Sharpness
重要なメッセージを最小限の言葉で伝えようとするのは、とても北インドらしい気がします。シャープな書体で台形の石に刻むところも。研ぎ澄まされた表現は、精神性の高さを感じさせます。
私が行ったのは10月下旬でしたが、まだまだ日中は日差しが強く、とても暑い日が多かった。少しでもインドっぽい恰好をしようと、日本から持って行った大判のショールを頭から被って首に巻き付けていました。なのに・・素材の問題か、風通しが悪くて暑い。結局、ショールを肩に引っかけるようにして歩いていました。
鬱蒼とした木々の間に、置き去られたような素朴な建物。干しレンガを積んだ低い塀垣が続いています。道端の日陰に座っていた年配の男性と目が合いました。私は両手を胸の位置で合わせ、少し膝を曲げて挨拶をしました。ターバンを巻いたその方は、無言のまま少ない身振りで「ちゃんと頭を覆いなさい」と私に伝えてきました。「でないと死ぬ。」揃えた5本指が、水平に彼の首の前を横切りました。
日本人の多くがイメージするインド人男性といえば、白っぽいゆったりした服、浅黒い肌、強い大きな目、髭、そしてターバンだと思います。でも、ターバンを巻いているのはシーク教徒の方なんですよね。インドの宗教人口割合は、ヒンドゥー教徒79.8%、イスラム教徒14.2%、キリスト教徒2.3%、シーク教徒1.7%、仏教徒0.7%、ジャイナ教徒0.4%です(2011年国勢調査/外務省HP)。わずか1.7%のシーク教徒がインド人全体のイメージになったのは、シーク教徒に優秀な方が多かったからなのだそうです。シーク教徒はカーストの上から2番目、クシャトリヤ(戦士)の階級で、家柄が良く、高い教育を受けることができました。そのため昔から、仕事で外国に行くインド人にはシーク教徒の方が多かったとか。なので、外国人がイメージするインド人と言えば「ターバンを巻いた人」になったと、宗教について調べている時にどこかで読んだ気がします。
北インドは顔つきも体つきもシャープな方が多かったように思います。看板に書かれたヒンディ語の文字も、「デーヴァナーガリー」という水平垂直の強い線が印象的な文字です。南インドに多く住むドラヴィダ系の方々の丸い鼻や体型、そこで使われているマラヤーラム語やタミル語の丸っこい文字と対称的なのが面白いです。
インドに特段強い思い入れがある訳ではないのですが、私、インドの話ばかりしてますね。今思うと、「インドに行くと人生観が変わるそうだよ」と渡印前に何人かの人に言われました。「そんな。映画じゃあるまいし。無い無い」とは言ったものの、案外スルドイのかもしれません。まだボヤっと思っているだけなのですが、確かに、あそこには人類全体にとって何か重要なものがあるような気がします。エッセンシャルな何か。訪れた人にそう感じさせる何かです。私は当時、別に精神的に疲れていた訳でも、人生に行き詰っていた訳でもありません。ですが、インドで見聞きしたことを思い返すと、なんとなく「人生で一番大事な事ってなんだろう」とか考え始めてしまう。それがあの国の魅力であり、真の実力なのかもしれません。
例えば何か、すごく重要なこと、もしくはこれから先を生きるために、絶対に覚えておいた方がいいことがあるとします。それを文盲か、それに近い程度の理解力しかない人に伝えるにはどうしたらいいでしょう。まず、情報量を極力減らす必要があります。表現も、できるだけ彼らがイメージしやすいように演出しなければなりません。繰り返し脳に刻まれるような手法を、考えてあげなければなりません。
古代インド人の文才による言葉たちは、時間も空間も超え、今もしっかり機能しています。その背景にある、とてつもなく深くて大きな愛と労力を、後世の人々は無意識に感じ取るのでしょう。猿レベルの知識と理解力しか持たない、一旅行者であっても。