創造的に他者を理解する

津田沼行きに乗っていた女性と同じ顔で違う服を着た女性が上野行きに乗っていた。

駅構内のトイレで着替えたのではないかと勘繰るほどの一致、僕の目には認められないほどの些細な差異

日本には「顔が同じで服が違う」と「服が同じで顔が違う」の2種類の二者間関係しか存在しない、と暴論を叫んでみたくなる

美とはあるイデオロギーの元に収斂した結果であると思う。人間の美醜は動物としてのセックスアピールを端緒とし、その側面を今でも色濃く受け継ぐ。

生物の適応進化もそうであったように、各個人の相貌が世界の半数を占める異性の評価に晒される、場当たり的に乱打的に。その度に受容、拒絶され洗練されていく美の「正解」は、最大公約数的な大まかな総意のもと一点に収斂されていく。全ての登山道が山頂で出会うように、どの地点からでも北に邁進すれば北極に辿り着くように。

美の山頂、極は一点に限られないかもしれない。ただ、標本数に一対一の対応ではなく限りなく少ない複数の点に絞られることは疑いようがないだろう。しかし、美の山頂が複数あるから美のの多様性は担保されているとは言い難い。本来ならば個々人の美学の形だけ美の実像があるべきであり、それが数え切れる数点に収まるのは、寧ろ多様性の喪失といえるからだ。

これは美が評価者による合否の統計的な集合であり、最大公約数的な総意である以上、当然の帰結であるといえよう。美が標本数ほどの多様性を保つためには、この外見的な美がセックスアピールや社会的な評価を基調として定まるアルゴリズムから脱却しなくてはならない。多くの人から受け入れられるためには、その間口を裾野を広く据えておく必要があるからだ。そうして多くの人間が似通った相貌を採択していき、その美のある一形態は更に多くの人に受け入れられるようになる。こうして、ある一つの理想系に美が収束していくという理屈だ。

また、このような加速度的な美の収束には美学、固有の美的価値観を持たない人々の寄与も大きい。美が最大公約数的に決まる以上、己の理想と共通することは多かれど乖離する部分も存在し得る。そうした二つの美の乖離による軋轢や疎外感から逃れるために、自身の価値観を最初から持たずに広く受け入れられた美学を無私的に批准するひとも少なくないのだ。

繰り返すが美は多数決的な善にすぎない。その性質上、美はある集団に唯一であっても別の民族集団や時代背景によって大きく異なる。美に論理的な根拠はない。あくまで統計的な好みの集積である。


人間の相貌に論理性がないという仮説は人間が人間を理解する上で大きな障害となり得る。我々は他者の本質を、蛇が獲物を丸呑みするかの如く、誤解や捨象を介在させずに完全に理解する事は出来ない。

間接的な人間の内面性の表象から間接的に個人を類推し理解しなければならない。そのためより十分な個人の理解には、必然的に伝達される情報の本質との互換性、その精度が重要となる。

そういった伝達による情報の減衰に正面から立ち向かわなければならない我々にとって、個人の理解に際して取るべき方策が大きな論点となってくることは確かだろう。一度目の荒いザルを選んでしまうと砂山に潜む砂金を掴み損ねる事態に陥る。そういった砂金がその個人が個人たる最重要事項であったりするものだ。

吉本ばななの『キッチン』に、キッチンに精神的な拠り所を寄せる主人公が居候先のアパートのキッチンを舐めるように検分するシーンがある。

主人公はそのキッチンの整理具合から居住者の誠実な気質や生活や人生への真摯な姿勢を見抜く。しかし、主人公が洞察し主張した論理は小説表現の域を出て、現象界まで引き降ろされた時本当に成立し得るのだろうか。そこに、致命的な見落としは生まれないだろうか。



人間の外面的なものは、それが他者の評価の投票に影響を受ける以上、己の美学の論理的な結果、または表象、反映、写像とは言い難い。本人の本質との互換性は極めて低い。これは、「外見」という絵画に拘らず、個人の行動や性質にも同じである。また、統計的な傾向に頼っている限り、そこから外れ値となったマイノリティーを看過してしまう、または誤解してしまう。

表出した現象や性質から本人の特性を見抜くのは楽しい試みであるが、理解とは意を異にする。あくまで自身が積み上げてきた経験則を確認するかのように、対象の性質を分類し、実態を想像しているにすぎない。

これは、自身の価値観に沿った像を結ぶ作業であり、創造的な行為に近く、にも関わらず新規性のない反芻行為である。インプットよりもアウトプットに近い。

また、その経験則の妥当性は危うく、人間の行動が合理性に基づくものだという盲信を前提にしている。本人の性質と行動に受け入れ難い矛盾、乖離が存在する可能性を排斥してしまう。

個人の意志と行動、性質と思想に因果関係があるという理論はそれが成立しない例がある以上真であるとは言えないだろう。

それでもまだ、他者を外見という精度の低い間接的情報で類推し分類して理解する行為は、最早、個々人の莫大な情報を処理しきれないあまりに、それぞれに特異なアルゴリズムを持ち得る事実からの逃避に思えてならない。

私が考え得る限りで個人の本質を裁量する最良の手段はやはり言葉であるだろう。ただ、言葉による伝達の不完全性ともどかしさ、その限界は執筆者の私もよく知るところだ。また、本人の表現能力に大きく影響を受けるし、普段言葉を伝達の手段として徴用していない人間の本質が言葉によって表現できるかは些か疑問である。

こうなってくると、人間の本質を客観的に理解しようという行為そのものの価値や存在が揺らぐ。そもそも、「他者」に客観性は介在しないのではないか。他人を理解するという事がその人の人格を創造するという事なのではないか。

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