Wings(小説)
2022年教養ゼミ寄稿作品
◇
「蝉はね、一夏の間に命を燃やし尽くしてしまうの」
「蝉?」
「そう。蝉は、七年もの間地中で、外の世界のことを思い続けるの。そして、ようやく世界の姿を目の当たりにしても、一夏の間しか生きられない。それでも蝉は、限られた生命を全うしようと、叫び続ける。自らの力の全てを使って。とうとう叫ぶ力もなくなると、大地に仰向けに倒れて、空を見据えるの。自らの死期を感じながらね」
「蝉にとって、命は儚いものなのかな」
「さあね。でも、蝉にとってはそれが一生で、それ以外のものではないわ。でも蝉は命を全うした。私たちが、また無残にも八月を殺している間にね」
今年の夏も、幾多の蝉が生命を燃やし尽くした。二十二歳のお前から見ると、蝉は二十二回、命を往生させている。
彼女は不思議な存在だった。地表でもがいているお前からすると、彼女は、自由に空を飛び交っているように見えた。しかし、その飛び方は、どこか見るものに違和感を与えるものであった。
翼というものは、一組の羽が揃っていることでようやく、そのものを滑空させることができる。結局は、この世界と同じく、物理法則に従う必要があり、法則に従わないものは、自由に空を飛ぶことはできないのだ。
ところが、彼女の翼は欠けている。右側なのか、左側なのかは分からないが、どちらかの羽が欠落している。羽は決して対にならず、完全な翼になることはないのだ。
この世界にいるものは全て、この世界の法則に従わなければならない。彼女のような逸れものは、この世界にとっては、危険因子なのだ。
お前と彼女は、風の中で会うことになっている。正確に言うと、彼女は風が吹き出すと、そこに現れ、風が止むと、途端にいなくなっている。
今日も風の中で彼女と会った。
「あなたは無理をしてこの世界と折り合いをつけようとしている。自分ではそんなことは望んでいないのに」
「そうだ、俺は何とか自分なりにこの世界と折り合いをつけている。しかし、誰だってそうじゃないか。歳を取るごとに、少しずつ、世界の習わしを理解する。みんなが無垢のままでは生きられない。子供は、大人から教育を受けることで、大人になる。そうした循環が世界を形成するんだ」
そうだ。誰だって自分を何とか世界の隙間に合わせるように変形させて、生きている。
「そんなことないわ。世界に形なんてないし、私たちの人生に理由なんてない。ただそこにあるだけなのよ」
彼女は微笑みながらそう言った。
「じゃあ、君は何のために生きているんだ?」
「命を全うするためかしらね。蝉のように」
彼女はそう言うと、いなくなってしまった。
命を全うする。この言葉がお前の頭の中を循環する。その瞬間、お前は立ちくらみがするほどの恐怖心に襲われる。
お前はもう気づいているのだ。彼女が一番この世界と折り合いをつけなければいけない存在、つまり逸れた存在であるために、彼女はこの世界とは違う世界に生きていることを。逸れものは、逸れもの同士でしか生きられない。それも、指導の下に置かれて。
いつだったか、彼女から聞いた話を思い出した。銀河は惑星が放出したゴミの集まりでしかないってことを。
お前は風が吹き荒れる中、不安定な足場を歩いている。子供が親の監視下で作業を進めるかのように、一歩一歩、確かに歩みを進める。何度も風に身を任せたくなっただろう。体の力を抜き、風に身を任せてしまえば、あとはもう何も考えなくていい。
でもお前は、自らの意思で、感情や行動を抑制させることで、何とかここまで歩みを進めてきた。
お前にそこまでの歩みをさせたのは、彼女との出会いが大きいだろう。彼女と出会う前のお前は、足場にふんぞり返り、静止しているか、これまでの軌跡を無防備に眺めることで、自分の自尊心を何とか満たしてきた。風が吹きすさぶ中、滑空する彼女に少しでも追いつこうと、お前は歩みを進めることを決めたのだ。
しかし、彼女は決して自由には飛行していない。彼女は一枚の羽で、不規則に空を飛んでいる。いや、あれはこの世界の風とは違う、別の世界の風の中にいるのだろう。世界の法則から逸脱して、自らの命と向き合う中で、彼女はこの世界から逸れてしまった。
お前は、その世界に足を踏み入れることはできない。それほどの勇気がないからだ。お前は、法則に従うだけの従順さも、法則から逸れるだけの勇敢さも、持ち合わせていない。宙ぶらりんのお前は、どちらかの世界と折り合いをつけていかなくてはいけないのだ。
お前は三十四歳になった。三十四回の八月を殺し、三十四回の蝉の往生を傍から見ながら。
妻も子供もできた。仕事もなんとか順調に進み、一家を養うだけの財力も持つことができたのだ。
お前は結局、法則に従う道を選択した。あれだけ進んできた歩みも、風に身を任せてしまった今では、ちっぽけで儚げにしか感じることができない。
そうだ。そうなのだ。風に身を任せてしまうことで、この世界と同化することができ、逸れものたちが生んだ、この世界の欠けたピースに上手く体をはめることができる。お前は、そんなことに気がつくまで、三十四年もかかった。
体の力を抜き、風に包まれる生活を送っている中で、彼女に会った。
「これまでに本当に多くの季節を殺してきたね」
彼女はそう優しく囁いた。彼女はいつも、お前に優しくしてくれる。
「ああ。ここまで来るのに、本当に多くの時間と命を犠牲にしてきた」
「でも、あなたにはそっちの道のほうが合っている気がするわ。私とあなたは、進む道は違うけれど、進む方向は一緒。結局は、前に進んでいくしかないの」
「そうだな。俺は銀河にはなれない。蝉のように命を燃やすこともできない。この世界の構成因子として、命を全うするよ」
「そう、良かった」
彼女は、いつもの調子で微笑んでくれた。
「ところで、」
お前は、今まで彼女に対して感じていたことを聞く。
「君の世界から、俺の世界はどう見えているんだ?」
「何も変わらない。穏やかよ。私たちの世界は穏やかなの。私たちというのは、何も法則から逸れたものたちを指しているのではない。私もあなたも、世界に生きているもの全てよ。何も、起きないし、何も発生しない、何も生み出さない。私たちの暮らしは、そうした穏やかさで正しく動いているの。法則なんてないし、もちろん折り合いをつける必要なんてない。全てがあるがままなの。当然悲しみなんてない」
悲しみなんてない。なんて魅力的な世界なんだ。
「でも、俺らの世界では、悲しみがあることで、喜びの感情が形づけられる。君の世界には、喜びの感情はあるのか?」
「そうね、ないわ。私たちはそうした感情を持つことは決してない」
「感情を捨てたのか?」
「その表現は不適切ね。私たちが自主的に感情を捨てたというよりは、感情が私たちを捨てた、とでも表現したほうが正しいかしら。私たちは逸れものなの。何も持つべきではない」
お前は、昔彼女が言ったことを思い出す。
「それでは、何で命を全うする必要があるんだ」
「私が、風だから」
風。お前に幾度となく、吹いてきた風。お前が何度も抵抗し、それに従うことを拒んできた風。
「そうか、君こそが風だったのか」
「そう。私は風なの。この世界に住むものたちを、この世界の法則に従わせるために、誰かが逸れる必要があるの。そして、逸れたところから、世界を構成する。私たちはいつもそうしてきた」
「法則に従わせるべき存在である君が、俺に話してくれていたことは、逆のことだったじゃないか」
「そうね」
彼女は恥ずかしそうに言った。
「間違いなく、私は矛盾した存在だった。君がいる世界で生きられず、逸れた世界で風になった。だけれど、逸れた世界にも法則は存在した。逸れものには逸れもののルールが有るの。私にとってそれは、風としての役目を果たすことだった。風の世界は穏やかながらも、生存理由が生まれてしまった。私はね、駄目なの。私は世界から外れてしまった存在なの。外れてしまったものに、理由なんて持つことができない。本当に外れたものは、逸れた世界でも折り合いをつけられない。世界の間で宙ぶらりんなのは、私だったみたいね」
その瞬間、俺たちの下に足場が見える。それは、非常に脆弱で、歩みを進めると今にも崩れてしまいそうだ。
後ろを振り向くと、法則で敷き詰められた過去が手招いている。風は俺たちに、法則に従うように、強く語りかけてくる。
「俺たちは命を全うする必要なんてない」
足場の上で、俺は、生まれて始めて、世界から外れた言葉を喋った。
「なあ、蝉は、夏の間に命を燃やすために生まれてきたわけじゃないんだ。七年もの間、地中で外界を夢見ることもない。蝉はいつだって、その瞬間を生きていたんだ。生まれた瞬間から、死ぬときまでずっとだ。法則や理由なんてそこには存在しない。君は逸れものなんかじゃないし、風なんかじゃない。君は君だ」
「私は風なんかじゃない。私は私」
「そう、君は君だし、俺は俺だ。他に何もない。蝉だって、季節だって、銀河だって、俺たちには全て関係ないことだったんだ」
「そうね、ありがとう」
「こちらこそ、ありがとう。ところで、君の名前は何て言うんだ?」
「一羽。一つの羽って書いて、かずはって読むわ」
「そうか、何も最初から間違っていなかったのか」
「そう。ところで、今日は月が綺麗ね」
「本当だ。月は、こんなにも綺麗だったのか」
月影の中で翼を広げる。そうして、俺たちは世界から完全に外れた。