臨済録のうんこ

 結論から書くと臨済録で強烈に印象に残るうんこ『乾屎橛かんしけつ』『糞塊ふんかい』『屎塊子しかいす』は百丈広録の『除糞』の糞ではないかというのがこの駄文の趣旨です。
臨済録とは臨済宗の祖とされる唐代の禅僧臨済義玄の記録を集めたものです。

 乾屎橛から。
 師は上堂して言った、「諸君の裸一貫の身に位階なき真人がいる。それが顔から出入りしておるぞ!」すると僧が一歩踏み出して問うた、「位階なき真人とは、なんでありましょうか?」師はただちに禅牀を降りてひっ捕まえて、「言え!言え!」僧は何か言おうとするや、師は突き放して、「位階なき真人が何たる屎棒か!」と言うなり、方丈へ帰ってしまった。[新国訳大蔵経 六祖壇経・臨済録 衣川賢次の現代語訳]
 乾屎橛は屎棒と訳されています。この乾屎橛は以前はクソカキベラと読まれていましたが屎橛とは棒状の糞で乾屎橛はさらにそれの乾いたものだそうです。で、これを読んだ際に棒状ということは長方形でクソは大便、ならば方便のことを言っているのかと思いついたのです。とはいえ、臨済の時代に便が排泄物を指す言葉として使われていたかをまず確かめようと白川静『字統』などをあたって見たのですがよくわかりませんでした。というわけでこの思いつきは保留にしました。

 とりあえず次に糞塊です。
「わたしが諸君に与えるものは何もない。ただ諸君の病を癒し、自縄自縛を解いてやるだけだ。よそから行脚に来た諸君よ!何物にも依存しないで出て来い!わたしはきみたちとともに問題を突き詰めたいと思ってきいるが、五年十年このかた、相手になる者はひとりもおらぬ。みな草葉に依りついた亡霊やら竹木の妖怪やら狐の化け物やらであって、他人の野糞によってたかって喰らいついておるのだ。ボンクラどもめ! 多くの信者から施しを受けながら、それに報いることもできず、『わたくしは出家人ですから』などと言って、当然だという料簡でいる。きみたちに言おう、『他に求むべき佛もなければ法もない。修行をして得るべき悟りなどないのだ。』それなのにひたすら軒なみに叢林を訪ねまわって、何を求めておるのだ?ボンクラどもめ!自分の頭の上にもうひとつ頭をのっけるのか!きみたち自身にいったい何が欠けているというのか」[新国訳大蔵経 六祖壇経・臨済録 衣川賢次の現代語訳]
 糞塊は他人の野糞と訳されています。ここでは唐代の禅の基調である『即心是仏』心こそが仏にほかならない。その心とはどこか誰かのものではなく君たち自身の心であり修行などによって作為されたものでは無くそのままで何ら欠けていないのに、仏法だ悟りだを求める餓えによってクソを喰らう餓鬼となっているぞ。と言おうとしているのかなと思いました。施しを受けるというところが施餓鬼にかかっているならうまい説明になるかもしれませんが施餓鬼の風習が当時にあったのかを調べるとなると手に余るのでこれも保留です。

 次いで屎塊子。
 「このごろの修行者どもがいかんのは、結局、言葉に執われて解釈ばかりしているためである。大判の帳面に死にぞこないの老いぼれ坊主の言った言葉をれいれいしく書き写してからに、三重五重に袱紗に包んでは、人に見せまいとしおって、『これぞ玄妙なる奥義だ』などと後生大事にしまっておる。大間違いだ!ボンクラどもめ!諸君は干乾びた骨を齧って何の汁を吸おうとするのか!」「見識のない連中どもは経典をひねくりまわして、あてずっぽうで相談しては意味をでっち上げようとばかりしておる。人のウンコを口に入れてくちゃくちゃ咬んでは、また吐き出して他人に食わせてやるようなものだ。まるで俗人が早口言葉を言わせるようなことをやって、一生を無駄に送るつもりか!『俺は出家人だ』と口ではえらそうに言うが、『佛の教えとは何だ?』と問われたら、たちまちグウの音も出ず、眼はただのふし穴、口はへの字の天秤棒だ。こういう輩はたとい弥勒菩薩が救済に現れても、とっくに地獄の世界に連れて行かれて、責め苦に苛まれていることだろう。」[新国訳大蔵経 六祖壇経・臨済録 衣川賢次の現代語訳]
 屎塊子はそのままウンコと訳されています。想像するだけでも最悪な絵面ですね。ともかく、ここでは先人の語録や経にある言葉はうんこか出涸らしみたいな干からびた骨、そのようなものをくちゃくちゃしてどうするんだ。と臨済は言っていると思います。

 で、臨済義玄の師は黄檗希運です。黄檗希運の師は百丈懐海です。とりあえず、黄檗の言葉中にうんこ関連がないかというと一応あります。
 『法華経』にも『二十年の間、つねに糞の掃除をやらせた』というてある。それはほかでもない、心中に作り上げた観念を掃きすてるということだ。また『無意味な議論という糞を取り除く』ともいうてある。[黄檗伝心法要 苑陵録 入矢義高の現代語訳]
 全部を引用すると長いのでここだけ抜書きしておきます。黄檗の師百丈の言葉を百丈広録から引きます。
 問ふ、「二十年中、常に糞を除せしむとは如何。」師云く、「但だ一切有無の知見をめ、但だ一切の貪求を息めて、箇箇三句の外に透過する。是れを除糞と名く。祇だ如今佛を求め菩提を求め、一切有無等の法を求むるを、是れ運糞入を名けて、運糞出と名けず。祇だ如今佛見を作し、佛解を作して、但だ所見所求所著のみ有るは、盡く戯論けろんの糞と名け、亦麤言と名け、亦死語と名く…[国訳禅学大成 第九巻 百丈廣録]
 現代語訳が無いので訓み下しですがその意味は仏だとか菩提だとか法を求めるのは糞を運び入れる。仏というものを知識として理解するのは戯論の糞である。そういった事を止めるのが除糞であると言っていると思います。黄檗は師の説をほぼそのまま受けているのだと思います。
 『二十年中常令除糞』『戯論之糞』は妙法蓮華経の信解品にある言葉です。信解品は方便をもって執着する心を捨てさせ小乗二乗の教えから大乗の教えへと導く事を寓話的に説いたものです。天台智顗による妙法蓮華経の注釈書である妙法蓮華経文句に『未だはばかり無きことを得ざるが故に二十年に常に糞を除かしむることを譬ふ。(中略)まさしく小志を捨てず大機發せざるに由る。是を以てしばらく教に依りて漏を盡さしむ』とあります漏とは有漏で煩悩の事だと思います。また妙法蓮華経文句には『教を般若に轉ずる』とあります。般若とは究極の知恵です。教によってはばかりや漏をなくならせられるが教は般若に転じなければならないと説いています。教とは般若そのものではないのです。仏教において説かれた言葉は権教ごんきょうりに説かれた教えという考え方があります。また月を指差す指だとも言われます。月というものは動きますし隠れます満ち欠けもします。ある時ある場所である人へ般若へと至らしむるためにかりに説かれた言葉、あくまでもその際においての教えだとするものです。
 でもって、臨済録のうんこについてです。そもそもうんことはなんでしょうか。食べたものの栄養が吸収された後に排泄されたものです。臨済は汁も出ない骨とも言っているので残り滓だといいたいのでしょう。ある時その場その際に月を刺した指の記録。方便が成功もしくは失敗したとしてもその際においてのみ有意義なものであり、いわば般若への大機発せるものだったものの残り滓。臨済にとっては経典や先人の言葉を溜め込んでは反芻しては人に説くなどというのは他人のうんこをくちゃくちゃとした後に人に食わせる。昔の記録などというお化けの類に取り憑かれたか取り憑いてさらにうんこでしかない大量の記録に喰らいつくなどお化けの仲間入りをするものでしかなかったのでしょう。
 臨済は言っています「『他に求むべき佛もなければ法もない。修行をして得るべき悟りなどないのだ。』」「きみたち自身にいったい何が欠けているというのか」と、何も欠けていないのですから般若も元より備わっている。それを「諸君の裸一貫の身に位階なき真人がいる。それが顔から出入りしておるぞ!」と方便をもって示したわけですが、聞いていた僧を大機発せさせることはできませんでした。「位階なき真人が何たる屎棒か!」乾屎橛、もう乾涸びてしまった除くべき糞が無駄にできてしまった。

 などと書いていたのですが『国訳漢文大成 (経子史部 礼記)』を気まぐれから読んでいると「凡そ長者の爲に糞する禮は…」という文の「糞」についた註が「糞は掃除也。」とありました。『國譯大蔵経 國譯妙法蓮華經』『國譯大蔵経 妙法蓮華經文句』には「糞」を「あくた」と読んでいるところもあります。『字統』によると「糞」は「けがれをとる・はらう・つちかう・くそ」となっています。さて、糞はうんこなのかと疑問が湧いてしまいます。臨済録の糞塊はうんこの塊と思われますが「あくたの塊」の可能性もあるような気がします。除糞という語も「はらう」という意味かもしれません。もしかしたら、妙法蓮華経の漢訳された時点では「はらう」であったのが百丈(百丈広録)から臨済(臨済録)の間に「くそを除く」という意味に変化したのかもれません。手に余ることに手出ししてどうしようも無くなったので終わりにします。

 あ、あと、禅の話をしているのに急に法華経とか天台智顗とかでてくるのは違うんじゃないかとお思いの方もおられるかもしれませんが天台智顗は続高僧伝の習禅篇と宋代にまとめられた禅宗史である景徳伝灯録に伝があるそうなのでギリセーフとしてください。

主な参考
『臨済録』禅の語録のことばと思想 小川隆
臨済 外に凡聖を取らず、内に根本に住せず 衣川賢次
増補 自己と超越 禅・人・ことば 入矢義高
天台大師の研究 池田魯參


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