未来都市はムラに近似する

書評_037
ADL(慶應SFC松川研究室)B2 相川隼哉

書籍情報
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発行日 2021年3月2日
著 者 北山 恒
発行所 彰国社
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本の概要の説明
少子高齢化などによる人口減少社会を迎えている日本は、世界の近未来である。このような社会は今後どのように終着するのか。本書では、著者である建築家・北山恒が近年発表してきた都市論を再編集したものである。

著者の説明
著者は、1950年生まれの建築家。横浜国立大学大学院修士課程修了、1978年architecture WORKSHOP設立主宰(共同主宰)。代表作には、「洗足の連結住棟」「祐天寺の連結住棟」「公立苅田総合病院」などがある。

本の要約

本書は「はじめに、第一章、第二章」と三つの章によって構成されていて、最終章では、さらに細かく4つの節に分かれている。

「ジャンパン・シンドローム」ということばがあるように日本は現在、産業化社会の行き着く先の未来を経験しているといわれている。このような少子化問題などから人口が急激に減少している社会がこの先どこに行きつくのかを様々な視点から考えることで、この未知の未来社会のあり方を本書で考察している。

はじめにの「未来都市はムラに近似する」では、コロナ禍によって人間活動のレベルが急減したことによる環境の改善や人との接触を避けらために集合形式で与えられてきた建築空間や都市空間の変更が求められたことから、コロナ禍で求められた「新しい日常生活」が集積ではなく離散の概念をもつ生活であったとしている。

 コロナ禍以前の生活は、「シカゴモデル」と言われ毎日決まった時間に決まった場所に通勤をするのが当たり前の生活であった。そのため、都市の中心部に業務中心地区があり、それを囲むように環状の鉄道や放射状に広げた通勤電車を通し、沿線開発を行うといった都市社会が展開されていた。このような都市社会は、資本主義社会を運営していくには最適解であると考えられていたため世界各地で同様な都市風景が広がった。
 
 このようにインフラで構成された都市は先に述べた「日常生活」を人々に強制する巨大な空間装置と考えられる。

 「新しい日常生活」はこのような制限から解放された「活動的生」を求められている。都市は、集積することを止め、急速にローカルなネットワークに変容することも考えられる。その時は、経済活動の結果として生まれる都市風景は終焉し、その代わり、地域特有の生活を支える空間が出現すると考えられる。

 経済活動の結果として生まれる風景を「都市」、地域特有の生活を支える空間を「ムラ」と考えると、未来都市はムラに近似するのではないかと著者は主張する。

第一章の「近代から解放されて」では、商業化され資本活動を中心とする社会を「近代」と考え、その「近代」という総体を相対化することにより未来を見ようと試みている。

20世紀という世紀は集落(=ムラ)と都市の分離を推し進めてきた。
建築とは、人間と空間を関係づける形式であり、身体的に共同体への参加を感じる「場」をつくる技術である。その建築によって人々は記名された人間の集合の状態を認識できる。そして、建築とは、身体に対応する空間のスケールを創造することによって、人々の活動的生を獲得できるものだと著者は主張する。

 第二章の「都市の中のムラ」では、人口が急減する時代にはどのような都市論が求められてるかと、具体的にそれを表す空間について語られている。

 人口の急増する時代である20世紀の都市は資本活動に対応するハードウェアーとして構想された。都市は生活の場であり、住宅こそが都市の主役なのだが、その住宅はハウスメーカーの量産住宅やタワーマンションという不動産商品である。
 そこに大きな軋轢が生まれ、20世紀半ばには都市の問題が顕在化していた。この時代に多くの都市論が提示されていた。しかし、資本主義という拡張拡大を原理とする社会システムの不可能性が現実のものとなり、日本では人口が急減する時代を迎えている。

 人口が急減する時代には、縮減する社会に対する新たな都市論が必要であり、広井氏が示唆する「新しい共同体を創造する空間」がその新たな都市論の手がかりになるのではないかと著者は考えている。
 広井氏による、個人、共同体、自然の関係を表す三角形のダイアグラムがあるが、それは個人は共同体に包含され、共同体は自然に包含されるという至極当たり前の図である。
西洋の都市は、自然から離脱した人工環境であり、資本主義の進行の中では、個人は、共同体からも切り離され、社会の中で孤立していく。
 この切り離された個人、共同体そして自然を再度接続し社会に着陸させるための空間構造が新たな都市論として求められている。

[引用]https://www.youtube.com/watch?v=RFVHZLv7keY&t=953sより

 つまり、切り離された個人、共同体、自然が「都市」、接続された個人、共同体、自然が「ムラ」であるので、この関係をつなぐものが近代社会が想定した「都市」という集合形式を止揚して都市ではない「非都市=ムラ」を表現するものである。

 そのような「非都市=ムラ」を表現する「関係性の建築」として本書で挙げられているのがオープンスペースである。誰もがアクセス可能であるので、人々が日常を経験、共有する場所であり、コミュニティという人間の関係性をデザインする重要な建築要素である。

そして生活の場がその外部空間にすぐにアクセスできる低層の、しかも小さな空間が集まるクラスターのような構成で、働く場と生活の場が混在するようになると、労働ではない活動的生としての働き方は多様になり、生活の場との関係を持つ生業が生まれてくると考えられる。そしてこのようなオープンスペースが近隣にあたりまえに存在し、働くことと生活することの両方をあたりまえに支える。そんな新しい日常または新しいあたりまえが登場する。そんな「新しい日常生活=ムラ」の空間形式が実体化され、それが人々の承認を得られれば、いとも簡単に現代都市のモデルは大転換するのではないか。
人々がこのような空間形式を求めた時、私たちの都市は、ムラに近似するのではないか。

本の批評

 本書評の筆者は、特に「個人、共同体、自然の関係」に着目した。
 私はこの中で本書で語られている自然が、植物だけでなくその土地の風土、地域性、文化など広いものを指す言葉に感じた。これを「その空間や集団、場所の性質や思想」と考えると、この関係は、都市論だけに留まらず他の関係性にも言えるのではないかと感じた。
 例えば、研究会で考えると生徒(個人)が研究会(共同体)に所属し、その研究会で行われるプロジェクト等を通してその集団の思想(自然)を学び、共有する。このように研究会の関係も言い表すことができるのではないかと考える。
 また、本書の中で「個人、共同体、自然」を接続する「関係性の建築」としてオープンスペースが挙げられている。そのように考えた時、研究会の関係を作る「関係性の建築」が何かと考えると、研究室、私が所属する松川研では森アトリエがそれにあたるものの一つであると考える。
 森アトリエもオープンスペースと同じく、研究室の生徒が誰もがアクセス可能で、生徒たちが日常を経験、共有する場所になっている。個人の所有者がいない共有スペースである、森アトリエで過ごすことで、研究室の文化が作られ、継承されていたと考えられる。

 このことから「個人、共同体、自然」が繋がる関係ができるのは同一空間を複数の人で共有することによって起こる事象だと考えられる。

 本書では、先に述べたように複数の人で共有する空間を実空間にオープンスペースとして作ることで、「個人、共同体、自然」を接続する「関係性の建築」を行っている。本書では、都市論に促してこれらが述べられていたので、実空間に対してのみ語られていたが、私はインターネットなど情報環境の中にも作ることが可能だと考える。例えば、自由に出入りすることができる共有のzoomなど複数の人で共有する空間を情報環境でも作ることが出来れば、「個人、共同体、自然」の関係を作り出すことができると考える。
 このように、実環境以外にも空間を作り出すことができると私は考える。

 また、本書では著者が設計したオープンスペースについても書かれている。
 そこでの著者の主張を私なりにまとめると、

街の中にオープンスペースがあれば、そこに菜園や防災拠点などが生まれ、そこから労働ではない活動的生としての働き方は多様になり、生活の場との関係を持つ生業が生まれる。そして身近にある外部空間は自然と接続し、祭りをともなう新しい生活のリズムが創造されるはずである。

 確かにこれが起こりうる可能性は大きいかもしれないが、これを見た時私はこの様な空間が必ず人によって利用されたり、し続けられるのか疑問を感じた。先に例で挙げた自由に出入りすることができる共有のzoomは一定期間は続いたが、それ以上続くことがなかった。この様に、オープンスペースを設計し使われ始めても一定時間をすぎるとそれを利用する人がいなくなり空き地と化してしまう可能性を十分にはらんでいるし、そもそもその空間が使われない可能性もあると考える。

 持続的に人々の行動を生むには、レッシグが提案するように、「法」、「規範」、「市場」、「アーキテクチャ」によって人の行動を規制することが必要であると私は考える。


ゼミでの議題
 そこで今回の書評ゼミでは、
街の中にあるムラ的な空間である誰にも所有されていないオープンスペースでは、
1.「法」、「規範」、「市場」、「アーキテクチャ」がないと人の行動が起こったり、継続されない
2.自然と外部空間は自然と接続し、祭りをともなう新しい生活のリズムが創造される
という立場に分かれて議論したいと思う。

そのために自分達が所属する集団や組織が
1.都市的な関係(個人、共同体、自然の関係が切り離されている)か
2.ムラ的な関係(個人、共同体、自然の関係が繋がれている)かを考え、
その組織がムラ的な関係の場合、それを関係づける空間がどのようにして成り立っているのかという具体的な事例も話しながら討論できたらと思う。

 参考
[1] 北山 恒 (2021) 『未来都市はムラに近似する』
[2] ローレンス・レッシグ (2001) 『CODE―インターネットの合法・違法・プライバシー』
[3] https://www.youtube.com/watch?v=RFVHZLv7keY&t=953s


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