眠っていた過去の私の声たち【よん】
よん。
自分にとって
'至福のとき'っていつだろう。
至福、とまではいかなくても
幸せだなぁと感じる瞬間とか
そう言うタイミングって
頻度や度合いがバラバラでも
結果的にはみんなに平等に
訪れるものなのかな。
平等だとしても不平等だとしても
結局隣の芝は青く見えちゃいそうな気もするし、
幸せそうに見えるあの人も
あくまで私ひとりの目線からして
「幸せそうな人」なだけであって
本当に「幸せな人」かどうかなんて
結局本人にしか
わかりっこないんじゃないかな。
と、思ってしまう。
「人生楽しんだもん勝ち」
なんて言葉があるから
人は人生においても勝敗をつけたがるのか。
みたいなことはつべこべ言わずに
ひとまずこの言葉をスっと呑み込んでみる。
そこで思うのは、
私なら真っ先に考えることとして
「私は何をしたら楽しいのか」
「私は何が出来たら楽しめるのか」
ということよりも
「果たして私は今この瞬間を
どれだけ楽しんでいるだろうか」
と考えるだろうと言うことである。
重なる話でもないけれど
人々は幸せにも
答えや定義を求めているのかな。
日々幸せを実感する瞬間、
もっと小さなわくわくだっていい、
そんな感情や瞬間を
求めているんじゃないのかな。
人並みの、普通の、幸せ。
とかって言うけれど
いい学歴を持つことが、
いい企業に入社することが、
結婚して家庭を築くことが、
必ずしもみんなにとっての幸せなのかな。
じゃあそれが達成出来た人達はみな、幸せ平均以上?
ある人からすれば
今朝目覚めたことこそが
今のところのその人史上
最大の幸せかもしれない。
私は
「人生楽しんだもん勝ち」は
「人生今に幸せ沢山見つけたもん勝ち」
って解釈もひとつありだと思う。
例えば今
お昼に食べたいものを食べれた私は
このおそらく安全な建物の中にいて、
こうやって手を動かして、
自分の思うことを思うままに
文字にして打つことが出来ている。
食材の力と、建設業界の力と、
言葉の力と、スマホ技術の力と、
私自身の能力と、
それを育ててくれた全ての人と、
私の親とその親と、
…って
感謝すべき存在は
言っちゃえば無限にあって。
その全てのおかげで私は今のいま、
やりたいことをやっていて
幸せと、嬉しいと、感じている。
もちろん
自分のおかげ!自分ありがとう!
っていうのもね。
こうやっていちいちよく考えたら
毎日はきっとこんな瞬間の連続だって
そう気づける人はそれだけ自然と
幸福度が高いよねきっと。
それが良いとか悪いとか、
偉いとか愚かとか、
そんなのないけれど、
出来れば私はそうなりたいと思うんだ。
今周囲に転がっているものが
まずどれだけ幸せで感謝したい賜物かを
感じなきゃと思わなくても
感じられてしまうことほど
そうして心をあったかくすることほど
笑みがこぼれることがあるか
と、思うんだ。
そんな風に
幸せセンサーの鮮度高めて
日常に溢れるわくわくに出逢いまくって
楽しいなってただ笑っていたい。
人生、今にも幸せ沢山見つけているもん勝ち。
そうやって今、心から笑えているもん勝ち。
🌞💭
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