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【その8】家族ではなくチームとして生きる

いろんな人に週末里親の話をし始めて、ちょっとだけ私の心のなかに、もやもやっとしたものが生まれる瞬間があった。
いろんな人の考え方があるなかで、正解は存在しないので、あくまで私の意見として読み進めてほしい。

「自分は育てられないくせにね」

【その3】でも書いたが、施設にいる子の多くの実親が、里親のもとに子どもが行くことを許可しない。
子どもが体験の機会を積むことよりも、実親の所有物という欲求があることや、いずれ迎えに行く予定があり、他の家庭を知って欲しくないという気持ちがあるのだろう。

この話を聞いてやはり多くの人がこの事実に衝撃を受け、続けて「自分は育てられないくせにね」と言った。

そんな時、ちょっともやっとした。
自分の気持ちを因数分解してみても、なかなか言葉にするのが難しい。

確かに実親が自分で育てられていないから、子どもたちは施設にいる。
それは紛れも無い事実だ。

私は自分で子どもを産んでもないし、育ててもいない。
けれど、子どもを産んで、さらには怪我もなく立派に育て上げることが、どれだけ大変なことなのかは、上っ面の部分だけかもしれないけど知っている。

友人たちがどんどんと妊娠し、出産し、家を建て、二人目、三人目と家族を増やす。
夫婦で協力して家事も育児も行い、たまに家族旅行にも行き、都度季節のイベントも楽しんでいる。

「産んだ責任」というのは、もちろん全ての親に発生する。
だけどそんな順調な人生のレールを楽しそうに歩く人たちを見ると、絶望を感じる人がいるというのも安易に想像ができた。

「育てられないなら産むな」という意見はごもっともである。
だけど、里親制度を拒否する実親に向かって「自分では育てられないくせにね」という言葉で片付けるほどには、優しさが足りない。

個人の考え方なので、あるのはその人の意見だけで、正解も答えもない。
ただそれを聞くたびに、その一般的なレールの上を歩かず生きてきた私にチクリと針が刺さるような思いがする。

実親たちがした
「自分では育てない」
という選択もまた、
「実子を産まない」
と選択した私と同じで、非常に勇気がいる決断だということを、私はよく知っている。

私は人口の分母を増やすことはできないけれど、分子を太く長く豊かにすることはできる。
自分の人生だから、自分で納得して決断した。

私は「里親のもとには行かせない」と選択した実親を恨むことはできない。
どうしてもそれを選択せざるを得なかった理由があるのだ。

どんな決断であっても、それに寄り添える社会になることが大事だと考えさせられる一言だった。

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めんま
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