会だ。私は車の免許を持っていない。原付免許ならあるけど。

車の運転ができない小娘よりも、70歳で車をどこまでも走らせる祖母の方が価値が高い。駕籠に乗せられる姫のごとく、私は帰省の度、移動を誰かにお願いする身分であった。


震災の時もそうだった。美容院への送迎を母にお願いしていた。

両親は小さな会社を営んでいたので、私が髪を染めている間、母は事務所に向かい父と仕事の話をしていたそうだ。


事務所は、海の近くにある。

高台に避難させてもらっている最中に、急いでガラケーから母にメールを送った。まだスマホもLINEも浸透していない時代だった。

母が美容院に迎えに来るかもしれない。でも津波がくる。早く教えないと。

「美容室の人が避難させてくれている。石巻高校にいる!」  

「了解。そこにいて。お父さんと向かう」

母は冷静だった。


母は、私が上京してから、よく言ったもんだ。


「生きろ。何があっても必ず生きろ」


3歳の時に大きな病気を体験した私のことを、母は一生守ると心に誓ったらしい。

母は守りたいと思うと同時に、周りの方からとても良くしてもらったので、いや、もらいすぎの部分もあったので、”わがまま娘”に育つのではないかという懸念もあったようだ。治療を頑張っているから色んなお人形やおもちゃをプレゼントしてもらって、食べたいと言えば高級な果物がすぐに出てくる。

これからは女性が社会で活躍する時代だ。一人で生きていける力をつけてあげなければと。母は、魂込めて生きろ、みたいなことを言って、人に対する誠意とか、やり抜くことを私に叩き込んだ。

一生守り抜くと思っていた娘が東京に出たいと言い出したものだから、青天の霹靂だったと思う。それでも私には学びたいことがあったので、その気持ちを聞いてくれた。

両親は了解してくれた。それから、「守る=ずっと一緒にいること」ではなく、母は「生きろ」という力強いメッセージにして、私を送り出してくれた。もののけ姫並みに心震えるメッセージだ。


震災の時も、私の心が「生きろ」と言った。


ものすごい数の人が、一緒に避難してきたが、なぜか両親と私はすぐに会えた。

淡々と合流し、車を止め、見晴らしの良い場所に移動した。


街は津波に覆われ、家とか船とか大きなものが、右から左へ移動していった。

偶然、母が信頼している美容師さんに遭遇したのだが、

「俺んち、ダメだった」と言った。 

それはつまり、津波により家は流されてしまったということを意味だ。


これは私の知っている石巻なのだろうか。


建物も景色もない、白黒の世界だ。

実感が湧かない。

これは、あれだ。

中学生の時にみた、映画「日本沈没」の世界に似てる。

この映画では、金華山沖を震源とした大地震が引き金となっていた。石巻から沈んで行った。

映画は映画でおそろしかったが、フィクションの世界のことだと思っていた。


本当に、沈没するじゃん。



実は父と母も、津波と追いかけっこをして私を迎えに来ていた。海の方に向かう対向車に、母は手をクロスさせてバツマークをつくり、「そっちに行ってはいけない!戻って!」とサインを送ったそうだ。家とか家族とか、仕事場とか案じて戻ろうとしている人々に向けたサインを。


両親はどの道を通って行くのがよいか、めちゃくちゃ言い合いをしていたらしい。けっこうな剣幕だったとか。命がかかっている。

母は、左手に大きい箱のような形をした砂埃のようなものが見えたんだと、今でも言う。それが津波だった。津波って川からもくるんだ..って思ったそうだ。だから早く逃げなければと、すごい剣幕になったそうだ。



高台で会えたことは、簡単に言葉では言い表せない縁だった。


その日は父と母と、車で野宿をした。

いつになったら家に帰れるんだろう。じいさん、ばあさん、弟はさぞかし心配してるだろうな...。

お腹すいたな...。


つづく。

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