決意は何よりも強い意志である~楽曲「私は、私達は」感想
楽曲の感想を書くのは摂取コンテンツ日記を除いて初めてかもしれない。
感想noteフォーマットに沿って書くのがいいかな。
これがGuianoさんのチャンネルにアップされている原曲。歌唱には可不を使っている。
そしてこちらが先に公開された、ゲーム「プロジェクトセカイカラフルステージ feat.初音ミク」の3DMV。
この楽曲に出会ったきっかけ
当然ゲーム「プロジェクトセカイカラフルステージ feat.初音ミク」である。私は平日一日のうち6時間を労働に費やしているが、残った18時間のうちまあよっぽどのことがない限り2時間くらいはリズムゲームを遊ぶのに費やしている。これは19歳でデレステに遭遇してからずっと続いている習慣かもしれない。どんな凡人でも1000時間費やせばある程度の技術を手に入れられると言うが、私にとっての音ゲーがそうかもしれない。スマホで遊ぶ親指ゴリラだけど、まあある程度のレベル(3か所同時押しを求められない限り)は難なくクリアできるか、あるいはできるようになるまで練習すれば、できる。音ゲーはできるようになるまでやればできます。バカの言うことと思うかもしれないけどまあ、できるようになるまでやればできます(二度目)。頑張ろう。デレステならレベル31、プロセカはレベル30、MuseDashはレベル9までならクリアできます。フルコンはそれぞれ厳しくなってくるレベルが違うしそれはこの文章の本題ではないので省く。やりゃできる、やろう。
というわけでプロセカを真剣にやっていたら、この曲と遭遇しました。
エキスパートでもレベル27。やり込みやすいですね! 曲を何回か聞いてよくよくリズムを脳に突っ込めばフルコンくらいは簡単に達成できます。APは知らん。頑張ってくれ。
「私は、私達は」と言う楽曲が公開される前提としてのストーリー
読んでくれれば分かるものは説明しない、コンテンツへの誘導はする。ストーリーはこちら。
アイドルグループ「MORE MORE JUMP!」の二年目中盤の話。二倍速でもいいから最初から見てくれると嬉しい。サムネにいる水色の髪の女の子が、もともと所属していたアイドルグループと共演する……ってことだけ知っておくといいかも。もちろんメインストーリーを踏まえた上で「ここまで歩いてきたのか」という感傷を味わうのが正解ルートなんだけど、いつだって正解ルートだけが楽しさを共有する最適解とは限らないよね。入り口は人それぞれ。
機械が歌い、それを「歌ってみた」が追いかける文化
比較的短めなので、歌詞を全文載せようと思う。
Guianoさんがアップしているフルバージョンでは「可不」というボーカロイド……ではなくて、確か「音楽的同位体」というソフトウェアが歌唱を担当している。これは初音ミクで有名になった「ボーカロイド」よりもなんだろう、たぶん、人間と言うか、元の声を担当している本人に近い存在、なんだと思う。調べれば定義は出てくると思うんだけど私が思う定義を載せておくので各自検索してください。
「花譜(かふ)」ちゃんの声をもとにして作られた音楽的同位体「可不(かふ)」ちゃんは、元の花譜ちゃんの声が持っている強さと脆さと強さと壊れそうで芯のある声を受け継いでいる、気がする。有名どころだといよわさんの「きゅうくらりん」も可不を使用している。
ちょっと話はずれるけど、いよわさんの「一千光年」という曲は大変すばらしいものだったので聞いてほしい。
話題をもとに戻す。えっと、なんだっけな……、そう「私は、私達は」の話だったね。
プロセカというゲームはボーカロイドとそれによって歌われる楽曲をテーマにしている。故にゲーム書下ろし楽曲には必ず「作曲者本人がアップロードする、ボーカロイドによる歌唱バージョン」と「ゲーム内で披露される声優つまり人間による歌唱バージョン」が存在する。だから楽曲「私は、私達は」にはふたつのバージョンが存在している。つまり、可不による歌唱フルバージョンと、プロセカ公式チャンネルで共有された人間歌唱カットバージョン。そのどちらもが、それぞれの良さを持っている。
ボカロ楽曲には「歌ってみた」という文化がある。ボーカロイド、つまり機械が歌った楽曲を、生きた人間がカバーする文化。元の楽曲は「本家」と呼ばれるが、時々この「本家」のYouTubeコメント欄が荒れているのを目にする。
「人間が歌うんじゃ伝えられない感情がここにある」「感情の乗らないボーカロイドだからこそ伝えられる感情がある」「やっぱり私はボカロが歌ってるこっちが好き」「歌ってみたの方が(再生数が)伸びていることに納得できない」とか。
それらの言い争いが無為だとは思わなくて、何だろう、たぶんみんな、自分の信じるものをかけて戦っているのかもしれない、とそれらコメント欄を見ていて思う。
「怖いものはない 恐れはしない」と繰り返す機械と人間
「ボーカロイドの機械っぽい声にしかできない表現があるし、一方で人間が身体を使って感情をこれでもかと乗せた表現もある」と、つまらないかもしれないけど当然の答えを私はわざわざここに書く。それはたぶん、冒頭に貼ったリンク先両方の歌い方を聞いてくれた人ならわかってくれると信じている。
可不ちゃんが歌う「怖いものはない 恐れはしない」は、少し平坦に感じられるからこそ、それを聞いている「わたし」の様々な経験や感情、過去の様々な後悔だけでなく希望ある未来を感じることができる。
雫さんが歌う「怖いものはない 恐れはしない」は、前提となるストーリーを貫いたうえでこれから先彼女の未来を決意によって希望あるものに書き換えようとする強い意志が感じられる。それによって、この歌を聴いている「わたし」の様々な経験や感情、過去の様々な後悔だけでなく希望ある未来を感じることができる。
私にとってどちらの歌も結果は一緒なんだけど過程が異なっていて、そしてそのどちらもが私にとってかけがえのない「自分自身の未来に希望を抱くきっかけ」になる。
「怖いものはない 恐れはしない」人生なんて実現できなくて、きっとこの楽曲にかかわった人間全員がそれを知りつつ「それでもなお怖いものはないし、恐れはしない」と決意したのだと、私は信じている。
そんなかんじ! じゃ、また今度ね。
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