ブクログの思想について

私はブクログというアプリを愛用している。いや、「愛用している」と言うにはあまりにも適当に登録しすぎていると思うからもう少しだけ狭めさせてもらおう。読みたい本をバサっと掴むことに愛用している。

しかし、いや、だからこそ、だろうか、疑問に思うことがある。大きく言えばブクログは本を分類していくアプリなのだが、その分類がよくわからないのである。「すべて」「感想を書いた」「読みたい」「いま読んでいる」「読み終わった」「積読」、この六つのファイルに本は分類される。もっと下位の分類も作ろうとすれば作れるが、これが基本的な分類である。今回は「すべて」と「感想を書いた」は省いて考えよう。なぜなら、「すべて」はそもそも「ファイル」ですらないかもしれないからであり、「感想を書いた」ことはまだない、し、書く気もないからである。

「読みたい」「いま読んでいる」「読み終わった」「積読」を考える上で一つ、とても単純な図式を導入しよう。それは私たちが「本を読む」となったときにだいたい辿るであろう道筋である。興味を持つ→手に入れる→読む、これらを辿って私たちは「本を読む」。この図式では再読は考えられないが、それはとりあえず、問題になるまで置いておこう。

大まかに言って、「読みたい」は「興味を持つ」というところに、「いま読んでいる」と「読み終わった」は「読む」というところに、「積読」は「手に入れる」と「読む」のあいだにあると言っていいだろう。

このように大まかに捉えたとき、私は考えたいことが二つある。一つは「読みたい」はこの図式では一応「興味を持つ」に位置付けられるだろうけれど、本当はこの図式の全体に関わることなのではないか、ということ。もう一つは「積読」は「手に入れる」を「購入する」に限定しているからこそ成り立つのではないか、ということである。後者から考えよう。

私が上の図式で「手に入れる」を「購入する」にしなかったのは図書館で借りるという手段があると思ったからである。しかし、普通「積読」と言う場合は図書館で借りるのではなくすでに買っていて、読もうと思えばすぐに読める、みたいなことを指すだろう。だから、そのことによって「手に入れる」は「購入する」に限定されるのである。「図書館で借りる」という「手に入れる」を所有と呼び、「購入する」という「手に入れる」を所持と呼ぶごとにしよう。ここからは。

次に前者である。前者はかなり複雑な問題を含んでいる。し、「読む」が「いま読んでいる」と「読み終わった」だけでいいのか、ということも思い始めた。が、当たりだけつけておこう。

興味を持つ→手に入れる→読むのなかで「どうしてそれをしたんですか?」と問われて「読みたかったから」と答えるのに抵抗がないのはどこからだろうか。いや、この問いは変な問いかもしれない。問いはこうであるかもしれない。どこから他人に「どうしてそれをしたんですか?」と問われうるだろうか。いや、「公表したとき」というそっけない答えがあるからそれは問いではないのかもしれない。

「読みたい」というのは究極の答えではない。「究極の答えではない」というのは「どうしてそれをしたんですか?」と問い続けた果てにある答えではないということである。それはなぜか。それは「したい」というのが「究極の答え」だからである。「読みたい」はその「したい」に限定を加えているから「究極の答え」ではないのである。しかし、それは問いが「どうしてそれをしたんですか?」という問いだからであり、「どうしてそれを読んでいるんですか?」だとそうはならない。

ずっと当たり前のことしか言っていない。筋違いだったかもしれない。考え事として。とりあえずさっき軽く触れた「読む」が「いま読んでいる」と「読み終わった」だけでいいのか、ということについて考えよう。

その前にご飯を食べます。

メモみたいに書きます。

単純に思うのは「読む」は「いま読んでいる」から始まるわけではなく広い意味での「積読」から始まるのではないかということです。

知識とか思考とか、そういうものにはマッピング的なところ、そこから力を得ているところがあって、広い意味での「積読」はそれがすでに始まっているという意味では「読む」に入るのではないか、そう思っているのです。たぶん。

例えば、こういうふうに書いているとき私の脳裏には永田希さんの『積読こそが完全な読書術である』という本があります。所有しているだけですけど。内容は全然知らないですよ。けれど、ここまで言ってきた「広い意味での『積読』」(ちなみにこの概念はさっきした考え事で「想像的積読」と呼ばれています。「実際的積読」と対比されて。一つ前の文章だと思うので気になる方は読んでください。)の話をしているだろうとは思っている。こういう、準備みたいなものが「読む」には大いにあって、それが重要だと私は思うわけです。

まあ、そんなことを言うと、「ファイル」に入れて整理する、ということがそもそも、そのような「読む」の在り方を反映できないということになるのかもしれません。一つの本は下位分類を使わない限り一つの「ファイル」にしか入らないわけですから。ブクログは。まあ、複数の「ファイル」に入るとしても、よくわからないですけれど。ここでの問題のようなものはたぶん解決しないですけれど。

だからこそ適当に使わざるを得なくなっているとも言えるかもしれません。違和感があって。

違和感で言うと「読み終わった」も違和感なんですよね。「読み終わった」ということはあり得るのか。みたいにつんのめりたくはないですけど、そういう感じはあるわけです。実感として。

もちろん、それぞれの「ファイル」はただの名前なので、自分なりに四つに「ファイル」を分けてみてもいいとは思います。

さて、食べ終わりました。ここまでの「メモみたいに書きます」と言ったところで尽きているっちゃあ尽きているのかもしれませんね。

なのでここまでを推敲していい感じにスパッとまとめられそうだったらまとめて、まとめられなかったら皆さんがなんとかしてください。

まとめられそうにありません。すみません。

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