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もちろんキリギリス
今日は8月31日、今年は余禄で明日が日曜なので一日得をするが普段なら言うまでもなく夏休み最終日である。
…7月の20日前後から夏休みに入って黄金の日々が始まる。
我が家は夏休みの宿題は父が厳格で計算ドリルや漢字の書き取りは毎日やらされた。
朝六時半からラジオ体操に行って散々公園で遊んだ後に朝ご飯を掻き込んで宿題の時間である。
当時は十時にならなければ外に遊びに出てはいけないという小学校の謎のルールがあり、朝ごはんを食べてから大体一時間くらいがお勉強の時間だった。
とはいえそこは子どもなので集中力はまるでなく机の上で消しゴムをひたすら削って出来上がった消しカスを丸めて兄にぶつけたりして遊んでいた。
ガキ大将気質で切れやすかった兄だったが案外真面目で宿題は毎日コツコツやっていた。
私はと言えば設問の三問目くらいで飽きてしまい計算ドリルから漢字の書き取りをちょこっとだけやるふりをしてぼんやりと過ごしていた。
昭和の夏休みは朝のうちは気温が三十度に届くかどうか位で扇風機だけで過ごすことができた。
そうやって少しづつ中途半端なやりかけの宿題が溜まっていくのだが七月の内は全く気にならずに早く十時にならないかなぁと時計とにらめっこをしていた。
そしてめでたく十時を過ぎるとそれっとばかりに自転車にまたがり家を飛び出していた。
友達の家を訪ねると今日は何をする?とワクワクが止まらなかった。
当時はエアコンのある家は少なかったので家で遊ぶよりも圧倒的に外で遊ぶことが多かった。
最初の友達の家から次の友達の家まで自転車を漕いでその日遊ぶメンツを集めていった。
最終的には7~8人は常に集まっていた。
まず何をするかと言えば駄菓子屋に直行である。
あの頃は近所に三軒の駄菓子屋があったが一番人気は高架下の寂れたお店だった。
ここのおばちゃんがおっとりした人で気が向くと麦茶を無料サービスしてくれるので喉がカラカラの身にはありがたかった。
そのお店でかんしゃく玉を購入する。
かんしゃく玉は地面に叩きつけるとパンと乾いた破裂音がするので友達の足元に投げつけて遊んでいた。
たまにポケットに入れているのを忘れて暴発することもあったがあれはあれで楽しいおもちゃだった。
そうやって午前中を遊び倒したらいったん解散して各々の家でお昼ご飯である。
母は毎日お昼ご飯を作るのが面倒だったのかほぼ毎日焼きめしだった。
ちくわとネギ入りのシンプルな一品でスプーンでガッポガッポ口に運んだものだ。
ご飯を食べて公園に行くと朝のメンバーが大体揃っている。
そこでケイドロやSケン、高鬼、色鬼などの色々な遊びを汗でドロドロになるまで遊び倒した。
喉が渇くと公園の水道があったのでそこでゴブゴブと水分補給をしていた。
夕方まで公園で遊んで五時になる前には解散である。
帰宅したらまずはお風呂である。
当時は五右衛門風呂だったので祖父が沸かしてくれたお風呂に順番に入った。
私は祖父と一緒に入ることが多かった。
汗と泥汚れにまみれた小汚い身体を何度もかけ湯をしてようやく湯船に入れる。
そこで爺ちゃん今日はねぇ…とその日の話をする時間が好きだった。
湯上りに牛乳を飲んで晩御飯までのわずかな間も勉強の時間になっていた。
朝から全力で遊び惚けていたので体力は残っておらず机に突っ伏してグウグウといびきをかくことがほとんどだった。
そんな日々が永遠に続くかと思っていたがお盆を超えて八月も残り十日位になるとあまり手を付けていなかった宿題が重くのしかかってくる。
二十七日位にはやりかけの計算ドリルや漢字の書き取りは遊びにも行かないでヒイヒイ言いながら片付けていった。
横では計画的に宿題を終わらせた兄がマンガを読んでおりこの野郎と憎らしい気持ちになったのをよく覚えている。
夏休みの宿題は他にもたくさんあって自由研究は日にちも無いので友達のヘチマの育成記録を若干表現を変えて写させてもらったりしていた。
後は絵も描かなければならないので当時庭にあった小さな池のメダカをモチーフにとても大胆なデフォルメをして十五分くらいで描き上げた。
どう見ても幼稚園児が書いたような出来栄えだったが夏休みも残り数日となっているとそんな事には構っていられなかった。
残りの大物の課題が木工工作でこれには参った。
私は手先が超絶不器用なのでこういった細やかな作業は大の苦手だった。
そこで最終手段として父に頭を下げて手伝ってほしいと懇願した。
何でもっと早く言わんのかと当然雷が落ちたが私の親とは思えない位父は手先が器用で端切れの木を器用に組み合わせてあっと言う間に本箱を作ってくれた。
私がしたことと言えば木工用ボンドを塗ったくらいでほぼ父の作品だったが間に合わせることに意義があったと当時は思っていた。
そうしてどうにかこうにか計算ドリルと漢字の書き取りが終わるのが31日の夜という体たらくだった。
迎えた新学期に夏休みの宿題を大荷物で持っていき提出すると肩の荷が下りた気がして心底ホッとしたものである。
始まった時はまだ四十日もあると思っていた夏休みも終わってみればあっけないくらい早く感じた。
そしてあ~あ秋休みがあればいいのになぁと遊ぶ事ばかり考えていたおバカな子どもだったことを付け加えておきたい。
ちなみに妻は夏休みの宿題は一切やらなかったタイプで、先生から毎日矢のような催促を受けていたらしいが柳に風とばかりに受け流していたらそのうちになにもお咎めなしでスルー出来たらしい。
だって別に強制ではないじゃないというのが妻の言い分である。
なまじ気が弱くて宿題を出さなくちゃと必死になっていた私からしたら妻の強メンタルが羨ましい。
まあ反則っちゃ反則ギリギリだとは思いますがね。
ああ、夏が一区切りだなぁ。
秋の気配ジワリ。