名前はまだない(幼少期の思い出編①)
当初は毎日1つずつ更新したいと思っていたが、書きたいときに書きたいだけ書くことに決めた。
義務化するとせっかくのお休みを休みにできないし、他の人も見られるというだけで日記のようなものだし。いいや。
こんなものを読んでくれる方、本当にありがとうございます。
前回の更新(「諸々、お久しぶりです。」)でもちらっと書いたが、心身が壊れた診断が付くのも退職するのも2度目だ。2度とも一年持たなかった(正社員と正社員の間に一年以上バイトをしていたがまあノーカンとしよう)。
今回はその事から気付いた思い出話をしようと思う。
うつヌケという漫画で学んだ、「心の傷をひとつずつすくっていく」ために結構細かく書いている。虐待の話もあるので苦手な方は読まないでほしい。
私は自分の不調に病名が付いたことがない。
風邪やインフルエンザなどは別だが、慢性的に体が弱かった。
幼い頃から朝は動くのが辛かった。
頭が痛い、熱い、体が重い、動くのが辛い。
けれど、どれほどしんどくとも大抵熱は出なかった。
熱がなければ休むのは許されなかったので、幼稚園の頃から登園時には辛くて泣いていた。集団行動が苦手だったことも大きいと思う。
つらさを上手く言語化できず(そらそうだ幼稚園児だぞ)精一杯伝えても母には理解されなかった。
登園時に泣いた日には、帰宅すれば自宅の冷たい廊下に正座させられた。スリッパを履いた母は寒い廊下で何時間も延々と説教し、私を殴り、正座が崩れると正座させ直した。そういえばスリッパを投げられたこともあったか。
長時間の正座も説教も暴力も嫌で、幼稚園の私が逃げるためにどうにか思い付いたのが無理矢理失禁することだった。
その日から説教の途中でも「トイレ」と言えば行かせて貰えるようになったが、少しの間逃げたところで変わらず、長い時間こもれば酷くなるだけだった。
排泄を自分で我慢できないのは赤ちゃんだとし、「泣くし漏らすしあまねは赤ちゃんなんだね。成長できないんだね。恥ずかしいね。」と言われ続けていた。生まれて初めて屈辱を味わったが、他に逃げる道を思い付かなかった。
正直、これを書いてて自分でも自分と母に引いている。よく生きてたな。もう一度書くがこの時の私は幼稚園児だ。我が母、鬼畜生である。この頃から母と私は憎悪し合っていた。
さて、時を現代に戻そう。
私はこれらの記憶を今回の退職があるまで忘れていた。生きるために蓋をしていたのかもしれない。泣きながら出退勤することをどこか当然だと思っていた。「普通の人はできるのに、何故わたしはできないのか。」と情けなく思い自責してきた。
心療内科の先生に「よくそんな長いこと頑張れたね。」と誉められて初めておかしいことなのだと気付いた。思い出せて良かった。気付けて良かった。
2年前に前職を退職して通いだしたカウンセリングで、「小学生の頃から鬱だったんじゃないかな。」と言われたが、もしかしたら幼稚園から始まっていたのかもしれない。
我ながらほんとによく生きてきたな。えらいわ。(うまく締められない)