アジアさすらいの日々ー中国編⑦(蘇州郊外での体験:悦楽と恐怖)
<前回までの旅>
…船で大阪から上海まで来て3日目、僕は船で出会った5人のバックパッカーたちと別れ、ようやく一人旅が始まった。蘇州行きの電車の中で、僕は下呂温泉で中国人女子たちと一緒に働いていたことを思い出し、彼女の出身である蘇州で再会できないかと考えていたのだが、その電車で出会ったのは同い年くらいの男の子。色々話す中で彼はこう提案した。「泊まるところがないならうちに来ればいい」と。
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9月24日(土)
よく考えてみると、それは海外で初めて一人になってわずか30分後の話だった。相手が若者とはいえ全く知らない外国人の家に泊まる、そんな大それた行動をすべきなのかすべきでないのか、しっかり考える間もなく僕は微妙な笑顔でその提案に同意した。彼らはというと、一人は「本当に?」という顔をしていたが、もう一人(日記には「李文光」という名前が記されていた)はまるで新しいおもちゃを与えらえた子供のように喜んでいて、その喜びが単に外国人の友達ができたということから来ているのか、あるいは他の目的からなのか彼の表情や様子からは測り知ることはできなかった。そしてそんな考えを巡らせている間にもう列車は蘇州駅に着こうとしていた。
列車が駅に到着してからの李くんの行動はとてもきびきびとしていた。駅を出るなり脇目も振らずまっすぐタクシー乗り場に向かい、決めていたかのように一台のタクシーに近づき声をかけた。運転手の手も借りず、彼は僕のバックパックを手際よくトランクに入れると、まるでゲストのように僕をエスコートし、タクシーは出発した。
本来なら、こんな(旅行のパンフレットに出てくる上の写真のような)情緒あふれる空間で静かに昔のことを想いながら過ごしていただろう。しかし当時の僕はガイドブックも持っていなかったし、モウちゃんの出身地であること以外は蘇州について何のイメージも持っていなかったため、タクシーの窓から見える風景に対して違和感を持つことはなかった。というより、僕にとっては中国全てが違和感で満たされていたので何が安全で何が危険なのかすら適切に判断することは不可能だった。そんな中でタクシーは駅から離れていき、少しずつ観光客などいるはずもなさそうな地域へと向かって行った。
駅を出てから15分ほど経っただろうか、高速道路の高架下の道を走っていたタクシーはようやく停車し、僕も彼らに促されるままに車を降りた。辺りを見回すとそこはこれといって特徴のない住宅街のような地域だったが、コンビニや個人商店が近くにある様子はなく、道を歩く人もまばらだった。インフラが整備されつつあった蘇州の街の中心部と比べると、そこは近代化の波から置いていかれたようで、寂しい雰囲気が漂っていた。僕が周りをきょろきょろ見渡している間に彼らはすでにタクシーの支払いを済ませていて、いくらか払おうとすると李くんは「いいよいいよ、いらない」と優しい笑顔で僕を制止した。そしてすぐ後ろを指さし、「僕の店だ」と自慢げに言い放った。(当時写真は撮っていなかったが、その地域の雰囲気は上の写真のようだった。ただ車や家はこれほどなく、もっとがらんとした空間だった)。
彼が見せてくれた店というのは一見すると美容院のようだったが、日本でよく見る美容院とは違い扉は開放していてカット用の席が2つとソファーがひとつだけの、プレハブの離れ小屋のような狭い空間だった。散髪用具はそこら中に雑然と置かれていて、お世辞にもきれいな場所とは言えなかったが、ほこりはかぶっていないことから一応は営業しているようだった。装飾はどちらかといえば派手で、薄い赤色と黄色い壁に囲まれた店の中にはクマのぬいぐるみやファッション雑誌などが置かれていた。そこは一見の客が入れるようなウエルカムな雰囲気はなく、知り合いや近くに住む人だけが時々カットやメイクをするためにここを訪れるのだろうと僕は判断した。
そんな美容院の様子を遠くから窺っていると李くんは大声で誰かの名前を呼び、中のソファーでくつろいでいた若い女性が立ち上がった。聞けば彼女は李くんの実の妹で歳は17歳だという。確かにその表情には幼さも残っていたものの、彼女の服装や化粧は他の中国の女の子と比べてとても垢抜けていて、何より男の習性を即座に感じ取れるような才能が備わっている、僕はそんな第一印象を彼女に抱いていた。李くんの呼びかけに応じた彼女は笑顔で僕に近づき何か言葉を発したが、僕は何を言っているのか理解できず李くんの方を見ると、彼は笑いながら彼女に僕の素性を伝えた。そしてその瞬間彼女の目は輝き、僕の手をさっと握って店前の雑談用の椅子に僕を座らせた。彼女が僕に興味を持っていたのは明らかで、僕は驚きつつも素直にうれしいと感じていた。
李くんは彼女だけでなく、近くにいた他の友達やその美容室の従業員らしい女性たちも呼びつけ、僕はいつの間にか8人ほどの若者に囲まれていた。彼らはみんな僕に対して興味津々に、年齢や職業など様々なことについて尋ねてきてくれ、僕は中国語会話帳を見ながらその質問に丁寧に答えていった。その間も李くんの妹はずっと笑顔で僕を見つめながら話を聞いていたのだが、僕が一生懸命答えていると、いつの間にか彼女の手が僕のひざの上にあることに気づいた。そのひざに置かれた彼女の手は優しく上下に動いていて、そのあまりにも自然な流れと心地よさに僕は拒絶することができなくなっていた。そしてその動きの範囲が太ももにまで達する頃には、僕はまるで自分が王様にでもなったかのような気分になっていて、もはや何も考えられなくなっていた。
そのままマッサージのような動きを続ける彼女を中心に、本を使いながらの会話は20分近く続き、話題は日本の話から旅行の行き先や期間まで、様々な話で盛り上がった。特に彼女が興味を示したのは日本のお金で、出して見せると彼女は友達と一緒になってきゃっきゃと喜び、その価値も聞かれるままに答えると一層派手に喜んだ。妹のはしゃぐ姿を見て「もういい」と思ったのだろうか、兄である李くんは「そろそろ昼ご飯でも食べようか」と席を立った。僕としてはもう少しこの天国気分を味わいたかったのだが、確かにお腹もすいていたこともあって、誘われるままに彼についていくことにした。
住宅街の隙間を縫うように、僕たちは5分ほど狭い路地を歩き、半分民家、半分食堂のような建物に入ると、そこに現れたのは40~50歳くらいの男性だった。聞くところによると彼は李くんの親類のようで、李くんがその男性に何か頼むと、間もなく料理が運ばれてきた。チャーハンと野菜の炒め物、それに肉を煮たような料理で、空腹だった僕は腹いっぱいにその料理を満喫した。ただ僕がお金を払おうとすると李くんはまた「いらないよ、大丈夫、大丈夫」と笑顔でいい、僕もまたその申し出を受け入れた。それがいいのか悪いのかはわからないが、食事を通じて少しずつ僕の彼への警戒心が薄らいでいる感じがした。
満腹になった僕たちはさっきの美容院に戻り、何気ない雑談をしていると彼が「僕はもう一つ店を持っていて、僕の彼女もそこで働いているから一緒に行こう」と言い出した。僕が了承すると、彼は早速タクシーを止め、紳士的に僕を車に乗せると、運転手に手際よく場所の説明をした。10分か15分くらいだろうか、タクシーはさっきの場所よりも更に閑散とした場所で止まり、僕たちは車を降りた。そして彼が「あれが彼女の働いている店だ」と笑顔で指さした場所には受付のような一角があり、その横には十数室の部屋が並んでいた。そして半開きになったドアからは少し大きめのベッドとピンク色に塗られた壁が見えていて、近くには肌の露出が多い服を着た数人の女性が椅子に座っていた。はっきり言って、それはどこから見ても風俗店以外の何ものでもなかった。
タクシーの払いを済ませた彼は僕の方を見て笑顔でこう言った。
「あそこが今日君が泊まる場所だ。」
この時、僕は彼に会って初めて明確な恐怖を感じていた。
昔の事を思い出しながら静かに過ごすはずだった蘇州での滞在は、スリル満点の状況となり、僕はモウちゃんのことなど思い出す余裕もないままに、怪しく染まった夕暮れを迎えるのだった。