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月報:2024年7月

 梅雨と真夏をさっくりと混ぜ合わせてマーブル模様を作ったような天気が続いている。食べ終わる直前のパフェの底のように無秩序だ。暑さにすっかり参っているけれど、まだ夏の前哨戦さえ終わっていない。
 生のライチとパッションフルーツを買った。ライチは思いのほか剥くのがむずかしく、果汁で指がひたひたになる。花の蜜をあつめて閉じこめたようなみずみずしさがあって、美味しかった。パッションフルーツはまだ食べごろではないようなので、つるりとした果皮を撫でながら見守っている。

■最近のこと

 2024年も半分が過ぎ、この月報を書くようになってから1年が経った。自分のための記録に過ぎないのだけれど、読んでくれている方々からぽつぽつとおたよりが届くのがうれしい。いつもありがとう。
 書き続けられていることに安心する自分がいる。今の私は常にいろいろなものに追われていて、とても小説などは書けそうにもない状況に置かれている。それでも月報というかたちで、好きなものや自分の感情と定期的に向きあい、言葉を尽くすことができていてよかった。

 幼いころ、眠る前にその日の出来事を話すのが好きだった。学校のなかのこと、勉強しているものごとのこと、仲の良い友だちのこと。ひとつひとつを仔細に語りながら記憶を整理していた。
 私の家族にとってはぴんとこない話ばかりだったと思うけれど、じっくりと耳を傾けてもらえるのがうれしかった。
 この月報は、私の生活をあなたに聞いてもらっているようなものかもしれない。いつもありがとう。2年分くらいの文章が溜まったら本にしてもいいな。
 これからも書いていくので、よろしくね。

 先日、所用があって久々に遠出をした。新幹線に揺られる距離の旅路であり、荷造りをするのも久しぶりだとうれしく思いながら準備をしていた。
 ひとつひとつの荷物をたしかめて、持ちもののリストを指さし確認したところで家を出た。駅にたどりつき、改札を通り抜ける。夏の陽光がホームに降りそそぎ、複雑な模様の影を作っていた。
 その光をとらえようとして、iPhoneを忘れたことに気づく。ああ……と落胆する感情と、間抜けさになんだか笑い出しそうな感情が拮抗し、ぎりぎりで後者が勝った。幸いにも頼れる友人たちがいることだし、このまま行ってしまおう、と軽やかな足取りで新幹線へと乗り込んだ。
 思ったとおり、案外なんとかなるものだ。勉強のための資料はすべてiPhoneに詰め込んでしまっていたから、特にできることもない。きらめきながら流れゆく景色を眺めて、それに飽きてからは本を読んでいた(iPhoneは忘れるくせに、文庫本は2冊持参していた。足りなくなったので帰路でもう1冊買った)。

 デジタルデバイスを持たない旅においては、光がなんだか遠いものに感じられた。昼と夜の区切りが妙にはっきりと感じられる。昼であっても、なにかに遮られてしまうと光は届かなくなる。闇がすぐ近くにあることを、私は忘れていた。いつもは手のひらの中で薄ぼんやりと瞬いている明かりがあるから気にも留めなかったことだ。
 私はiPhone以外のカメラを持たない。当然のことながら、この遠出の写真は一枚も残っていない。それなのに、街で見かけたさまざまなものを鮮明に思い出すことができる。
 外部の記憶媒体になにも託せないから、私の脳が久しぶりに張り切ってくれたのかもしれないね。いつもこのくらいがんばってくれたなら苦労はしないのだけれど……。

■あんさんぶるスターズ!!のこと

 先日、私が楽しく遊んでいるソーシャルゲーム『あんさんぶるスターズ!!』で、七種茨のあたらしいカードが追加された。

『あんさんぶるスターズ!!』[惑わす舌先]七種茨・開花後イラスト

 丸眼鏡にチャイナ服の美しさが映えるカードをありがとう……。
 七種茨はわかりやすい入れ子構造をしたキャラクターだ。自他ともに認める蛇のような狡猾さを、慇懃無礼な物言いで覆い隠して世の中を渡っている。幼少期に見せた悪童らしいふてぶてしさも健在で、しかし心の奥底には素直さが眠っている(私たちはSSやボギータイムでそこに触れることができる)。
 いちばん外側の顔であるフォーマルさを重視した衣装が多い印象だけれど、たまにこのような蛇の一面を強調してくれるのだからたまらない。眼鏡のレンズの色、瞳の色、そして虹彩の色がそれぞれ異なるところが好きだ。かすかな色味の差に、彼の複雑な性質を感じ取ることができる。
 あまりにうれしくて、ずっと眺めている。ネオンが似合う胡散臭い男はすばらしい。

かにさん

 そして、ほとんど同時期に「Psyche's Butterfly」が実装された。あの「EXCEED」のc/wとしてリリースされた楽曲であり、私はこの曲のことがとても好きだ。
 曲名に冠されているとおり、舞い踊る蝶のような振付がたまらなくうつくしい。近づいて、離れて、交わって、また遠ざかって、翻弄するように彼らは踊る。重力を感じさせない軽やかさを宿しているのだから不思議だ。

不思議な振付がいとおしい

 わずかに訪れる美しい瞬間をとらえたとき、生きていることを実感する。スクリーンショットを撮るとき、切り取ることでなにかが永遠になるような錯覚を抱く。それは目の前の光景の美しさかもしれないし、心を通り過ぎていった情動かもしれない。美しいものの残像を反芻しながら、私は生きている。

■遊んだゲームのこと

※成人向け描写を含む作品についてふれています(具体的な表現については言及していません)。

 先日、『BLACK SHEEP TOWN』をクリアした。唯一無二の読後感をもつ、不思議で苛烈なゲームだった。

 『BLACK SHEEP TOWN』はBA-KUからリリースされているビジュアルノベルであり、瀬戸口廉也さんが企画・脚本を務めている。瀬戸口さんといえば非常に有名なシナリオライターという印象を持っているけれど、彼の作品にふれる機会はこれまでなかった。一作くらい遊んでおこうと思ったのがプレイするきっかけで、これが途方もない出会いだったな、と顧みる。

 本作はとある架空の街「Y地区」で起こる様々な出来事を、いくつもの視点から描いた群像劇である。シナリオは断片的に区切られており、次にどのシナリオを読むかはプレイヤーの手に委ねられている(厳密にはザッピングシステムではないのだろうが、チュンソフトの『街』や『428』に近いものを感じる)。ある特定の人物の視点を連続して追ってもいいし、同じ時間帯に起こった出来事を比較するように読んでもいい。

 Y地区にはあらゆる人々が存在している。彼らの人種や国籍が多様であることは当然として、「タイプA」「タイプB」と呼ばれるミュータントたちも暮らしている。街はギャングによって支配され、貧富の差や差別が顕在化している。治安も悪く、警察は手出しをすることができず、スラム街さえ存在する。複数の言語が飛び交い、縁遠い国の料理の匂いが漂い、血の跡がこびりついている街。しかし、そこでも人々は生きている。

 この物語に選択肢は存在しない。すべての物事を描かれているままに受け容れる必要がある。プレイヤーにできることはただ読む順番を選択することと、登場人物たちの生きる姿を目撃することでしかない。本当に「読むだけ」なのだけれど、これが突き刺さるような痛みを伴う行為であることを知った。
 本作のなかではありとあらゆる悲喜劇が起こる。steamのストアページに「成人向けコンテンツを含む」と表示されているとおり、性描写もゴア・スプラッタ表現もある。
 それが示唆するとおり、本当にたくさんの人が死ぬ。平穏に、望んだかたちで生涯を終えるひともいれば、酸鼻を極める非業の死を遂げるひともいる。悼む間もなく死んでいくのだから、心にぽっかりと穴があくばかりで苦しかった。まるでY地区という街が人を孕んで蠢いていて、その運動に人々の運命が翻弄されているだけなのだ、と言わんばかりの非情さがあった。

 それでもこの物語は美しかった。登場人物それぞれが異なる立場で異なる思想を持ち、それが共鳴したり対立したりする瞬間の、論理と感情の波打つ様が本当に素晴らしかった。生命が呆気なく失われてしまう街だからこそ、生きていることの意味が非常に重い。

 先ほど述べたとおり、この街にはミュータントたちが暮らしている。「タイプA」はいわゆる超能力をもつが、その代償なのか外見に異形の特質が顕れる。超能力の程度は個々人により異なり、あらゆる隠し事を見通せるような強力なものもあれば、少しだけ物を動かせる程度の能力もある。副作用のような特質も人によって様々であり、同じタイプAのなかにもグラデーションがある。
 一方で「タイプB」は、身体的な能力が驚異的に向上する代わりに精神に異常をきたすリスクを抱えている存在だ。彼らは発作を起こすたびにその人格が崩壊し、認知機能が低下する。日常生活を営むことができない者は入院し、専門の医療を受けつづけることになる。
 タイプAと同様に、彼らのなかにもグラデーションが存在している。一生発作が起こらないひともいれば、幼くして発作を起こし、完全に人格が崩壊したまま病棟で一生を過ごすひともいる。このあたりを非常に丁寧に描いていて、最前線で働く医療従事者の描写にかなりの紙幅を割いている。
 単に超能力バトルの側面を強調したり、ミュータントの特性の不思議さを中心に据えたり、ギャングの抗争の話に終始することもできるのに、医療や後述するような差別について丁寧に描いているところが本作の非凡なところだと感じる。

 本作は個々人の属性の違いから生じる差別について、正面から誠実に描いている。決して逃げないし、透明にはしないという強固な意志を感じるほどの筆致だった。設定からも明らかだが、私たちが生きる世界の一部を拡大し、物語に織り込んでいる。ややもすると非常に危うい行為なのだけれど、瀬戸口さんの手際は鮮やかだ。
 特に、「化け物というのは異形や精神を病んだ人を指す言葉なんじゃなくて、誰もが心の内側に飼い慣らしている狂気のことを呼ぶんだ」といった言及であったり、「同じ属性のマイノリティ同士にも差別はあって、特定の属性だから丸ごと差別されるというよりは、その中でも特に能力が低かったり社会に適応できないやつが差別される」という話が印象的だった。

 属性の対立だけではなく、思想の対立も非常におもしろかった。ギャングの派閥争いレベルの集団の思想の対立もあれば、個々人の思想の対立もあった。
 とりわけ好きなのは「生命そのものに価値はなく、人間の思考と行動によってはじめて生まれる」という主張と「生命はただそこに在るだけで価値がある」という主張の差異だ。本作は非常に丁寧なゲームなので、各人がなぜそのように主張するのかがよく理解できる。人に歴史あり、とはまさにこのことかと思うほどだ。
 このふたりの人物が辿った運命がとても好きで、具体的な言及は避けるけれど、day9 20:34『古き友との別れ』は読み返すたびに涙してしまった。彼らの過去を知ってから読み返すと対話の帯びる温度が変わるのが印象的で、胸を締めつけた。

 プレイしているあいだ、本当にいろいろなことを考えた。ぐちゃぐちゃなメモを取りながら、この物語のテーマを必死に考えていた。あまりに複雑な要素が絡み合いすぎているし、善悪でも割り切れず、人間の様々な側面を見せつけられた。人間への希望と絶望を反復して、振り子のように感情が揺れ続けていた。
 そうしてラストシーンにたどり着いたとき、ある登場人物が発した言葉が本作のすべてを表しているのだと唐突に理解した。
 「そもそも、我々は全員、生まれてきたから、生きているというだけなんだからね」
 生きてることは物語じゃないから、と語った別作品のキャラクターを想起する。ドラマチックな人生であっても、それはただ生きた結果でしかなく、そこには虚構も装飾もない。

 瀬戸口廉也さんの凄まじさを実感した、素晴らしい体験だった。精神が弱っているときにプレイすることはあまりお勧めできないけれど、ぜひあなたにも彼らがただ生きていたこと、ただ生きていることを目撃してほしいなと思う。

 それでは、またね。おやすみなさい。

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