「優れている」ということの一つの解釈

優れているということの一つの解釈。私はそれを発見した。優れているとは本を「今日はここまで」と閉じさせるようなことである。

私は『なしのたわむれ』(素粒社)という本を読んでいました。その本は俳人である小津夜景さんと音楽家である須藤岳史さんが文通をしている本です。私は小津さんからの手紙、しかも最初の手紙で本を置きました。そして上のように思ったのです。いや、精確に言えば、本を閉じて本をしまったのです。そして私は思いました。優れているとはこういうことだ。と。そのことについて考えていきましょう。

まず、私はそのように思ったあと、すぐさま思いました。ここでの「優れている」はページを捲る手が止まらないとか目を離せないとか、そういう、駆り立てられていて、忙しないものではない、と。しかし、このように言うとまるで「優れている」が鎮静作用のある、落ち着かせるような、そんなものであるように見えるかもしれません。しかし、そういうわけではありません。もう一度、私が冒頭で書いた定義めいたものを確認しましょう。ちなみに先に言っておきますが、この文章はすごく練られたものではないのでとりあえず少し前の私と今の私を対比させることで理解を促進していこうとしています。

優れているとは本を「今日はここまで」と閉じさせるようなことである。

なんだか、あらためて見てみるとよくわからない定義ですね。ただ、ここで注目したいのは、「閉じさせる」というところです。「閉じさせる」ということと「落ち着かせる」ということは別のことです。さらに言えば、むしろ上に挙げたような忙しなさ、駆り立てられる感じ、そういうものが静かに、しかし確かに圧を持って迫ってくる。「閉じさせる」というだけではなく本をなおすまでいく。今日はとりあえず読まないぞ、までいく。いかされる。それが「優れている」ということなのです。一旦受け止める時間を作れ、と言われる。それが「優れている」ということなのです。

私たちの使う「優れている」というのは「AとBを比べてどちらかがより上位にある」みたいなことを指すと思います。そこでは度量衡が必要です。AとBを比べるための。度量衡の内部には対比させる作用と上下をつける作用とがあります。上下をつける作用はたまに批判されていたりします。対比させる作用もごくたまに批判されていたりします。それぞれ別の方法や基準を持ち出すことでオルタナティブを提示しようとします。しかし、ここでの「優れている」というのはそれらの批判とは異なる方法で「優れている」の意味を転換しようとしています。少なくとも私にはそのように見えます。

いきなり忙しなさの話から構造の話へと移ったのでびっくりした人もいるかもしれません。なので、このつながりが何によるものなのかを確認しましょう。端的に言えば、ここで重要なのは「欲望」です。そしてその「継続」です。生き生きと生きることに役立つか?これが「優れている」か否かを決定する一つの基準です。いや、これは留保で、実はすべての基準かもしれません。まあ、それはとりあえずどっちでもいいですが、ここで重要なのは「欲望」とその「継続」には二つの触発があるということです。そして、その二つの触発はそれらについて考える二つの仕方に繋がっていくということです。

大きな風呂敷を広げましたが、正直私にはこれを考える力があるとは思えません。本質を掴んでいるとは思いません。ただ、掴めそうな気はしています。それをなんとかここまで保ってきたわけです。

ここで一つだけヒントというか、補助線を引くとすれば、「上下をつける作用」と「駆り立てる/駆り立てられること」は同じ線の上にあります。しかし、私にはそれがよくわかりません。しかし、そこで言われていることが「本を『今日はここまで』と閉じさせ」られるということによって理解できた気がしたのです。受動性に揃えるとすれば、「上下をつける作用」によって「駆り立てられる」という描像よりも「本を『今日はここまで』と閉じさせ」られるという描像のほうが「欲望」やその「継続」について考えられる気がしたのです。このように整理してみると、私は作用とそれがもたらす状態がまだ区別できていないのでしょう。しかしそう思うと、前者の描像はなぜ区別できているのでしょうか。それがよくわからないのかもしれません。

すごく元も子もないことを言うと、私は本当はそもそも最初から手紙を一つずつ読もうと思っていたので、私はしようとしていたことをある強度を持ってさせられただけです。もしかするとこのことはとても関係があることなのかもしれません。前者の描像はなんの「欲望」も持たない人の「欲望」を「継続」するみたいな問題設定に見える気もしますから。しかしそんな人はいないのです。しかし、そうだとしても、「欲望」が何なのか、なぜ「継続」なんてできるのか、それはよくわかりません。みなさんがよくわからないかはわかりません。これが一人で考えることの弱さですね。

誰か呼びますか?

まあ、今日は志賀直哉から芥川龍之介への指摘を引いておきましょう。適切ではないなあ、と思いながらこの文章の裏にはいつもその指摘がありました。まあ、その裏にも千葉雅也の指摘があるのですが、今日はそこまでは行きません。閉じておきます。

芥川君の「奉教人の死」の主人公が死んで見たら実は女だったという事を何故最初から読者に知らせて置かなかったか、という事だった。今は忘れたが、あれは三度読者に思いがけない想いをさせるような筋だったと思う。筋としては面白く、筋としてはいいと思うが、作中の他の人物同様、読者まで一緒に知らさずに置いて、しまいで背負投げを食わすやり方は、読者の鑑賞がその方へ引張られるため、其所まで持って行く筋道の骨折りが無駄になり、損だと思うと私はいった。読者を作者と同じ場所で見物させて置く方が私は好きだ。芥川君のような一行々々苦心して行く人の物なら、読者はその道筋のうまさを味わって行く方がよく、そうしなければ勿体ない話だというような意味をいった。あれでは読者の頭には筋だけが残り、折角の筋道のうまさは忘れられる、それは惜しい事だという意味だった。

『志賀直哉随筆集』225頁

ここで重要なのはおそらく、「筋/筋道」の違いでしょう。「ここ」というのはこの考察にとって、という意味です。引用元からすれば、この場所だけを引用することにはなんの意味もないかもしれません。しかし、ここで重要なのは「筋/筋道」の違いです。「筋」が「読者」に隠されていると「筋」ばかりが残り「筋道」は残らない。

よくわからなくなってしまいました。「読者」がなんなのか、それがよくわかりません。ここまでの考察にとっての「読者」とはなんなのか、が。しかし、「筋道」ではなく「筋」を見てしまうという、そしてそれが書き方に由来するという、そのこと自体は、そしてそこに「隠す」という契機があるという、そのことはおそらくここまでの考察に関係があると思います。

種を超え、時空を超えて、沈黙する相手に臨み、無言の饗宴に与ることで、旧い観念をほぐし、新たな観念をむすび、ふたたびほぐす──こうしたいとなみから知ることは少なくありません。たとえばわたしは長いこと、人間は夢のなかにいるのだと思っていたのですが、ある日、花をながめていて、それが完全に間違っていることに気がつきました。正しくは、わたしがこの世界を夢見ているのではなく、世界がこのわたしを夢見ている。物質が生命という現象を灯している。光のからくりからなる天然色の森羅万象をオーラのように発しながら、世界はいましもここにいる。つまり人生は夢だというとき、その夢を見ているのは人間ではなく世界だったのです。

『なしのたわむれ』18頁

私はこの箇所、小津夜景さんが書いたこの箇所がよくわかりませんでした。しかし、別にこのよくわからなさは解消されません。「解消」という言い方は間違っています。なんというか、勝手に響くものになるわけではありません。一応の、という保留をつけつつ、私が何とか掴まなくてはなりません。だって、もう私は掴まれてしまっているのですから。この文章に。この文章だけを引用しても仕方ありません。それはそうです。しかし、そうなると、私はどの文章も削れず、人類の歴史は語れず、私は狼狽えることすらできません。

「手紙」という形式について、早くも須藤と小津はそれぞれ次のように述べています。須藤から小津へ、の流れ。「筋道」。

ジュリアン・バーンズの小説『フロベールの鸚鵡』に「喜びはまず期待のなかにあり、のちに記憶のなかで見つかる」という一節があるが、手紙もまた、期待と記憶のあわいにあるもののような気がしてならない。そして書くことは手放すことだ。手紙はとくにそうだ。音楽はあとに残らないし、いつも一回限りだから、すべてをその演奏につぎ込む。対して書かれたものは文字になって残る。だから大切なものが中途半端になってしまわないように、ついつい書き惜しんでしまったりもする。しかし完璧さを求めて書くことを先延ばしにしているあいだに書けなくなってしまうこともある。私たちの心はいつも変化していて、大切さもまた自分との関係で決まってくるからだ。書くことにも季節がある。
書くことといっても、手紙の場合はもうちょっと気楽だ。手紙の向こうには具体的な相手が存在するからだ。相手に何かを伝えたい時は出し惜しみをしてはいられない。だから、ふと思いついたことを終着点の見当もつけずに、そのまま書いてしまうこともあるし、話がぴったりと収まらなかったりもする。けれど、きっとそれでいいのだ。人の生には限りがあるし、手放すことは相手に何かを委ねることだし、語りきれなかったことは「またいつか」という未来の時間を祝福しているからだ。

『なしのたわむれ』3頁

私はここまで「優れている」ということを「本」という具体的なものと、「閉じさせ」られるという具体的なこととともに考えてきました。それ自体に意味があったのかもしれません。「音楽」では「閉じさせ」られるということは不可能だからです。もちろん、急に接続が切れたりしたら可能ですけれど、そういうことは一つの「筋」になってしまう。そんな粘り気が「本」ということにはあったのです。

手紙という作法は対話よりもずっと濃密な秘密の香りを有しています。またその秘密はいまここで交わされるのではなく、書く時間、届く時間、待つ時間といったさまざまな紆曲の果てに、時の忘れ去られた場所で明かされます。さらに手紙は対話によくある「あなたとわたし」という閉じた回路をつくりません。手紙を書くとは沈黙している相手にむかって言葉を投げかけることで、花や、虫や、雲や、海に語りかけるときのように無限へとひらかれているのです。

『なしのたわむれ』17-18頁

小津の最初の手紙はもちろん須藤に向けられたものです。しかし、小津がここで書いているようにそれは「沈黙している相手」にも向けられているものです。それが、この手紙に対する手紙、小津に対する須藤の手紙を読むと薄れてしまう。とりあえず「時間」を確保しなくてはならない。そんな感じが私に「閉じさせる」のです。「本」を。

ここには、断絶を埋めようとするのではなく断絶を確保しようとする、そんな課題があるように見えます。そしてその課題に私はかろうじて「欲望」を「継続する」可能性を見ているのかもしれません。そうしないと生きていけないから。いや、そうしないとわざわざ生きている必要がないから。そして、周りの人はおそらく私に生きていてほしいと願っているから。それを聞き入れたいから。これも一つの物語です。手紙ではありません。私は結局「沈黙する相手」を見つけられませんでした。少なくともここでは。

この考察を始める直前、私は次のように書いていた。

生きていこうと思った。なんて言ったらまるで死にたかったみたいに見える。けれども、そういうわけではないときもある。そのヒントが「まるで〜みたい」と「見える」にあるのだ。

2024/8/3「検索蛸」

このときもしかすると私は未来の私、そう、つまりこの私に話しかけていたのかもしれない。手紙を書き始めていたのかもしれない。そのことを思い出して本を閉じたのかもしれない。

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