私が舞台『たぶんこれ銀河鉄道の夜』を観劇してガチで泣いている理由―レナちゃんを主人公にして考えてみた―
※この文章には舞台『たぶんこれ銀河鉄道の夜』のネタバレを多量に含みます。
私の推しメンである乃木坂46 田村真佑ちゃんことまゆたんが出演する舞台『たぶんこれ銀河鉄道の夜』が2023年3月17日(金)に初日を迎えた。推しメンが単独出演するということもあり、出演が発表された当初から非常に期待していた。そして、実際に観劇すると、その期待をやすやすと超えるほど素晴らしい舞台であった。
この舞台は劇団ヨーロッパ企画代表の上田誠氏が脚本・演出・作曲に携わっており、加えて自身の劇団でも脚本・演出を手掛けているかもめんたるも客演として参加しており、面白い舞台であることはある意味折り紙つきであった。しかも、事前に明かされていたのは、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』をリスペクトしながらも現代風にアレンジした音楽劇であり、コメディーであり、さらにはデスゲームが繰り広げられるという予想の斜め上をいく設定であり、これを聞いただけでもワクワクが止まらないのは言うまでもなかった。
そして迎えた初日公演。先にも書いたように期待をはるかに超える最高傑作であった。上田氏の手腕によって、『銀河鉄道の夜』の美しい世界を忠実に再現しつつも、確かに音楽劇でコメディータッチに描かれたデスゲームとなっていた。初めは推しメンが出演するということからこの舞台を楽しみにしていたが、これは推しメンとか関係なしにすべての人に観てもらいたい舞台であると断言できる。そして今や完全にその世界観に魅了されてしまった。特に宮沢賢治や『銀河鉄道の夜』について理解を深めて観劇に臨んだことで、その感動が幾重にも増幅されたことは間違いないと思う。
しかし、ここでは舞台作品全体の美しさや素晴らしさを改めて伝えようとしているのではない。それは観劇すれば十分に伝わることである。私がここで書きたいのは、舞台『たぶんこれ銀河鉄道の夜』の登場人物の心の動き、苦悩、葛藤に焦点を当てると、よりリアリティー溢れる鮮明な人間模様を描いたドラマになってくるということである。主演の久保田さん演じる主人公ナオや、先輩美容師のナツキなど、それぞれの人物の心情に思いを巡らすと、コメディーとして描かれた舞台作品が、途端に宮沢賢治の想いを反映した上質な感動作品へと変貌を遂げるのである。そして、その中において、当然のことであるが推しメンの輝かしい活躍からは目が離せない。そのため、自然とまゆたんの演じるレナちゃんという人物に感情移入してしまうのである。
誰にでも優しくて魅力的でみんなから愛されているレナちゃん。しかし、一見とても幸せそうな、そんなレナちゃんは銀河鉄道に乗車している間、ずっと苦悩しているのである。
そんなレナちゃんの心の内の苦しみを、一体誰が救ってくれるのか。それがナオちゃんだったらいいなあ、そんなことをずっと考えていた。レナちゃんの心の葛藤を妄想しただけで、もう心が張り裂けそうになった。その結果、観劇した東京公演13公演、大阪公演2公演のほとんどで涙した。
レナという人物
このレナちゃん、原作でのカムパネルラに相当する人物として描かれている。ご存じの通り、銀河鉄道というのは「ほんとうの幸い」を求めて死者が乗る列車であり、カムパネルラは死んでしまう。したがって、観劇前からおおよそ予想はついていたが、やはりレナちゃんも亡くなるという結末であった。したがって、終盤に差し掛かると原作でも描かれるような悲しく寂しい結末が、コメディータッチである序盤~中盤と対比するように、時々顔を覗かせてくるようになる。
そもそも、舞台序盤で、銀河鉄道の乗客たちがどのような経緯で乗車することになったのか考える場面がある。このとき、本当に死んでしまったために乗車している「カムパネルラパターン」か、再び現実世界へと帰還できる「ジョバンニパターン」かで大きくわかれるのであるが、レナちゃんと、レナちゃんと一緒にフェスに行ったナツキの二人だけは、かなり自信をもって「カムパネルラパターン」であることを告白していて、観劇している我々の心中は穏やかではない。
その後、ナオがレナに本当に死んだのかを尋ね、レナがフェスで事故があったと答えるが、このときその詳細はわからない。観客も、どのような経緯でレナが死んだのだろうかという疑問を抱えたまま話は進行していくので、一抹の不安を覚えるのである。
また、鳥捕りが現れる直前に、ナツキがレナに「フェスに連れ出したせいでこんなこと(銀河鉄道に乗車すること)になっちゃって《=私のせいで死なせてしまって》、ごめんね」と謝り、これに対してレナが「私もフェスに行きたかったので《=ナツキさんのせいじゃないですよ》」と答えるのである。ここではあえて直接的な言葉は使わないで会話がされるため、《》の部分は後々そう理解できる部分である。
さて、ここまで観てわかることは、レナは自分が死んだことを確信していて、しかもあまりにも冷静にそれを受け止めているということである。彼女が銀河鉄道に乗って「ほんとうの幸い」を目指し、生き残り(否、死に残り)をかけてデスゲームに参加しているのは、ひとえに残りわずかな最期の時間を、ナオやナツキを悲しませずにできるだけ長く楽しく過ごしたい、という願望のためである、と推測される。したがって、実は銀河鉄道の旅を一番楽しんでいるのはレナである。デスゲームすらもアトラクションとして楽しんでいるように見えるのである。実際、プリオシン海岸での化石採集の終わりに「なんかいい時間でしたね」と述べているくらいである。
さて、このときレナには次のような冷静な考えもあったのだろう。
ナツキは自分が守り切ったから死んではいない(これは最後に明かされる)と確信している
ナオは「ジョバンニパターン」で乗車したと言っているから死んだわけではなさそう
車掌曰く、脱落した人は本当に死んでいなければ現実世界に戻されるだけである
したがって、いつでも自分が満足したところでナオとナツキに退場してもらえれば、二人は現実世界に帰れる
北十字のときのデスゲームでもそうであったが、レナという人物は冷静に周囲の状況を見て的確に判断することができるのだとわかる。そして、自分だけが死んでいるという辛くて悲しい暗い現実を封印して、明るく気丈に振舞っているのである。
自分は死んでいるというのにあまりに人として出来すぎているようにも思えるが、宮沢賢治の作品を読めば、こういった人物は多いことはわかる。原作のカムパネルラについても同様で、自身の死を受け入れるのは驚くほど早く、他人のことを先に心配している。後ほど作中で登場する蠍火の話や『よだかの星』などにも通じる自己犠牲、利他の精神、献身性を、このあたりからレナにも感じることができる。
転機となる旗の男(信号手)の場面
ところが、レナの想定していた当初のシナリオから外れるような出来事が起きていく。というのも、レナ自身が銀河鉄道の旅を楽しんでいるのに対して、ナオがあまり楽しそうじゃないのである。これは、ナオの知らない、入り込めない共通の話題を持つほどレナとナツキが親しい間柄にあることを再認識したからである。そういった描写がここに至るまでいくつかある。例えば、北十字で記念写真をナツキがレナと撮ろうとしたときに、ナオが自分も入りたそうな顔をしている。また、プレオシン海岸での化石採集から戻るとき、「なんかいい時間でしたね」とレナがナツキに話しているのを、ナオは遠くからじっと見ているのである。また、鳥捕りのあと、レナもナツキも流行りのYouTuberであるざきしょーにハマっていて本人を目の前にして盛り上がるが、ナオは序盤でざきしょーについては知らなかったことがしっかりと演出に組み込まれていて、会話についていけないのである。もちろんこれらについては、ナツキには故意に見せつけてやろうという魂胆があったかどうかわからないし、増してやレナにはそのような認識はない。そのため、ある意味無邪気にレナがナツキと楽しそうにしているところを何度も見せつけられて、ナオは気後れし、また少しの怒りを覚えてしまったのである。これは原作での、タイタニック号の沈没で犠牲となった女の子とカムパネルラが親しくしていることに嫉妬するジョバンニそのものである。「カンパネルラ、ここからはねおりて遊んでいこうよ」とジョバンニが言った場面のことをナオは想起し、自分の心境と重ねている。
確かに、ナオからすれば気が気じゃないはずなのである。親友であるレナは死んだというがその詳細は知らず、何ならあのナツキさんはその詳しい内容をよく知っていて、そして二人で仲よく談笑しているのだから面白くない、というか、自分だけ取り残されていて心中穏やかではない。しかも、当の本人であるレナは自身が死んだというのに普段と変わらず明るく話していて、それがあまりにも冷静すぎて困惑すらしているというのに、という具合である。どうして私のこの気持ちにレナは気づいてくれないのか、そんな怒りや焦り、不安や恐怖などのまぜこぜになった感情が一気に噴出する。そして、ナオがレナに何となく冷たい態度をとるのである。銀鉄そのままだよとはしゃぐレナに「なんかテンション高いね」とナオが言い放つ。
さあ、予想外の反応に今度はレナが困惑しただろう。ナオがなぜ不機嫌なのか、レナにはわからなかったはずである。ナオを心配させまいと気丈に振る舞ったことが裏目に出たことなど露ほどにも疑わなかっただろう。しかし、ここでゲームは進行していく。
一方のナオ、このモヤモヤした気持ちの原因となっているナツキから助けを求められる。ただでさえ、普段からあまりいい感情を持っていないナツキに、今このような心情のときに助けを求められても応じたくないのは至って当たり前の反応である。あるいは、ここでナツキが脱落すればナツキからレナを奪い返せる、だからこの機に乗じてナツキを見捨ててしまおう、とまで考えたのではという穿った見方もできる。しかし、当然これではデスゲームから脱落してしまう。
「ナオー!!」と叫ぶレナ。レナは驚いた。まだまだずっと銀河鉄道の旅が一緒にできると考えていたのに、あまりにも突然にナオが脱落してしまったこと。しかもその理由がナツキを助けなかったことだったので、ナオとナツキが拗れていることがこんなところでまで尾を引くなんて…。そんな風に考えたのではないかと推察する。
ナツキとの確執が原因でナオが脱落したことは、この場面以降、レナの心境を考える上で非常に重要な転換点となっていると個人的には考える。そしてこれが、この舞台の脚本をより深くしているように思う。
ちなみに、この場面でのデスゲームにて、車掌が乗客一人ひとりに配っているホワイトボードを、宮沢賢治ことヤザワ(このときはまだ正体不明)がわざわざ2枚もらってそのうち1枚をレナに渡し、「遺書でも書いておきな」と言い放つのは、暗にレナに対して言い残したことがあるなら今のうちに言っておけというメッセージを送っているように思える。
高校時代のマラソン大会の回想の意味
ナオがデスゲームで脱落して以降、脱落した乗客たちのその後の様子が頻繁に描かれるようになる。その中で一つだけ異質に感じるのは、ナオとレナの高校時代のマラソン大会の回想が唐突に挟み込まれることである。他の場面と違って時間軸が完全にぶっ飛ぶためにこの場面だけ異質に感じる構成である。このシーンはナオの回想ともレナの回想ともとることができるが、基本的にはレナの回想であると考えれば合点がいく。
なぜマラソン大会なのか、というのはおいておくとして、この場面は、単にナオとレナがたとえどんな困難があったとしてもどこまでも一緒に行こうという約束を交わした、というエピソードとしてのみで描かれているのではないように思われる。それぞれの語りの部分で、ナオとレナがお互いをどのように思っているかという関係性を明らかにしているのではないだろうか。ナオはレナを常に自分を導いてくれる人と考えているように思われる。限界を迎えていたり2回足をつったりして大変だったことはレナから語られているが、ナオはレナがいたことで走り切れたと述べている。一方で、レナはナオがそのように自分のことを捉えていると感じながらも、実際にはレナはナオに救われたと考えているのである。確かに先にサボってマック行こうと言い出したのはレナであり、ナオが走り続けていなければレナは完走しえなかったであろうことがわかる。
ここで思うのは、実はレナが心を開ける相手はナオしかいなかったのではないだろうかということである。舞台冒頭でレナが転校生であったことが明かされているが、転校生がすでに形成されたコミュニティーに溶け込むというのは苦労するはずである。誰か一人に嫌われてしまえば、連鎖的に全員を敵に回すことになるであろう。よって、全員ととりあえず仲よくする。これがレナが身に着けた誰とでも仲よくなれるという処世術へと至ったのではないか。しかし、誰とでも仲よくするということは、ときに本当の自分を隠して付き合う必要があるということでもある。レナにとって本心を一番曝け出せる人物はナオだけであったのであると考えれば、この回想シーンは一気に大変重要な意味を持つ。原作を読んでわかることであるが、カムパネルラはすでに母親と死別しており、博士である父親はおそらく大学教授か何かで仕事のために昼間はあまり家にはおらず、孤独であったのである。そんなカムパネルラが唯一他に誰もいない自分の家に招き入れて、大切な父親の本を一緒に読む相手がジョバンニなのである。レナが実は孤独の中にいたと考えると、カムパネルラとよく重なる。レナがいい子ぶらずにサボってマック行こうと本音を語れたのは、ナオだけだったのである。
つまり、ナオはレナを原作でのカムパネルラのように誰にでも優しくてこんな自分のこともいつも気に掛けて寄り添ってくれる存在と思っていて、レナはナオを原作のジョバンニのようにただ一人心から気を許すことのできる存在と考えている、ということを、この回想シーンを挟むことによって表しているのではないだろうか。また、お互いがお互いをこのように捉えていたと考えると、この後の場面がより重みを増すようになる。そして、レナ自身は自分のことをカムパネルラであるとは考えておらず、「カムパネルラは悪いことしない」というのが伏線となっていて、ここでも観客はナオと同じ立場からこんなに愛されているレナちゃんがカムパネルラじゃないってどういうことなのかと疑問を持つことになり、さらに観客をこの世界に惹き込んでいて実に巧みであると思う。
なお、「それ、フラグだよね?」というナオの言葉がこの物語の結末を暗示していることは留意したい。
ナオの告白、レナの告白
マラソン大会の回想の後、脱落して取り残されたナオと、銀河鉄道に乗っているレナとでそれぞれ話が進んでいくが、ナオは一緒に脱落した弁当屋の店員シゲフミに、レナはナツキにそれぞれ思いがけないことを告げる。
ナオとシゲフミの会話の後に、場面がレナとナツキの会話に変わる。ここで、おそらくナオがナツキをアシストしなかったことが話題となり、レナはナオがナツキとの関係性に悩んでいたことをナツキに打ち明け、ナツキは初めてそのことを知るのである。舞台序盤からナオとナツキが揉めたりレナを取り合ったりする場面がしばしばあるが、そのたびにレナは少し困った表情をしており、レナはずっと親友であるナオと職場の先輩であるナツキのギクシャクした関係の板挟みであったことがわかる。しかし、これまでそのことをナツキに伝えることはできなかったのである。それは自分のことを可愛がってくれている先輩にそのことを伝えることによって、自分との関係を悪くしたくないというこれまで通りの処世術に則った対応であり、要は保身のためである。このレナの自己犠牲とは程遠い利己的な姿、しかし最も普通の人間的な姿こそがこの物語の最大の肝であるといえるだろう。そして、自分が確実に死してしまっている状況で、ナオが想定外に脱落してしまい突如永遠の別れを迎えてしまったことを後悔したのを機に、ようやくナツキに話したのである。ナツキはレナの話を聞いて、自分のこれまでナオにとってきた態度に問題があったことを悟る。
さて、場面転換し、脱落したナオは再び銀河鉄道に乗るために走って追いかけようとする。シゲフミがそれを制止し、ジョバンニだって最後まで乗れなかったんだからとなだめると、ナオは「私、ジョバンニじゃないんで」と言うのである。ナオにはマラソン大会でのレナとの約束が念頭にあったのではないかと考えられる。ずっと一緒という言葉通りに、同じ仕事に就き同じサロンに勤め、ここまでやってきたのである。それにもかかわらず、自分自身のくだらない嫉妬のためにデスゲームに脱落してしまい、どうやら本当に死んでしまったらしいレナのそばに最後までいてあげられなかったという後悔や惨めさからの発言ではないだろうか。
再び場面転換し、列車内のレナとナツキの会話に。ナツキが「レナちゃんみたいな子が銀河鉄道に乗れるんだね」と話す。このときナツキは、これまで自分とナオの板挟みに苦しみながらも、自分やナオのことをともに気遣ってくれていたことを察して感謝し、レナの持つその他者への気配りや優しさを想定して発したものと思われる。ところがレナは「私、カムパネルラじゃないんで」と否定するわけである。レナはナオやナツキが考えているほど自分はよい人間ではないということをしっかりと自覚しているのである。保身のためにナオがナツキとのことで苦しんでいたことを見て見ぬふりをしてきたし、そのことをナツキに打ち明けたのも優しさからではなく自身の後悔からであるし、すべての動機は誰かのためではなくただ己のためであったことを嫌と言うほど痛烈に理解しているからこそ、命を捨ててザネリを救ったカムパネルラには到底なりえない、という思いがあったとすると、この一言は大変重いものになる。
しかし、そんな自分に、ナツキは「どこまでも一緒だよ」と本気で言ってくれるのである。レナは、ナツキがこの状況に対して非常に大きな責任を感じており、レナとどこまでも一緒に行くというナツキの意志が固いことを悟ったのである。ナツキはずっとレナを事故に巻き込んでしまったことの責任を感じていたことは、先に述べたとおりである。レナは、死んでしまった自分にここまで言ってくれるナツキに申し訳なさを感じただろう。ここで考えを巡らせたはずである。こんな自分のためにナツキを一緒に連れて行くわけにはいかない。ナオは脱落した、次はナツキを元の現実世界に戻さなければならない。どうすればナツキを現実へ戻せるだろうか、と。
架橋演習場でのレナの行動と配信
そんなことを考えていると間もなく架橋演習場に到着し、すぐさまデスゲームが始まる。4人で特異な形をした1つの網を持って、4人一緒に左右に移動して飛んでくる魚を捕まえるというものである。このとき何としてでもナツキを帰さなければならないと決意していたレナは、途中でレナがナツキに突き飛ばされたと車掌に嘘の申告するのである。ナツキに突き飛ばされたことにして脱落させ、現実世界に戻すというかなり強引な方法をレナがとったのには、レナの中に焦りもあったからと思われる。レナの申告が虚偽であることはナツキにも(観客にも)その瞬間にバレるわけであり、レナにしては場当たり的で少々お粗末な方法であることからも切羽詰まっていたことがわかる。どのような方法であれ、ナツキを無事に帰すことができればそれでよいと考えて実行したのだろう。
当然ナツキは驚き困惑する。レナがなぜそのような嘘をつくのかをナツキは理解できなかったはずである。責任感から「どこまでも一緒だよ」と言ってくれるナツキに、自分のことは心配ないから現実世界に帰ってほしいと正直に言うことを躊躇して回りくどい方法をとった、というところにナツキには本心を打ち明けられないというレナの明確な線引きが垣間見える。
しかし、ここでも想定しえなかったことが起こる。脱落して現実世界に戻ったと思っていたナオが戻ってくるのである。このナオの再登場にはレナ自身も非常に驚くが、もう会うことのできないと思っていたナオと再会し、また一緒に銀河鉄道の旅を続けられることになり、明らかに喜んでいるのである。ここまでナオとちゃんと話せていないという後悔の反動からくるレナの率直な反応であり、レナが最期まで一緒にいたかったのはナオであることがわかる。
そして、この後の水晶のお宮でも、ざきしょーが銀河鉄道内部の様子を勝手に配信していたことがバレてしまうという騒動が起こる。さらには、ざきしょーがみんなに面白いものを見せるという建前で、銀河鉄道に不正乗車していたという事実も発覚する。不正乗車が判明して下車を余儀なくされるざきしょーだが、その去り際に、シゲフミが「他人のこと傷つけてもいいの?」と尋ねると、「それ、むずいっす」と一言残していく。彼にとって面白いことをするというのは、人気になるという目的のための手段でしかないのである。序盤でナオにテンションの違いが痛いがパフォーマンスかもしれないと指摘されており、鳥捕りにもなんでそんなことをするのかと問われて面白いことをするのがユーチューバーだと答えている。だからこそ、ユーチューバーとして絶大な人気を得たものの、人気になればなるほど、本来の自分の姿からかけ離れていたのだろう。「面白れえもんみんなに見せるってスタンス、一切変わってねえから」と言うのも、本当の自分の想いとは裏腹に求められるものも多くなってしまった結果かもしれない。そして、他人を傷つけてまで人気になりたいのか、ということに思考停止し続けているように見えるのである。したがって、ある意味では一番哀れな乗客なのかもしれない。真の自分というものを見失った(本当の自分を殺した)、しかし銀河鉄道には乗車することのできない存在。
さて、ざきしょーの下車後に静まり返る車内であるが、ここで黙り込んでいるレナは、「果たして他人を巻き込んでまでほんとうの幸い(天上)に到達したいのか」と葛藤しているのではないだろうか。一度は喜んだナオとの再会ではあるが、銀河鉄道の旅も佳境に入っており、サウザンクロスも近い。どこかで別れなければならないことはわかっている。そのため、自分がほんとうの幸い(天上)に到達するためにナオやナツキをここまで付き合わせてしまうのは申し訳ないという思いが湧き上がっていたと思われる。
蠍の火とケンタウル村の祭り
銀河鉄道は蠍の火に到着する。ここで蠍の火の逸話が宮沢賢治自身から語られた後、デスゲームの様相が一変する。誰か一人が蠍の火に飛び込んで犠牲になるという、極めてハードなものへと変貌を遂げる。ナオ、レナ、ナツキとシゲフミの四人は悩むが、シゲフミが火に飛び込むことを決心して犠牲となるのである。シゲフミが自ら犠牲になることを志願したのは、残りの三人が女性ということもあって、そんなことはさせられないというかっこつけだったと思われる。(まゆたん自身がこの場面で「馬鹿だよね」と思っているというのには流石に笑ってしまったが、男ってそういうところあるのよね。)
さて、火に飛び込んだシゲフミの悶絶を(レナは直視こそできていないが)目の当たりにしたことで、自分のためにハードモードと化したデスゲームにナオとナツキをこれ以上巻き込むことはできないと再度認識するのである。そして、発車した列車の中で、意を決してついに直接ナオとナツキに「帰ってほしいんですけど!」と語気を荒らげて叫ぶのである。ここまで心に溜め込んできた自身の想いをようやく吐き出すことができたのである。それにもかかわらず、ナツキはレナを事故に巻き込んでしまった責任から、ナオはどこまでも一緒に行くという約束のため、帰ろうとしない。そんな二人に、レナは苛立ちすら覚えてしまうのである。ナオとナツキの覚悟、それに対峙するレナの強い決意を思うと、本気の魂のぶつかり合いという感じがして、何とも言えないエモい気持ちになるのである。
ケンタウル村に到着すると、またしても誰か一人が残って自転車を永遠に漕ぎ続けるというデスゲームに突入する。ナオ、レナ、ナツキの三人のうちの誰かが脱落しなければならない。天上に向かうために一人が犠牲となって苦しみ続けなければならないのなら、天上になど行けなくてもいい、ここでみんな脱落すれば、少なくともナオとナツキは無事に帰れる、それでいい。そう考えて、レナは宮沢賢治に全員失格でいいですからと提案する。しかし、それではレナをほんとうの幸いに連れていくことができない。したがって、すぐさまナオとナツキがそれを止めるのである。このときナオとナツキの思いは完全に一致していたであろう。レナを絶対に天上へ送り届ける、そのためにどちらかがここで犠牲にならなければならない。しかし残って永久に自転車を漕ぐのは辛い。苦悩の末に最もシンプルにじゃんけんで決着をつけようとするところがいじらしい。
しかし、じゃんけんしようとした瞬間に銀河鉄道に対する誹謗中傷、ヘイトの弾幕を浴びせられる。さらには、ざきしょーの配信で三人が映り込んでしまったために、三人の働く美容室や三人のことまでもそのターゲットにされ容赦なくディスられる。心ない美容室への罵詈雑言の嵐を目にして、ナツキにはお店を守らなければいけないという別の感情が芽生えるのである。突如ナツキは自転車を取り上げ、潔く身を引いてレナを送る役目をナオに託し、帰るのである。そしてこのとき、これまでナオに辛く当たってきたことを謝罪し、レナを送り届け帰ったらアシストしてほしいとお願いする。ナオもそれを受け入れ、二人の間の確執は雪解けとなったのである。そしてふり返り、レナには天上にも行きたいが、私の神様は今はお店にいるからと告げて颯爽と去っていく。ナツキのいうところの神様とは、美容室の客である。ナツキが美容師という仕事にプライドを持っており、プロとしての矜持があるからこそ、「お客様は神様です」の精神を全うするために、レナが死んでしまった以上ナオのアシストが必要不可欠であることを認識し、自分自身の成すべきことを再度自覚して、戻っていくのである。
地上ヘ帰っていくナツキにレナは「ありがとうございました!」と大きくお礼を述べる。自らが死ぬに当たって気がかりであったナオとナツキの関係が改善したこと、さらにナツキを現実へ帰すことができたこと、この2点が同時に解決したことに対する安堵とこれまでずっとお世話になったことへの感謝から出た言葉であると思われる。
サウザンクロス、その後の別れの時
ようやく乗客がナオとレナの2人になり、嬉しさから宮沢賢治の語る神様の話もそっちのけで北十字では撮れなかったツーショット自撮りに夢中になるほど、ナオもレナも2人だけの時間を欲していたとわかる。残りわずかしかない時間を嬉々として楽しんでいる2人につい目が行ってしまう。しかし、実は宮沢賢治の語る神様の話は結末を考える上でとても重要であると思われる。この神様の話というのは原作でも登場するが、信じる神様がみんな違うということは、みんなが到達すべき目的地である天上、ほんとうの幸いも人それぞれ異なっているということを意味している。これは原作でもタイタニック号の犠牲になった姉弟たちとの別れの場面や、カムパネルラが天上と言ったところがジョバンニにはそうは思えなかったことでも明らかである。つまり、ナオとレナが銀河鉄道を降りる場所も違うわけである。
さて、せっかく2人で残りの旅を楽しもうとしたのも束の間、芸術家のシブサワ、そして売人のフナキの乱入によって邪魔をされてしまう。2人がちゃんと別れられるようにと宮沢賢治がサウザンクロスで負傷した車掌、オーバードーズしたフナキとともに下車すると、いよいよ待ちわびたナオとレナの2人だけの空間となる。ゆっくりと積もる話を2人でしてもらいたいところであるが、すでにサウザンクロスを過ぎており、物語も終盤であることが観客には気掛かりになっているところである。
冒頭のように、再び原作の演技をするナオとレナだが、すぐに笑い出す。蠍の火に飛び込むシゲフミを見て、みんなの幸いのためならば僕のからだなんて百ぺん灼いてもかまわないと言った「ジョバンニにはなれない」とナオは述べる。レナも「カムパネルラ重かった」と振り返る。そしてここで、初めて転校する前の学校でいじめに加担していたという過去の罪を告白するのである。本当はザネリであると。ただ一人心を許すことのできたナオにさえも隠していた秘密を打ち明けることは、親しくしてくれていたナオを騙し続けていたという罪悪感に対する最期の償いだったのかもしれない。そんなレナに「カムパネルラだよ、レナは、私のカムパネルラ」と言って、ナオは優しく受け止めてくれるのである。ここまで死を一人で抱えてきたレナの心は、ナオに許されることで救われたのではないだろうか。だからこそ、ここまで自分の本心をあまり露わにしてこなかったレナが、「死にたくないなあ」と本当の胸の内をようやく吐露できたのである。これを言ったとき、レナは一体どのような想いだったのだろうか。
そして石炭袋が見えてきたところで、クライマックスを迎える。ナオとレナの2人の最後の共演は涙なしでは見られない。畳みかけるようにして悲しみと切なさと感動が押し寄せ、出演者全員での大迫力の唱和の中、銀河鉄道の旅は終わる。
果たしてレナは救われているのだろうか。そのことを今に至るまでずっとずっと考えてきたのであるが、ようやくひとつの帰結に達した。レナが退場するときのあの顔。あれを見たときにレナはほんとうの幸いに辿り着いたんだ、そう思うことができた。そう思わせてくれるような、その晴れやかな、美しい、でもどこか寂しげなレナの表情を、舞台俳優田村真佑はしっかりと演じていた。私はあの瞬間に、あらゆる可能性を見たのかもしれない。
現実世界に戻ってから、事故のためにレナが意識不明であることをナツキがナオに報告する。このとき、ナオは「大変なときに連絡をくださりありがとうございました」「これからは私がナツキさんを支えます」といい、ナツキも涙ながらにうなづく。レナが最期に命を懸けて守りたかったものは、この瞬間にしっかりと守られたことがわかるのである。
ジョバンニになり切れなかったナオと、カムパネルラになり切れなかったレナの物語は、こうしてほろ苦さを残して美しく幕を閉じる。しかし、最後ナオとレナの2人は別れることになってはしまったが、固い友情で結ばれた2人がそれぞれ「レナのジョバンニ」「ナオのカムパネルラ」として、しっかりやっていこうと誓い合ったところに、私は一縷の希望を抱かずにはいられないのであった。