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なぜ、供養なのか。 ―『供養』⓪―
四作品から構成されている、『供養』。
冒頭の、辞書の引用。
く‐よう[‥ヤウ] 【供養】
〔名〕
({梵}pu ̄jana ̄の訳語。進供資養の義で、
仏・法・僧の三宝や父母、師長、亡者などに供給し、資養することをいう)
本来は香華(こうげ)、灯明、幡(はた)、
あるいは飲食、衣服、資材などの施物を行なうことを主とするが、
また、精神的なものをも含める。
その供える物の種類、供える方法、および対象によって種々に分類され、
敬供養、行供養、利供養などがある。
なぜ、供養なのか。
結論から述べると、
「本来は香華(こうげ)、灯明、幡(はた)、あるいは飲食、衣服、資材などの施物を行なうことを主とするが、また、精神的なものをも含める。」という言葉の通り、
エッセイを通して、私から母に向けて、
「想いを言葉にする」という形で、精神的な供養をしたかったから。
思考整理として、思いや考えを言葉にするということは、これまでもしていた。
一方で、母に関して、「本当に思っていること」となると、それまでずっと避けていた。
どちらかというと、「頑張らなきゃ」という自分を鼓舞する向き合い方をしていた。
その気持ちが偽りというわけではない。
それでも、今回作品で書いたような、決して前向きとは言えない思いは、抱いてはいけないような気がしていた。
立ち直らなければいけないという思いや、現実を見たくない気持ちが、ずっとどこかであったから、だろうか。
だから、そう思っていても、思っていないふりをしていた。
しかし、書いていて、これは立ち直れるものではないなと思った。
「立ち直らないと決めたから、笑っていられるんだと、今は思います。」
旦那さんを亡くした大学の先生が話していた言葉。
なんとなく、わかったような、気がする、
かなり脱線して、支離滅裂な事を書いているような気がしなくもないけれど。
とにかく、わたしは、
こうやって、色んな感情をことばにすることで、
わたしなりに、母への供養をしたかったのだ。
大きな喪失は、忘れられないもので。
また、そこから立ち直ることは、
きっとできない。
でも、その中でも、
日々過ごす中に、変わらずにある、
今ある幸せを、
忘れずに、噛みしめながら、
過ごしていきたい
そう願い、書いたエッセイ。