米ヶ森遺跡 【よ】
石川 恵美子
■ 位置と立地
米ヶ森(よねがもり)遺跡は、秋田県大仙市協和荒川新田表に所在する。大仙市協和を通る国道13号線から分岐して岩手県盛岡市に向かう国道46号線の左手に、標高313mの米ヶ森があり、その山麓の南側には淀川の一支流である荒川によって形成された「君ヶ野段丘」と呼ばれる標高100mほどの河岸段丘がある。
ここでは、米ヶ森を源とする沢によって3つの舌状台地が形成され、旧石器時代から縄文時代中・後期にかけての遺跡が広く分布していた。米ヶ森遺跡は、その東端の台地先端部に立地する。眼下には荒川が流れ、晴れた日には遠く鳥海山を眺望できる景観である。
現在この一帯は「道の駅協和」を含む協和カントリーパークとして広く整備されているが、遺跡はパークの右手側に山林となって残されている(トップ写真が遺跡現状)。
■ 遺跡の発見
大仙市(旧協和町)の小学校教師であった長山幹丸は、1948年、同町岸館において石刃を採集していたが、翌年の群馬県岩宿遺跡の発掘調査成果により、岸館の石刃も旧石器であると確信する。
その後1961年に、米ヶ森付近にて先刃掻器を採集したことから踏査を繰り返し、1969年9月末「米ヶ森草地改良組合」による大規模なブルドーザーの掘り返しの際、ようやく6点の石器を採集した。これらは数日後に別の調査で来町した冨樫泰時によって旧石器と確認され、その2か月後には、協和町教育委員会が主体となり、冨樫・長山による発掘調査が行われた(冨樫・長山1971)。これは秋田県では初となる旧石器時代遺跡の発掘調査であり、以後5次にわたる調査によって1130点の遺物が検出された。
■ 層位
Ⅰ層 黒褐色土(表土)20cm
Ⅱ層 褐色土層(Ⅰ層とⅢ層の漸移層)20cm
Ⅲ層 黄褐色粘土層(粘性強く不純物含まない) ※以下層厚の記録なし
Ⅳ層 黄褐色粘土層(Ⅲ層より白色。しまり強く硬い)
Ⅴ層 白色粘土層
Ⅵ層 崩壊土層(こぶし大から数10cmに及ぶ角礫層)
Ⅰ層は縄文時代中期中葉(大木10式)包含層で、若干の旧石器時代の遺物を含む。Ⅱ層下部とⅢ層上部を中心に旧石器時代の遺物が出土し、Ⅳ層までには及ばない。
遺物はかなりの垂直幅を持って出土しており、発掘時に当時の生活面は確認できていない(冨樫・藤原ほか1977)。
■ 調査の経過と成果
1969年、1970年の第1次、第2次発掘調査では約100㎡の範囲から、東山型ナイフ形石器、杉久保型ナイフ形石器、米ヶ森型ナイフ形石器が検出された(冨樫・長山1971、冨樫1975)。
1974年には第3次調査として米ヶ森南麓にて広く分布調査が行われ、前回調査区の北側で遺物の密集地点が確認された(冨樫・菅原1975)。
これに基づき1975年の第4次調査では、北側約320㎡の範囲から、米ヶ森型台形石器(Aユニット)、細石刃(Bユニット)等が新たに検出された(冨樫・村岡1976)。翌年の第5次調査では、遺跡周辺斜面にトレンチを入れ、遺跡の範囲が確認された(冨樫・藤原1977)。
米ヶ森遺跡の最終調査報告書は1977年に刊行され、米ヶ森型台形石器とその製作技法である米ヶ森技法に注目が集まった。ヒンジフラクチャーを二次加工の代用とする米ヶ森型台形石器と大形剥片のポジ面から連続して台形石器を剥離する米ヶ森技法は、これまで誰も目にしたことがないものであった。
その他、Bユニットで検出された細石核は、のちの荒川台技法に連なるものであり、米ヶ森型ナイフ形石器も東山型ナイフ形石器と杉久保型ナイフ形石器の中間的型式を示す特徴的なもので、石器群はまさに多様な様相を呈していた。
■ 石器群の分布と分離
こうした多様な石器群は時期差をもつものなのか、主要石器群の分布、接合関係、石刃技法、石材など複数の視点から検討されたが、報告時には石器群の時期差を示すまでには至らなかった。米ヶ森型台形石器が旧石器時代前半期の所産と位置付けられたのは、1980年代後半以降、広くAT下位より類例が検出されてからのことであった。これを受け報告者も石器群の分離を検討している(冨樫1987、藤原1989)。
近年、筆者は、唯一残されていた遺物台帳をもとに遺物の再整理を行い、グリッド単位ではあるが、主な遺物の出土位置を明らかにした。併せて、報告書に掲載された第1次・第2次調査の遺物分布図と第4次調査の遺物分布図をつなぎ合わせ、全体的な遺物の広がりについて再構成を試みた。
■ ユニットの分布と各石器群
再整理では、米ヶ森型台形石器を中心とするAユニット、細石刃を中心とするBユニットに加え、東山型・杉久保型・米ヶ森型ナイフ形石器、神山型彫器、先刃掻器からなるCユニットを新設した(石川2017)。Aユニット、Bユニットの石器群は、ほぼ排他的なまとまりを示していたが、神山型彫器をはじめとするCユニットの石器群はAユニットとBユニットまで広がっており、これが石器群の分離を複雑にする要因となっていた。
各ユニットにおける主要石器群の時期差はほぼ確実であるが、石器群の混在の問題はまだ残されている。Cユニットの南端部分の石器群だけが、混在のない一群として評価できる。今後、母岩別資料や接合資料等から、より一括性の高い石器群の抽出が必要となる。
■ 各ユニットの主要石器群
① Aユニット:米ヶ森型台形石器石器群
ヒンジフラクチャーを二次加工の代用とする米ヶ森型台形石器と大形剥片のポジ面から連続して台形石器を剥離する米ヶ森技法を主体としている。
② Bユニット:細石刃石器群
剥片素材の板状細石核の小口面から細石刃を剥離する非削片系細石刃技法をもつものである。
③ Cユニット:ナイフ形石器石器群
東山型ナイフ形石器と杉久保型ナイフ形石器の中間的型式を示す特徴的な「米ヶ森型ナイフ形石器」と神山型彫器を含む石器群。
■ 小結
米ヶ森型台形石器の標識遺跡としてよく知られた米ヶ森遺跡であるが、これまで述べてきたように、性格の異なるA・B・Cの三者の石器分布から構成される。
それらは、米ヶ森型台形石器を含むAユニットが後期旧石器時代前葉に、米ヶ森型ナイフ形石器を含むCユニットが後期旧石器時代中葉に、細石刃を含むBユニットが後期旧石器時代後葉に位置付けられ、時期の異なる石器群が重複しているものと考えられる。
参考・引用文献(年代順)
冨樫泰時・長山幹丸1971『米ヶ森遺跡発掘調査報告書』協和町教育委員会
冨樫泰時・菅原俊行1975『米ヶ森遺跡分布調査報告書』秋田県教育委員会
冨樫泰時1975「米ヶ森遺跡」『日本の旧石器文化』2
冨樫泰時・村岡百合子1976『米ヶ森遺跡発掘調査概報』協和町教育委員会
冨樫泰時・藤原妃敏ほか1977『米ヶ森遺跡発掘調査報告書』協和町教育委員会
冨樫泰時1987「第一編 原始社会 第一章旧石器時代 第二節秋田県の旧石器時代の編年」『本荘市史』
佐藤宏之1988「台形様石器研究序説」『考古学雑誌』73-3
藤原妃敏1989「米ヶ森技法と石刃技法」『考古学ジャーナル』309
田村隆2001「重層的二項性と交差交換-端部整形石器の検出と東北日本後期旧石器石器群の生成-」『先史考古学論集』10
石川恵美子2005「米ヶ森型台形石器の型式学的検討」『地域と文化の考古学Ⅰ』
役重みゆき2011「米ヶ森技法・米ヶ森台形石器の定義に関する再検討」『秋田考古学』55
石川恵美子2017「秋田県米ヶ森遺跡の再評価に向けて」『旧石器時代の知恵と技術の考古学』
石川恵美子2018「米ヶ森型ナイフ形石器再考-いわゆる杉久保型と東山型のはざまで-」『東北日本の旧石器時代』
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