茶臼山遺跡 【旧石器電子辞書】<ち>
髙見俊樹
【位置と立地】
茶臼山【ちゃうすやま】遺跡は、長野県諏訪市上諏訪9496番地、北緯36度2分44秒、東経138度7分20秒にある。遺跡は、長野県中央部に位置する諏訪湖の東岸、諏訪盆地の東縁を形成する霧ヶ峰山塊末端の小丘陵上に立地する。現在の標高は約844mで諏訪湖面との比高はおよそ85mである。断層活動で形成された茶臼山付近の階段状の崖上丘陵端には、他にも北踊場遺跡・上ノ平遺跡・手長丘遺跡など著名な旧石器時代遺跡が密集しており「諏訪湖東岸遺跡群」と総称されている。
【調査の経過】
昭和27年、諏訪市上諏訪の諏訪湖をのぞむ高台で行われていた住宅工事の現場に立ち寄った高校生が、たくさんの黒曜石で作られた石器を見つけた。茶臼山遺跡の発見である。高校生の名前は松沢亜生。藤森栄一の主宰する諏訪考古学研究所のメンバーだった。松沢と大学生メンバーの戸沢充則は、石器の形などからこの遺跡が今から1万年以上前にさかのぼる旧石器時代のものではないかと疑い、石器の多くがローム層と呼ばれる赤土の中に埋もれていることを知ってその確信を深めた。昭和27年当時、日本列島に縄文時代以前の旧石器時代が存在したことは、昭和24年の群馬県岩宿遺跡の発見によって明らかにされてはいたが、その後関東地方以外では明確に旧石器時代と言えるような遺跡は見つかっていなかった。
明治大学考古学研究室の支援を受けた諏訪考古学研究所による発掘調査が始まりローム層から黒曜石製を中心とする多くの石刃やナイフ形石器等が出土し、600点を超える点数になった。当時関東の遺跡から見つかっていた石器の数に比べると、思いがけないほど大量の石器だった。こうして茶臼山遺跡は、関東地方以外で初めて発掘調査され、日本における旧石器時代の存在を決定的なものにした重要な遺跡として世界に知られることになったのである。調査報告書は、藤森栄一・戸沢充則により10年後の昭和37年に『考古学集刊』第一巻第四冊№4に掲載された。同号の表紙に赤色印刷で掲げられた茶臼山遺跡出土の掻器実測図は、鮮烈な印象を学界にもたらした。
【出土状況と遺構】
発見当時の茶臼山丘陵には、戦国時代の山城(茶臼山城・旧高嶋城)に関連するとみられる人工的な土檀3基が築かれていた。これらの土檀を取り除いて削平し住宅団地を造成する工事が行われた結果、この土檀部分から旧石器時代の遺物が発見されたのである(冒頭の写真)。したがって遺跡は、戦国期には既に大きく破壊されていたことになる。石器類は撹乱を受けている表土黒色土層から軟質ローム層にかけて出土したが、その垂直的分布範囲は70㎝にも及ぶ。主たる文化層は軟質ローム層にあると思われるが、後世の撹乱以外にも、霜融解作用による原位置からの石器の移動(浮き上がり等)も想定されており、本来の石器包含層は明確にできていない。さらに石器類の観察からは、実際には複数時期の石器群が残されていた可能性もあるが、その峻別は出来ていない。なおローム層中より礫の集中箇所2ヶ所が見つかっており一部に焼土も観察されている。旧石器時代の遺構の「礫群」と認識できる可能性もあるが不明である。
【出土遺物と時期】
大量の出土遺物の多くは、黒曜石製の剥片であるが少量の別石材(安山岩等)も含まれている。石刃と呼ぶのに相応しい整った縦長剥片も見られ、これらを素材とする掻器(前述)なども見出されている。石核も複数あるが小形のものがほとんどで、石器生産技術の全体像は明らかにされていない。定形的石器としてのその他の器種には、ナイフ形石器・揉錐器・削器・彫器などがあるが、石器群全体に占める定形的石器の割合は5%程に過ぎない。ナイフ形石器の形態は多様であり大きさも様々である。この多様性に石器群の時期的特徴があるのか、或いは複数時期の石器の混在を意味しているのか、今後の検討課題である。
茶臼山遺跡の出土品の中には4点の斧状の石器があった。その内の1点(標本番号166)は、蛇紋岩に類する石材で作られた長さおよそ12㎝の石器で、刃先の部分だけが丹念に磨かれた「局部磨製石斧」である。この石器は発掘当時ローム層の上面から8㎝の深さの所で見つかった。火山灰土であるローム層に含まれる遺物は旧石器時代に属するものであることはほぼ間違いないと考えられたが、この石器の存在は考古学界で大きな問題になった。当時、世界の旧石器時代の遺跡では石を磨く技術で作られた石器は見つかっていなかった。磨製石器を作る技術は、世界的には「新石器時代」の指標となる特徴であり日本でも縄文時代に確立した技術と考えられていたのである。今日ではこの種の石器は日本列島の各地から数多く見つかり、日本の旧石器時代を特徴づける石器であることが分かっている。
発掘調査の責任者で、石器がローム層中から出土したことを確認していた藤森栄一は、これが縄文時代遺物の混入ではないかとの一部の指摘に反発を感じながら、旧石器時代に磨いて作った石斧があったことの意味を考え続けていた。
「ああ、黎明の茶臼山人よ。君たちはどこから来て、どこへ消えた。君たちの受難の命を、赤土のオカリーナのようにでもいい、聞かせてくれ」(藤森1970)。
この種の石器は「石斧」と呼ばれることが多いが、必ずしも実際に斧として使われたことを意昧するわけではない。石器の機能や用途は、名称とは全く別に探求されるべき問題である。旧石器時代の「局部磨製石斧」や「斧形石器」の使いみちについては、いまだ大きな謎とされているのである。
【資料収蔵・遺跡見学】
茶臼山遺跡の出土品は、諏訪市博物館(諏訪市中洲171-2)に全点収蔵され、一部が常設展示されている。茶臼山遺跡の所在地は現在、長野県営「桜ケ丘団地」となっており、現地には遺跡説明板が立てられている。
【引用・参考文献】
藤森栄一・戸沢充則 1962「茶臼山石器文化」『考古学集刊』第一巻第四冊 №4)pp.1-20
藤森栄一 1965『旧石器の狩人』
藤森栄一 1970『考古学とともに』
戸沢充則 1983「長野県茶臼山遺跡」『探訪先土器の遺跡』pp.273-279 有斐閣選書R
髙見俊樹 1993「茶臼山遺跡石器群におけるナイフ形石器の位相」『諏訪市史研究紀要』第5号pp.13-54
髙見俊樹 1995 「第一節 旧石器時代の遺跡と遺物 (2)茶臼山遺跡」『諏訪市史上巻』pp.9-44
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