焼肉の定番、にんにく爆弾とレバ刺し。
「それは違う」と言えない対話
最近、人との会話で感じることがある。何か意見を言うとき、相手の反応が予想できないことが増えてきた気がする。まるでスマブラで新キャラと対戦している時のような緊張感。慎重に言葉を選んでいるつもりなのに、思わぬところで感情的になってしまう相手。そんな状況に直面するたび、私は「どう言えばよかったんだろう」と考え込んでしまう。
コミュニケーションという迷路
例えば、こんな会話があった。「働きたくない」という人に、「働かないなら働かないなりの生活になるよね」と返したときのこと。食費や衛生費の話をしていたはずが、気づけば「仕事をしないとセックスもできないのか」という驚きの言葉が返ってきた。
いや、そもそもセックスの話になるとは思ってなかったよ…。私の言葉のどこかに、相手の人格を否定するような響きがあったのだろうか。
というか、衛生費の話からセックスの話になるの、展開が早すぎない?
理不尽さの正体
考えてみれば、私たちの会話って意外と理不尽なものかもしれない。「自由に生きたい」という願いと「でも快適な生活も送りたい」という欲求。この二つの間には、明らかな矛盾がある。まるで「お腹下すけどにんにく食べたい」という私の永遠の課題みたいだ。
でも、その矛盾を指摘されることを、人は本能的に拒むのかもしれない。
焼肉屋で見るにんにく爆弾の魔力は偉大だし・・・
「正しさ」という落とし穴
最初は「正しいことを言おう」と思っていた。でも、それが逆効果だったことに気づいた。人は正しさよりも、理解されることを求めているのかもしれない。
なんとなくその気持ちはわかるような。
着地点を探して
だからといって、ただ相手に同意すればいいわけじゃない。私が今考えているのは、相手の感情を理解しつつ、少しずつ現実的な話に持っていく方法だ。例えば「理想の生活って、具体的にどんなものなの?」という質問から始めるとか。一足飛びに結論を求めるのではなく、一緒に考えるプロセスを大切にしたい。
もちろん相手がそれを望むならだけど。
それでも残る違和感
正直なところ、こんな慎重な物言いをしなければならない現状に、少し疲れを感じることもある。まるでタマゴを持って100メートル走してるような緊張感。(しかも途中で割れたら即ゲームオーバー)でも、これも現代のコミュニケーションの一つの形なのかもしれない。相手の気持ちを理解しようとする姿勢は、決して無駄ではないはずだ。
終わりに
この文章を書きながら、私は自分の中の「正しさ」への固執も見つめ直していた。完璧な対話方法なんて、きっとないのだろう。それでも、相手の言葉の裏にある感情を理解しようとする努力は、きっと意味があると信じている。
これからも試行錯誤は続くと思う。でも、それも含めて対話の一部なのかもしれない。相手の気持ちを理解しようとする姿勢を持ちつつ、自分の心も大切にしながら、バランスの取れた対話を目指していきたい。私とにんにくも、いつかバランスの取れた関係になるかもしれないし。
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