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【あ】荒屋遺跡

【概要】
 荒屋遺跡(あらやいせき)は、新潟県長岡市西川口字荒屋に所在する細石刃石器群の遺跡で、荒屋型彫刻刀形石器の標識遺跡でもあり、本州における北方系細石刃石器群の存在を最初にあきらかにした。2004年に国史跡に指定されている。

【位置と立地】
荒屋遺跡は、本州島中央部日本海側の北緯37度15分50秒、東経138度51分31秒に位置し、信濃川と魚野川の合流点に面した河岸段丘上に立地する(写真1 巻頭)。石器が出土した地点の標高は約86.5mである。遺跡は、南西側200mに「船山」と呼ばれる周囲との比高が数~10mの残丘があり、ほか三方を比高約3mの一段下の段丘面に囲まれており、この低位の段丘面は約15,000年前のAs-K(浅間草津軽石)降灰頃に離水したとされている(信濃川ネオテクトニクス団体研究グループ2003)。したがって、遺跡が形成された当時の荒屋遺跡は、南西側に船山をひかえ、三方を信濃川と魚野川の合流点付近の河原や氾濫原に囲まれた景観だったと考えられる。

荒屋遺跡_Ph-2_第1次発掘調査風景(東北大学2003)

写真2 荒屋遺跡 第1次発掘調査

【発見と発掘調査】
遺跡は、長岡市在住の郷土史家星野芳郎と井口通泰によって発見された。2人は1958年10月2日に採集遺物を持参して、明治大学考古学研究室の芹沢長介に意見を求めた。芹沢は、その中に細石刃や彫刻刀形石器(以下、「彫刻刀」という。)を認めて重要性を認識し、翌1958年4月29日から5月5日に発掘調査を実施した(第1次発掘調査;写真2)。その結果、剝片類を除いても2千点以上の石器が出土し、貯蔵穴様の土坑が検出された(芹沢1959)。その30年後、東北大学大学院考古学研究室が調査主体、芹沢と同研究室教授須藤隆が調査担当者となって、1988・1999年に第2・3次発掘調査を行い、9万点を超える石器が出土し、多数の遺構を確認した(東北大学大学院文学研究科考古学研究室・川口町教育委員会2003)。これらの成果から、2001年に川口町教育委員会(当時)が国史跡指定を目指した範囲確認調査(第4次発掘調査)を実施した(川口町教育委員会2002)。

荒屋遺跡_fig1_検出遺構平面図と土層断面図(東北大学ほか2003)

図1 荒屋遺跡の検出遺構

【遺構】
荒屋遺跡は、竪穴住居状遺構1基、土坑22基、ピット1基と多数の遺構が確認された日本列島の旧石器時代遺跡では特異な遺跡である(図1)。
竪穴住居状遺構は、一辺385㎝、深さ21㎝の落ち込みである。調査区東壁にかかっており、全体の規模や形態は不明だが、報告書ではほぼ半分を調査したとして、隅丸正方形と推定している。また、ほぼ中央に炉跡と推定される焼土層と砂層の交互堆積があることから、床面が精査されておらず柱穴も未確認な点は課題としつつも、竪穴住居跡の可能性が高いとする。
土坑は長径で3mを超えるものから約40㎝までと大きさにばらつきがある。中では、平面楕円形で深く、埋土から炭化オニグルミなどの植物遺存体が出土したことから貯蔵穴の可能性が高いとされた土坑01、大型で焼土と黄褐色砂層が相互に堆積する焼土遺構の土坑6、14などが中心的な遺構とされる。
 竪穴住居状遺構の評価は研究者によって分かれるところではあるが(佐藤雅2008、沢田2014)、土坑を含めて長期にわたる繰り返しの火をもちいた作業の結果という報告書の解釈は基本的に支持されている。

荒屋遺跡_Ph-3_第4次発掘調査出土石器(川口町教育委員会2002)

写真3 荒屋遺跡の出土石器

【遺物】
荒屋遺跡は多数の石器が表面採集されることでも知られており、4回の発掘調査出土品に表面採集をあわせた点数は10万点以上と推定される。出土石器は、細石刃、細石刃核、細石刃核母型、細石刃核削片、鏃形石器、彫刻刀形石器、彫刻刀削片、エンドスクレイパー、サイドスクレイパー、スクレイパー、両面加工尖頭器、礫器などである(写真3)。本州における北方系細石刃石器群の代表例とされるが、①細石刃に二次加工のあるものが定量存在すること、②細石刃剝離技術に削片系、非削片系の両者がある、③彫刻刀形石器2000点以上、削片約1万点と彫刻刀関連資料がきわめて多い、④鏃形石器、両面加工尖頭器、礫器が存在する、などの特徴的な現象が認められる。石材は剝片石器のほぼすべてが珪質頁岩である。
製作技術構造については、細石刃核母型となる両面体の調整剝片が彫刻刀など道具の素材だったと考えられている。また、使用痕分析も多数行われ、彫刻刀は骨角の削りや皮のスクレイピング、エンドスクレイパーも皮のスクレイピングに使用されたとされる。

【議論】
 遺跡の年代は、放射性炭素年代測定による暦年較正値で16,000~17,500年前に収まる。本州の北方細石刃石器群としては比較的新しい段階の年代となる可能性があり、両面加工尖頭器はそうした年代観を示唆するとされる(沢田2014)。また、遺跡の形成要因として、狩猟活動(鹿又2004)、内水面漁撈(佐藤宏1992、佐藤雅2008)の二説が提出されており、いずれも遺構からの所見を踏まえて縄文時代の定住化の先駆けと評価している。

【資料収蔵・遺跡見学】
 出土遺物は、東京国立博物館(星野コレクション)、明治大学(第1次発掘調査)、東北大学(第2・3次発掘調査)、長岡市教育委員会(第4次発掘調査)などが所蔵している。

【引用文献】
鹿又喜隆2004「定住性の高さと活動の組織化」『文化』86-1・2、pp.188―204、東北大学文学会
川口町教育委員会2002『荒屋遺跡 範囲確認調査報告書』、24p
佐藤宏之1992『日本旧石器文化の構造と進化』、362p、柏書房
佐藤雅一2008「信濃川流域における縄文化の素描」『縄文化の構造変動』佐藤宏之編、pp.93―115、六一書房
沢田 敦2014『日本の遺跡47 荒屋遺跡』183p、同成社
信濃川ネオテクトニクス団体研究グループ2003「信濃川中流域における第四紀末期の河岸段丘編年」『地球科学』57-3、pp.95―110、地学団体研究会
芹沢長介1959「新潟県荒屋遺跡における細石刃文化と荒屋型彫刻刀について(予報)」『第四紀研究』1―5、pp.174―181、日本第四紀学会
東北大学大学院文学研究科考古学研究室・川口町教育委員会2003『荒屋遺跡 第2・3次発掘調査報告書』267p

   ( 沢田 敦 新潟県教育庁 文化行政課 世界遺産登録推進室 ) 

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