I want to hear me? 生活はできそう?それはまだ。(だらだら書いてみたシリーズ)
「心なんて一生不安さ。」
って言う歌詞、そのままだねぇと、Syrup16gの名曲、「生活」を先にあげておく。Syrup16gのこの曲は、暗いように見えて、全然暗くない。聞いていて、最早私には微か僅かな希望さえ見えてくる位の明るさを持った曲だなぁなんて思ったり。
トークノートにもPostしたのだが、昨日は午後休取って、日本橋をふらふらとしていた。
毎年の事なのだが、6月に入ってから、気がぼそぼそと滅入りだしてきた。毎年6月は気がちょっと落ちて来て、余りいい事がない。殊更に、案の定、先週あいてしに言われた言葉が自分の心に負荷を掛けていて、あいてに非はないからこそ、自分の心のもやもやに自分で余計足引っ掛けて転んで頭抱えて、なんて状態に陥ることを予見していた。だから、6月の2日ぐらいか、業者から飛んでくる請求書をで捌きながら「これはあかん」と思い、休み時間に名前の横、金曜日の欄に赤字で「PM休」と記入し、共有勤務予定表にも同じことを記入し、派遣元にもその旨をメールした。
気がつけば業者からの請求書を捌きながらそんなことを思えるようになっていたものだ。勿論あれこれうまくいかなくていらいらしっぱなしだし、ナントカカントカ電話鳴るのも怯えながら出勤してるし、昨日だって、午後いなかった分、変なツケが回ってきたら嫌だなぁと思っている。しかしそれでも、16時以降に振ってきた仕事に関しては、昨日がそもそも金曜日なので、個人的なルールで月曜日の案件扱いをしてもいいことになっているので、あまり気に病んでもいたしかたない。そもそも、会社の仕事なんて、私の力では何ともならない事の方が圧倒的に多い。何ともなることもあるし、何とかするのが仕事と言う物もあるけれど、「明日天気荒れるんで、これこれの作業延期します」と言う連絡が、17:30を過ぎて私が退社した後にきたとしても、そんなこと私にはどうにもできない。上司が調整してくれたが、そりゃしょうがない。もう、どうにもできない。本船の入港日が重なるのも、積載コンテナ数が多すぎるのも、それは私にはどうにもできない。
然し、自分の気持ちのもやもやは、自分でしかどうにもできない。処分の仕方は人それぞれ色々あると思うけど、処分の仕方を決めるのは私で、独断で決めても良いし、他の人の承認を得ても良いと思うし、でもそれさえも自分で決めることだ。私にはどうにもできない部分でぐちゃぐちゃ言っててもどうにもならんが、私にしかどうにもできない事を見過ごすわけにもいかない。「どうにかする」と言うと大袈裟なんだけれども、それでもこのままもやもやしつづけっぱなしの毎日も面倒だ。もやもやが晴れる事はきっとないんだろうけれど、無理に昼間に1人の時間を作ろうと思った。何をするわけでもなく、どうせカフェに入ればツイッターを開いて終わるだけだろう。街を歩けば同じ店で同じ服ばかり見ているだろう。それでもいい、1人でいる時間を確保する事、その時間にあれこれ無理に考えを煮詰める必要もなく、1人で東京の街を歩こう。行ったことないところに行こう。そうだ、日本橋だ。コレドナントカって、行動圏内のはずだけれども行ったことが無い。そっち方面に歩こう。そう決めた。そういうことで、今日は日本橋にいた。「会社出た~」って、界隈で働く中学時代の友人にツイッターでそう言ったら、「俺14時からアポあるから、それまでコーヒー飲もうぜ」と言われて、別に私はアポも取ってないけど、そういうわけで、45分ぐらいお茶してた。「彼氏出来たんだってねえ」って話をしてた。それでもあいてはあいてだし、また友達とはふざけた遊び方がぜんぜん出来ればいい。
そもそも論、私が何にもやもやしていたのかと言うと、先日もnoteに書いたとおりに、自分の今の状況を、親に言えていない事だった。言う必要があるのかないのかで言えば、別にそんなにないと思う。でも、どこか後ろめたさがあって、すっきりしなかった。そこまで親の庇護のもと恋愛をしている気はないのだけれども、そもそも論、身体を壊してから(と言ってももう6年程経つのだが)、何の刺激が私の身体を引っ繰り返すか分からない状況に合って、そういうところで親に気を遣わせていた。「具合が悪くなった原因」を明らかにさせる事は大事で、原因が分からない事でまた具合が悪くなる。同じ家の中に暮していれば、気にしないふりをしたって、毎日毎晩過呼吸起こしながら泣き叫ぶ私のおかしさには気付くだろうし、誰だって私の様子を見ていれば、何がトリガーだったかなんて言うのも、すぐにばれちゃう。と言うかトリガーになりえそうな要素など、あとそれ位しかない。
因みに本件、何故親が私に恋人がいるかを知ったかと言うのには、普段の行動以外の理由があって、1つはSNSで(FBには書いてないけれどさ)もう1つはいぬの散歩中の近所のピアノの先生に私がつかまって、うっかり話しこんだ際に私が言ったことを、伝で聞いて確信したんだなと言う事。そういう事で、言わなくても既知の事実であるからこそ、言う必要もないかなぁと思って言わなかったし、この先もまぁあと半年位して口にするぐらいでいいっしょ、と思っていたんだけど、先日母方(つまり私の祖父母)の実家に少しだけ顔を出した時に、祖母に顔を見るなり「あんた彼氏出来たのかね」と言われたのが酷くショックだった事と、先週のあいてしの態度を見て、なんか押し黙っているのもしんどくなってしまった。どう言うかを考えたが、まずはFBで全体にウケるようなさりげないpostを残しておいた。それから、親に一筆書こうと思った。私は如何しても直接口にして気持ちを伝えるのが苦手なので、その為に書くと言う手段を利用しようとしているのだから、書けばいいやって思った。ただ、書くのには時間がいる。携帯で打つのにも時間がいる内容なので、手で書けばまたより一層時間がかかるし、何せ集中して書けるような時間と空間がないと、難しい。自室で夜ペンを持てば、病む以前に眠気に倒れて、紙にミミズが這うだけだ。(因みに今も半分寝そうになりながら、これ書いている)だから、昼間にないしは家に着くまでに時間を纏めて作る必要があるなぁと思っていた。だからこれもまとめてやってしまおうと思って、結局コレド室町のなかで、日本茶啜りながら、一筆書いて、写真撮って、LINEで送っといた。実際彼女がそれを一読して如何思ったのかは知らないが、それでも自分の中では気がかりだった事を1つクリア出来たので、よかったかなぁと思う。私が帰宅しても一応は普通に喋ってるから「ああそうですか」位の感じなのだろうか。
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さて話は前後するが、コレド室町の中、特に私は3号館中心にいたのだが、おしゃれおつなお店に並ぶのは、ちょっと個性のあるお洋服と、生活雑貨がメインだった。和がコンセプトのビルなので、中のお店の雰囲気は東京ソラマチないしはKITTEに近いものを感じた。どんなに可愛い家具とか食器とかエプロンとかを見ても、「こんなにお洒落な生活営めないしなぁ」と思うから普段あまりじっくりそのあたりは見ないのだけれど、如何せんあいてしの誕生日プレゼントを選ぶと言うひっかかりをまだクリアできない。だから、普段見ない食器とか生活雑貨とか、散々見た。どれだけ悩んでも答えが出なくって、コレド室町を3時間行ったり来たりして、更に日本橋三越まで歩いてもピンと来るものが無くて、結局、さっきもそこでものを買っただろうという無印良品に戻って選んだのだけれど、無印を含めて見ても、東京都心のビルの中に、「生活を営むためのちょっと素敵なアイテムが、ちょっと素敵に並べられている」事に私は気がついた。場所柄の問題か、そのアイテムは確かに新生活を始めた新婚さん向けだったりすることが多いのだが、然し、それは「ちょっと生活を楽しくするための、家にあって当たり前の物」だらけだった。茶碗・箸・マグカップ・プレート・鍋・ふきん・バスタオル・・・・・・。これだけ家にあって当たり前の物なら、正直全部100均で揃う。だけど、それじゃものたりなくって、もう少しいいものを使いたいと思う、もう少しお洒落な物を使いたいと思うから、こういうお店で、こじゃれたものを選ぶ人がいるわけかぁと思った。はっきり言って私は食器類に拘りはなく、箸もお椀も茶碗も母親がスーパーでまとめ買いをして来たものを使っている。だから余計に気がつかなかった。タオル然り、寝具然り、白物家電然り、生活に必要な当たり前の物を、自分で揃えると言う事を全然していないのだから、「生活を営む為のもの」に対する視点は欠けていた。でもコレだけ、郊外のニトリではなくって、都心のビルにお洒落な生活用品が置かれているということは、そうか、全て人間は「生活を営む」為に生きている。私が今すべきことは、「生活」をする事だ。
朝起きる、歯を磨く、弁当を作る、朝ごはんを食べる、自転車で駅に行く、満員電車に乗る、仕事をする、作った弁当を食べて、また仕事をして、また満員電車に乗る、また自転車で今度は家に帰る、お風呂掃除をする、お湯沸いたら風呂に入る、いぬを小屋に収納する、夕飯の支度を手伝う、夕飯を食べる、食器を片す、部屋に戻って明日の支度をして、眠る。
これを自分ひとりでやること。若しくは、一緒に誰かとこのリズムを作ること。恋人同士の関係も、最後結婚すると言う話になれば、それは共同生活者になると言うことだ。そこには「生活」と言う文字がいて、私はおうちデートの最終形態究極的な形は「共に生活をすること」だと思っている。確かに「生活」と言う言葉はあまりお洒落ではない。夢とか、希望とか、愛情とか、ときめきとか、好きとか、一緒にいたいとか、そういう言葉に比べたら、もっと実用的で現実的な言葉なんじゃないかなって思う。だけど、世間一般が夢見る恋の果て、第一のゴール地点は「共に生活をすること」でしょう?今私は新婚さん向けのアイテムを多く見ていたので、恋愛→同棲→結婚と言う勝手な軸で話をしているのだが、これが全くの正解で幸せな形だとも言わない。多分ヴィレヴァンとか行って、「おひとりさま専用コーナー」みたいなものを見てしまえば、「ああ、一人用の食器も多いなぁ。こんな生活もありだなぁ。」とか言うと思うんだ。いずれにせよ、人間は生活を営むために生きている、それが誰と一緒でも、おひとりさまでも、そして、家族がいても。
でもね、これだけカップル向けの生活雑貨が多いんだから、今私にあいてがいると言うことは、そんなに不思議なことでもないのかもしれない。ずっと不思議で、「私なんかがいいのかないいのかな所詮私程度の存在が、」と思ってばかりいたけれども、一歩街を歩けば、意外にカップル向けのものって多い。多いと言うことは、それが世の中のメジャーな姿であると言うこと。自分はただ、「恋人がいる女性」と言う枠にいるだけだ。自分の葛藤を今はべっこにしたとしても、私はただ枠を移動しただけだ。おひとり様状態にはおひとり様状態の良さがあって、おひとり様だからこそ出来ることもあるから、一概にどちらがいいとはいえない。私だってもしかしたら、ひとりのほうが都合いいと思うかもしれない。
自分では葛藤があるかもしれないし、先にあげた通りの身体の不安定さもあったし、親にも後ろめたかったし恥ずかしかったし、私が失敗することでまた迷惑もかけたくなかったし。でも、そんな私のもやもやなんて、世の中から見たら何も見えない。見えていないのだ。店員さんから見たら私はお客さんだ。大体30代前後の女性には恋人がいると言う事が前提でこの世の中の消費行動は回っている。恋人がいなかったとしても、恋人を作るためにどうするかと言う視点で、消費行動は促されていく。もう、そんなもんだ。私はいち消費者でしかない。だから、無理にああだこうだ理屈をつけても、それはあんまり世の中的には重要視されやしないよね。ものを買ってくれて、その買ったもので生活を営むことのほうが、大事なこと。そうやって、生活を営むために、私は生きていくのだなぁ。それが誰との生活になるのかはわからない。いまのあいてしに限定した話をするつもりはない。死ぬまで結局独身かもしれないし、実家から離れないかもしれないし、また別の誰かをの生活かもしれない。ただ、私は生活を営むために、生きて行くことだけは今のところ確実だ。
「生き延びるため」に生きるステップの次の段階が、「生活を営む」こと。やっぱりまずは、おしゃれな家具とか誰かとの暮らしとかどうでもいいから、とにかく生きていける場所を確保して、生きて行くことだけにしがみつくところが前提ではあります。死ぬ気で働けと言うわけでもなく、それが私の場合は、実家から出ないことと、時間を掛けて、ゆっくり自分の身体の扱い方を覚えて行くところだった。だから正直、今までそんな生活用品にまで気もお金も使えなかったし、まず彼氏もいなくってそもそも恋愛できなかった。今と同じ店に行ったところで、多分意図的にカップル向けの雑貨を避けて見ていた。見てしまうと、そうなれない自分の存在が余計に憎たらしく感じてしまうから。そういう事を思うと、まず世の中には「生き延びる」と言う視点は足りていない。「生活を営む」がメインになってしまっていて、「生活を営む」ことさえにも余裕が持てない人たちのことって、排除されがちな気がする。でも私は、今はとりあえず「生き延びる」の次のステップを見ても良い頃かもしれない。「生き延びる」ことを、土台にしていること、なんだかんだあれからも生き延びてきた自分のことを、時々強く思い出しながら、うん、恥ずかしい過去だと思って風化させることはしないで、次のステップに進む準備は、自分の中に出来ているのかもしれない。そんな事を思った、午後休だった。雨降る前に帰ろうと思っていたのに、気がつけば、外の雨は強さを増していて、結局雨に濡れながら、自転車をこいだ。
♪I want to hear me? 生活はできそう?それはまだ。計画を立てよう、それも無駄。
うんまあ確かにそうなんだけどね。
でもやっぱり、生き延びること前提の、生活だよね。
いずれにせよ、どうせ生きて行くのなら、毎日おもしろく笑って生きていたいのは確か。