スピーディーに『勉強の哲学』を再読する

スピーディーに『勉強の哲学』を楽しんでみたい。ここでの楽しさを定義するのはそれこそスピーディーさに任せたいのだが、とりあえず最低限思っているのは自分がワクワクすることと他人がワクワクすることのバランスを極端にしないようにしたいということである。簡潔に言えば、自分だけ楽しむことなくしかし自分が楽しめるようにしたい、ということである。

ちなみに私は『勉強の哲学』を一読したことがある。し、他の箇所で著者の千葉雅也が触れている箇所も知っているし、ある程度は千葉の他の本も読んだ。いや、正直に言おう。千葉の本は小説以外は全部一読はしている。熟読しているのは『意味がない無意味』であり、『動きすぎてはいけない』や『思弁的実在論と現代について』、『ツイッター哲学』、『アメリカ紀行』はその次くらいに読んでいる。逆にあまり読んでいないのは『現代思想入門』や『センスの哲学』である。で、『勉強の哲学』は「あまり読んでいない」くらいである。あと、幸い実家に『メイキング・オブ・勉強の哲学』があったのでそれを副次的な資料として使う。

さて、ちゃんと自らのステイタスを提示したので読み始めようと思う。何度も言うが重要なのはスピーディーさである。いかにスピーディーに豊かになるか。それこそが極めて重要なことなのである。このことの根拠を『ツイッター哲学』からの引用を絡めつつ論じてもいいが、それに似たことはしたことがあるので以下を参照してほしい。

また、私の千葉雅也に対するスタンスは以下を参照。ここからすごく大きく変わっているわけではない。

では読んでいこう。まずは目次を読む。二つの本(『勉強の哲学』と『メイキング・オブ・勉強の哲学』)の。ああ、言い忘れていたが私が読んでいるのは文庫じゃないほうである。ただ、文庫版に付いている補章「意味から形へ」は読んだ。一回だけ。さて、早く読もう。すみません。

とりあえず『勉強の哲学』の「まえがき」と「結論」と「補論」を読むことにした。そのあと『メイキング・オブ・勉強の哲学』の「はじめに」を読む。そのあと、面白そうな、なんも言えばいいのだろう、章の中に入っているからとりあえず節と呼ぶことにしよう。節を読む。そのためにメモしておく。私の傾向もわかるかもしれない。いや、全体がそもそも見えていないからわからないか。まあいい。とりあえずメモする。第一章は「勉強のテクニック(1)自分なりのメタゲームを作る」、第二章は「書き方を発明しながら書く」、「ツイッターはアイデアの宝庫」、「無限のアイデアを有限化する」、「『勉強の哲学』以前/以後」、「『勉強の哲学』の裏設定」、第三章は「美術から美術批評へ、そして哲学へ」、「「概念のコレクション」はゲーム的に楽しい」、「悩んでフリーズするのが哲学者の仕事ではない」、「行き詰まりと有限性」、第四章は「カードの本質は別の宇宙を作ること」、「準-他者との関わり」、とりあえずメモした。では読もう。まずは『勉強の哲学』の「まえがき」。その前に返信しなくてはいけない連絡に返信しよう。

『ツイッター哲学』の一ツイート一ツイートがタグのように文章を留めておいてくれる。そんな実感がある。

島が生まれなくてはならない。その周りの海をそれとするためにも。そうでなくてもそもそも島がなくては住むことができない。海の上に住むためには舟が必要だが舟が作られるためにも島が必要である。

極めて抽象的に言えばこういう話だと思う。ここでの話は。まだ「まえがき」の途中(11頁)も途中だが。「スピーディー」にかかっちゃっているのかもしれません。

勉強とは、獲得ではないと考えてください。
勉強とは、喪失することです。
14頁

この「、」の打ち方は変というか、不思議だ。私が書くなら「勉強とは獲得ではない、と考えてください。勉強とは、喪失することです。」になりそうである。不思議だ。まあ、それはいい。昔、私は、物を書き始めたかなり最初の時期にこんなことを書きました。「本質の本質とは喪失の喪失である」と。そのときは「本質」が何に対比されるかとか、「喪失」は「消失」と何が違うのかとか考えず、少なくとも表には出さず、ただ託宣のようにこれを書きつけました。このことがあとで効いてくる予感がします。

あと一つだけ、私のステイタスをすべて開示することはできません。例えば、私は「いったんノリが悪くなる、バカができなくなるという第二段階を経て、第三段階に至る。すなわち、来るべきバカの段階、"新たな意味でのノリ"を獲得する段階へと至る。」(14頁)を読んだときに思い出しました。山口尚が『哲学トレーニングブック』のなかで『勉強の哲学』を「ヘーゲル的な弁証法」ではなく「非-ヘーゲル的な弁証法」を提示したものであると言っていたことを。いま手元にないので正確に引用はできませんが、これが勝手に浮かんでしまって、「ああ、全部は書けない。いま使えるもののすべてを書くことは。」と思いました。それを正直に告白しておきたいと思います。なぜなら、あとから「これがあれば読めますよ。」と言われるのは気が悪いと思うので。「これが私のステイタスです。」と言ったのにも関わらずそうするのは。

「まえがき」を読み終えました。「ノリ」というのが「規範」だったらもっとカタカタしい(こんな表現があるのかは知りません「硬い」と「カタカタ」とするフロウを合わせてみました。)感じだったと思います。「バカ」というのも特徴的ですが、それは哲学系の基本的なレトリックの一つで、関西弁の「アホや」的な称賛に似ていると思います。それ以外の説明の仕方は結構難しいのですが、「野球バカ」の肯定的な感じと言えばいいでしょうか。

「結論」を読みます。時間があれば原理と実践のあいだにある(15頁)第三章も読みたいのですが、おそらくそれは叶いそうにありません。

事実上私たちの言語使用では、ユーモアは過剰化せず、ある見方が仮固定されている。それを可能にする条件は、私たちひとりひとりの個性=特異性としての「享楽的こだわり」である。享楽的こだわりが、ユーモアを切断する。ところで、享楽的こだわりを固定的でどうにもならないものと見なすと、それは、運命的に私たちを縛るものになってしまう。本書では、勉強の過程を通じ、享楽的こだわりは変化しうると考える。
218頁

ここでは「仮固定」的な発想が「享楽的こだわり」を跨いでいる。つまり、「享楽的こだわり」を支えにした「仮固定」とその支えにしていること自体が変化する次元として「享楽的こだわり」を「仮固定」にすることが求められている。「仮固定」が二重になることで変化しつつ変化しない、変化しないが変化する、その曖昧で、かつ実践的、実際的な次元が析出されている。これは言うなればその次元を遊びの次元、遊戯の次元にしていく一つの仕方なのかもしれない。わからないが。にこにこ。続きを読もう。

「有限化」と「仮固定」の関係ってどんな感じなんだろう。「有限化」のためには「無限」が必要である。それに対して「仮固定」のためには「固定」が必要である。しかし、この二つの「必要である」はその仕方が異なる。この整理は間違っていないと思うがとりあえず深追いはしないことにしよう。

急に思った(まあ、『勉強の哲学』を読み直しているから「急」というのは嘘かもしれないが)が、「儀礼」における「連鎖」はすでに「無限」から「有限化」されたもので、現実の私たちはその「有限化」されたものを「無限」と見てそれも「有限化」するのか。「有限化」が二重であることの必然性。

これはツイートした。

「仮固定」は起こってしまっていることを「固定」とせずに「仮固定」であると考えるための概念であり、「有限化」はそれをそう考えようとして考えるときの概念である。簡単に言えばきっかけと後押しである。簡単に言えばね。

「結論」を読み終えた。一旦立ち止まってみよう。

私たちはすぐ「無限」にさらわれてしまう。だから「有限化」が必要である。その「有限化」は「固定」によって可能になる。例えば「享楽的なこだわり」はその一つの仕方であるだろう。しかし、その「享楽的なこだわり」も勉強によって変わりうる。だから結局「固定」は「仮固定」なのである。ここでやっと「有限化」と「仮固定」はカップリングされ、変わるために変わらない、そんな実践的な次元を生きることができるのである。

おそらくこんな感じである。ただ、これは「無限」がもうすでにある、リアリティを持っている人にしか使えない考え方であるようにも見える。だからこそアイロニー/ユーモアという対比を、「根拠を疑って、真理を目指す」/「根拠を疑うことはせず、味方を多様化する」という対比を使って過剰が「ユーモア」方向ではなく「アイロニー」方向にある人も取り込んだのである。「取り込んだ」という言い方が悪ければ、含み込んだのである。このあたりの繊細さが「ヘーゲル的な弁証法/非-ヘーゲル的な弁証法」という対比には込められているが、とりあえずこれくらいにしよう。

千葉の哲学は福尾匠が『非美学』(すみません。これも読んでます。)で言っているように「加/減」の哲学である。「加/減」はあいだでしか起こらない。し、そこでエネルギーが極限に向かっていなくては起こらない。アクセルとブレーキは0と100のあいだでしか必要でないし、そもそも車自体に推進力がなければアクセルもブレーキも必要ではない。この微妙なさじ加減のための工夫とそこで言われていることが持つ価値とをある程度区別できるようになりたい。

さて、ここまでで約一時間かかっている。スピーディーさはどこに行ったのだろうか。まあ、楽しいから仕方ない。「補論」を読もう。「本書の学問的背景を知りたい方、専門家の方」(222頁)に向かって書かれているらしい。私は「専門家」でもなんでもないが「学問的背景」は知りたいので読んでいこう。

後期ウィトゲンシュタインがこの本の背景にはあるらしい。いや、このことはなんとなく覚えていた。クリプキのウィトゲンシュタイン解釈の話をしていたなあ、みたいな記憶があった。ちなみに私はウィトゲンシュタインについて普通の人よりは詳しいし、普通の人よりは詳しいという人の大部分よりは詳しいと思う。いや、「詳しい」というか、ある程度学問的に勉強してきたと思う。ので、ありがたい。「ステイタス」ってなんだ?なんとなく使ってきたが、「前提知識」とも「スキル」とも違う、なんというか、難しい。とりあえず適当に考えておいてほしい。

アイロニーよりもユーモアを強調するという姿勢は、ドゥルーズのものです。僕はそれを継承した上で、「アイロニーからユーモアへの折り返し」という一種の弁証法を描きました。
225頁

「強調」かあ。私はこの「強調」を強調しているのかもしれない。「強調」自体を過剰に受け取る、そんな感じ、の私。だって、普段「無限」なんて意識しないじゃないっすか?と思う私。千葉は私の「千葉雅也のビジョン(『意味がない無意味』から『センスの哲学』へ)」に対して、「いい批評ですね。ただ、これを読んで思うのはやっぱり「無限」を考える際の実際の経験的な困難がわかられていないんだなあみたいなことです。」みたいなツイートをしていた。なぜかそれはツイ消しされてしまったが、そんなツイートをしていた。それを見て私は単純に「そうですよねえ。すみません。」と思った。他人の経験のリアリティを他人が判断するもんじゃないな、と思った。ただ、そう思いつつ、豊かに活用していくこと、違う形で賦活することは目指していきたいと思う。

アイロニーの「有限化」と「アイロニーからユーモアへの折り返し」はどう違うのだろうか。と書いてみて普通にわかった。アイロニーの「有限化」は「決断主義」を呼び込むが、それを「ユーモアへの折り返し」に向けることでより深い「決断主義」として「享楽的なこだわり」(ここまで説明してこなかったが「享楽的なこだわり」どうしてもこだわっちゃうこと」みたいな意味だったと思う。良くも悪くもこだわっちゃうこと。)を取り出して、さらにそれを変化可能なものとする、二段構えなのだ。ただ、そもそも千葉自身も言っているように「有限化」はいつもすでに起こっているとも言える。このこととどう折り合いをつけるか。私はそれで迷っているのである。いや、迷っているというよりも、ふらふらしている、ふらふらできているのだ。

すんごい微妙なところを取り出しているんすよね。気迫を持って。これは福尾匠も言っていたことです。それをどういうふうに引き継ぐか、そしてその引き継ぎを部分的なものにするか、それが大事なんですよ。いや、「部分的なものにする」と言うとまるで私がしているかのように取られるので「部分的なものになる」のをそれとする、みたいな言い方にしましょうか。ここにも二重性がありますね。「なる」をそれとする、私と千葉はここで出会っているのかもしれません。

アイロニーからユーモアへの折り返しは、そうしなければ言語が使えなくなる、という理由によって要請されます。
227頁

なるほどね。「言語」のステイタス、そうだ!「ステイタス」は現代思想における「言語」の在り方がよくわからないみたいな文脈で福尾匠が使っていたんだ。じゃあ、私の「ステイタス」ってなんだ?超越的なものでありつつ実際的なものであるもの、それを福尾は批判していたと思います(手元にないのでわかりません。)が、私の「前提知識」や「スキル」もそんなものなのかもしれません。この実践を規定しつつ実際にそこで働いている、そんなものなのかもしれません。福尾の批判は今回は深追いしません。

[アイロニーから:引用者]ユーモアへの転回とは、独我論から言語ゲーム論への転回である。
228頁

私はウィトゲンシュタインの独我論に関してかなり勉強したのですが、ここで言われていることがよくわかりません。いや、よくわからないというよりは広すぎてよくわからなくなっている、そんな感じです。いつかわかるでしょう。最近も千葉の「儀礼」という概念と「無限」と「有限化」の関係との関係がやっと少しわかったのですから。ここはゆったりで構いません。スピーディーでなくても、まったく構いません。

あ、「補論」終わっちゃいました。ウィトゲンシュタインのクリプキ的解釈に触れてくれたおかげで「言語偏重」によって「弁証法」を起こすことの意味が(もちろん「言語」のステイタスはまだよくわかりませんが)ある程度はわかりました。数学から物理学への、哲学から人文学への、「折り返し」、折り合い、その感じがなんとなくわかりました。

「あとがき」も読んじゃいましょうか。ちなみにいまは一時間半くらいです。

別にそんなに、ああ、「あとがき」読みました。別にそんなに疲れたわけではないが、『メイキング・オブ・勉強の哲学』の節を読んでいく気にはなっていない。

ある人の言っていることを凝縮するためにはあいだを縮めなくてはならない。そうするとその縮め方が必要である。そしてその縮め方こそが読み方なのである。千葉は『勉強の哲学』において『動きすぎてはいけない』で用いていた「疲れや気散じといった経験的な例」から「個々人の「個性=特異性」すなわち「享楽的なこだわり」(と周囲との相関性)という「さらに概念的」な例を用いることにしたと言っている、「有限化」を「非意味的切断」であると考えるうえで(226頁)。これは変化であり、変わっていないのは「非意味的切断」を考えるということである。そうなると「非意味的切断」が変わっていないわけである。「非意味的切断」という大きな場所があって初めて、「あそこからあそこへ」、もっと実存的に言えば「あそこからここへ」、もっと変化を強調するならば「あっちからこっちへ」、どれでもいいが、それらは可能なわけである。いや、精確に言うなら「変わった」にはこれらと「大きな場所」が必要である。「変わる」にこれらが必要であるわけではない。おそらく私は「変わった」は後から付け加えられるから、みたいな余裕を重んじるところがある。それに対して千葉はそんな余裕よりも「変わる」勇気や態勢みたいなものを重んじているのだと思う。千葉は『センスの哲学』で次のように書いている。

人が持つ問題とは、そうならざるをえなかったからこそ、「そうでなくてもよかった」という偶然性の表現でもある。問題が繰り返され、何かひとつの塊に見えてくるほどにそこから、果てしない広がりとして偶然性がまばゆく炸裂する。
『センスの哲学』216頁

ここにはとても共鳴した。し、共感した。私はここの「そうならざるをえなかった」と「そうでなくてもよかった」のカップリング、さらにはそのカップリングと「何かひとつの塊に見えてくるほどにそこから、果てしない広がりとして偶然性がまばゆく炸裂する」のカップリングに共感したし共鳴した。ただ、私はそこにもう一つ踏み込んで「た」という過去を見遣るスタンスを読み込みたいのである。そしてその読み込みは「ひとつの塊に見えてくる」ことと「過去を見遣る」ことをカップリングするのである。

なんだかうまく言えない。なんだかテクニカルな議論に、やはりどうしても見えてしまう。私の議論もそう見えるだろう。そのことを批判するつもりはない。し、批判されても「あ、そうですか。」(©️ロングコートダディ)としか思えない。それよりも重要なのは、私が千葉に何かを横暴にも、野蛮にも付け加えることでそこに生まれる変化なのである。その実験性、実践性をちゃんと確保したい。そんなふうに思う。

そろそろ二時間になる。ここからは「やーめた」と思うところまでいこう。計画はとりあえず反故にしよう。ただ『メイキング・オブ・勉強の哲学』を読むことにする。

彼[=蓮實重彦:引用者]の有名な言葉に、「私はよく偉そうだといわれるが、偉そうなのではなく偉いんです」というものがありますが、「偉い」とはつまり、彼独自のメタゲームをしている、ということでしょう。あらゆるものを自分独自の見方で見る、そうすれば、あなたはつねに勝っている状況になる。それは、勝ち負けを超えているということです。
『メイキング・オブ・勉強の哲学』30頁(ここからの引用は特に断りのない限り『メイキング・オブ・勉強の哲学』からの引用)

私は蓮實のものを読んだことはありません。名前は知っているくらいです。わざわざ「享楽的なこだわり」をそれとして「仮固定」することにはこういう実践性があるんですよね。まあ、そんな「メタゲーム」がそれとして存在し続けられるのかはわかりませんけれど。というか、私にとっての独我論の問題はここらへんにある気がします。上よりはファジーに書いています。ファジー&スピーディー。

ソファーからヒーターの前に移動しました。

これは僕の性格ですが、語ったものの書き起こしを見ていると、どんどん書き加えたくなってしまうんですね。そうすると結局、最初の方で語ったこととの齟齬が出てきてしまう。
55頁

書いたものならどうなんだろう。「語ったものの書き起こし」ではなくて。それでも「書き加えたくな」るのだろうか。あと、「書き加えたくなってしまう」が仮に残念なことであるとするならば、それが「残念」であることの条件とはどのようなものなんだろうか。「ひとつの塊に見えてくる」のを阻害するから「残念」なのだろうか。

書けることではなく書きたいことを書く。書かなかったことこそが最も私的なことであり、それによって私たちは「私」を知るのである。

「仮固定」から「何かひとつの塊に見えてくるほどにそこから、果てしない広がりとして偶然性がまばゆく炸裂する」へ。

これはツイートする。

『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』もそうだが、そこで「これを実践せよ」と書かれていることが全体で実践されている、みたいな本がある。佐々木敦第二章(第二章は千葉と佐々木の対談である)『勉強の哲学』もそうなのだと言う。私はそんな感じには思わなかった。『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』よりは。まあ、「まえがき」と「結論」と「補論」と「あとがき」しか読んでいないからだとは思うが。

佐々木 この『勉強の哲学』を書くにあたって、最初に語り下ろしでしゃべったことの中身は結局役に立ってるのか立ってないのか、まずそれをうかがいたい。つまりそれはやらなくても別によかった作業なのか、いや逆にしゃべったことがステップゼロみたいなものとしてあって、その上でこういう作業っていうのが始まったから結果的によかったのか。
<中略>
千葉 いや、意味は十分にありましたよ。それこそ『勉強の哲学』的な枠組みで言えば、話を聞いてくれる他者に向かってしゃべるということはひじょうに大きかったと思います。最初の読者として編集者の人がいて、そこに向けて集中した二時間でまとまった話をしなければいけない。集中して、脳がぎゅっと縮んだような体験が最初にあったから、その後、その勢いで企画を進めていくための最初のねじ巻きができたんじゃないかと思います。
105頁

この縮むこと、つまり「凝縮」と「ねじ巻き」の関係、それが結構独特な感じがする。「凝縮」を展開していく、開いていくみたいな「もののたとえ」(これは福尾匠的な「もののたとえ」)はよくあるけれど、「ねじ巻き」とそれをカップリングするのは、結構独特だと思う。「何かひとつの塊に見えてくるほどにそこから、果てしない広がりとして偶然性がまばゆく炸裂する」。

佐々木 しゃべったときに出てきたいくつかのポイントっていうのは、その次の段階で構成を作ったり、要点出しをしていくときに、まだ残ってはいるわけですよね。
千葉 そうです。もちろん残るべきものは残っています。
でも一方で、大きく内容が変わった部分も当然あります。たとえば、最初「有限化」という話をしたときに、「人は自分では無限の作業を切断できないから、他人に切ってもらうしかない」と言っていたんです。すると、たとえば先生の存在が大事になってくる。そういう外部の他者が勉強を有限化してくれると考えていた。自己啓発本なんかもそういう有限化のツールとして使えばよいわけです。たとえば、「一日の時間をこういう風に区切りなさい」みたいな、何かある一定のフレームを与えてもらって、それによって有限化できる。
ではそのときに、有限化をしてくれる他者をどういう基準で選ぶか。当初、他者の選び方と着して僕が考えていたのは「決断」だったんです。結局、自分をどういうやり方で有限化するかは無根拠なので、無根拠のなかで偶然的に誰かを選ぶしかないという。(/)
佐々木 誰か切断してくれる人を呼び込む必要があると。
千葉 はい。そういう人がいてくれさえすればいいという話です。実は、当初は「決断主義」だったんですよ。ところが最終的に、『勉強の哲学』では決断主義を批判することになりました。だから、考えの根本的なところが、語り下ろしの時点から変わっているわけです。
ただし、僕は当初から、複数の他者を利用するということを考えていました。一人の他者を信じ切って有限化してもらうというよりも、この先生に頼ることもあれば、別の先生に切り替えるときもある、別の本に切り替えることもあるというような、頼り先のスイッチングです。通常の決断主義というのは、偉い人にひたすらひれ伏すことであって、そういう決断主義と、僕の思っていた決断のイメージは元々違ってはいた。そういう「スイッチング可能な決断」といったことを考えていたから、最終的には、「決断」ではなく「中断」という考えが出てきたし、「仮固定」を強調することになりました。
106-107頁

これをスキャン&コピーしているときに左耳のイヤホンの充電が切れた。とりあえずまだいこう。右は聞こえるから。左は外して充電行きだ。

あ、内容について書くの忘れてた。うーん、「決断」よりも「中断」を、というのは、どういう「有限化」をしたいか、という「決断」、いや、「強調」ですよね。これが千葉の微妙なところなんですよ。「微妙」っていうのは良くないっていうことじゃないですよ。ただ単に単純には割り切れないところということです。

そうかあ。やっとなんとなくわかったぞ。読むことから考えることへ、そしてさらに考えることから書くことへ、という単純なインプット-アウトプット回路のなかにブラックボックス的な、謎的なところを作るのが欲望を、エネルギーを賦活し続けるコツなんだ。だから「勉強論=制作論」(9頁)なんだ。「勉強は自分らしさを表す何かを「制作」することにつながる、という信念」(8頁)もここから来てるんだ。あれとも繋がるな。「他者がたんに他者であるだけで、その言うことが私に、私が自分で内的に思うよりも強い規定力をもつというのは、「神」概念に関わっているということがわかった。思弁だけど。ここで、他者とは物体でもよい。なぜ紙に書き出すと考えが進むのか、それは、「紙が神だから、いや、神が紙だから」である。」(『ツイッター哲学』(河出文庫)102頁)とも。

これツイートしたいけど、前半だけツイートしよう。文字数で区切られる場合はいい感じにしよう。

こんな感じになりました。

そうかあ。やっとなんとなくわかったぞ。読むことから考えることへ、そしてさらに考えることから書くことへ、という単純なインプット-アウトプット回路のなかにブラックボックス的な、謎的なところを作るのが欲望を、エネルギーを賦活し続けるコツなんだ。

だから「勉強論=制作論」(『メイキング・オブ・勉強の哲学』9頁)なんだ。「勉強は自分らしさを表す何かを「制作」することにつながる、という信念」(『メイキング・オブ・勉強の哲学』8頁)もここから来てるんだ。

佐々木 重要なことは、有限性の話というのはフレーミングの話なわけですよね。もしくは条件づけの話なわけです。何かしらの条件というものが実はとても必要で、条件づけによって初めて思いつくことがあったりする。たぶん千葉さんは、最初の時点ではフリーハンドでアイデア出しをしているから、思考が拡散するんですよね。でもいつまでも拡散し続けるわけにもいかないぞっていうふうになっていくと、いろんな条件づけが現れて、それは自分から思いつくこともあれば、締め切りが迫ってくるとか「何章までは何日までにください」とか外的な要因もある。
113頁

なるほど。私は「無限」を本当のそれとして考えすぎていたのかもしれません。だから「有限化」が「いかがわしく」思えた。経験から経験論へのジャンプ、それが重要だったのかもしれない。

「定義がわかんない」ってなんなんすかね。「定義がわかる」ってなんなんすかね。

これもツイート。

そう言えば、『勉強の哲学』って何年に書かれたんだろう。千葉雅也の流れとして気になる。2017かあ。『意味がない無意味』が2018年であれは書き下ろしじゃなくて批評・論文集みたいな感じだから被ってんのか。『勉強の哲学』は書き下ろし。被ってんのかあ、意外だなあ。まあ、分野の違いかな。わからんけど。

千葉 「学問=deep studyではない」。そして「deep study」という上位概念、これがつまり勉強なんですが、そのなかに「学問」や「パラな営み(小説など)」があるという構図が書かれています。
佐々木 ああなるほど。
千葉 これがこの本の裏設定なんです。基本的に『勉強の哲学』では、ソフトな権威主義の立場をとって、歴史的にちゃんと信頼されているような本を読んで勉強しましょう、と提言している。そういう意味では「学問のすすめ」なのですが、でも、いわゆる学問をすすめるためだ(/)(/)けに書いたものではない。
たとえば、言葉遊びの可能性を広げることで現代詩が書けるようになっていくとか、またはそれを身体の方向に考えれば、身体をバラすような、ダンスの方法論としても捉えられる。ディープスタディ=深い勉強という上位概念のなかには、学問もあれば、その他にパラレルないろいろな営みもある。どうも小説もそのひとつとして考えていたみたいですね。
122-124頁

すんごい雑なまとめだけど、『センスの哲学』は「パラレルないろいろな営み」を「形」的な次元で反復させるような、そんなものである。「上位概念」から「下位概念」に向かっていくのとは反対方向のことによって「複数性」を肯定しようとしているのが『センスの哲学』で、だからこそそこでは「仮固定」よりも「何かひとつの塊に見えてくるほどにそこから、果てしない広がりとして偶然性がまばゆく炸裂する」ことが重要なのである。「deep study」は別に「学問」でも「小説」でも「現代詩」でも「ダンス」でも良かった、そういうことを「偶然性」と見るか、「仮固定」と見るか。

私の「浅薄な欲望」(130頁)ってなんなんだろう。私も千葉と同じで「実存的な疑問を抱く人間」(130頁)ではない。「大人になってからそういう問いを抱くようにな」(130頁)ったというのも同じである。

三つ一気に引用します。イヤホンが意外にもって、もってしまって、携帯の充電のほうが早くなくなりそうだったのでスキャン&コピーを早くしたのです。一言ずつくらいコメントしていきます。

新しいアイデアが生まれるためには、環境の有限性が大事です。ところで僕の場合、行き詰まっているときに「あ、そうか!」と突破口が見つかるのは、もっぽら朝です。作業を区切って=有限化して、寝ることが大事。外山滋比古も『思考の整理学』(ちくま文庫)のなかで、寝ることの大切さを説いています。いったん中断し、寝ている間に考えが整理され、発酵する。
136頁

これは「考えるために寝ろ。」ではない。しかし、それは後に引用する千葉のような「強迫」とは違う意味でそうである。「中断」がそれであり、「発酵」がそれであるためにはある程度つんのめらなければならない。寝ていてもドライブするくらいには考えていなくてはならない。寝れるくらいだが整理されるくらいには考えている。それはもはや僥倖だと思うが、そんなものだと思う。

僕は寝ることの「生産性」も言おうとしてしまう。これはおそらく僕の強迫観念なのです。きっと何かを生産していないと不安なんです。ただただ非生産的であるような状態に耐えられない、そうなのかもしれない。『動きすぎてはいけない』のテーマである「非意味的切断」は、生産性にどう距離を取るかという僕の実存的な問題に関わっているのかもしれません。
138頁

もしかすると私の「強迫観念」は千葉よりも強いかもしれない。いや、形が違うのだと思う。千葉は現在から未来に向けて「強迫」的であり、私は現在から過去に向けて「強迫」的なのである。もっと言えば、私はより共起に対する「強迫」があり、千葉は展開に対する「強迫」がある。そんな感じだと思う。

ここからは面白いんですけど、コメントするボリュームを超えているのでとりあえず置いておきます。とりあえずもう一度皆さんと同じように読みます。なんか思いついたら書きます。思いつかなかったら風呂に入ります。もう日を跨ぎそうなので。夜の八時半くらいから始まったのでもう三時間半です。困ったことです。

僕は創作について単純なテーゼを持っています。クリエイターは、まるで自分が作ったとは思えないような何かを作ることを目指している、というテーゼです。小説家にしてもアーティ(/)ストにしても、哲学者にしてもそうです。自分が考えたとは思えないものが目の前にゴロッと出てくる。自分が生み出したのに他者であるもの、それは「子供」のようなものかもしれない。自分から他の生命が出てくる。クリエイターはそれを欲望している。
人間によって最も強い意味での他者とは、他人です。では自分の作った作品が、他人くらい強い他者性をもちうるだろうか。それは無理でしょうね。他人に近いものを作り出そうとするわけですが、でもそこまでは到達しない。他人の手前にとどまるもの。作品とは言い換えれば、一枚のカードのような一定の範囲に収められた宇宙、つまり有限な宇宙、あるいは可能世界ではないでしょうか。
クリエイターは、作品という有限なものを、他者として生み出そうとするのですが、でも他人にはならない。だから、作品を成り立たせるその有限性の区切りは、私と他人の溝ほどには深くない。A4サイズという切断は、私と他人の溝ほどには深くない──。
ところで、こんなことを考えてみてください。エロティックなイラストを描く人は、自分が興奮できるものを描きたいと思っている。しかしおそらく、他人が描いたエロティックなイラスト(で自分の好みに合うもの)を見ることの方が、自分で描いたものに比べ、圧倒的に強度があるでしょう。人はなぜ他人とセックスをしたいのか。それは、自分で自分の身体を刺激す(/)るマスターベーションを超える興奮があるからです。他人に触れられることの興奮は、自分で自分に触れることの興奮を凌駕する。
器具を使ったりなどのマスターベーションの倒錯的な工夫とは、他人に触られていないのに他人に触られているような状況を作り出すということです。僕の考えでは、芸術とはまさにこれです。自分から他者を作り出そうとする芸術的なクリエーションとは、ヴァーチャル・セックスの夢に他なりません。
これは芸術に関する僕のイデオロギーにすぎないのかもしれない。こういう芸術観に反対する人もいるかもしれない。ともあれ、さらに展開しましょう。
ここで話を、占いの方につなげます。占いは、他人がじかに意見を言うものではありません。カードのような道具とか、何か手続きを間に挟むことがポイントです。占い師との関係は、だから間接的です。極端に言えば、占いの本質は占い師=他人の方ではなく、カードなどの準-他者の方にある。そして、図像でも言葉でも何でもいいんですが、それがどういう意味かよりも、それがひとつのフレームのなかに封入された形で提示されることにこそ、核心があると思うんですね。占いの図像や言葉は、現実からは切断されたものです。占いは非科学的なものですが、それはなぜかといえば、当然ながら、現実の因果関係とは無関係だからです。占いで占(/)われることと、現実の出来事は因果的につながっていない。だから、一方では、占いに頼るなど問題外なのですが、しかし逆に言えば、占いが占いであるのは、それが現実の因果性からは完全に切断されているからであり、そこにこそ占いのおもしろさがあるのです。
占いとは、現実から切断された余白、欠如を提示するものです。占いにおいては、実はそのメッセージがどう解釈されるかは本質的なことではありません。占いは、いまの現実のあっぷあっぷの状況において、さらなる欲望の余地を切り拓くという、ただその一点においてのみ意味があるのです。つまり、人生に空白の次のページを付け加えることこそが占いの本質なのであって、運命は、結局はどうにでも解釈可能なのです。
だから良い占い師とは、先のことを強くは規定しない占い師でしょうね。人を脅すような占いはもってのほかです。ともかく重要なのは、暫定的に、人生に対する余白を、新規ぺージを増やすことであり、それがカードを一枚引くということに他ならない。占いのカードを引く瞬間、それは、芸術作品がひとつの有限なものとして成立する瞬間に相当するのです。
占いもまた、日々ノートに何かを書いてはページをめくること、アウトライナーの箇条書きを少しずつ増やすことと、本質的に同じ「制作」なのです。欲望し続けるために、欠如のぺージをめくる。それがノート術の本質でもあり、占いの本質でもあり、芸術の本質でもあるのです。
151-154頁

いろいろ思いつくことがありますけれど、単純に一番興味があったのは、「作品」は「他人」よりも「他者」的ではない、というところですね。ただ、その次元と「クリエイターは、まるで自分が作ったとは思えないような何かを作ることを目指している、というテーゼ」の次元とはどういう関係にあるんでしょうね。なぜ

あ、音楽止まりました。イヤホンの充電切れました。少し余熱で動きます。余エネルギーで動きます。余りじゃないエネルギーってなんなんすかね。

なぜ誰が作ったかなんて気になるんすかね。私はあまりそれが気になりません。だから、別に「クリエイター」になりたいとも思いませんが、「クリエイターは、まるで自分が作ったとは思えないような何かを作ることを目指している、というテーゼ」には賛同しかねます。ただ、その後の展開は好きですよ。

特に「作品とは言い換えれば、一枚のカードのような一定の範囲に収められた宇宙、つまり有限な宇宙、あるいは可能世界ではないでしょうか。」というところ、「作品」と「一定の範囲に収められた宇宙=有限な宇宙」と「可能世界」のトリアーデ(もしくはクワトラーデ?こんな用語ないと思うけど)、これはなんというか、面白いと思った。

まあ、そのあとは豊かすぎてあれっすね、とりあえず置いときたいっすね。明日はこの文章自体を全体として読みたいっすね。日、跨ぎましたね。風呂入らないとダメっすわ。今日は湯船やめときますわ。実家帰ってきてからずっと入ってないっすけど。

お風呂に入った。体を洗った。体を拭いた。ドライヤーをした。お布団に入った。扉を閉めた。電気をオレンジ色にした。横になった。

さて、あとは寝るまで箇条書きしていこう。いろいろ思い浮かぶことはあった。思い浮かんでいたこと、思い浮かんだこと、それぞれ特に区別せず、箇条書きにしていこう。

・千葉は欲望を駆り立てようとしている。
・レヴィナスにも似たところがあり、それが「欲望」と「欲求」の区別の議論を生んでいるとか、エロスの現象学を生んでいるとか、そんなふうに思うことがある。
・レヴィナスの議論は独我論じゃないか、と思うことがある。このことについては『傷の哲学、レヴィナス』のどこかの注釈に記述がある。そんなに細かくもないし具体的でもないが。
・千葉はいとうせいこうとの対談(『思弁的実在論と現代について』に入っている)で『動きすぎてはいけない』がレヴィナスやデリダの他者論の影響を受けて書かれたものであることを明かしている。
・他者に取り憑かれすぎないようにする、みたいなことをその対談では語っているが、これについては私もなんとなく心当たりがある。ただ、私は憑依というよりも、重たさみたいなものであった。「他人が私のように生きていたら世界が重たすぎるじゃないか。」みたいな感じ。
・「作品」は欲望を駆り立てるが、そもそも欲望がない場合は駆り立てるものもない。千葉はこのことを「享楽的なこだわり」の存在によって解決しているように思われる。
・「享楽的なこだわり」が複数であることの意味が正直よくわからない。もしかすると「何かひとつの塊に見えてくる」ためには複数性が必要だからなのか?はさすがに穿ちすぎか。
・いやあもちろん、サディスティックになりすぎちゃう、みたいなことはわかるけれど、それはどうせ書くことによって、作ることによって解決されるからなあ、みたいに思っちゃう。
・でも、他人の苦悩を勝手に軽くして鼻で笑うのは最悪だからそうならないようにしたい。
・やっぱり「作品」からそれを作った者、とりあえず「『作品』を作った者」として「作者」を考えたとして、それに「遡行」(この用語は福尾匠が『眼がスクリーンになるとき』(河出文庫)解説としてされた座談会のなかで出てきた用語である。)していきたいみたいな気持ちがない。私にはあまり。
・もちろん「作者」をそれとして想定するときにしか見えない「作品」たちの関係、「作品」群がそれであることの気持ちよさみたいなのはわかるよ。たぶんそれこそ「何かひとつの塊に見えてくるほどにそこから、果てしない広がりとして偶然性がまばゆく炸裂する。」みたいな気持ちよさである。それはわかるけど、それもそれこそdeepな気持ちよさの一部だと思うんだよなあ。私なりの「メタゲーム」。
・たまに私に「○○(私のこと)はセンスがない人を無自覚に見下してそう。」とか実際見下しているとか言われることがあるが、私はちゃんと蓮實的に「偉い」のだろうか。

うつ伏せから仰向けになった。そろそろ寝そうだ。明日の推敲は大変そうだ。とりあえずさらさらーっと推敲して、もっと真剣に読みながらする推敲は分けたらいいからね。アドバイス。

・一つの工夫だと思うんすよ。今日、私、朝、本読もうとしたけど読めなかったんすよ。それでもラジオを聴くとか初詣に行くとかして、なんとかして結局夜には本が読めたんすよ。そういう感じで何かができないときでも他の何かはできるときがあって、そういう安心感を育もうとしているのかもしれないっすよね。「deep study」構想は。自己防衛的な意味で。もちろん千葉が言っているみたいなポジティブさはありますけど。
・なんかねえ、「疲労」って経験(論)的なものなんすかねえ。もちろんそうなんすけど、かなり哲学的な概念だと思うんですよね。私は。千葉も『動きすぎてはいけない』でドゥルーズが「疲労」と「観想」を対比させている箇所を引いてたじゃないですか。眠いんで確認しにいきませんけど。レヴィナスも(主に初期ですかね)に「疲れ」の話してたじゃないですか。そこらへんとの絡みも考えたいですよね。「享楽的なこだわり」と「疲労」の関係について。

寝ます。眠すぎます。ではまた明日。軽うく推敲バージョンはここでお別れですかね。まあ、ちゃんと推敲バージョンが出るかは分かりませんけど。長かったですねえ。もう夜の一時です。風呂に入っているときも考えていたことには考えていましたから、合計で四時間半ですか。長いですねえ。スピーディーさがあればいいんですけど。ニヤニヤしちゃうくらいなさそうですね。困りました。まあいいです。寝ます。

朝の私です。スピーディーに推敲できました。今日はこれを読むか、ライオンキングを観に行きます。

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